taidanarunichijyou
見てみますか?

2011年06月30日(木) なんか書きたくなった

去年の今頃はおばあちゃんが入院して
毎日病院へお見舞いに行って
末期がんという治る可能性のないものを
抱えたおばあちゃんに、なんとか
食事をしてもらう事ばかりを、
家族で考えてたなぁ。

あっというまに一年。
ここのところ自分の体調が優れず
5月末からずっと風邪?で微熱?と思っていたのが
何やらもっと大変な事になっていて
顔の骨のどっかに膿が溜まって
抗生物質も効かず
現在も絶賛発熱中。

微熱だから動けないわけじゃない。
高熱で意識朦朧とかにはならない、
地味に嫌な日々を一ヶ月ほど送っております。

でもさ、
毎日こんな微熱が4ヶ月も続いて、
しかも亡くなる2週間前は
一日に何回も輸血をしていたおばあちゃんに比べれば
私のなんて病気のうちにも入んないし。

若いし、健康だし、だるいとか我が儘言って
甘えてんなよ自分。
とか、思ってたりもするわけです。



2011年02月11日(金) 基地

時々ね、こっちに日記書きたくなるんですよ。
ブログでもtwitterでもmixiでもなく、
ここにね。

去年は色々と不幸があって(いいこともあったけど)
今年は仕事に力入れて
自分の作品がなるべく多くの人の手に
渡るように。

まずはあの会社に潜入して
外注で仕事をいただく。

いまもちまちま制作してたんだけど
自分の不器用さが憎い。
もっと神経質に、
もっと細やかな仕事が出来るようにならなきゃ。

私生活はね…。
合コンのお誘いもある&
開催してとか連れてってもあるんだけど
なんというか
普段はすごくいい子なんだけど
男関係に暗躍して
気がついたらぐちゃぐちゃになってしまう
そんなお友達が居るので
どうしたもんかね。



2010年09月27日(月) 誰の哀しい顔も見たくなかったんだね

9月の頭に帰り、一番に病院に行くと
「あら、帰って来たの?」
と、痩せてはいるものの
いつもの声で迎えてくれたおばあちゃん。

退院前の検査で、なぜか白血球の数値だけがおかしく
それが戻れば退院できると。
残り少ない時間は奇麗になった家で過ごそう
そんな計画が家族にはあったのだけど。

見た目は普通なのに
血液検査の結果だけが日に日に悪くなり
貧血がひどくなり、ついには輸血をする事に。
ほぼ毎日のように輸血のパックをぶら下げた
姿を見るのは辛かった。

話は普通にできるのに、私たちは病室に入る時
マスク着用、手は消毒。

そして私が帰ってから3週間後。
突然、本当に突然
息を引き取ってしまった。
明日もお見舞いくるねって言ったら
手を振って見送ってくれた
その日の夜中に。

私は沢山の物を貰ったのに、全然恩返しの
孝行できてない孫でほんとごめん。

「毎日明るく、笑って過ごしなさい」

その言葉はなるべく守るようにするね。



2010年08月30日(月) 7月8月そして

お昼と夕方の食事に間に合うように
「何か食べたい物は無いか」と、毎日聞く私たちに
おばあちゃんもその質問には飽き飽きといった様子。

段々、食事の量も増えて来て
私が通い出して2週間もした頃には
私の知ってるおばあちゃんの顔になり
一ヶ月経った頃には、リハビリ病院に移るまでに
なりました。

入院はいろんな人に秘密にしてあり
病気の事も本人に告知していたかどうかは
私は知りません。

このままよくなるんじゃないの?
本当にそう錯覚させるくらい
見た目は回復してきました。

そんな時、私に某チケット会社からの
面接のお知らせが届き東京へ戻る事に。
後ろ髪を引かれつつも
地元で誰にも会わず、病院と家の往復の生活に
少々あき始めていた私に、おばあちゃんは
「東京に帰りなさい」
そういわれ、7月頭帰京して、面接受けて、
無事に落ちて
自分の誕生日を迎え

8月のお盆の頃、おばあちゃんが一時帰宅するという
メールが来て、安心していました。

やはり東京での生活は楽しく、
看病は実家の家族に任せっきりにしていました。

8月の終わり頃、退院するかもとメールが来て
それじゃあ、家で色々介護しないといけないから
またうさぎを連れて帰ろうかな、とゆっくり支度をしていたら
台風が来たり何だで
結局9月の頭に、また福岡に帰る事になったのです。



2010年06月02日(水) あんまりおぼえてない

うさぎとともに実家に帰ると
なぜかおばあちゃんの家が大改装中。
大工さん来てるし。
いつもおばあちゃんが居た部屋の床がぶち抜かれており、
奥の方を見に行くとお茶室は畳替えまでしてとっても奇麗。

私の家はちょっと変わってて
敷地内に3軒(我が家、おばあちゃんの家、叔母の家)+駐車場。

部屋を奇麗にしてるぐらいだから
病院から帰って来れるのかなと思いつつ
病院に顔を出したら
想像以上にやせ細ったおばあちゃんが。
意識はハッキリしており
私が帰って来た事を喜んでくれたはいいけど
全然ご飯を食べてくれない…。

手術後で、きつかったんだろうけど
食べないと体力がつかない。
体力がつくとガンも進行してしまう。
この板挟み。

大正の華やかな時代を我が儘に過ごして来た
おばあちゃんの我が儘に
根気強くつき合う日々が始まったのだけど
正直、もう、あんまり覚えてないのです。



2010年06月01日(火) こっちにひっそり

今年一発目から
ヘヴィな記録です。

5月のGWに
私が会社でお世話になった
Hさんが急逝されました。
41歳、早すぎるよ。
UFOキャッチャーがめっちゃうまくて
GW明けたら取ってもらいたかったもの
あったんだけどな…。

さらに。
私は昔からおばあちゃんっこで
その大好きなおばあちゃんが
ガンになってしまいました。

私はいい歳して
根無し草の様な
相も変わらずのダメ人間で

何一つ
孫孝行をしていません。

転移が見つかった&高齢のため
生存の確率は10%らしい…。

この限られた時間で
私はどれだけ
伝える事が出来るのかな。
どれだけ教えてもらう事があるのかな。

遠く離れて暮らしているから
今すぐにでもかえりたいけど
帰ったところで
何も出来ないので。
手術の成功を願うばかりです。



2010年05月30日(日) 5月6月あいまい

5月も終りかけの頃の緊急入院→手術メールから
さらに、「手術の日が早まったから今から」メールがきて、
遠く離れてる私は結果がどうなったか
メールを待ち続けたけど、来ない。
うちの家族…。

翌朝電話したら、
開けたけれども、取りきる事は不可能で
どうしてもしなくてはいけない処置だけはした、と。

レントゲンを撮った段階で
大腸がんの末期というのはわかっていたらしく
もしかしたら取れるかも、という淡い期待もあった様ですが
出来た場所が悪く、進行も早く、手遅れ。

今は大腸がんって早期発見で治る病気なんだけど
私のおばあちゃんは病院が嫌いで、
ギリギリまで何も言わなかったから。
下手したら手術中に亡くなる可能性もあったとか。

過ぎた事を悔いても仕方ないのですが
四六時中家にいる父親が、
騙してでも病院に連れて行っていればと
何度思った事か。

手術終って意識が戻ったよ、とメールが来て
私はすぐにでも実家に帰りたかったけど
あまりに衰弱した姿を私に見せたくなかったらしく
あと1週間ぐらい経ったら帰ってこいと言われまして
結局6月の上旬に私は福岡にうさぎとともに帰省。
そこから約一月、看病とまでは言えないけど
毎日病院にお食事の手伝いに通いました。



2009年11月29日(日) 喪失感

15歳の頃知り合い
人生の半分以上を
友達として過ごしてきた彼女が
昨日の朝、一覧からいなくなってました。

一緒に何度もライブ行ったり買い物行ったり
ゴハン食べにいったり、おっかけ旅行にいったり
厄払いに行ったり。
二人ともぜんぜん違う場所で買い物したのに
同じブランドの色違いの服を買っていたり。

私が地元に居て
彼女が大学で遠く離れてる頃は
ずっと文通をしていた、
そんな彼女と疎遠になったのは
ここ2年ぐらいのことで。

好きなものが似ていたけど
だんだん生活も変わり、
私の夢中になるものも変わり、
彼女の夢中になるものに
私は夢中にはなれなくて。

一番最近メールしたのは
2ヶ月ぐらい前。

ある人のプロフの中で
すごく好きな言葉があって
美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい。
美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい。

私は彼女のいいとこも悪いとこも含めて
家族よりも濃密な時間を共有したけど
あっちが私をどう思ってるか、
誕生日前に身辺整理したくって
今の状況になったのか
ってのは彼女にしかわからない。
とにかく彼女からは
私は必要ない存在になった、それだけ。

彼女は友達を作って広めていく性格ではないので
長年の付き合いだから
私を切った気持ちも
なんとなくは、わかる。

関係を修復しようとは、今は思わないし
出来るとも思えない。
それはこれからもどうなるかわからない。

人間は、同じ魂のレベルの人としか
つき合ってはいけない。

どちらかが高すぎても低すぎても
一緒にいたら違和感を感じる。
私が撮影現場でプロフェッショナル達と仕事して
違和感を感じたのもそれ。
私はまだまだ低いから感じた違和感。

お互い、どちらかが先に逝ったら
骨を拾う約束をしていたけれど
今はこの状態が哀しいけど、現実。



2009年11月02日(月) 逢いに行く?

私が一方的に
7歳年上の彼を知ったのは
私が17歳の夏も終わる頃。

私が彼に声をかけられたのは
19歳になったばかりの
怖いもの知らずだった頃。

私が切り捨てられた(と思い込んだ)
のは21歳の夏。

私が同じ東京にいるなら
偶然逢えるかもしれないと思って
上京したのは
私の21歳の冬が始まる頃。

本当にこの広い東京で
大きくて有名な商店街の向こう側から
彼が歩いてきて
私はドキドキしながら
声をかけて
連絡先を交換したのは
赤坂の店から帰りの、22歳の冬。

新しく好きな人が出来たのは
六本木に勤めて慣れてきた23歳の秋。

彼が失踪したのは
私が23歳の冬。

以来音信不通。

SNSを始めてすぐ、足跡とやら。
2番目に踏んだ人が
失踪した彼だった。

切っても切っても切れない縁が
世の中にはあるんだなと思った。

再会を果たしたのは
私が29歳の冬。

そしてまた、
連絡を取るようになり

ふと、
自分の中で

この先の未来に、
彼に逢ってお話をする事はないだろうから
最後に逢いに行こう
11/12名古屋まで。
なぜかそう思った。

逢うときは
いいホテルのいい部屋だったけど
もう名古屋には何年も行ってない。

いいホテルも老朽化してるだろう。

私たちはお互い歳を取った。
強い感情ももう無い。

音楽の世界で成功したけど
心がもろい人だというのは
自分が同じ病を持って、
自分が同じプロデューサーに
指示されるようになって
しみじみわかった。

あとは、一行のメールを送ればいいだけ。

「12日、いくよ。」



2009年07月23日(木) こわれた。

長年愛用してきたiBookが
ご臨終、しかも朝。


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