「天国への扉」 ("Knockin' on Heaven's Door")は、ボブ・ディランの楽曲。映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』のサウンドトラック・アルバム『ビリー・ザ・キッド』に収録、シングルとして1973年にリリースされた楽曲。ビルボード Hot 100 のシングル・チャートで12位を記録した。 2004年に、『ローリング・ストーン(Rolling Stone)』誌が選んだ「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500では、190位にランクされている。
Mama, take this badge off of me I can't use it anymore. It's gettin' dark, too dark for me to see I feel like I'm knockin' on heaven's door.
ママ、僕のバッジを外してくれないか もう二度と使わないから 外はどんどん暗くなって、もう何も見えないよ まるで天国への扉を叩いている感じ
Knock, knock, knockin' on heaven's door Knock, knock, knockin' on heaven's door Knock, knock, knockin' on heaven's door Knock, knock, knockin' on heaven's door
Mama, put my guns in the ground I can't shoot them anymore. That long black cloud is comin' down I feel like I'm knockin' on heaven's door.
ママ、僕の銃を外してくれないか もう何も撃てないよ どこまでも続く深い闇が僕のそばにやってくる まるで天国への扉を叩いている感じ
Knock, knock, knockin' on heaven's door Knock, knock, knockin' on heaven's door Knock, knock, knockin' on heaven's door Knock, knock, knockin' on heaven's door
先週末に地蔵盆を行う町内が多かった。まあ、週末がお盆そのものだったのだからと思う。
そんな地蔵盆の京都の町中は、ただでさえ一方通行だらけの道路が地蔵盆であちこちで分断されてしまうので、いつもこの季節はてめえは帰宅するのにも一苦労する。
一方通行の道をバイクで走っていると、その途中で「地蔵盆につき、車両の通行はご遠慮ください」と道路が塞がれている。一方通行なので、しかたなくバイクのエンジンを切ってとぼとぼと元来た道をバイクを押して歩く。
そして別の道を走るとまた同じ光景が。笑 まあ、ええわ。
てめえも去年、持ち回りで町内の地蔵盆の役員をしたので、その大変さはよくわかる。洛中の町内に一つずつある地蔵の掃除とお花の世話を年中行い、花が枯れそうになったら買い直す。一応花代は町内の予算から出るが、正直全く足りない。そこは暗黙の了解で自己負担になる。
そして一番大変なのが地蔵盆そのもの。坊さんの手配から道路をせき止めるための許可証を警察署にもらいに行くことやら地蔵盆のタイムスケジュールを決めることやらお菓子を買うこと、ゲームの景品、夜の花火の手配まで全部行った上で、全部領収書をつけて清算する。
坊さんの手配や警察署などは今までのやり方を踏襲するしかなかったが、その他景品などは、てめえの得意なネットで手に入れた。それでかなり予算も縮小できたし町内にある程度の還元を出来たのではないかと思っている。
夜は花火と、子供のために紙芝居を読むことにした。共にてめえの町内の今までの地蔵盆では行われたことがなかったのだが、妹や弟や娘をそれなりに育てて来たことのあるてめえはこれが一番子供が喜ぶだろうという勝算があった。
花火はネットよりも卸売りの方が安くで大量に手に入ったので、卸に買いに行った。紙芝居は今回限りなのが明確なので、近くの図書館に借りに行った。幸いなことに、近くの図書館には紙芝居が山盛り置いてあった。
地蔵盆当日。当日は朝6時に設営が始まる。てめえの家の真ん前にあるお地蔵さんの前にテントを立て、町内の子供の名前が入った提灯をぶら下げる。これがてめえの家の真ん前になるので、この間てめえの家から自転車すら出せなくなる。
設営のときには、町内にこんなに人がいたのかと思うくらい多くの人間がどこからかわらわらと集まって来たので、一瞬で設営は終わった。
その後朝と昼も行事が山盛りあるけど飛ばす。笑 行事の時間になると、鈴を鳴らして町内を練り歩くのが楽しかったぜ。
夜。もう皆さん食事も終えた時間に、再度鈴を鳴らして町内を歩いた。鈴の音を聞いた大人と子供がわらわらと出てくるが、主人公は子供たち。
みんな集まったところで、紙芝居を始めた。初めての試みだったので大人たちも興味津々だったのだろう、てめえは珍しく気合いを入れて紙芝居を演じた。ありがたいことに子供だけではなく大人にも喜んでもらえたので、トライしてみてよかったと思う。
その後、みんなで花火をした。もちろん住宅街の中なので打ち上げなどは出来なかったが、子供も大人も楽しんでもらえた。花火に興奮する子供を肴にビールを飲む大人たち。笑 道路は封鎖しているので車が来る恐れもなく。
実は今日は今日の往診の話を愚痴ろうかと思っていたのだが、そのさわりとして地蔵盆の話を書き始めたらそれだけで燃え尽きてしまったぜ。ワイルドだろ。
昔書いたものの焼き直し。笑
職業に貴賤がないというのはもちろんだが、てめえが最も尊敬している職業の一つはガードマンである。
ガードマンを街で見かけると、てめえはほんまに、彼らに対してごくろうさま、という気持ちになる。ただ交通整理をしているだけとの見た目と違って彼らの仕事が過酷であることは、てめえがかつて植木屋で働いていたときに嫌と言うほど感じたのだ。
現場には雇い主よりも早く着いていなければならず、そのために彼らの朝はやたらと早い。また現場の仕事が遅れれば、その分だけ彼らの終業も遅くなる。しかし、現場の仕事が終わらなかったからと言って「すんません、もう5時ですので帰ります」なんて口が裂けても言えない。
そして単調に見える交通整理の仕事は、一瞬でも気を抜いたら現場の人間からたちまちぼろくそに怒鳴られる。結構理不尽な仕事だな、と思ったものだ。
植木屋で働いていたある日のことだが、その日は街路樹の剪定をしていた。公道にある街路樹の剪定をするときには、植木屋は必ず安全のためにガードマンを雇わなければならない。ので、その日も二人のガードマンのおっちゃんが現場に来ていた。
その日は昼を過ぎてもその日の目標の地点まではまだ遥か遠く、親方は結構いらいらしていたのだろう、なんでもないことでガードマンのおっちゃんを理不尽に怒鳴りつけていた。いつもは何本かの剪定を終えるたびに、てめえはてめえの単車を少し前に移動するのだが、その日は忙しかったのでそんなヒマもなかった、というか、単車を移動することをすっかり忘れていた。
もうとっぷりと日が暮れ、ようやく仕事がすべて終了したときに、てめえは単車を橋の向こうに置きっ放しにしていたことに気が付いた。その大きな橋はいったい何を考えて作ったのかわからんが歩道が無かった。つまり、交通手段がない限り向こう側には渡れず、かなり遠くにある橋を渡って向こう側に渡るしかなかったのだ。
もう仕方が無いので橋の欄干の上を歩いていくしかないか、となどと考えていたら、仕事を終えたばかりのガードマンのおっちゃんが何を思ったかてめえのところにやって来た。自分の原付でよければ橋の向こうまで2ケツしましょうか、と。
それからノーヘルのてめえを乗せた原付は、渋滞気味の車の間をすり抜けて、その橋の上を疾走した。ガードマンの制服を着たおっちゃんと、足袋を履いた植木屋が2ケツしている姿は結構笑える図だっただろう。そもそも原付の二人乗りもノーヘルも法律違反だが、時効ということで許してもらう。
そしててめえは、なんだかバイクに初めて乗った中学生のような不思議な気分になった。橋の上から見た川の波は、どっぷり沈んだ街の闇と光をしっかりと吸い込んでいた。
今日は捏造に関連する二つのニュースに接して、本当に驚いてしまった。正直驚いたどころの騒ぎではないのだが、今日考えたことを書き記しておく。
一つ目は、笹井氏が亡くなったこと。
学問がなんであるかを不幸にも学ぶことなく研究者としてこの世に出た女性のために、学問の世界をリードして来た研究者が亡くなった。彼女は、この結果をいったいどう総括するのだろうか。それ以上に、そんな彼女を世に送り出した早稲田はどう落とし前をつけるのか。
二つ目は、朝日新聞が「日本軍による、従軍慰安婦の強制連行が捏造だった」と、暗に認めたこと。
http://www.asahi.com/articles/ASG7L71S2G7LUTIL05N.html
物証もなく、証言だけしかなかった慰安婦問題だが、これをはじめに報道した朝日が「虚偽と認めた」って、これは凄い大ニュース。証言そのものが嘘だったら、もう存在してませんやん。
朝日新聞の報道があるまで全くこの「慰安婦」問題をとり上げなかった(だって存在しなかったのだから)韓国がこの報道の後に「慰安婦の強制連行」大キャンペーンを始めたのだが、朝日新聞はてめえのせいでここまで拗れた日韓関係にどうケリを付けるつもりなのだろうか。
そして、今回朝日新聞によって梯子を外された、自称「元慰安婦」はどうするのだろうか。今後「韓国軍慰安婦」についての事実が明らかになってくると思うが、事実として存在しなかったこと、それに対して「謝れ!」と言って来たことに対して、韓国政府はどうけじめをつけるのだろうか。果たして彼らは日本に対して謝るだけの器があるのか。
ていうかライダイハンについて韓国はベトナムに謝罪しないのはなぜか。日本にはありもしなかったことを謝れと言っておいて、自分たちがしたことは絶対に謝罪しない。ただ感情的でなぜか尊大で、理知的な会話が出来ない人たち。ベトナム政府はこの件に関して、もっと戦うべきだと思う。
しかしあの心優しいベトナム人たちはそんなことしないだろうな。だって、あれだけ国土をめちゃくちゃにしたアメリカに対してすら謝罪求めてないからね。ベトナムを見ていると「未来志向」とは何かということについて考えさせられる。
過去は過去で、これからは未来を見て行きましょうというメッセージだと思うし、それはとても建設的だと思う。過去を謝れとしか言わない(その内容も捏造だったってわかったが、このことをどのように落とし前をつけるのだろうか)方々と違ってね。
「オペ室に外科用の縫合セットがあったやろ、あれ持って来て。それと血圧計も持って来て」 上司はそう看護師に指示した。
血圧計はすでに看護師が持参していたのがあったので、それを上司は受け取ると、彼女の上腕にマンシェットを巻き付けて勢いよくポンプから空気を送り出した。
腕に巻いたものにその人の血圧より大きな圧をかけると血管は完全に閉塞する。そして、血圧計の圧表示が150を超えたところで、彼女の腕は血の気を失い完全に真っ白になった。
腕が真っ白になったことを確認して、てめえはゆっくりと破裂した血管から指を離した。血流は完全に途絶されており、そこからは一滴の血液も出てこなかった。ちょうどそのときに、手術室から外科用の縫合セットが病室に届いた。
「長時間このままだと腕ごと壊死するから、さっさと勝負をつけようか」
そう言って、上司はてめえに外科手術用の手袋を渡した。
「こういうの、得意やろ? 俺はもう歳でうまくやれる自信はない。今のうちにとっとと縫ってくれ」
そこまで言われればやるしかなく、てめえは手術着に着替えて外科用の手袋を嵌めた。そして縫合セットから出来るだけ細い糸を選び、針の先に装着した。
そして慎重に、裂けた血管に針を通す。一方の血管壁に糸を通し、もう一方の血管壁にも慎重に糸を通した。
後は縫うだけだ。
ゆっくりと結び目を作り、血管壁と壁を合わせようとしたが、残念なことに縫合した糸は血管壁を容易に裂いた。
できるだけ丈夫そうな部位を選んでも同じだった。長年の宿痾を抱えていた彼女の血管は、すでにぼろぼろだったのだ。
タイムリミットは近付いている。いったん血圧計の圧を解除し、血流を回復してから再度圧をかけるという方法もない訳ではないが、結果は見えている。
血管を修復するのは不可能だった。しばらく考えて、てめえは血管の周りにある皮膚を寄せて、裂けた血管を覆うように強く縫い込んだ。
縫い込んだ状態で、いったん血圧計の圧を解除する。縫った部位から血が吹き出るようなことがあればやり直しだが、傷口から滲む程度で出血はほとんどなかった。
念のために、団子状にしたガーゼで圧迫し、弾性包帯をぐるぐるに巻き付けた。
「…あとは祈るだけや」
と上司は言った。てめえも全く同じ気持ちだった。その頃には輸血も届いていたので輸血を開始し、血圧などが安定していることを確認して家族を呼んだ。
「なんとか止血は出来ましたが、状態は非常に厳しいです。おそらく今日明日あたりが山でしょう。呼べる家族はみんな呼んでください」
とてめえは説明したが、目の前で動脈の破裂を見た家族は未だ放心状態だった。
その間にまるっと放置していた他の患者の処置や投薬の指示を終え、結局その日の仕事が終わったのは午後9時を過ぎていた。一通りの仕事を終えたてめえは、彼女の病室に向かった。
病室には溢れるくらいの人がいた。彼女は静かに眠っているようだった。人をかき分けかき分け彼女のそばに立った。裂けた動脈は、しっかり止血されているようで弾性包帯には血が滲むこともなかった。
親指の付け根にある橈骨動脈をそっと触れてると、しっかりとした拍動を感じる。動脈を完全に閉塞しているのではなく、血流もちゃんと通っている、ということだ。病室に置かれたモニターを見ても、血圧も脈拍も安定していた。今のところは安定しているようだ。よかった。
「今は、安定しているようですね」
と、てめえは振り絞るように言った。
一通りの診察を終えて病室を出ると、キーパーソンの娘さんも一緒に病室から出て来た。
「さっきは動転してしまったけど、ちょっと時間も経ってやっと落ち着きました。ここまでしていただけて、皆様にはとても感謝しています。でも、母もよくがんばった。もし次に何かあれば、もうそのままにしていただけませんか。勝手なことを言いますが、これが私たち家族の総意です」
そうだろうな。とてめえは思った。このご家族さんは、非常によく母のことを理解されておられた。だから最期は、という意思は、痛いほどに理解できた。
わかりました、とてめえは言った。そう、よくがんばった。
そう思い、もう一度病室の中を見た。多くの家族に囲まれて静かに眠る彼女の寝顔は、苦しみなどもうすでにどこにもないような穏やかな顔をしていた。
それから彼女はひたすら眠り続けた。家族の希望で、週3回の透析も中止した。「母は誇り高い人であり、もし意識があったらこの状態で透析を続けることに同意するとは思えない」との娘さんの意見を汲んだのだ。
それからきっかり1週間後、家族に見守られながら彼女は息を引き取った。ちょうど、桜が満開の季節だった。
それからしばらく経ったある日、娘さんが病院を訪れた。娘さんはとても穏やかな表情だったので、てめえも安心した。
「あの亡くなった日ね。病院を出て、鴨川沿いに母を乗せた車を走らせたら、桜がきれいでね…。お母さんはこれを見るために、血管が破裂してから1週間がんばったんだと気が付いたんです。なんせ、桜がとても好きな人だったから。このタイミングで病院を出たかったんだねって、みんなで帰り道に笑って…。変でしょ、亡くなったばかりなのに。でもなんだか可笑しくてね」
と娘さんは笑った。
しばらくはとりとめもなく彼女の思い出話をした。
そうそう、今日は先生にお礼を持って来たの。と、娘さんはタッパーを取り出した。タッパーをあけてみると、その中には「ぜいたく煮」が入っていた。
母の得意料理でね、母の味を再現してあるからぜひ食べてね、これを先生に食べてもらうのが母の想いだと思ったの。それとタッパーは返却不要なので適当に有効利用してね、と娘さんは笑った。
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