2014年05月14日(水) |
沖縄に癒される。その2 |
本搾りのライムを箱買いした。笑
南風原(はえばる)で仕事をしていた時の話。出張の予定があり、その日のうちには飛行機で東京に向かわなければなかったのだが、仕事が一向に終わらなかったのだ。
なんとか仕事を終えて、職場の前でタクシーを拾った。空港まで、お願いしましょうね、と言ったてめえに、タクシーの運転手は親しげに話しかけてきた。
ゆっくりと運転しながら会話を楽しむ運転手に少しいらいらしながら、でもここは沖縄だしな、などとてめえはあきらめた。幸い渋滞はなかったので、ゆっくり運転してもまだ時間に余裕があるように思えた。
のんびりと話しかけてきていた運転手は、突然「お客さん、やんばる(沖縄北部)の人ね?」と言った。イントネーションがやんばるやっさー、と彼は言った。
5年間沖縄に住んで、なんとてめえは喋り方までやんばるの人になったのだ、そもそもやんばる面(じらー)やいびーん、と深い感慨を覚えたのを思い出した。
というわけで(でもないが)、最近「じゅん選手」にがっぽりはまってしまった。この人面白過ぎだが、沖縄の人以外には全く理解されないだろうと思う。
方言講座と言いながら、沖縄の言葉を少しでも理解していない人には全く分からないと思われる。しかしてめえのように少しでも齧っている人は爆笑必至。
方言講座その2。
このコントは正直深い。「戦争が終わったことを知らなかったのか?」と言う問いは正直唐突だが、「(戦争が終わったのに)なんでアメリカのヘリが(沖縄の空を)飛んでるのか?」という言葉は正直心に突き刺さった。
南の島で働き始めた、その年だったと思う。近くの島から急病での緊急搬送が入った。幸い日中だったので、フェリーで搬送するとのこと。これが夜間だと自衛隊のヘリコプターを依頼することになる。
てめえも自衛隊のヘリコプターに乗り込んだことがあるが、なかなか酷い体験だった。よく映画などで、ベトナム戦争などのヘリコプターシーンを見ることがある。とんでもない爆音と振動で会話などは到底無理、しかしスピードは素晴らしい。そりゃあそうで、基本的には患者搬送のための乗り物ではなく、屈強な兵士を乗せて戦場に向かうための乗り物なのだから。
ヘリに乗せた患者の体はぶるぶると振動し、気が付くと点滴の針が血管から外れていた。てめえはヘリの中で血管内再留置を試みたが、あれは絶対に無理。
まあそんなことはどうでもよい。
しばらくして、島の医者の紹介状と共に患者が到着した。紹介状の最後には「この方はウチナーグチ(沖縄言葉)しかしゃべれません。大変申し訳ありませんが、何卒宜しくお願いします」と書いてあった。
さすがにそれは言い過ぎやろ。この平成の世の中で、標準語が理解できない人が日本にいるはずがない。そう思ったてめえは甘かった。そう、理解できない人が日本にいたのだ。
その患者さんにはいくら病状を尋ねてもまったく埒が明かず、てめえはベテランの看護婦さんに通訳をお願いした。いつもてめえとは全く違和感のない標準語で話をしていたその看護婦さんは、少し恥ずかしそうに、しかしとても美しい沖縄の言葉で患者さんと会話をした。
沖縄の言葉を聞くと、その言葉しか話せず京都で死んだ祖母と、驚いたり怒ったときに言語が変わる母を思い出す。そして、そのイントネーションを聞くとまるで母の胎内にいたときのように安堵するのだ。
日本人が作って沖縄人が応えた名曲。夏川りみの歌声はどこまでも美しいと思う。
元の歌。この歌詞をしっかり読み砕いて、てめえはまた涙が止まらなかった。
今日はだらだら書く。
「沖縄戦」はよく知られている通り悲惨だった。今でも沖縄には、戦争の爪跡がたくさん残っている。しかしそこに住む人々は、それを全て忘れたかのように日々笑って暮らす。
しかし、忘れているわけではないのだ。ただどうしようもなかった。そして、加害者は明らかにアメリカである。日本ではない。そして戦争が終わった後も、加害者であるアメリカに占領され凌辱され続けた。沖縄が日本に戻ったのは1972年のことである。
明治維新以降、日本は三つの国と地域を日本に編入した(これはよく誤解されているが、植民地ではなく編入である)。
1879年(明治12年)、琉球王国は沖縄県として日本に編入された。 1895年(明治28年)、清は日清戦争に負けたことにより、台湾を日本に割譲した。 1910年(明治43年)、大韓帝国は日本との併合を選んだ。日本が戦争で無理やり植民地にしたわけではなく(日本は韓国と戦争したことはない)、韓国の首相自ら併合に調印した。
この三地域は、第二次世界大戦後に対照的な「その後」を歩む。ちなみにこの中で、形式的にでも望んで日本になったのは「大韓帝国」のみである。
戦争中に被害を受けた地域は、この中では沖縄だけである。朝鮮も台湾も戦禍に巻き込まれることはなかった。しかも両国とも戦争が終わる直前まで徴兵制はなかった。つまり、戦争が終わるまで両国とも平和だったのだ。日本が空襲を受けているその時も、両国ともに平和だった。
沖縄はそうではなく、むしろ戦争の最も悲惨な被害を受けた。沖縄戦によって、その人口の1/3は戦死した。てめえも彼の地で働いていたときに、家族歴に「戦死」が多かったことを忘れない。しつこいが、台湾と朝鮮はその地で戦死した人はほとんどいない。
戦争が終わり、三地域は対照的な「その後」を歩んだ。
「沖縄」は、アメリカ占領下になった。アメリカは、インフラ整備を行い教育制度を整えた日本とは異なり、沖縄に何もしなかった。というより、ほぼ略奪しかせず、本当の「植民地」扱いをした。なので、今でも沖縄人はアメリカが大嫌いであり、占領時代に最も反米であった沖縄大衆党や共産党が未だに強い。アメリカは、沖縄を「琉球」として独立させるつもりだったという話もある。しかし沖縄の人々は日本に戻ることを選択した。日本が祖国だという選択をしたのだ。
「朝鮮」は、日本ではなくなった。ただし元の国はない(てめえが望んで日本と合併した)のでほぼ無政府状態になり、結果として南北に分かれた。てめえから望んで日本に加えてもらい、日本にインフラ整備をしてもらい、戦争の時に徴兵もされず戦禍に巻き込まれることもなかったこの国が、日本を嫌う理由が一つも理解できない。理解できない理由がわからない人は沖縄を参照しなさい。沖縄戦のような悲惨な戦場が彼の地にあったのか? むしろてめえは、この三地域の中で唯一反日である理由が知りたいと思う。(てめえが思うに、単にプライドが高かっただけなのだろう)
「台湾」は中華民国に戻った。ただしその「中華民国」はすぐに共産党との内戦に敗れ、南京にあった政府が台北に逃げた。国民党政府は、日本が整備したインフラを破壊し教育をズタズタにした。結果として、元から台湾に住んでいる人々は、中国人が嫌いで日本人が好きである。至極まっとうな思考回路である。
沖縄には、今も悲惨な戦跡がたくさん残っている。しかしそんな戦跡は朝鮮や台湾にはない。もっとも悲惨な歴史を刻んだ沖縄が日本に残り、そうでない二国は反日国家と親日国家に分かれた。いろんな事情があるとは思うが、歴史がその後を証明してくれるだろうと思う。
休日は、天気が良くててめえの体調が良かったら時間を見つけて親父と散歩に出る。しかしこれが意外と厄介事なのだ。
もともと呆ける前から「健康病」の患者だった親父は、とにかく時間のある限り体を動かさないと気が済まない。彼が最も好むのは走ることだが、さすがに走って心臓を止めた経歴があるのでドクターストップがかかっている。
そんなわけで、彼と散歩する。もともとマラソンが好きな人なので結構な距離を歩くのだが、それはまあ仕方がない。
問題は、彼そのものにある。呆けてしまいエロくなった彼は、道端ですれ違う女性にまで手を出そうとする。
それも、とてもさりげないのだ。すれ違う瞬間にさわっと触る。触られた女性は、あまりにさりげないので一瞬振り返った後、首を傾げる。振り返ったところにいる男性は明らかに老齢で、振り返ることもなく真っ直ぐ歩き続けているからだ。
そして彼女は思うだろう。「たまたま散歩中の男性の手が当たっただけ」だと。そして自分を納得させ、その後そういった出来事があったこと自体を忘れるだろう。
はじめはてめえも「たまたま」なんだろうと思っていたが、たび重なるうちにこれはたまたまではないということに気が付いた。
もちろん、本人を問い詰めても意味がなかった。「覚えていない」のだ。自分のしたことを。
これ以降、てめえは親父と散歩に行くということ、と言うよりは、この人を外出されるということ自体に否定的になった。これは、明らかに往来を堂々と歩いてはいけない人だと。
なぜ自分がそう思うか、それも含めててめえは滔々と親父に説明した。「だから、散歩には一緒に行きたくない」と。親父はうなだれて聞いていたが、この人は短期記憶が障害されていたのだ。
30分後には「おい、散歩行こうぜ」と親父の大きな声が響いた。なぜ散歩に行けないのか、と言うことをもう忘れたのだ。てめえは絶望した。この人は命が助かって、果たして良かったのだろうか?
今日も彼と散歩に行った。あれから、いろいろ考えてできるだけ人とすれ違わないルートを開発した。それでも無人の街を歩くわけではないので、こっちも色々と気を使う。例えば、女性が前から歩いてきたら、手を伸ばしても絶対に届かないルートを選ぶとか、彼の気を逸らす話題を振るとか。ずっと気が張ったままなので、散歩の後はぐったりと疲れる。体力的にではなく、精神的に。
そうして彼と延々と歩く。空には雲ひとつなく、今日は散歩日和であった。「えっと、今の仕事は学校の先生だっけ?」などと見当違いのことを言ってくるが、適当にかわす。
「もう桜は咲いたやろか?」 「こないだ見に行ったような気がするが」 と五月とは思えないような会話をするが、彼は楽しそうなのでまあいいだろうと思う。
こうなってしまったのも、彼が突然心停止したからだ。彼が心停止しなかったら、てめえは今でも南の島で激務に苦しんでいただろう。
事実、親父が倒れた翌年の人事もすべて決まっていたし、てめえは南の島を離れる気は全くなかった。親父が倒れることがなかったら、てめえは今京都にいないだろうと思う。
今まで生きていて、生きていると逆らうことのできない「大きな流れ」があると実感する。自分の選択とは無関係な、いわば避けることのできない大きな出来事。
てめえが南の島に行ったのは、明らかに自分の選択だった。しかし京都に帰ることになったのは、この「大きな流れ」があったのだと思う。
もちろん、それを避けることもできただろう。親父が倒れたにもかかわらず、仕事の多忙や職場の事情を言い訳にして、南の島に残ることも不可能ではなかった。
しかし、てめえはこれは「京都に帰れ」ということなのだろうと思った。そして、そういう「天命」というか、大きな流れには逆らわない方が良いと思った。
呆けた親父と散歩していて、京都に帰って来た時のことを思い出した。
人生にはいろんな出来事があって、出会いも別れもあって、その中にはおそらく必然的なものがあるのだろうと思う。てめえが今京都にいることも含めて。そして京都に帰ってくることで、新たな友人もできたしありえないような出会いもあった。
そういった、人生の「流れ」みたいなものがあるのだろうと思うが、てめえはそれに逆らうのではなく自然に受け入れるよう生きていきたいと思う。それがてめえの「性」だとおもうのだ。
渡辺淳一氏が亡くなったそうだ。医師出身の作家として、ある意味尊敬していただけに残念なニュースだった。どうでもよいが、医師出身で直木賞を取った作家は彼だけだったはずだ。
初めて出会った彼の作品は「花埋み」だった。日本で初めて女医となった荻野吟子の伝記である。10代の時に見合いで結婚した相手から淋病を伝染され、それが原因となり離縁されたことをきっかけに、彼女は医師を志した。詳細はwikipediaに詳しいのでここには書かない。
高校生の時。同じクラスに、ちょっと仲のいい女性がいた。てめえとはウマが合うようで、休み時間などにいろいろ話することがあった。とても頭のいい人だった。てめえのいた高校では1、2を争うレベルだった。
何の話からそうなったのかは全く覚えていないが、ある日彼女は「花埋み」をてめえに貸してくれた。とてもいい本だから読んでほしい、そして感想を聞かせてほしいと。
アホに囲まれて育ったてめえは人から本を貸されるような経験はなかったので、自分なりにまじめに、そして、とても興味深く読んだ。その時は文章の素晴らしさとか全く分かっておらず、その内容に感動したことを語った。
てめえの話を聞いていた彼女は、聞き終わると真面目な顔になり「この本を読んで、決めた。私は医師になる」と言った。医師なんて病院に行ってしか会えない存在で、目指している人すら出会ったことのないてめえは非常に驚いたことをよく覚えている。
それは、ぜひ頑張ってね、てめえが病気になったら診てね、などとてめえは適当なことを言った。彼女はにっこりと笑って、ありがとう頑張るわ、ところで君は、いつも飲み物を飲むときには小指を立ててるね。と小さく笑って踵を返した。
てめえも若かった。小指を立てている意識はなかった。小指なんか立ててるか? などと不思議に思い、家に帰って母に聞いた。今日クラスの友達に、飲み物を飲むときに小指立ててるって言われたけど。昔からそうだっけ?
母は笑って言った。それ言うたん女の子やろ。その子、あんたのこと好きなんやで。
適当なことを言うなや、小指を立ててるのかどうか聞いたんや、てめえも相手もそんな気持ちはないで、とてめえは顔を真っ赤にして足掻いた。いやそんなことないで、女はな、好きな男の仕草が気になってしゃあないもんや、どうでもいい男の仕草なんてどうでもいいんや、と母は言った。
てめえは若かった。そんな女心を全く理解できずにてめえの青春は終わった。
ちなみに彼女は医学部を受験して、残念なことに玉砕したそうだ。女は浪人させないという家庭の事情もあり、彼女は別の進路を選んだそうだ。そして、現在どうしているのかは残念ながら全く知らない。
そしてそんな気の全くなかったてめえは、紆余曲折を経てどういう縁かてめえの高校の卒業生としては初めての医師になった。「花埋み」が縁になったのか? そんなことはないと思うけど、渡辺氏の逝去のニュースを聞いて少し感傷的になった。
追加。母の言うとおり、確かに、物好きなことにてめえのことを愛してくれる人は仕草を指摘するのです。小指を立てるとか、てめえが傾いているとか。笑
指を立てるのも傾いているのも全く自分では気が付かないんですね。まあ、男ってそんなもんだよな。しかしそう言われることで愛を感じるくらいには成長したと思うし、今後はその想いに応えられたらいいなと思う。
祖母が入院したという知らせが入った。叔母がずっと在宅で診ていたのだが、ここ数日はまったく食事も摂れず、休日だからととりあえずの応急処置をかかりつけに求めたらそのまま入院になったそうだ。
祖母の本籍地は、現在てめえが住んでいるあたりである。しかしこのあたりにてめえの血族は全くおらず、この本籍の意味するところは全く分からない。呆けた後の親父に聞いてみたことがあるが「知らん」と一言で片づけられた。世の中にはいろんな闇がある。
てめえが知っている祖母のことは、学校を卒業して、当時の京福電車であった叡電の出町柳駅で、駅員として働いていたということ。もちろん当時の京福は京阪電鉄とは連携しておらず、京都の洛北の極めてローカルな電車だった。
台湾から職を求めて日本に出てきていた祖父は、出町柳駅近くのアパートに住んでいた。台湾人や朝鮮人などの外国人はこの地域にしか住めなかったのだが、それはまた別の機会に語ることにしよう。アパートの窓の外はすぐに線路であり、朝は始発電車の駆ける音で目が覚めた。
そのアパートからは出町柳駅もすぐに見える。そこで駅員として働く祖母に、祖父は惚れたらしい。駅員として働いていた祖母にアパートの窓から手を振ったり、その他いろいろ。そして猛烈に口説いたそうだ。当時は戦争も終わってすぐで、台湾人に対する偏見と言うか差別が強かった。祖父と付き合い「この人と一緒になりたい」と思った祖母は、離縁覚悟で結婚を決めた。「台湾人と結婚するなんて、てめえはうちの娘じゃねえ!」と、一族郎党から離縁を言い渡された祖母は、少しだけ身の回りのものを持って祖父の住む出町柳駅そばのアパートに逃げた。
二人は誰にも祝福されずひっそりと入籍した。祖父が30歳、祖母は20歳だった。日本人として生まれた(1945年以前に生まれた台湾人及び朝鮮人は、生まれた時は日本国籍である。そして国籍消失後も特別永住者としての資格を得ることができたがその話はまた別)二人は数年前なら普通の結婚となったのだが、戦争を経た結果二人は国際結婚となった。そして、祖母は祖父の名字を選択しなかった。てめえの名字は、そんなわけで祖母の名字のままである。
出町柳駅近くの風呂も便所も共用のアパートで、二人の新婚生活は始まった。ガスだけは部屋に引き、コンロ一つでの生活が始まった。
祖父はまず、パン屋で働いたそうだ。朝から晩までパンを焼き、寝る時間を惜しんで働いた。寝ないように「ヒロポン」も使った。そして、仕事の合間には大好きなラーメンを食べた。祖母の話では、祖父はお金があれば3杯4杯とお代わりしたそうだ。
そのうち、「おや、もしやてめえがラーメンを作ればみんな幸せになるのでは」と思った祖父は、パン屋を辞めて自作の屋台を引いた。たった一つだけ引いたガスコンロで豚骨を炊いた。ラーメンは初めは全く売れなかったが、次第に評判を呼んだ。
祖母は本当に、自己主張しない人だった。いつも祖父の横で微笑んでいた。夫婦喧嘩の類も全く知らない。
彼女は親兄弟すべてから離縁されたため、てめえは祖母のルーツをそれ以上に知らない。てめえと同じ名字の親戚の付き合いが全くない。「台湾人だから」と離縁するような親戚に全く興味はないし、今後も追及することはないだろう。
そんな祖母は、祖父にひたすら殉じた。日本女性とはこういうものかとてめえは思うくらいであった。祖父がてめえの母を追い出した時も、全く自己主張をしなかった。
古い日本人だった。確かに、昔の祖父は良い男だったんだろうなと思う。当時としては180cm以上あり身長も高く、ルックスも悪くなかった。ユーモアもあり、食事量も凄かった。食糧難の時代に、なんでももりもり美味しく食べる祖父が、祖母は好きだったのだろうと思う。
祖父が死んで、祖母は一気に老けた。祖父だけの人生だった。友人もおらず、親戚付き合いも全くなかった、というより離縁されていた。時代は流れていたにもかかわらず、差別意識は変わらなかった。そして残された息子(てめえの父)と二人の生活で一気に呆けた。
ずっとてめえの親父が一緒に暮らしていたのだが、親父が呆けたので叔母が面倒を診ることになった。
今はもうご飯も食べれないそうだ。咀嚼ができないという意味なのであれば、生物としてはもうおしまいなのでこれ以上の処置は不要だろうと思う。
本人を診てみてから判断したいと思うが、この高齢で快復をもとめるのはありえないだろうな。だったら、苦しまずにあれだけ最後まで愛した祖父の下に行ってもらった方が良いだろうと思う。
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