女房様とお呼びっ!
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2003年04月04日(金) 春の乱その後 #3

私が至極当然に用いていた”訓練”という言葉、あるいは概念について、
イリコに「今初めて理解しました」と明かされて、
驚きつつも、改めて自分の理解を振り返る。
ついでに辞書まで引いてみた(笑。決して難解な語ではない。
いわんやそれは、誰しもが成長の過程で、
また生活や仕事の上で経験するありふれたことなんじゃないか。
そう思うだに、奴の理解が腑に落ちない。後に続く文面に、僅かに先途を見る。


> 自分の中に新しい要素を造っていかなくてはならないと感じております。
> それが今まであったものと結びついた時、
> 想いを表現する方法が身につくのかなと考えました。


ここに至り、奴には”訓練”の概念自体がないのかなと思った。
いやもちろん奴だって、訓練された経験は絶対あるはずなんだけど、
恐らくは”訓練”に意識的である機会を逸したのだろう。
だから、この時点での奴の理解は、”訓練”の過程における一番の難局を見落としている。
つまり、今まであったものを”捨てる”想定が足りない。

・・・・・。

確かに概念などなくとも、訓練は出来る。
自我を得る前の子どもの躾なんてのがそうだ。
しかし、幼い子にさえ"我"はあって、そうすんなりと躾られるものじゃない。
それでも子ども特有の生存本能でもって、
相応の抵抗があるにしても、それなりに我を抑えることを覚えていくのだろう。
その経過に意識的である必要はないと思う。

けれども、自我を得るにつれ、生存本能は自我を保つことに変わっていく。
すっかり大人になってしまうと、我を抑えたり捨てたりするのは本当に厄介になる。
意識することなく漫然といては、絶対に出来ないとさえ思う。
だから強烈な動機を得たり、切羽詰った状況におかれたり、意識的に向かわねば、
訓練は成り立たないのではないか。

もっとも、こう考えるのは、私こそが我の強い人間だからだと思う。
自分が正しいと思いたがる。
だから自我を得て以降、他者と折り合うそれぞれの局面で、
渾身の力で自らを省み、疑い、我を捨てる努力をした感がある。
勿論、今でも我と戦うことは再々だ。
僅かでも気を抜けば、私はすぐにでも身勝手な人間に成り下がるだろう。

・・・・・。

私が殊更に「意識的にあれ」と奴に言い下すのは、
自分と同程度の、いや経験の差をもって私以上の我の強さを奴に見ているからだ。
そこで返信のメールでは、敢えてこの理由まで言葉にして呈した。
そうすることで、奴に相応のショックを与えてしまうのはわかっていたけれど、
一度は通るべき道だろうと身勝手な合理化をして送信することにした。


> さて、この一年キミと相対してきて、未だに再々に思い、かつ憂うのは、
> キミは「自分のやり方が間違っている」と認めたくない人なんだなぁということです。
> つまり、「自分のものさし」が本当に大事なんだなぁということです。
>
> もちろん、誰もがこの傾向を持ちますが、キミのそれは実に頑強なのです。
> この状態を、世間では「プライドが高い」と言います。
> 自分がタダシイと思いたがり、自分は間違ってないはずだと思いたがる人です。
> 何か不具合が生じた時に、すぐに自分の否を疑えない、謝れない人です。
>
> こうした人に訓練を施していくのは、実に難しいとご理解頂けると思います。


ここで私があげつらったそれぞれは、経験に基づく実際的な考察なのだが、
やはり奴には酷だったようで、翌日からのメールは予想以上に沈鬱なものとなり、
またも私はフられてしまうのかと、慌ててしまった(笑


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