2004年05月17日(月) |
あなたの余命は・・・? |
N○kの人間ドキュメントだったか、ある小学校の公開授業制度について放送されていて、
その学校の校長先生が胃がんであと余命何ヶ月かにも拘らず
栄養剤の点滴袋を肩から提げて教壇に立ち、子供たちに「いのち」について
どう伝え残せばいいか?と、他の教員と話し合っていた。
学級崩壊、不登校の問題を解決し、扉や壁のないオープンな教室。
自分の老いていく姿や死期が近い状態も子供に見てもらいたいという。
「何か」子供たちに伝わるのじゃないか。残せるのじゃないか・・・と。
一風変わった授業風景は全国的に評判を呼び、公開授業に見学に来る先生も多いという。
そこに辿り着くまでいろんな波風もあったと思う。
私が「??!!!」と感じたのは・・・
その校長が毎日自殺を考えるし、毎晩眠りに着く時に朝眼が覚めなければいいと考える、と言った言葉だ。
毎日子供たちに会い、何かを伝えたいと思っているのに。
死というものを身近に感じることで、もっと「いのち」の大切さを理解してもらえるのじゃないか?と考えているという。
なんか矛盾していないか?
確かに私もよく死にたくなるし、ずっと自分の余命に対して疑問符だらけで生きてきた。
悔いない生き方を教えることはしても、「いのち」の重さについて子供と話したことはない。
自分の「いのち」に責任をもてないと思っていたから。
「死にたい」と考える者に「いのち」の大切さなんて言えないよ。
偉そうになんて言えない。
誰かのために懸命に生きるって、それが子供のためであったり家族のためであったりって言われるけど、
自分のためにまず生きてないとそれも言えないんじゃないか?
私は人のために生きれない。
長く生きようとも考えない。
ずっと何時かな?って思ってきたような気がする。
毎晩このままずっと眠り続けたいと考え、自ら死にたいと考える。
そんな生き方でしか出来なかったんだ、今まで。
だから、偉そうになんて言えないさ。
「いのち」は大切だよ、なんて。
「いのち」は与えられた時から自分のものだよ。
誰のものでもない。
大事にしろ、なんて自分が決めることだ。
不様な生き様であろうと、褒め称えられるような生き方でなかろうと
「生きる」ことがどれだけ大変かということを教える方が大事なんじゃないかな。
さんまが娘に名前をつける時に言った、
「生きてるだけで丸儲け」
そういう親の方がよっぽどいい。
生きることの方が大変なんだ。
生きることを選ぶ方が大変なこともあるんだ。
みんながみんな同じ答えはいらないと思う。
なんか、分かんなくなってきたな、、、
はっきりと分かった余命の中で生きるのは苦しいはず。
その姿を見てるだけで十分見る側も苦しいはず。
私の余命は、一日ずつ伸びてるだけ。
何ヶ月、何年単位でなんて生きてないよ、未だに。