女房様とお呼びっ!
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2004年05月18日(火) 信頼するとかされるとか

 
> ご指摘の通り、私は未だに**様を信頼しきっていないと思われます。
> 信頼しきっていれば、全てをさらけ出す事ができるでしょう。
> そうできなかった私は、**様を信頼しておりませんでした。
 
 
イリコにここまで書かせてしまった私だが、しかし、私とて奴を信頼しきってはいない。
言葉にすれば何とも寂しい話だけれど、本当のことだ。
だいたい、人が人を信頼しきれるものかとさえ思う。
これまた、我ながら何とも貧しい感覚ではある。
この歳にもなって、僅かながら人間関係もあって、なのに未だ確信をもてない自分が情けない。

信頼しきるに懐疑的な私は、当然、信頼しきられる自信もない。
というか、その状態を想像できない…子でもいれば違ったのかな?
無理やり想像してみれば、それは非常におっかないことだと気付く。
つまり私は、信頼しきられたくないってことなんだろう。

てことは、その逆も真なりで、
私は人を信頼しきれないのではなくて、信頼しきりたくないってことになるか。
同様に、人を信頼しきるなんておっかない、と。
なるほど、確かにそう思う自分がいる。

もっとも、信頼’しきる’なんて突き詰めなければ、
私だって、人とあれば信頼したいし、されもしたい。
もちろん、信頼するのもされるのも、それなりにおっかないとは思う。
けれど、それを圧してもそう望むのは、相互に信頼しあう関係に価値を見るからだ。
それはとても合理的で、かつ平和で、何より自分にとって深い満足がある。
信頼できる人のいる安心とか、信頼されることで得る自分の存在意義とか、自信とか。



言うまでもなく、信頼−関係とは、「信頼する/される」間柄だ。
が、さて、この「する/される」は等分なんだろうか。
あるいは、因果関係があるのか。
手っ取り早く言えば、「信頼したぶんだけ信頼されるんだよ」とか、
「信頼されないのは信頼してないからだよ」なんてことがあるのか。

奴とのことを思うとき、私はそんな疑問を抱く。
そして、こうして半ば言葉遊びのように、考えをこねくり回す。

実感としてわかっているのは、
信頼して下さいと請うても信頼は得られず、信頼したいと願っても信頼に届かない、
そんな恐ろしく当たり前なことだけだ。
もちろん、信頼関係なんて一朝一夕に築けるとは思ってない。
やはり、信頼は徐々に育つものと思う。
しかし、親密に関わり続ければ、必ずや得られるものだろうか。
それが、自然な成り行きなんだろうか。

例えばこのとき、信頼に与しない、あるいは臆病な者どうしであったなら?
信頼したくない者、信頼されたくない者、信頼するのが、信頼されるのが怖い者。
それらの関わりに信頼は育つだろうか。

関わり続けて三年半、未だ信頼関係に遠い私たちが、そうしたマッチングである可能性は否めない。
互いに、相手から信頼されたいと願いこそすれ、信頼したい気持ちに欠けているのではないか…。



エスエムなんてやってると、再々「信頼関係」という言葉に出会う。
あまりほうぼうで見聞きするものだから、本来麗しいその言葉が実に陳腐に思えるくらいだ。
実際、SM行為をせんがために掲げた看板だろうと鼻白むこともある。

しかしその一方で、ただの看板でさえ、見るだに鬱々となってしまうのも事実だ。
「信頼関係」に疎い私は、そう確信できる人たちが羨ましいんだね。
その人たちが謳歌する「信頼関係」を持てない自分に凹むんだね。



さて、ここまで。
信頼について考えれば考えるほど、頭が煮えてくる。
なんだか、「信頼関係」という魔物に呪われているような気さえする(笑


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