群青

wandervogel /目次 /一覧 my

0808
2008年06月08日(日)




 触れた体の芯まで凍る冷たさに身の毛がよだった。深更の激しく叩き付けるような雨音から建物内の平静さにようやく耳が慣れてきた頃だった。注意を喚起する声に驚き振り向くと、見開いたまま視線の交わることのない目に行き当たった。頭のなかで激しく警報が鳴ったが、既に硬直が始まっていることから困難な状況にあることは明らかだった。

 起きがけのTの身体の温かさに、深い安堵を覚えた。夕暮れに目が覚めて、誰も居ない家に一人取り残されたような気持ちに襲われることがある。それには大抵、風邪の悪寒を伴うことが多いのだが、素面で出くわしたときにはパートナーの存在がいつも以上にありがたく思われる。

 『別に暗がりの中でやってる声聞いてればいいかなって。ホントホント
 、全然やりたくないから、そういうとこに居たい気持ちって分からない
 かな?』

 『早い話、「ああ、寂しいのは俺だけじゃないんだ」って思えて安心す
 るからなのかな』





 ぶつぶつと耳の奥で男が呟いている。僕はその意味を汲み取ることができない。寝入りばなに幻聴をよく耳にする。その日の夢は悲惨なものだった。誰かの体を盾にして、その盾となった体から滴る血の雨に悲鳴を上げた。

 『暗がりに逃げてきたはずなのに、やっぱり理性っていうかステバチに
 はなれない自分がいてさ。メチャクチャになりたいって思ってるのに。
 何かが止めるんだよね』

 『「もうこの人とは会わないんだろうなぁ・・・」って思って、すぐに
 「だからいいんだ」って思い直して部屋から明るい廊下に出た』





 かぐわしい季節の匂いが遠のき、景色はただの通過点となる。時間と時間を無感動に歩き過ぎ、僕は一介の孤点になる。世界との親密さが失われてゆく。何を見ても何かを思い出す。

 視界が茜色に染まる瞬間。主体と客体の和解。envyの轟音のなかでようやく救われたような気がした。どんな場面でも熱くなりきれず、いつも遠巻きに眺めている客体が主体に追い付く。或いは、当為を越えようとあがく主体が客体を出し抜いた。心が軽くなる。海面に浮上する。

 『一生懸命、現実復帰しようとして、また気持ちがザワついて寂しくな
 らないように事務的な事をわざと声に、小声だけど出してたんだ』

 『「やっと泣けたよ」って心の中で少しホッとした。ホント、年とって
 くると、涙一つ出すのにも面倒くさい手順がいるのかって笑っちゃうけ
 どさ。寝てなくて疲れてて、そいでやっと自我が緩んで泣けるのかって
 思うと、俺はそこまで自分が可愛いのか、何をそんなに守ってるんだと
 か思う。まったく』





 Tと、香川に一泊した。のべつまくなしに話し立てる僕は、何をそんなに隠蔽したがっているのだろうかと不思議に感じられた。静かに佇むTの健康さが頼もしく感じられ、ときに物足りないような気持ちにもさせられた。

 『「でもあんまり覚えてないや、飲み過ぎたし。もう一回寝ようかな」
 と口に出してゴロッと横になった。でも全部覚えていた。思い出したく
 ないからわざと眠たい振りをしているのは自分で分かっていた』

 『愛された人間は揺るがない。世の中に存在を全肯定されているという
 自信が身に付いている。それが大らかさにも見え、時には傲慢さにも見
 える』

 『誤魔化しているのは僕の感情だ。胸の中にどうしようもない気持ちが
 ドンドン大きくなっていく。自分の意志さえも呑み込むほどに揺れ動い
 てしまう。自分を見失う、そんな強烈な感情が恐い。自分のことはちゃ
 んと自分でコントロールしていたい』

 『ぼくは自分の歪みや隙間を丁寧に丁寧に覆ってきた。そのメッキが剥
 がれて中の物が噴き出す自分は想像したくない』





 職場のEさんに誘われ、代々木体育館に空手の試合を観に行った。現地で落ち合うことになっていたものの、Eさんの姿は一向に窺えず、暖房のきいているかのような館内を噴き出す汗に難儀しながら、ぐるぐると回り続けた。どうせなら、このまま会わなければ良いのにと思う。携帯の番号を聞かなかったのもそのためで、Eさんの気安さや屈託のなさが僕は苦手だった。決してそんなことを思っていはしませんよ、と本心を糊塗するように、暑さで頭がぼんやりするまで延々歩き続けた。

 『人との距離を常に感じて身構える、そうすると余計に距離が空いてし
 まう。そんなジレンマは、大人になって自分がゲイだと気づいてからは
 もっと敏感に感じるようになった』

 『その距離は痛いもので、それを誤魔化すために痛くない振りをしなけ
 ればならなかった』





 内輪だけに通じる言葉を使っていると、自分のなかのある部分がどんどん鈍って行くような気がする。何かがつまらないと感じても、それはこちらに対象を理解するだけの能力なり教養がなかっただけだと思えるのは精神が健康なときだけで、大抵は自分までどうしようもない人間であるかのように思えて嫌になることの方が多い。その場所を選んだのは自分で、そこにしか居られないのも自分の未熟さによるものなのに。

 絶えず痕跡を残そうとする若さが疎ましい。樹齢数千年の巨木だとか、時の流れに摩耗することのない巨大な建築よりも、アスファルトを泡立たせる雨粒や、木立の合間にきらめく光や、波頭の崩れ折れる瞬間なんかに人智を越えた驚異を感じる。これは深化というよりは、ただの心情の変化に過ぎないのだろうが、卑近で矮小なものにこそより親密さを感じる。





 忘れてくれていい。

 『いつも一瞬のうちに訪れる。全ては一瞬のうちに分かってしまう。分
 かってたはずなのに、と思うと悔しくてたまりませんでした』

 『僕は今とても怒って動揺している、という姿を自分で掴まえておける
 腕力がついていたのです』

 『でも希望は、自分で幾重にも編み込んだ網を引っかけて掴むものだと
 は知りませんでした』


-----------------------------------------------------------


青山ブックセンターで大澤真幸、平野啓一郎
「閉塞する〈自由〉の時代を生きる」

渋谷O-WESTでenvy、bloodthirsty butchers
「official bootleg vol.017」

シネマライズで橋口亮輔「ぐるりのこと。」

INAXギャラリーで
「石川直樹展 -VERNACULAR 世界の片隅から-」
目黒雅叙園で「源氏物語×百段階段」


-----------------------------------------------------------


レベッカ・ブラウン「体の贈り物」
ウィリアム・ギブスン「ニューロマンサー」
保坂和志「季節の記憶」

読了。





   後日