群青

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0811
2008年08月03日(日)




 寛解期なのだろう。帽子を目深に被って歩かなくとも済むことや、店で壁に向かって食事をしなくても良いことにほっとする。憎悪の時期には、ただでさえ人を選ぶ性格がさらに亢進し、初対面で奇異な印象を与えることを嫌い、かつ、旧知の間柄では気の毒に思われることを恐れ、再会に二の足を踏むようになる。こめかみに心地良い疼痛を感じるような、白熱したやりとりは随分と久しく、人払いの期間が長ければ長いほど、相対的に人と関わる力も衰えて行く。引きつりのたびに視線を拾い集め、突飛なものを目の当たりにしたような表情に出会うと小さく絶望し、視線がかち合わなかったことを認めると安堵するような行為を反射的に繰り返していれば偏屈になるのもむべなるかなで、いっそのこと誰にも気付かれる心配のない透明人間になりたいと切迫した気持ちで願う。憎悪と寛解の加熱作用と冷却作用は、ゆっくりと性格を打ち据え、老いの到来に希望を見出すいびつな精神構造を刻んで、やがて鏡のなかにくたびれ疲れ果てた顔を見出す。


 『彼らはいったい何をしているのか?彼らはいったい何を考えているの
 か?我々はみんな死ぬのだ、誰だろうと一人残らず。何たるばか騒ぎよ
 !そのことだけでわたしたちはお互いに愛し合うようになっても当然な
 のに、そうはならない。わたしたちはつまらないことに脅かされたり、
 意気消沈させられたりし、どうでもいいようなことに簡単にやっつけら
 れてしまう』

 『老いるというのはとてもおかしなことだ。忘れてはならないのは、自
 分自身に向かって、自分は年寄りだ、自分は年寄りだと、絶えず言い聞
 かせ続けなければならないということだ』





 いつもどこか冷めている。どれほど宴もたけなわであろうと、頭の片隅ではそれを冷静に観察している自分がいる。穿った見方(斜視)は道義に反するとの思いから、極力おもてに出さないようにしてはいるものの、年相応に振る舞おうとして過剰適応になるのにも疲れ果て、ますます若さが疎ましくなるばかりで仕様がない。実年齢との齟齬に歯噛みをしたのは一度や二度ではなく、窮屈な若さ(実際、もうそれほど若いとは言えないのだけれど)、乃至、この持て余している身体を振り切って駆け抜けて行けたらばどんなにか良いだろうとたびたび思う。けれど、所詮そんなものは早く大人になりたいと背伸びする中高生となんらかわりがなくて、大人には大人の(老年には老年の)生き難さがあることを見ようともせず、いたずらに希望ばかり抱いてしまうのは、つまるところ自分の若さを再認識するだけで、現状から前に一歩も進んでいないことに思い至り、始めて次の一手を打ち出すことができる筈なのだ。結局、老いることで何かから放免される筈もなく、悪態をつきながら今日も若さ(バカさ)を抱えて生きる。


 『彼はおおよそ二十分間にわたって、朝食のことも忘れて、アレクサン
 ドラに向かって、今世紀のこのパワフルな後半部にあって物事をどのよ
 うに見るべきか示そうと試みる。彼女も試みる。彼女はこれまで常に進
 歩的な気性を持ちつづけていた(ときどきは改良主義程度にもなったけ
 れど)。でも今は、彼の話に耳を澄ませながら、太い愛の肉棒の向こう
 に、孤独な老年と寂しい死をはっきり目にすることができた』





 お囃子が聞こえる。まるでそこだけ暮れなずむことを拒むかのように、空を燃え立たせて色を失う気配がない。ひきかえ、この屋外プールは照明設備があるとはいえ所々に夜を滲ませ、嬌声もどこかひっそりとして侘しい。プールサイドを歩く人影はまるで亡霊のようで、光と闇の淡いに融け込んでそのまま姿を消してしまうようだ。いっそ僕も消えてしまおうか。たゆたう夜に潜ると、どうしようもなく安らぐ。けれど、この水はどこにもつながっていない。コンクリートで厚く塗り固められている。


 『鳥たちよりもさらに夏おそく
  草むらのかげで悲しげに
  ちっちゃな群れが挙行する
  人目につかぬミサを。

  聖餐式は見えず
  恩寵の到来もゆるやかで
  ミサは物思いに沈んだ惰性となる
  孤独を拡大しながら。

  八月が燃えつきようとする頃
  真昼というのにたいそう古めかしく
  この幽霊のような聖歌はわき上がり
  寂滅を表象する

  恩寵はまだ取り消されたわけではなく
  輝きに影はさしていない
  だがドルイド的な変化が現れて
  いま「自然」をたかめる』


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TOHOシネマズで宮崎駿「崖の上のポニョ」

明治大学博物館「刑事部門」
オカムラデザインスペースRで「風鈴 伊東豊雄+takram」
G/P galleryで「上田義彦『骨と石器:BONES and STONEWARES』」

自由学園明日館
旧朝倉家住宅


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佐藤亜紀「天使」
グレイス・ペイリー「最後の瞬間のすごく大きな変化」
上橋菜穂子「虚空の旅人」
エミリ・ディキンソン「対訳 ディキンソン詩集-アメリカ詩人選(3)」

読了。



0810
2008年07月20日(日)




 寝苦しい夜。夏の夜には濃密な夢が繰り返される。暑さに身体を揺さぶられるようにして薄目を開け、身支度が整うと再び夢の深くに没入する。寝床と彼岸を何度か往復して、一言も声を発していないのに妙に喉が渇いて台所で水をがぶがぶと呑む。部屋に戻ろうと身を翻した瞬間、カップの取っ手に触れてしまったのか盛大にものの割れる音がした。床には強化ガラスの破片がごろごろと転がっているが、早く寝床に入って見なかったことにしてしまいたいと思う。けれど力強い腕は肩を揺さぶり起きろと命じる。ちゃんとしなきゃ。

 強迫性障害と診断され、自明なことであった筈なのにうろたえた。せめて神経症ぐらいにしてくれればありがたかったのに(それは同義なのだが)、障害と呼ばれるとひどく重篤なものであるような気がする。もし笑止千万なこれしきの障害で狼狽してしまった潔癖さもまた障害のなせる業だとしたら、人が障害を作るのか、あるいは障害が人を形作るのか曖昧模糊として、つまるところ全ては他人事でしかないように思える。


 『たとえあてどなくても憎悪か冷罵かを蒔くべきであった。恐怖は人を
 注意深くさせるから戸外では有用だが、憐憫は糖衣された毒だ。それは
 癩のようにじりじりと人を軟らかくし、崩壊させ、腐敗させる。うしろ
 をふり向いたときに彼は死ぬのだ』


 けがれる、という感覚には妙に敏感で、さんざんけがれ(され)ておいても、絶対不可侵な本丸のようなものは確かにあって、ある種の頑さが外部からの侵入を断固拒絶する。その点において、薬理作用は遠慮会釈がない。それはまるで頭のなかを素手でかき回されているようなもので、本来的には顔の引きつりを治す、という名目であった筈が、気付いてみれば感情の機微を根こそぎにされ、無感動、無感情で意味不明の焦燥感にやたらと駆られる悪循環に陥っていた。何かを手に入れたらば、何かを諦めなければならないという質量保存の法則というか、等価交換の仕組みに無縁ではいられないのだと再認識することは、天狗の鼻がのびかけていた自分には痛い仕打ちのように思えた。


 『幸福といふものはたわいなくつていいものだ。
  おれはいま土のなかの靄のような幸福につつまれてゐる。
  地上の夏の大歓喜の。
  夜ひる眠らない馬力のはてに暗闇のなかの世界がくる。
  みんな孤独で。
  みんなの孤独が通じあふたしかな存在をほのぼの意識し。
  うつらうつらの日をすごすことは幸福である』





 Tを好いている。だのに、時々上の空になってしまうのは、決して満たされることのない永遠の飢えが腹を突き破ろうと暴れ出すからだ。それを称してAさんは「(ゲイって)なんでみんな取っかえ引っかえ相手をかえるの?」と言い、僕はそれを受けて「白馬の王子様願望があるからじゃない?」と言ったものだが、それは一面において正しく、また別の一面においては正しくない。同様に自己評価の低さだとか、社会的な不安定さだとかもこれに当てはまらない。これは、異性愛者の後天的な特質が自己犠牲であることに対して、同性愛者のそれが自己本位に終始しているからではないだろうかと思う。

 結婚という制度は社会的な地位の獲得であるが、同時に制約でもある。家族という存在は自分を支え助けてくれるが、優先順位が自分より上の存在でもある。異性愛者は(ある種の可能性を)諦めることで別種の強さを獲得して行くが、同性愛者にはその機会が与えられず、社会通念上の大人になることがない。(同性愛者は)満たされることのない腹を抱えて、次から次へ詰め込もうとする永遠の子供だ。


 『二階堂は同性愛だということを隠してはいるが、知っていると普段の
 態度も話す中身も妙にずうずうしくて、そのずうずうしさがこっちがと
 ろうとしている距離を一気に縮めかねないように見える』


 『同性愛の男がみんなあつかましいかどうかは知らないが、二階堂には
 こういうあつかましさがある。同性愛と聞いたときほぼ例外なく人が同
 性愛者の性欲のことを考えていることを計算に入れて、そういう前提に
 のって性欲をずけずけ見せびらかしながらこっちの領分に入ってきて、
 そうされるとこっちはなんだか恥ずかしくなって反応に困ることまで計
 算に入っていて、』


 と言って、同性愛者に諦めがないわけではない。むしろ、日常的に諦めることを強いられている。結婚や出産は言わずもがな、それはたとえば、手をつないで街を歩くことであったり、公然と交際をすることである(紆余曲折を経てそれは自己本位に収束してしまうのだけれど)。その点でNさんは、できない(とされている)ことをしてしまう人だった。どちらかと言えばクローゼットな僕やTは、そういったオープンな態度に接するとたじろいでしまうのだが、Nさんの存在はある意味、光明であった。だからこそ、僕はNさんの懐でさめざめと泣いて恥じることがなかったし(男らしさとは?女らしさとは?)、そういった自分を一時受け入れすらした。けれど、オープンであること、境界を曖昧にするということは恒常的な緊張感を伴うので、矢面に立たされているという感覚を拭うことができず、そこに安寧を見出せなかった。反面、Tに僕は安らぎを感じるが、Nさんにしたように無条件に泣いて見せることはきっとできないだろうと思う。つなぐ手は互いを守るが、閉じ込めもする。

 父と母にかき抱かれるように、NさんとTの下にいられたらばどんなにか良いだろう。その表明がこの上ない稚気と未成熟の証であるのは瞭然だが(だから、見世物的思考から下世話で好色を装う悲しい処世術を徹底的にけなせはしない)、成熟を願う気持ちとは裏腹に、度々そこへ立ち返ろうとしてしまう。

 夏の夜は昏く、僕は満たされることを知らない。もうすぐまた一つ年をとる。


 『炉のように熱い毛布のなかで素娥の体のそばによこたわり、うつらう
 つらしていると、ふいに激しい寂寥を私はおぼえる。心臓のまわりにと
 つぜん暗い海がわきあがってのしかかってくる。手と足を寝床のなかに
 縫いつけられ、ぴくりともうごくことができず、そのまま膚の内部を墜
 ちていく。とどめるすきもない。広い地滑りにのって車庫も壁も闇も消
 えていく。寂寥は眼、耳、口、毛孔という毛孔から侵攻し、私を汚水で
 みたし、息がつまりそうになる。巡礼してきたすべての顔、まなざし、
 夕焼空も黄いろい大河も、はらんでは流産し、流産してははらみしてき
 たものが音もなく枯死してしまう。汚水に浸って眼がさめる。異国での
 めざめぎわには慣れきっているはずなのだが、どうしてか寂寥はこれま
 でになく汚れていて、骨へ酸のようにしみてくる。未明が一匹の菌もな
 くて剃刀の刃のようなのに私は冷たく腐ってからっぽだ』


 『さびしさは痛切ではなく、花の香りのように仄かに漂っていて、見つ
 めようとするとたちまち色褪せるのだった』


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LIQUIDROOMでイースタンユース
「極東最前線 ~あのUFOに乗りたかったの。~」

ザ・スズナリでかもねぎショット「一線を越える -左往編-」

早稲田松竹でジュリアン・シュナーベル「潜水服は蝶の夢を見る」
「夜になる前に」


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開高健「輝ける闇」
絲山秋子「ニート」

読了。



0809
2008年07月01日(火)




 岬の突端にいる。風が吹くたびにただれて捲れ上がった皮膚が痛む。よろめき倒れそうになり、必死で地面にしがみつく。よるべなさと危うさが打刻する。顔のひきつりがおさまらない。

 修繕に修繕を重ねた仮面の綻びを指摘されたようで恐かった。「もっとゆっくり話して」すっかり打ち解けて話せたと思ったのに、Nさんを通してあとからそう伝えられると、ぐらりと足下が揺れるような気がした。受容が先にありきで、自分のペースを崩すことのない者が羨ましい。受け容れられるわけがないと諦めた上で、狭い隙間にたくさんのものを詰め込む焦りと苛立ちを彼らは知っているだろうか。僕もきっと愛されて育った筈だろうに、この彼我の差はどこで生まれたのだろう。「そんなことないのにね」Nさんの言葉をぼろぼろになるまで反芻する。





 おずおずと差し出される手が好きだ。朴訥な語り口が好きだ。多勢にかき消されてしまう小さな声が好きだ。弱さは美しさだ。

 『もしそれを個性と呼ぶとしたら、いや、ぼくにはそう呼ぶしかないか
 ら個性と言っておきましょう、話が面白いとか、気が利くとか、そうい
 う見やすい部分とはべつの、身体ぜんたいにまとわりついてる空気みた
 いなものなんですね。だから、きみには個性がない、自分らしさがない
 なんて、上からものをいうような連中はどうも信用できない。個性は、
 他者の似て非なる個性と、静かに反応するんです』





 あるいはそれすらも自己憐憫の情でしかないのだろうか。僕はきっと(他人に)優しくなんかない。


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ワーナー・マイカル・シネマズでアンドリュー・アダムソン
「ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛」
池袋新文芸坐でシェカール・カプール「エリザベス:ゴールデン・エイジ」
下高井戸シネマでマーク・フォースター「君のためなら千回でも」
早稲田松竹でマルジャン・サトラビ、
ヴァンサン・パロノー「ペルセポリス」
山村浩二「カフカ 田舎医者」

森美術館で「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展」


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橋口亮輔「小説ハッシュ!」
角田光代「おやすみ、こわい夢を見ないように」
堀江敏幸「河岸忘日抄」

読了。





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