moonshine  エミ




2007年03月08日(木)  東京タワー

パソコンがおかしくなった・・・・。それは、ゆうべから。
ファイルやウインドウの開け閉め、インターネットの接続には何の問題もないんですが、液晶がおかしい。
なんというか、画素が粗くて、ふつう白いはずの背景がエメラルドグリーンに。
いちお、思いつく限りのことはやってみたけれど、あんのじょう、どうにもならず。
10分と見てたら視力が一気に低下しそうな色をにらみつつ、書いています。
あー。
どうすっかな。

あれからゆうべも今夜ももちろん、実家に電話している。そのたびに泣いている。
今朝、ぴーちゃんを埋葬してきたらしい。
結局、実家のすぐそばの、親水公園に。
人もたくさん散歩するし、きれいで、さみしくないところだからって。
ぴーちゃん、ありがとう。って何度も言ったらしい。
ぴーちゃんは土に還る。
そんなの嫌だ!て叫びたいけど、それが、いちばんいいのだ、とも思う。
おねえちゃんが、お母さんのケイタイに、「千の風になって」の着メロをダウンロードしてあげたそうだ。

明日っから東京に行ってきます。
どうかこれからも、私たちが希望をもって生きられますように。
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2007年03月06日(火)  ぴーちゃん天国へ。

きょう午前、実家の桜文鳥ぴーちゃんが天国へ行った。昼休みの終わりごろ、母親からメールがあった。びっくりして電話したら涙声の母が出た。

2−3日前から羽ばたく元気がなくなり、今朝はもう、足が弱くなって歩くことはおろか、えさを食べることも水を飲むこともできなくなっていたらしい。

父親は仕事に出る時間を遅らせて、手の中にぴーちゃんをそっと抱き続けてぼろぼろ涙を流していたらしい。10時になって、ようやく母にうながされて出勤していったあとは、母が抱いていた。30分ほどして手の中で苦しげにばたばたと体を動かし始め、口をぱくぱくさせたので、母親が水滴をくちばしにつけてやると、ゆっくりと伸びをして、ぐったりと、息をひきとった。母親はわんわん泣きながら、それから1時間近く、抱き続けたんだって。

このように、父と母から本当にかわいがられていた小鳥だった。

雛だったぴーちゃんがうちに来てから11年半だった。
文鳥の寿命は平均7-8年といわれるのだから、本当に長生きしてくれたし、その間、病気もせずいつもほんとに元気だった。

手乗りの小さなその存在が、家族を、特に両親をどれだけ慰め、結びつけてくれたかわからない。
11年半の間に、就職した姉が実家を出て独立し、私も大学生になり就職し
て家を出た。家族にはいろんなつらいこともあった。でもぴーちゃんはいつもうちにいた。

毎朝、起きると父はまず必ずぴーちゃんの餌とお水を替えて、出勤する前には必ず籠から出して遊ばせた。家の中はどこでも自由に飛びまわって、家族の足にまとわりつき、父の手に抱かれて頬ずりされた。母親は、「朝は忙しいんだから、もう籠から出さないで。そのうち、うっかり踏んづけちゃうよ」と言いながらも、やっぱり毎朝ぴーちゃんを抱き上げていた。籠の掃除もこまめにしていたし、寒い冬ともなると、夜にはダンボールを切り開いたものを籠の周囲にあてがって防寒させていた。ぴーちゃんは私よりも姉よりも、当然、父と母になついていて、私たちの手の中ではじっとしていなくても、父と母にはいつまでも抱かれていた。籠の中に戻されるときは、いつも本気で嫌がった。

最期も長患いせず、ちゃんと、父と母に抱かれて死んだ。大往生だろう。両親も、のちのちまで悔いが残るってことはないと思う。10年を過ぎた頃から、寿命を考えるといつ逝ってもおかしくない、覚悟はしておこうね、と両親は言い合っていたらしい。それでもやっぱり、この日がくると、悲しくないわけがない。

父も母も、年の功で現実を受け容れることには長けているとはいうものの、心配になったので、仕事を早く切り上げて、実家へ向かった。予告して行くと気を遣うだろうと思って、実家の最寄の駅まで行ってから電話をした。打ちひしがれていて買い物になんて行けなかったかもしれないので、何か買っていくものはないかと聞いたら、「買い物には行った」と母が言う。「ぴーちゃんにお供えするための花がたくさん要るから、買いに出たよ」と。

そして家に帰ると、ぴーちゃんは、きれいな小箱の中、ティッシュにくるまれ、まわりにたくさんのお花と果物で飾られていた。

「花はこれだけじゃないとよ。ほら」と、うながされて見ると、花瓶に色とりどりの花が飾られていた。「ぴーちゃんを埋めたら、お父さんが当分の間、毎日、お参りに行くだろうから、そのためのお花を買ってきとうと。」という。
さすが、うちの母だ、と思った。どんなに悲しいかしれないのに、ちゃんともう、こんなことをしてあげられているなんて、やっぱり愛情の深さと、強さだよね。

眠っているようにきれいな体だった。抱き上げると、冷たいけど、生前のまま羽は柔らかく気持ちがいい。母が臨終の様子を話しながらまた泣くので、私もぴーちゃんのことを思い出して、そして、今朝、弱っていくぴーちゃんを抱きながら泣くしかなかった両親の哀しみを思って、たくさん泣いた。

それでも、泣き止んだ母は、急に寒くなったこのごろのために、ストーブの灯油を注ぎ足したり、お風呂をわかしたり、私の食事の準備をしたりと、せっせと動き始めた。「お母さん今日はもう、なんの気力もないだろうから私が・・・」なんて思って来たけど、やっぱりそれは杞憂なのだった。私は母のこういう強さが本当に好きだし、こういう性質を、多少なりとも子どもの私たちも受け継いでいると思う。

母は、私にはメールしたものの、父には連絡していなかったらしい。「多分お父さんはもうわかっとうとよ。でも、聞きたくないだろうから、お父さんが連絡してくるまでは、こっちからはしなかったんよ。」と母は言う。

やがて父が帰ってきた。父はまず、「ぴーちゃんはどうなった。」と聞いた。「ぴーちゃんは、だめだったよ。」と母は答えた。父は、ぴーちゃんの小さな棺を見て、「こんなにきれいな体、埋めるなんてできない。しばらく置いておきたい。」と言った。こういうとき、我が家では父の好きなようにさせるのが不文律である。母が、「でも、悪くならんかいな。」と控えめにいった。父はしばらく考えて、「遠くに埋めるのはやめよう。うちのマンションのすぐそばに埋めよう。毎日、とおることができるから。管理組合の会長さんにだけ断って、埋めさせてもらおう。」と言った。そして、「こんな日が来るのはわかっとったんよ。11年以上も癒してもらったんだから、最期もちゃんと抱かせてくれたんだから、悲しみすぎちゃいけない。ぴーちゃんもきっと幸せだったと思ってくれる。お父さんとお母さんも幸せだった。」と言った。

ぴーちゃん、うちの家族と、長い間いっしょにいてくれてありがとう。家を出た私とおねえちゃんの分まで、お父さんとお母さんの愛情を受けてくれてありがとう。うちにいて、幸せだった? 最期は苦しかった? しゃべれたら、なんて言ってくれた? 
ぴーちゃん、ありがとう、ありがとう。
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2007年03月04日(日)  よく遊ぶ。

土曜日、遠方より朋来たる。
太宰府の九州国立博物館で、2度目の「若冲と江戸絵画展」を鑑賞。常設展も、けっこうゆっくり見てきた。ちょうど美術館を作る仕事に携わっている連れは、私とは違った視点で興味深げだった。

天満宮では、テントを張って「福岡の美味しいお酒展」をやっていた。当然のように吸い寄せられる私たち。試飲というにはちょっと多いんじゃないの?ってくらい、なみなみと注がれる日本酒たち。よく晴れた空の下、立ったまま2、3杯くーっとやって、顔が上気する。なんたる贅沢。なんたってタダだし(笑)

天神へ戻って、まだ暮れきらない夜6時から、飲み始める。魚が安くておいしいことで有名なお店らしく、胡麻さば、いかと山芋のホイル焼き、あじの刺身、白子のてんぷらなど、次々食べる。どれもとびきりおいしい。そして飲む、飲む、飲む・・・。当然ながら、安いはずのお店なのにけっこうなお勘定になる。

しかしそんなこたぁものともせずに、2軒目へ移動。雑誌かなにかで見たことある、「オスカー」というバーだった。いやー、オーセンティックな雰囲気で、大人のバーでした。久々にああいうところに行ったかも。おいしいカクテルを3杯ほど飲んで、喋る・喋る・喋る・・・。

ところでこの2軒は、福岡に住んでいるのは私のほうなのに、なぜか、連れが選んでくれたものだった。ごはん食べに行く(飲みに行く)お店って、あれこれ考えながら自分で選ぶのも楽しいけど、「どこに行くのかなー?」ってわくわくしながらついていくのも、また楽しいものですね。感謝。

今日は、昼、回転寿司を食べに行く。(また魚・・・。)そして来週の旅行のために、空港を下見。空港を利用するの、1年半以上ぶりなもので。国内線だし、まあ心配ないとは思うけど、生粋の方向音痴のわたくしのことですので。
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