雑感
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2006年07月23日(日) |
須賀敦子の「トリエステの坂道」 |
薄ピンクのブックカバーを作った。仕上げにレースを重ねたら 縫い目はがたがたなのに素敵なカバーに仕上がった。 カバーの中身は、須賀敦子の「トリエステの坂道」
作家生活は10年くらいしか続かなかったが、書評を読むと デビュー作の「ミラノ霧の風景」ですでに円熟した文章力で 有名だったらしい。
6年くらい前に「トリエステ・・」を読んだとき、文章の上手い 作家だとは思ったが、それほど深い印象をもったわけではなか った。 ブックカバーをかけてオープンカフェで気軽に読書を楽し めるようになって、ゆっくり彼女の文章を読んでいると、 特に亡き夫の家族や親戚のエピソードを読んでいると、 彼女が結婚当初からじわりとしかし、否応なく取り込まれていく 夫の家族を取り巻く貧しさと、貧しさが原因で澱のように重なって いく絶望感のようなものがしっかりと読み手に伝わってきて、 何となしに涙が出てくる。
良家の子女に生まれ戦前に聖心女子大を卒業しフランスに 留学し、イタリアに移って、いわゆる貧困層出身のインテリの イタリア人と結婚したときの戸惑いや、どうにも溶け込めない 抵抗感のようなものを文章の奥にそっとしまいこんでいる かのようだ。
最愛の夫の不慮の死によって結婚生活も長く続かなかった著者の 無言の悲しみはさらっとした文体に目を凝らせばうっすらと 読み取れる。
あの時代、1950−60年にかけてだと日本から遠く 離れたイタリアに住んでいれば日本語の情報はおろか、雑誌や 小説などとも触れる機会がなかったと想像する。 そういう状況の中で、いつかはイタリア語か日本語かわから ないけれど自分の文章を書いてみたいという希望をずっと 彼女は持ち続けていた。そうして還暦も近くなってようやく、 処女作「ミラノ霧の風景」を上梓したのだった。
須賀敦子の場合は10年以上だったのだろうか、日本語と 接する機会が極端に限られていたという。 私は2年ほど日本語と疎遠になっていた時期があったが、その間 に失われた語彙、話すときにどうしても言いたい言葉が出てこない もどかしさを味わったので、あの時代にいたならば、子供の 語彙しか話せなかったのではないだろうか。言葉が失われる感覚は 一種の恐怖に近いものだった。
彼女の作品を読んでいると、私も30年くらいしたらもっと まともな文章が書けるかなあと希望が持てる。
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