女房様とお呼びっ!
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2002年04月22日(月) セックスしたからどーなのよ? #1

私はセックスが好きだ。このセックスとは、男女間の「まんこにちんこハメる」ってやつね。好きだけれども、誰とでもヤリタイってワケじゃない。ヤリタイと思える奴とヤリタイ。じゃ、ヤリタイ基準は何よ?と問われれば、世間並みに麗しく「愛するがゆえ」ってのもあるし、単に「欲情をそそられた」てな理由の時もある。

きっかけがどうあれ、セックスは素晴らしい。愛する人との境界が溶解してくような一体感、魂のレベルで呼応して、涙する程の感動にまみれたこともある。単に肉欲を満たすセックスでも、快感に翻弄され、トランス状態に上り詰める醍醐味。数多ある人の中で、セックスの相性のいい人とヤれた僥倖を、私は神に感謝しよう。

しかし、幾ら愛していても、欲情を阻む肉の相性がある。肉にソソられて肌をなすっても、次第に萎える不幸な出会いもある。ヤリタクナイ奴とはヤリタクナイ。素直な欲望の裏返し。つまり傲慢。ヤリタイ事だけヤリタイ。我が儘な欲情。つまり、私の欲情は排他的。セックスが好きだからこそ、無駄なことはしたくないのよぅ!

・・・・・。

テレクラなんぞで男を漁った歴史が、私の性的な傲慢を増長したのは間違いない。会う男は必ず下心を抱き、こちらもそれを承知していた。けれど、会ったからといって、必ずヤるわけじゃない。この人としなくても、女の立場なら、すぐに代替は見つかる。男を使い捨てにしている感じ。それは、男達にとっても同様だろうよ。

しかし、相互に使い捨てる関係にしても、哀しいかな、現場では男の方の切実さが優る。会えたんならヤらなきゃ損、みたいな。片や、ヤリタクナイのにヤらてたまるかという女の勘定。女側の圧倒的な売り手市場。これで、女がつけあがらない方がオカシイ。生来の調子の良さに後押しされて、私はあっさり傲慢に成り果てた。

ヤリタイ男の切迫した欲望を知りながら、私は身勝手に振るまい続けた。テレクラ女の常套である食い逃げは当たり前、罪の意識の欠片もない。酒飲んで乳繰りあって、リーチをかけた男を土壇場でフる。軽い気持ちで密室の人となり、チンコが気に入らないと言って帰る。ハメてる途中でダメを出し、フェラで抜いて事を終える。

この感覚は、付き合いの継続した相手との性生活にも及んだ。中には、愛ある極上のセックスを交わした男もいた。しかし、私に向けられる男達の欲望は、私の都合であしらわれる。お願いだからヤラせてと擦り寄る男、それも情の通った男の欲望を無視したり、ハメさせずにイナしたり、平気でやったし、面白がってさえいた。

・・・・・。

当時のこの手の悪行は数知れず、よく無事でいられたナと我ながら感心する。舐めた真似をする女に手も上げず、許した男たちを拝んでしまう。と同時に、私にしても、何されても大丈夫そうな男を選んでたのかしらとも思う。いや、単に運がよかっただけなのかもね。いずれにせよ、この経過が、私のセックス観を形作った。

「セックスしたからどーなのよ?」相手を愛してようが、単なる遊び相手だろうが、そう思わずにいられない。セックスは好きだし、愛情の伝達手段としても評価してるし、多くのフィジカルな快感を伴うと知っていても。いや、知っているから、セックスした事実をもって、愛の証と奉りたくないし、性行為の極と捉えたくない。

極端な話、性器と呼ばれて区別される、体の一部が接触しただけジャンとまで思う。勿論、生殖の見地に立てば、セックスは特別な行為だろう。だからこそ、愛情関係の象徴とされるのだろう。しかし、幸か不幸か、私は性行為に生殖を期待した過去がない。だから、愛でも肉でも、セックスしてこその必然を見いだせなかったんだ。

・・・・・。

そして、この想いは、SMの概念や行為に辿り着くや、一層強くなっていったのね。


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