前野ピーコ 2002年05月07日(火)
ハニーニャと私が友達になったのは、中学校2年の夏。 保育園・小学校・中学と同じ所に通い、小学校2年の時には同じクラスにもなったらしいけど、お互い覚えていなかった。
中学では、必ず1つ部活に入らなければならない。 小学校の1年からバレエを習っていた私。 新体操に興味ありありだったけど、体操部というものしか無かった。 しかも、この体操部、どうしようもないヤンキー集団で、 後輩イビリがものすごく、私たちの学年から入部出来なくなってしまった。 行き場を失った私に同じクラスの女の子が 「バレー部は先輩優しいらしいよ。一緒に入ろうよ」 と誘ってくれた。 どっちかというとバレーよりバスケの方がイメージが良かったけど、 バスケ部もまたかなり練習&イビリがキツイらしい。 走るのは嫌いだから陸上部もパス。 野球は見るのも嫌いだからソフトボールも拒否。 文化系は初めから眼中なかった。 消去法というなんともヤル気のない方法でバレー部に入部決定。 同じ頃、ハニーニャもまるっきり同じ経緯でバレー部入部。
「先輩優しいって♪」という勧誘を信じて、その年の入部は30人を越えた。 だがしかし!バレー部は、体操・バスケ・陸上部に勝るとも劣らないイビリ部であった。私をそそのかした清@亜希子さん、恨みましたよぉ〜。(彼女は後に部長になった)
バレー部の1年は地獄です。 まず、朝練時には先輩より先に学校へ来なければいけない。 私の家は学区ギリギリのところにあったので、家を出るとき外は真っ暗。 着いたらグランド5周ランニング、腹筋背筋腕立て20回ずつこなして、 先輩が来るまで整列して待つ。先輩の姿がバービー人形ほどに見える距離から 「おはようございます!」の連呼を消え去るまで続ける。 先輩がそろったところで、一緒にグラウンド5周、腹筋背筋腕立て20回を もう1セット。放課後にも同じ事が繰り返される。 パス練習の後は、ひたすら球拾い&かかと上げ。これがツライ。 とにかくずっと、しかも目一杯かかとをあげていなけらばいけない。 1時間〜2時間休みの日には5時間以上もかかと上げっぱなし。 まるでインドの修行僧のよう。 「何年も右腕おろしたこと無いんですぅ」みたいな。 冬の室外コートの日、さらに雨が降った後なんかは一番たちが悪い。 雑巾で、コートに溜まっている水を吸いらなければいけないから。 薄っぺらいジャージの上下で、朝っぱらからコートの水くみ。 おかげで手はいつもあかぎれ、その後のオーバーハンドパスの練習なんか、 切れた指先から血を吹き出す始末。ひぇぇ〜。 夏の恐怖は両足跳び。 円陣を組み地面に正座して、頭をヒザに付ける形で丸まっている仲間の上を 両足そろえて飛んでいく。なぜこれが恐怖かって? 焼けたアスファルトの上を歩いたことのある人ならわかるでしょう。 下級生は太陽照りつけるアスファルトのうえに正座して、 皆が跳び終わるまでじっと耐えねばならないのです。当然ひぶくれ。 これだけ練習ハードなんだからさぞかし強いんだろうなどと期待してはいけない。 バスケ・陸上は県大会優勝など輝かしい成績をおさめていたけど、 バレー部はいつでもビリだったから。
練習がキツイだけでなく、上下関係にもうるちゃい。 ちょっと先輩の機嫌をそこねると、 「ハイ、1年生集まってぇ、青空ミーティングぅ!」と召集される。 で、 「○○さんは、わたしが通っても挨拶しなかった」だの 「○▲さんが、制服の下にTシャツを着ていた」だの、 「△□さんの靴下に模様がはいってる」だの 「ちょん靴履いてるぅ」「髪が茶色い」だのだのだの・・・ 校則よりも厳しいチェックが入る。
ここまでされても退部出来ないところがツライ。 それは、授業時間内に「クラブ」の時間が盛り込まれているから。 練習にでなくてもこの「クラブ」には出なければならず、 当然、練習に出なければ何をされるかわからない。 クラブを変えることはできたけど、途中でクラブを変えるのは、 足ヌケしてよその組に入るヤクザくらい気合い入ってる人だけ。
あぁ、前置きが長くなってしまった。 とにかく、そんな部にうっかり入ってしまった私たち。 2年になって夏が来た。そう、3年生は受験のために引退。 もう、さぼっても青空ミーティングはない。 もともとバレーボールが好きだったわけじゃないから、 みるみる落ちこぼれ部員サボリ組になっていった。 ハニーニャも一緒。そしてさらに気が合うことに私たちは、 新しく入った顧問が嫌いだった。濃い顔の熱血教師。 他の部員はスキだから気をひこうと反抗していたようだけど、 私たちは本気で生理的に受け付けなかったので反抗した。 ある日、とうとう切れた顧問に 「ヤル気がないなら帰れ〜!!」と怒鳴られ、 本当にヤル気の無かった私達は喜んで帰ることにした。 考えつくだけの毒を吐きまくって・・・ このとき、心が通じ合っていることに気がついた。 それが始まり。 今では、兄弟よりも通じ合い、「稲中の前野と井沢」とも「おすぎとピーコ」とも言われる。どうやら、私が前野であり、ピーコであるらしい。
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