日々是迷々之記
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2005年12月15日(木) 白いクリスマス

どっかの有線でこれが流れたとき、ああ、懐かしいなぁと思った。私が高校生の時、ジュンスカイウォーカーズというバンドが演奏していた曲だ。当時、私はいわゆるビートパンクというものに没頭していて、ライブハウスだの学園祭だのによく行っていた。

ブルーハーツ、アンジー、たま、えび、筋肉少女帯、ユニコーン、戸川純、ミンカパノピカ、ローザルクセンブルグ、ばちかぶり、INU、ゲルニカ。懐かしい名前ばかりだ。当時は大槻ケンヂ(モヨコ)がオールナイトニッポンのパーソナリティをやっていて、やおい同人本の朗読コーナーなどがあり、私は勉強しているふりをして、にやにやしながらヘッドフォンをずっとあてていた記憶がある。

「音楽は唯一、タイムマシーンと呼べるものだ。その曲を聴くだけでその時代に気持ちがトリップできるから。」というようなことを言ったのは藤井フミヤ氏。うまいことを言うなぁと思った。すっかり生活やつれして、左手に灯油缶、右手にスーパーの袋をぶら下げて、なりふり構わずマンションの階段をガニマタで上がるおばさん(私のことである)ですら、白いクリスマスを聴くと高校生の頃にトリップできるからだ。

余談だが、今、ラジオでかかっている白いクリスマスは175Rが演奏しているらしい。実は私、この175Rというものの読み方が分からなかった。最初は130Rと勘違いしていたくらいだ。へー、ほんこんと板尾が歌手デビューしたのかと。そんなわけはもちろんなくて、これは「ひゃくななじゅうごアール」ではなく「イナゴライダー」と読むと知ったときは衝撃的だった。

ともあれ、音楽はタイムマシーンだ。白いクリスマスに目をつけた175Rの人はなかなかやるなぁ。


2005年12月14日(水) びんぼうかねもち

率直にそれらは何だろうと感じた。というのも、職場の女子(26歳)がかなり不思議な人だからだ。

女性が3人しかおらず、昼休みは自然と行動を共にすることになる。彼女は上司のとなりに座っているのだが、この上司(中川家弟似の独身男性で風呂が嫌いで毒舌系)のことがあまり好きでなく、というか、生理的に嫌なようなのだ。

「マジで私、10万円あったらこの仕事してないっすわ。つか、5万円持っててもしないっすね。借金だらけやからやるっすけど。」と昼休みに言っていた。うん、まーねと相づちを打ちながら私は複雑な気持ちになっていた。

というのは、彼女の服や持ち物が結構お金がかかっているからだ。ただのジャージみたいだが、アバクロだし、財布もブランド物、靴だって毎日違ったりする。私のようにフェリシモとユニクロで全身を固めている訳ではないのだ。

まぁ、お金のかけ方が違うと言えばそれまでなんだが。

その他にも、彼女は布団にカビが生えて捨てたので寒いとか、ガスは一ヶ月止められても一応大丈夫だけど、電気はキツイっすから夜中にチャリで払いに行きましたわ、とか、ああ、そう、とうなづきながらも私は驚いてしまう発言を連発する。

そんな彼女だが、別に悪い子ではないのだ。大塚愛を思いっきりくるくるパーにした感じでカワイイと言えばカワイイ。遅刻ぎりぎりに飛び込んでくるが、マスカラはばっちり、というタイプだ。別に嫌なんじゃないが、彼女といると自分の老いを思いきり感じてしまう。

「つか、今月で辞めますわ。」と彼女は言う。おいおい家賃とかは大丈夫なんかいな、と老婆心まるだしになってしまう私なのであった。私も能天気だが、そこまで貧乏だったらやっぱ働くしなぁ。うーん。


2005年12月09日(金) ミスザワールド「失われた世界」

私の好きなフレーズだ。この後にサムバディキルミー「誰かが私を殺すから」と続く。

一体自分とは何なんだろうと考えたときに、実は自分という物はないのではないかというのが最近の結論。誰かのイメージする私が複数集まって私というものがある。他人がいるから私というものがあるのだ。

今日は久しぶりに他人に頭を叩かれた。それ自体はふざけてやったことなんだろうが、力は強いわ、コンタクトは飛びそうだったわで、私は少しも楽しいとは思えなかった。それでも私は怒らない。誰も怒ることを期待していないからだ。要は、私は突っ込まれキャラだとみんな思っているのでそうしておいた。へらへらしておけばそれでオッケー。

こうやって文字を綴ったり、本を読んだりできる夜が好きだ。他人が介在せず、ただぼんやり漂う。時間は水のように流れてしまうので、会社勤めをする身としてはいつまでもその世界にいることはできないのだが。

他人と一緒だと結構大変だ。気を遣ってくれる人は疲れないが、ただ自分の思うままに空気を読まずに振る舞う人は一緒にいて時間の過ぎるのが遅くてうんざりしてしまう。自己主張することで自分を形作っている人はそうせずにはいられないのだろうが。

生きていくことに意味はない。ただとても大きな川の流れのようなものがあって、そこに漂っているようなものだと感じる。その小さな物が何をしようと結局は流れていくことに変わりはない。そう思えば楽もしんどいも、おもしろいもくだらないも、たいした差ではないのだ。

そんな流れの中で死んだり、生まれたりが何千年か何万年か知らないが続いている。大きな大きな川下り。そう思うと一気に力が抜ける気がする。叩かれようが、自己主張の土台にされようが、そんなことは小さなことだ。表面だけの小さな出来事。一喜一憂してもしなくてもいい。

どうでもいいって楽でいいなぁ。


nao-zo |MAIL

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