日々是迷々之記
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2006年01月15日(日) 脳みそギリギリナイト

土曜日は昼から人工スキー場に行き、人工といえどもそれなりに楽しんだ。家に帰る頃、めまいと頭痛、そして頭の後ろの方で砂がざらざらと流れるような感じで血流を感じた。それが何度も津波のようにやってくる。あ、これはやばいんでないだろうか。と感じた。

ごいーん、ごいーんと来て、一瞬幕が下りるように目の前が真っ暗になる。幻聴というのか、電話の話し中の時の音「ツーツー」がたまに聞こえる。あ、本当に頭がおかしくなったんだ。私も脳梗塞とかなんかな、ああ、もう終わりなんだ、と感じた。不思議と死にたくないという気持ちより、手持ちのものを誰にあげるかちゃんと書いておけばよかったとつくづく思った。iBookは妹に、モバイル小物は妹の彼氏に、ドコモダケグッズ、昔のマンガは友達にあげたい。あ、銀行のパスワードとかもどっかに書いておけばよかったと思いつつ、私はヘルメットとカブの鍵を取り、外へ出た。

病院といってももう22時である。どこへ行けばいいのかわからない。とりあえず、以前入院してた病院に電話してみたら今日は整形の先生しかいないとのこと。救急医療センターの番号を聞いて、そこへかける。そしたら隣の駅のところにある病院がいいとのことだった。

ああ、あそこかとカブを走らせる。途中何度か休みながら。耳の奥に響く血流の音がリアルだった。病院に着くと、血圧を測り、熱を測り、血を採った。先生は私の話を聞くと、「脳梗塞では絶対にありません。」と言った。小さな筆のようなものを取り出し、右手左手、右頬左頬、順番に触れ、感じ方に違いがありますか、と尋ねた。いえ、同じです、と答えると、脳梗塞なら感覚に違いが出るとのことだった。

めまいや立ちくらみは耳の病気ということもあるらしかったが、右と左と同時に耳鳴りがする、というのは耳の病気というのは考えにくいらしい。先生は、「何で脳梗塞だと思ったのですか?」と訊いた。

私は母親が脳梗塞で倒れたから、私もいつかそうなる気がする。それに鬱病の薬を二日間飲み忘れてしまったので、それが何か不安であると伝えた。

それは考えすぎです。と先生は言った。脳梗塞は9割方生活習慣から来ます。遺伝的な要素はありません。それにあなたの血液は健康で、いわゆるさらさら血液です。それよりも薬を飲み忘れたりして不安になることのほうが、もっとよくないことです。と言った。

何でも私が飲んでいる程度の量だと、止めてもすぐに差は出ないらしい。もっともそんな強い薬なら、精神科の先生はちゃんと言うし、バイクなんか乗れませんとのことだった。

私は何かが切れたように穏やかな気持ちになった。生活習慣に気を遣えば私は脳梗塞にはならないのだ。それにわたしの鬱病はそれほどひどいという訳ではないらしい。薬の服用量からすると、人間の許容量の4分の1ほどであるとのこと。あ、まだいわゆる「アブない人」の領域には入っていないのだ。(差別的だなぁ、この書き方。)ただ、原因がはっきりしているだけに、その原因が取り除かれない限り、つきあわなければいけない種類らしい。

ちょっと休憩してカブで帰った。帰りは途中で休まなくてよかった。

家に帰って15時間寝た。寝るのはいいことだ。寝てる間は何も考えなくていいからだ。穏やかな時間。私にとって日常生活は戦いに等しい。街へ出れば人混みにめまいがし、親関係の雑事の中では「冷たい娘さん」だと思われながらもへこへこしている。何のために生まれてきたんだろうと思う。単に母親が将来面倒見させるために生んだだけなんじゃないだろうか。

民法では親は子を育て、子は老いた親を扶養する義務がある。しかし子を育てるというのはピンキリだと思う。お金がもったいなければいくらでもケチれるし。私なんか色鉛筆は持ってないわ、私学は受験させてもらわれへんわで、えらくケチって育てられたと今では思う。運良く高校は公立に受かったからよかったが、大学は国立一校しか受験できなかったので失敗し、それからはフリーターである。

逆に親を扶養するというのは選べない。勝手に倒れて勝手に手術されて勝手に面倒見られて、請求書が回ってくる。何か損した気分である。

…とまあ毎日こんなことに脳みそが支配されているので、たまにオーバーヒートしたのだろう。ごめんね、我が脳みそよ。一番いいのは考えないことだと分かっているのだが。

もう寝よう。眠りの国は悪夢さえ来なければ安らかだ。


2006年01月14日(土) くるくるチャンス

今日は朝から電話攻めだった。母親の入院する病院から、そして派遣会社から。病院からは今日が手術だったのでまあしかたがないだろう。本来なら付き添うのが常識らしいが私は多忙と言うことでことわってしまった。が、しかし、「ねまきをセパレートからつなぎ型に変更してもいいですか?」とか、「術後に腹帯を使用してもいいですか?」などとわざわざ訊いてくるのには少々びっくり。過去にそういうことで文句を言った人がいたのだろうか。私はだめですと言う理由も思い入れもないので「はあ、はあ。」と答えてしまった。

派遣会社からは次の仕事のオファーだった。英語を使える、特に会話が多い仕事だが、ちょっと遠いんですよ、とのこと。調べてみるとバイクで通勤できるんならよさそうだった。月曜日に話を聞きに行くことに。

もうぼちぼち自分の生活に戻りたいなぁと思っていたのでタイムリーだ。母親の方も胃袋に直接栄養を入れるようになれば、栄養状態も向上し、今の骨川筋衛門状態から抜け出すだろう。

人生は必ずしも前向きに生きなければいけないわけじゃない。後ろ向きでも消極的でも生きていると言う事実には変わりない。ただその中で、自分の気持ちをどうするかというだけの問題である。息をひそめてその日を過ごすだけの人生だとしても、何かが心の琴線に触れてエンジンがかかることもあるだろう。そういうときにどうするか、というのがキモなのかもしれない。

そんなことを思った。

夕方家人と大阪駅で待ち合わせをした。混んだ電車に乗ると、幻聴というか耳鳴りというか、そういうものが聞こえてくる。ちょっとまずいなぁと思ったが混んでいる御堂筋線ではなく四つ橋線で移動をしたら普通に戻った。人混みはちょっと今の自分にはキツイようだった。

晴れの日もあれば雨の日もあって、くるくるとチャンスも回っている。はずれを引くのも一興。当たればラッキーだ。

そんなに構えて堅くなることはない。来れば受け入れるだけ受け入れて、消化不良なら吐き出せばいい。極論、ダメなら死んじゃえばいい。がんばれなくたって別にいいのだ。案外生きることは簡単で、バカみたいなヤツでも普通に生きている。がんばったからって必ずしも評価されるわけではないが、だらだらしてたからって天誅を受けるわけではない。どうにでも生きられるのが今の世界だと思っている。

そう思えば生きてることは楽なのかもと思う。生死の分け目だけを自分が握ってさえいれば。


2006年01月13日(金) せめて良く生きようと

どうせ生きてるんだったら、せめて良く生きようと思い始めるようになりつつある。きれいな物もたくさん見たほうがいいし、楽しいこともたくさん経験した方がきっといいと思う。

書店に行き溢れる本を見た。なつかしい「ぐりとぐら」の絵本。大きなパンケーキは今見ても美味しそうだった。「パウダーガイド」というバックカントリースキーのムック、バランスボールでやる体操の本、ホーロー鍋の料理の本などを購入。

書店の外に出ると、ちょうど私が駐輪している自転車の前で、二人の外国人女性がプリントアウトした地図を片手に思案顔。私はああ、道に迷ったのだな、と思い、エクスキューズミー、メイアイヘルプユー?と声をかけてみた。すると、このしゃぶしゃぶ屋に行きたいのだが、と紙を見せてくれた。その地図は大雑把でこれじゃ日本人でも分からないやろと思わせるものだった。

私はそこに書かれた電話番号に電話をし、店の場所を尋ねた。そこから歩いて5分くらいだが、路地の雑居ビルの奥手にあるらしかった。それを英語で説明するほどの英語力もないので、アイドンシンク、ユートゥーキャンリーチザレストラント、イージリィ。シャルアイショウユウザウェイトゥゼア?と言い、直接案内することにした。

道中で、女性は私の英語はとても上手だ、海外で勉強しましたね?と言われた。素直に喜ぶべきなのだが、本当に上手な人ならナチュラルに英語圏から来た日系の人だと思われるのだろう。道中、私がどこで英語を勉強したか、など色んな話をしながらそのしゃぶしゃぶ屋に行った。

幸い、その店は雑居ビルの奥にあったが、通りに立て看板を出していたのですぐにわかった。ヒアイティイズ、プリーズエンジョイヨァディナー。と言い、その場を去ろうとすると、サンキューベリマッチ、ユーアーベリーカインドガール。と言われた。

ユーアーベリーカインドガール。あなたはとても親切な女の子ですね。ということだ。年齢的には全然女の子ではないのだが、西洋の人から見たら幼く見えるのだろう。「とても親切ですね。」私は日本でこんなことを人に言われたことがないので、素直に感激してしまった。

「ユーアーベリーカインド」かぁと思うと何かいいことしたなぁと気持ちでほくほくする。実務では大して役に立たない私の英語力だが、こういうところでは能力が発揮できる。それはとても嬉しいことだ。勉強してよかったよ。

人間が後世に残すのは生き様であると誰かが言っていた。私はよい子でもなかったし、よい妻でもないが、せめて良い人ではありたいなぁと思う。死んじゃおうかなと思った途端、やってみたいことが出来るのは何だか不思議なものである。


nao-zo |MAIL

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