女房様とお呼びっ!
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2003年04月07日(月) 哀れみの様相

公開オナニー(笑)を中断して、以前に書きかけてたものをここへ。



誹られるのを覚悟で告白すれば、私がM魚を愛しむ要件の一つは”哀れみ”だ。
あぁごめんなさい。性愛の相手を哀れむなんて、人道に背く傲慢だと知っている。
だからこそ、外道な性癖と認識しているし、M魚以外にそれを向けることはない。
というか、相手がM魚だからこそ、”哀れみ”の情が喚起されるのだろうと思う。

もっとも、私が哀れむのはM魚自身ではなく、M魚たる業のようなものについて。
同じヒトに生まれながら、自らを貶める欲望を抱いてしまった無惨が哀れを誘うのだ。
いや、所詮は同じ穴の狢。相手を哀れむなんてとんだ思い上がりだとわかってる。
けれど心は理性を裏切り、”哀れみ”は、あたかも”愛”のように生じてしまう。

だから、そうして生じる”哀れみ”に負の要素は感じない。まるで勝手な感覚だけど。
確かに”哀れみ”というのは、それを抱いた時点で優位に立ってしまう不遜な情だ。
けれども、実感として見下してはない。優位にありながら相手を尊重してる感じ。
それが、両者の位置関係が相似する”蔑み”とは決定的に違う点だと思っている。

・・・・・。

が、ここでハタと思う。S側にあれば、蔑んでこそ相手と関わる人もいるのだろう。
私が否応なくM魚を哀れんでしまうように、彼らは”蔑み”を抱いてしまうのかしら。
対する蔑まれたいM側は、蔑まれてこそ、自分の存在意義や相手への情を抱くのかしら。
とすれば、これら両者にとっては、”蔑み”もまた”愛”に同列なのだろうか。

確かに、”蔑み”を抱くことのない私には、蔑んで相手と関わる心境は理解しがたい。
いや正直に言えば、蔑まれたいと願望するM側に煽られて、蔑んで”やる”ことはある。
それなりに興奮するが、それは蔑むことで相手が堕ちていく様子に感じてるだけだ。
けれど、”蔑む”自体を好むS側ならば、それが愛や情の基盤になり得るのかもしれない。

実際、私がことDS関係の従に抱く”哀れみ”は、奴への情愛の大きな部分を占める。
それと同様のことが、”蔑み”で繋がる人たちの間にはあるのかなと想像している。
もっとも、”哀れみ”も”蔑み”も、性愛に絡む以上単なる感情では留まらないはずだ。
”愛”が性衝動を生むように、私にあっては”哀れみ”が行為する欲望に関与している。

・・・・・。

無論、いくらM魚に”哀れみ”を感じるといっても、相手によってその程度や様相は異なる。
たとえ関係しても、DS関係にないパートナーや恋人、ゆきずり相手にはさほど生じない。
つまり、情愛を形作るほどの”哀れみ”を抱くのは、然るべき関係性においてこそだ。
ただ、どんな関係であっても、何かしらの”哀れみ”が行為を駆るような気がしている。

喩えてそれは、セックスする前や最中に、”愛”と錯覚される性衝動のような感じかな。
だから、行為を終えてしまえばその狂おしさは霧散する。刹那の”愛”のように(笑
つまりSM行為において、私は、M魚を哀れみたがっているらしい。純粋な欲望として。

とすれば、”哀れみ”と”愛”を同列におくのは、いかにもご都合主義だわと鼻白むけど、
それは、”愛”にしたって、肉欲を孕んだ性愛だもの、仕方ないかなと思い直す。
にしても、肉と心にまたがる性愛というものは、処しがたいことだと、改めて思う。

・・・・・。

けれども、哀れむにしても蔑むにしても、凡そのヒトが親しむ性愛からは程遠く、
そのイビツさを備えてしまった自分が悲しい。というか、自分をこそ哀れに思うよ(笑
しかし、それでも呼応してくれるイビツな同志があることを本当に幸いに思う。
もしかしたら、相対しつつも芽生えるシンパシーこそが、愛や執着を生むのかしら。


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