今回の上京の目的は、従姉の婚約祝いである。 以前私の実家に遊びに来た時には、父と共通の趣味を持つ彼女が、父の晩酌の相手をしてくれた。 実の娘である私は日本酒を嗜まないし、酔っ払いが嫌いなので飲んでいる父には近寄らないし、妹は当時未成年だったので、父は大層喜んでいた。 その印象が強かったので、婚約祝いに日本酒を選んだのである。 もし好みじゃなくても、料理酒に使えるからいいかと思って選んだのだが、叔父と従姉と婚約者の3人で、あっという間に720ml瓶を空けてくれた。 土産物を喜んで貰えるのは有難い事が、よーし、もう1本!て……おじさん飲み過ぎですよ。
叔父は、婚約者からオペラのCDを贈られたらしい。 そこには一寸した行き違いがあったようで、叔父はそんなにオペラは好きじゃないんだけれど……という感じだったので、どれどれと見せて貰った。 なんと、マリア・カラスのCDセットである。 曲目を調べると、案の定、あの名曲が入っていた。 「凄いじゃん、マリア・カラスだよ。私も買ったけれど、寄せ集めみたいなCDでイマイチだったんだよね。聴いてもいい?」 と言って、早速かけて貰った。 やはり、叔父は良いCDを貰ったようで、私のとは全然違う。欲しくなってしまった。 「あ、この曲。日本語に聞こえるんだよ」 曲がカスタ・ディーバにかわり、さびに差し掛かる直前で、全員に注意を促した。 わかるかな〜?と思って様子を見ていると、叔母が隣りで肩を震わせている。 「あ、おばさん、わかった?」 「うん……なんか、いぼ痔って聞こえたんだけれど……シオンちゃん、なんでこんな……」 叔母は、エプロンで顔を覆ってしまったが、どこでそんな変な物を仕入れて来るんだ、と言いたかったのであろう。 仕入先は、全部主人ですよ……。
他にも叔母は、私の発言にいちいち受けていた。 母と私が、妹の発言にいちいち受けるのと同じなのだろう、多分。
その後は、マリア・カラスはダイエットのためにサナダムシを飲んだという話になり、その流れで、従姉と婚約者は翌日、目黒寄生虫館に行ったようである。 勿論、勧めたのは私だ。
母は叔母夫婦の家に泊まったが、私はホテルを取ったので、従姉が駅まで送ってくれた。 なんだか色々と情報が錯綜していたようだが、落ち着くべき所に落ち着いたようで安心した。 雨降って地固まる、とは一寸違うだろうか。でもそんな感じがする。 それにしても、婚約者が10歳近く年上なのには吃驚した。 やはり、ジジ専の家系なのだろうか……流石にその単語を発するのは気が引けたので、 「オッサン好きなのね、私達って」 と言うに留めたが。 10年振りにあった従姉だが、血の繋がりを感じた。
私は寒冷地に住んでいる。 氷点下の凍て付いた路面でも、転ばない。主人は転んだけれど。 一寸雪が降っただけで電車が止まり、何人もが転んで病院に担ぎ込まれる東京を、密かに馬鹿にしていた。 それなのに。
雪の無い、氷点下でもない東京で転んじゃったよ。
一週間前、東京に行かないかと母が電話をして来た。 親戚の家に集まるらしい。 急な誘いだったが、仕事も無いし主人の許可も出たので、2泊3日の予定で宿とJRの切符を取った。 そしてこの日、私は東京に降り立った。 冬なのに雨が降っていた。 東京は暖かいなーと思いつつ、駅から徒歩で親戚の家を目指す。 歩くには少し遠いし、雨も降っているし、バスに乗ろうかと思ったが、どこで降りればいいかわからなかったので、そのまま歩き続けた。 しかし、この前訪れてから、もう何年も経っている。 あれ、この道でいいんだっけ?と自信を失くして元来た道を引き返そうとした途端、靴の裏が滑ってバランスを崩した。 私が踵を返したのは、マンホールの真上だったのだ。 雨降りの住宅地で、目撃者はいなかった。 誰にも醜態を晒さずに済んだのは、不幸中の幸いだろう。 お土産と鞄は、数メートル先に吹っ飛んでいた。 よいしょと立ち上がってよく見ると、ストッキングの膝部分に大きな穴が開いていた。 そしてこれまた大きな擦り傷から血が。子供みたい……。 雪道で転んでも、せいぜい尻餅をつく程度で、服を汚したり膝を擦り剥いたりする事は無い。病院に運ばれるなんて、東京人はどんだけ。 濡れたらこんなに滑るような素材でマンホールを作るなんて、管理する東京都を訴えてやろうかと思った。
すぐ近くにドラッグストアがあったので、1番大きな絆創膏と消毒液とコットンを買った。 店の片隅に椅子があったのでそこに座り、買ったばかりの品物をさっさと開封して、1人で手当てをした。マキロンが沁みる。 誰もいなかったが、ストッキングを脱いでいる途中で誰かが来ては困るので、膝部分でぐるりとストッキングを破り捨てた。 片方だけではヘンなので、もう片方も膝から破り捨てた。 東京は暖かいと思っていたが、素足になったら、途端に寒くなった。
お土産の状態が心配だったが、転んだ時にボウリングの玉のように前方に投げ出した格好になったのが良かったらしく、酒瓶は無事だった。 しかし、間違って、主人に勧められたのとは別のお酒を買ってしまった私。 次回はオススメ最高級を買って行くよ……いや、送るよ。 雨の中、あんなに重たい物を持ち歩くのは辛い。もう転びたくないし。
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