日々是迷々之記
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とうとう、と言うか何というか、母親に生活保護を受けてもらうことにした。正直もうこれ以上の金銭的サポートはきついのだ。ということで母親の住民票がある某区役所に行って来た。
まず初日。生活保護を受けさせたいとの旨を告げると、カーテンで仕切られた個室に案内される。そこにいかにも区役所という感じの三つ揃いの茶色のスーツを着たおっさんがメモ帳を持ってやってきた。この人が大変嫌な感じだった。
最初っからタメ口。まあ確かにルーズなジーンズにスニーカー、ニットキャップにザック背負って行っている私はそこらへんの中坊風なんだろう。中坊じゃなくて、中年なんだけどな。まあそれは置いておくとして、「あんた」はないだろう。そしてその口からでた言葉が「あんたが何で養えないの?」である。
るせっ!バカ者。嫌だからに決まっておろうが。毎日こつこつつまんない仕事して、その収入の約半分をあの母親に持って行かれるのである。それが最悪20年は続く。その状況に耐えられないのだ。
…と思ったが初見のじじいにキレてもしょうがないので、「鬱病なんで働けないです。」ととりあえず全部をまとめて結論だけ言った。他の兄弟姉妹はどうなの?と聞かれたので、長女にあたる姉は所在不明、妹は関東でフリーターしてて経済的に誰かを養えるほどではないということにしておいた。
んじゃ、これ書いて持ってきてと書類を渡される。今話したようなことを書くようだった。それなら最初から書類渡せよ、あんたと話すの時間と気力のムダ、と思ったが言わずにおいた。
そして翌日、母親名義の通帳をあるだけ、年金、国民健康保険の書類などを持って、再び某区役所に出向いた。もう最初から鬱々してつらい。でもここでがんばっておけばこの先20年間の無意味な搾取から逃れられるのだと思って頑張る。
で、書類を渡した。すると質問攻め。母親の通帳を見て、毎月お金を振り込んでいる○○さんて誰?とか、この日32万円下ろして何に使ったの?とか、知らんちゅーねん!という質問ばかり。母親の通帳に誰かがお金を振り込んでもその相手がいちいち誰か知っている娘なんてこの世の中にどれだけいるのだろう。倒れる一ヶ月前に32万円下ろしていてもそれを何に使ったかなんか知るわけないだろう。バカ、黙れ、と私のイライラはつのるばかり。
そして、知りません、わかりませんとばかり返答する私に相手は不信感を抱いたようだった。「お母さん、兄弟何人?」と聞いたときに「知りません。」と答えたのがその決定打となったようだ。これは本当に分からない。ばあちゃん自体が後妻だったので母親は長女と言うことになっているが姉がいたりするからだ。親戚一同が集まって、ということも今までになかったし。
まあ、世間ではそれはちょっと異常なことだろうから、私が嘘をついているとでも思ったのだろう。不審ならそっちで興信所に頼んで調べてくれればそれでいいし。一度、わたしの姉にあたる人を捜そうかと思ったのだが、基本料金が20万円ということでやめた記憶がある。今更見つかったからって用事もないし、私と妹に一切秘密にして連絡をとりあっていたわけだから、それなりに満たされた親子関係だったのだろう。
だんだんこのおっさんとしゃべってると鬱が入ってくる。もう自虐プレイの域に入っている。「んで、本人さんと話せなあかんねんけど、おねーちゃんはいつも付き添ってんの?」と来た。このねちこく親しげなしゃべり方が気に障る。区役所は職員をマナー教室にでも通わせるべきだ。
「いえ、行きません。毎月支払いの時に行くだけです。」と正直に答えたら、あっそう、ふうんと何か言いたげにつぶやいていた。鬱だ。
「じゃ、帰っていいよ。ごくろうさん。」と言われたので私ははてはて?と思いつついろいろ聞いてみた。実際に審査にはどれくらい時間がかかるのか?など実務的な内容が一切話されなかったからだ。すると「こっちから連絡するから。」とのことだった。
帰り道私は大変くらい気持ちになった。何であの人の子供として生まれただけでこんな目にあわなければならないのだろう。法律は何で「子供には親の扶養義務がある」なんて定めたのだろう。法律的には親は子供に好きなことし放題で、どれだけ嫌な思いをさせても、年を取れば「アンタ養う義務あるんやで、ほれ金よこせ。」と言っても何のおとがめもないわけだ。一度でも養育を放棄したら将来の扶養の義務はなくなることにしてほしいものである。
しかし、最悪パターンとして、区役所が姉を捜し出し、私の妹にまで連絡を取り、さあみんなでお金を出し合ってお母さんを養ってくださいね!ということになったらどうしよう。私は絶対自殺するつもりだ。もうええっちゅうねん。疲れました、はいさようならー、でファイナルアンサー。
そんなこんなで私は最近とても憂鬱だ。何かもう疲れたよ、パトラッシュ…。ネロにはパトラッシュがいて最後は天使様が連れて行ってくれたけれど、私の時はどうなるんだろう。私にはパトラッシュもいないし、ここは日本だから天使様も来ないだろう。
疲れたなぁ。
昨日の日記を書いた後、思わずうなされてしまった。夢の中に親が出てきたのだ。夢といってもわたしの記憶がそのまま反復されるだけという夢だった。
3歳くらいの私、アパートの庭。そこには雪がうっすら積もっていた。そこで母親は青空の下洗濯物を干している。当時父親はたまに通ってきていた。おみやげがあるにはあったが、今思えば個性的で微妙にトンチンカンなものばかりだった。20色入りのコンテ(絵を描くときのクレヨンみたいなもの)、スヌーピーのマンガ英語版など。別に母親の趣味が絵であったわけでもない。
次は父と母が結婚し、マンションに引っ越して妹が生まれた直後くらいの日常だった。思えばこのころが一番家族らしかったかもしれない。父親はいつも焼酎やジンを飲んでいた。膝に妹を乗せ、私が本を音読するのを聞いていた。そのころ、父親のお土産は本ばかりになっていた。安野光雅の森の絵本、天動説の本、ピカソの本、マチスの本。森の絵本はともかく、その他の本は当時小学校1,2年生だった私には理解できなかった。
そして私が小学校6年生の時に移る。このころは一番修羅場だった時期だ。父親が酒を飲んで大暴れして、母親が玄関の鍵をかけて閉め出したら歩道橋の上で寝てしまい、警察に保護された。それを引き取りに行くともう一発大暴れし、母親は足の親指の爪が剥がれてしまった。さらに父の母親(私のおばあちゃん)が新興宗教のお坊さんを呼んできた。何でもうちの家に悪い物が憑いているから家庭がうまくいかないのだとのこと。
私はへんな文字の書かれた札などを渡されたが、母親はそれをたたき落とし、妹と私の手を引いて家を出ようとした。するとおばあちゃんと母親が階段でもみ合いの大げんか。私はものすごくくらい気持ちになったのを覚えている。
そして私と妹を連れ、母親は井の頭動物園に行った。そこでファンタオレンジとみたらしだんごを食べて、動物を見た。母親は出不精で教育ママだったので私はこのことをよく覚えている。
うちは家族で外出したことが多分ないと思う。おばあちゃんの家に正月行くくらいだ。それもバスで4つくらいのところにあった。父親の連れ子だった兄は10歳年上で中学校から寮に入っていたので顔もあまり憶えていない。父親とはよく近所の公園に行った。白黒フィルムの入ったカメラで私と妹が遊んでいる姿を撮影していた。
私と妹は父親になついていた。それが母親にはくやしかったのだろう。父親は酒乱だがそれは母親にだけ矛先が向けられていたし。毎日苦労しているのはアタシなのよ!なのにあんたたちは!と思っていたのではないかと推測する。
でも母親のことがあまり好きではなかった。とにかく勉強しろばかり言っていたし、誰々ちゃんと遊ぶなとか、誰々ちゃんは賢いからお友達になりなさいとか、俗っぽいことばかり言っていたからだ。それにすぐぶん殴るのも嫌だった。
そして程なくして父親が当時できたばかりのディズニーランドに行くから支度をしなさいと言った。私と妹は嬉しくてわくわくした。お母さんは行かないの?と聞くと母親はお父さんと行きなさい、と言った。そして私たちは父親に連れられて千葉の親戚の家へ連れて行かれた。そして父は私たちを置いて帰った。これは父親が私たちについた最初で最後の嘘だった。
そのころ母親は荷物をまとめて、友人を頼って大阪に来ていたようだった。要は離婚したはいいけれど、私たちを育てるのに困って親戚の家に押しつけたのだった。母親は手に職のない専業主婦。父親はフリーランスの翻訳家で子供は好きだが生活能力が全くなかった。
この辺で呼び鈴が鳴って飛び起きた。佐川急便が来たのだ。今日ばかりは佐川急便に感謝である。あのままあの続きを見る気にはとてもなれないからだ。
正月時期、家族のある人はとても幸せそうに見える。結婚した子供もみんな帰ってきて、みんなでカニを食べたとか、お鍋を食べたとか、プレステをやったとか、ただただ楽しそうだ。わたしはそういう世界とは別の世界に住んでいるような気がする。わたしもあっち側がよかったな、とたまに思う。
マンガとかだとこういうときに救世主が現れたりするわけだが、現実の世界では何も起きない。ただ日常が続く。そして今日も夜が来るはずだ。
今日は夢を見ませんようにととりあえずお祈りしておこう。
2006年01月07日(土) |
愛は幻想のファミリズム |
うーん、いきなりだが、家族とか愛とかって何なんだろうって思ってしまった。今日は母親の入院している病院から電話があり、次の手術は一週間後に決定しました、との連絡があった。
どんな手術かというと「胃ろう」の手術である。要はおなかの表面に穴を開けフタを付ける。そこから栄養とかを流し込むようにするらしい。今は鼻から胃袋に管を入れ、そこに栄養を流し込んでいたが、むせたりとかして時間がかかるのでそうしたほうがいいんではないかということだった。
そこまでは年末に聞いていて知っていたが、その手続きが意外とめんどくさいようだ。まず話を聞きに行った。そして再度行き(熟考した結果という形を取るらしい)、承諾書にサインをする。んで手術に立ち会う。半分ボけているが、一応話は理解できるので本人にサインなりなんなりさせればいいと思うのだが。(もっとも右半身は不随なので字は書けないが。)
今日の看護婦さんはとても事務的にしゃべるヒトでしゃべっていてだんだん気が重くなってしまった。麻酔を使うのでサインをしていただかないといけません、何かあるといけないので立ち会ってもらわないといけません、先生は平日の昼間しかいないので、平日の昼間に来て頂かないといけません、などなど。もう、いけません、いけませんって、もういいよ。
今私は働いてないからいいが、普通に会社員しているヒトや、子育て中のヒトとかならかなりしんどいと思う。今手元には母親宛に来た年賀状が30通ほど積んであり、それの返事も考えなくてはいけないし。
何か二人分の人生を生きているような気分だ。これが超セレブ婦人のゴージャス人生とかなら悪くないが、惰性で余生を送るような人生だ。しかも100%誰かの力に頼って生きている。
生きる意味とか考えてもしょうがないことはわかっているのだが、母親に関してはやはり考えてしまう。胃袋に直接栄養を入れられ、絶対回復しないのに「がんばって。」とか言われながら生きるってどういう意味があるんだろう。今は年金と私の出費で入院費をまかなっているが、そのうち福祉の保護を受けることになるんだろう。その生活保護だって出所は税金なわけで、もうちょっと有効な使い方があるやろにと思ってしまう。
もっと愛情があればそんなことは思わずに、自分の生活を捨て母親の看病に私の人生の全てを傾倒するんだろうか。いやー、絶対しないな。
「先生は何のためだと思ってこの手術をするのですか?」と先生に訊いてみたい。直接的な目的は胃に栄養を入れるためだが、そうすることによって一体あの人の人生の質みたいなもんにどんな変化があるのだろう。
いや、期待しすぎかなぁ。先生はあくまで医学的手法で患者を長生きさせるのが仕事であって、患者の人生の質を上げるのが仕事ではないのだろうし。
母親の人生と私の人生。二つが一緒くたになって続いてゆく。子供の時に親を尊敬したり愛したりする努力をしとけばよかったと少し思う。そうすれば、今の状況を愛を持って受け入れられたかもしれないと思うのだ。
アル中暴力父親と計算高く自分の保身が第一である母親。どちらも親としてという以前にダメな大人だと小学生くらいのときに悟ってしまった。そして生意気な娘になり、「あんたはあの男にそっくりでかわいくない。生んで損した。」と言われるに至ってしまった。負の気持ちが伝わり負の言葉を生む負のスパイラル。誰が悪いかという以前に相性が悪いんだろうな、きっと。
友達の年賀状を見たりして、「家族って楽しそうだなぁ。」と思うことはないわけではない。子供がいたら一緒に絵を描いたり、ゲームしたり、バイクに二人乗りしたら楽しそうだなぁと思う。でもそれはフェラーリを買うことと同じくらい今の私には現実味のない話だ。
明日も母親は半分口を開けてぼんやりとテレビを見ているだろう。私は250の方のバイクでちょっと初走りの予定だ。二つの人生は完全に密着してしまったわけではない。その事実が私をほっとさせる。
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