休日は、天気が良くててめえの体調が良かったら時間を見つけて親父と散歩に出る。しかしこれが意外と厄介事なのだ。
もともと呆ける前から「健康病」の患者だった親父は、とにかく時間のある限り体を動かさないと気が済まない。彼が最も好むのは走ることだが、さすがに走って心臓を止めた経歴があるのでドクターストップがかかっている。
そんなわけで、彼と散歩する。もともとマラソンが好きな人なので結構な距離を歩くのだが、それはまあ仕方がない。
問題は、彼そのものにある。呆けてしまいエロくなった彼は、道端ですれ違う女性にまで手を出そうとする。
それも、とてもさりげないのだ。すれ違う瞬間にさわっと触る。触られた女性は、あまりにさりげないので一瞬振り返った後、首を傾げる。振り返ったところにいる男性は明らかに老齢で、振り返ることもなく真っ直ぐ歩き続けているからだ。
そして彼女は思うだろう。「たまたま散歩中の男性の手が当たっただけ」だと。そして自分を納得させ、その後そういった出来事があったこと自体を忘れるだろう。
はじめはてめえも「たまたま」なんだろうと思っていたが、たび重なるうちにこれはたまたまではないということに気が付いた。
もちろん、本人を問い詰めても意味がなかった。「覚えていない」のだ。自分のしたことを。
これ以降、てめえは親父と散歩に行くということ、と言うよりは、この人を外出されるということ自体に否定的になった。これは、明らかに往来を堂々と歩いてはいけない人だと。
なぜ自分がそう思うか、それも含めててめえは滔々と親父に説明した。「だから、散歩には一緒に行きたくない」と。親父はうなだれて聞いていたが、この人は短期記憶が障害されていたのだ。
30分後には「おい、散歩行こうぜ」と親父の大きな声が響いた。なぜ散歩に行けないのか、と言うことをもう忘れたのだ。てめえは絶望した。この人は命が助かって、果たして良かったのだろうか?
今日も彼と散歩に行った。あれから、いろいろ考えてできるだけ人とすれ違わないルートを開発した。それでも無人の街を歩くわけではないので、こっちも色々と気を使う。例えば、女性が前から歩いてきたら、手を伸ばしても絶対に届かないルートを選ぶとか、彼の気を逸らす話題を振るとか。ずっと気が張ったままなので、散歩の後はぐったりと疲れる。体力的にではなく、精神的に。
そうして彼と延々と歩く。空には雲ひとつなく、今日は散歩日和であった。「えっと、今の仕事は学校の先生だっけ?」などと見当違いのことを言ってくるが、適当にかわす。
「もう桜は咲いたやろか?」 「こないだ見に行ったような気がするが」 と五月とは思えないような会話をするが、彼は楽しそうなのでまあいいだろうと思う。
こうなってしまったのも、彼が突然心停止したからだ。彼が心停止しなかったら、てめえは今でも南の島で激務に苦しんでいただろう。
事実、親父が倒れた翌年の人事もすべて決まっていたし、てめえは南の島を離れる気は全くなかった。親父が倒れることがなかったら、てめえは今京都にいないだろうと思う。
今まで生きていて、生きていると逆らうことのできない「大きな流れ」があると実感する。自分の選択とは無関係な、いわば避けることのできない大きな出来事。
てめえが南の島に行ったのは、明らかに自分の選択だった。しかし京都に帰ることになったのは、この「大きな流れ」があったのだと思う。
もちろん、それを避けることもできただろう。親父が倒れたにもかかわらず、仕事の多忙や職場の事情を言い訳にして、南の島に残ることも不可能ではなかった。
しかし、てめえはこれは「京都に帰れ」ということなのだろうと思った。そして、そういう「天命」というか、大きな流れには逆らわない方が良いと思った。
呆けた親父と散歩していて、京都に帰って来た時のことを思い出した。
人生にはいろんな出来事があって、出会いも別れもあって、その中にはおそらく必然的なものがあるのだろうと思う。てめえが今京都にいることも含めて。そして京都に帰ってくることで、新たな友人もできたしありえないような出会いもあった。
そういった、人生の「流れ」みたいなものがあるのだろうと思うが、てめえはそれに逆らうのではなく自然に受け入れるよう生きていきたいと思う。それがてめえの「性」だとおもうのだ。
渡辺淳一氏が亡くなったそうだ。医師出身の作家として、ある意味尊敬していただけに残念なニュースだった。どうでもよいが、医師出身で直木賞を取った作家は彼だけだったはずだ。
初めて出会った彼の作品は「花埋み」だった。日本で初めて女医となった荻野吟子の伝記である。10代の時に見合いで結婚した相手から淋病を伝染され、それが原因となり離縁されたことをきっかけに、彼女は医師を志した。詳細はwikipediaに詳しいのでここには書かない。
高校生の時。同じクラスに、ちょっと仲のいい女性がいた。てめえとはウマが合うようで、休み時間などにいろいろ話することがあった。とても頭のいい人だった。てめえのいた高校では1、2を争うレベルだった。
何の話からそうなったのかは全く覚えていないが、ある日彼女は「花埋み」をてめえに貸してくれた。とてもいい本だから読んでほしい、そして感想を聞かせてほしいと。
アホに囲まれて育ったてめえは人から本を貸されるような経験はなかったので、自分なりにまじめに、そして、とても興味深く読んだ。その時は文章の素晴らしさとか全く分かっておらず、その内容に感動したことを語った。
てめえの話を聞いていた彼女は、聞き終わると真面目な顔になり「この本を読んで、決めた。私は医師になる」と言った。医師なんて病院に行ってしか会えない存在で、目指している人すら出会ったことのないてめえは非常に驚いたことをよく覚えている。
それは、ぜひ頑張ってね、てめえが病気になったら診てね、などとてめえは適当なことを言った。彼女はにっこりと笑って、ありがとう頑張るわ、ところで君は、いつも飲み物を飲むときには小指を立ててるね。と小さく笑って踵を返した。
てめえも若かった。小指を立てている意識はなかった。小指なんか立ててるか? などと不思議に思い、家に帰って母に聞いた。今日クラスの友達に、飲み物を飲むときに小指立ててるって言われたけど。昔からそうだっけ?
母は笑って言った。それ言うたん女の子やろ。その子、あんたのこと好きなんやで。
適当なことを言うなや、小指を立ててるのかどうか聞いたんや、てめえも相手もそんな気持ちはないで、とてめえは顔を真っ赤にして足掻いた。いやそんなことないで、女はな、好きな男の仕草が気になってしゃあないもんや、どうでもいい男の仕草なんてどうでもいいんや、と母は言った。
てめえは若かった。そんな女心を全く理解できずにてめえの青春は終わった。
ちなみに彼女は医学部を受験して、残念なことに玉砕したそうだ。女は浪人させないという家庭の事情もあり、彼女は別の進路を選んだそうだ。そして、現在どうしているのかは残念ながら全く知らない。
そしてそんな気の全くなかったてめえは、紆余曲折を経てどういう縁かてめえの高校の卒業生としては初めての医師になった。「花埋み」が縁になったのか? そんなことはないと思うけど、渡辺氏の逝去のニュースを聞いて少し感傷的になった。
追加。母の言うとおり、確かに、物好きなことにてめえのことを愛してくれる人は仕草を指摘するのです。小指を立てるとか、てめえが傾いているとか。笑
指を立てるのも傾いているのも全く自分では気が付かないんですね。まあ、男ってそんなもんだよな。しかしそう言われることで愛を感じるくらいには成長したと思うし、今後はその想いに応えられたらいいなと思う。
祖母が入院したという知らせが入った。叔母がずっと在宅で診ていたのだが、ここ数日はまったく食事も摂れず、休日だからととりあえずの応急処置をかかりつけに求めたらそのまま入院になったそうだ。
祖母の本籍地は、現在てめえが住んでいるあたりである。しかしこのあたりにてめえの血族は全くおらず、この本籍の意味するところは全く分からない。呆けた後の親父に聞いてみたことがあるが「知らん」と一言で片づけられた。世の中にはいろんな闇がある。
てめえが知っている祖母のことは、学校を卒業して、当時の京福電車であった叡電の出町柳駅で、駅員として働いていたということ。もちろん当時の京福は京阪電鉄とは連携しておらず、京都の洛北の極めてローカルな電車だった。
台湾から職を求めて日本に出てきていた祖父は、出町柳駅近くのアパートに住んでいた。台湾人や朝鮮人などの外国人はこの地域にしか住めなかったのだが、それはまた別の機会に語ることにしよう。アパートの窓の外はすぐに線路であり、朝は始発電車の駆ける音で目が覚めた。
そのアパートからは出町柳駅もすぐに見える。そこで駅員として働く祖母に、祖父は惚れたらしい。駅員として働いていた祖母にアパートの窓から手を振ったり、その他いろいろ。そして猛烈に口説いたそうだ。当時は戦争も終わってすぐで、台湾人に対する偏見と言うか差別が強かった。祖父と付き合い「この人と一緒になりたい」と思った祖母は、離縁覚悟で結婚を決めた。「台湾人と結婚するなんて、てめえはうちの娘じゃねえ!」と、一族郎党から離縁を言い渡された祖母は、少しだけ身の回りのものを持って祖父の住む出町柳駅そばのアパートに逃げた。
二人は誰にも祝福されずひっそりと入籍した。祖父が30歳、祖母は20歳だった。日本人として生まれた(1945年以前に生まれた台湾人及び朝鮮人は、生まれた時は日本国籍である。そして国籍消失後も特別永住者としての資格を得ることができたがその話はまた別)二人は数年前なら普通の結婚となったのだが、戦争を経た結果二人は国際結婚となった。そして、祖母は祖父の名字を選択しなかった。てめえの名字は、そんなわけで祖母の名字のままである。
出町柳駅近くの風呂も便所も共用のアパートで、二人の新婚生活は始まった。ガスだけは部屋に引き、コンロ一つでの生活が始まった。
祖父はまず、パン屋で働いたそうだ。朝から晩までパンを焼き、寝る時間を惜しんで働いた。寝ないように「ヒロポン」も使った。そして、仕事の合間には大好きなラーメンを食べた。祖母の話では、祖父はお金があれば3杯4杯とお代わりしたそうだ。
そのうち、「おや、もしやてめえがラーメンを作ればみんな幸せになるのでは」と思った祖父は、パン屋を辞めて自作の屋台を引いた。たった一つだけ引いたガスコンロで豚骨を炊いた。ラーメンは初めは全く売れなかったが、次第に評判を呼んだ。
祖母は本当に、自己主張しない人だった。いつも祖父の横で微笑んでいた。夫婦喧嘩の類も全く知らない。
彼女は親兄弟すべてから離縁されたため、てめえは祖母のルーツをそれ以上に知らない。てめえと同じ名字の親戚の付き合いが全くない。「台湾人だから」と離縁するような親戚に全く興味はないし、今後も追及することはないだろう。
そんな祖母は、祖父にひたすら殉じた。日本女性とはこういうものかとてめえは思うくらいであった。祖父がてめえの母を追い出した時も、全く自己主張をしなかった。
古い日本人だった。確かに、昔の祖父は良い男だったんだろうなと思う。当時としては180cm以上あり身長も高く、ルックスも悪くなかった。ユーモアもあり、食事量も凄かった。食糧難の時代に、なんでももりもり美味しく食べる祖父が、祖母は好きだったのだろうと思う。
祖父が死んで、祖母は一気に老けた。祖父だけの人生だった。友人もおらず、親戚付き合いも全くなかった、というより離縁されていた。時代は流れていたにもかかわらず、差別意識は変わらなかった。そして残された息子(てめえの父)と二人の生活で一気に呆けた。
ずっとてめえの親父が一緒に暮らしていたのだが、親父が呆けたので叔母が面倒を診ることになった。
今はもうご飯も食べれないそうだ。咀嚼ができないという意味なのであれば、生物としてはもうおしまいなのでこれ以上の処置は不要だろうと思う。
本人を診てみてから判断したいと思うが、この高齢で快復をもとめるのはありえないだろうな。だったら、苦しまずにあれだけ最後まで愛した祖父の下に行ってもらった方が良いだろうと思う。
2014年05月05日(月) |
iTunes match/クーポンブック |
知らん間に「iTunes match」のサービスが日本でも始まっていたらしい。正直言って、このサービスはすごい。なにがすごいか箇条書きしてみる。
1.てめえがiTunesに入れている曲を、全てクラウド管理してくれる。
iTunes storeで購入した曲だけではなく、てめえがCDなどから取り込んだ曲もすべて管理できる。しかも、てめえの持つデバイスにいつでもダウンロードできる。
要は、てめえのパソコンが突然クラッシュしても、新しく買いなおしたパソコンに何事もなかったかのようにiTunesの曲を再構成できる。クラッシュしなくても、新たに買ったパソコンとかiPodとかiPadとかiPhoneとかにもダウンロードできる。
25000曲までクラウド管理が可能と言うことだが、てめえのiTunesには一万曲もないので全然大丈夫。
2.手持ちの曲がiTunes storeで配信している曲なら、アップロードされずに高音質の音源に置き換えられる。
これはすごい。mp3とかも置き換えられるらしい。権利とか大丈夫なのか? と思うところだが、使用料にはそこらへんも含まれているらしい。
正直、ずっと待っていたサービスなので速攻申し込もうかと思ったが、同じことを考えている人がたくさんいるようで、現在繋がりにくい状態らしい。なので、もう少し待ってサービスを使おうと思う。とにかく凄い世の中になったものだと思う。
いま、「クーポンブック」なるものが売り出されているらしい。一冊1000円くらいで売られており、中には100店くらいの店のクーポンが含まれている。例えば800円のランチがそのクーポンを使うと500円で食べられる、といった具合である。この本を買った人にしてみると300円得したわけで、他の店も同様であれば4店で1200円得するわけで、クーポンを使用するだけで元が取れる。それ以上は使えば使うほど得になる。
一見店側は損しているだけのような気がする。しかしこのシステムは、単に「損して得取れ」だけではない巧妙なものなのだ。
てめえは接客業をいろいろしてきたのでわかるのだが、店側が喉から手が出るほど欲しいのは「常連客」である。常連客が多くなればなるほど商売が計算できるようになる。どうでもよいが、現在のてめえの稼業だけは常連客はいない方が良い。
常連客をどうしてゲットするか。それには、まず店に来てもらわないと話にならない。
そのために昔よく採用された(今もたまに見かけるが)方法は、オープンして数日、たとえば3日だけとか、赤字覚悟の安売りをすることである。そのためには店頭で告知するだけではなく、それなりに広告を打つ必要がある(今はネットもあるが、そもそもの知名度がないと誰もホームページは見ない)。
派手に広告を打っても、その効果は安売りする数日だけ。しかも基本的にはその地域だけの広告になるので、嗜好の合う、つまり今後常連になる可能性のある人というよりは、もの好きな近所の人で、しかも安売りに敏感な人だけがやって来る可能性が高い。
しかし、クーポンブックはこの辺の事情をすべてクリアする。ランチを800円から500円にすると、客としてはすげえ得した気分になるが、店側としては300円の負担。例え1000人がクーポンを使用して食事をしたとしても30万円。これは、広告費と考えたらありえない値段ではない。
しかも、広告費として投入したと考えればすげえ効率が良い。なんせ30万円の広告費で1000人が来店したわけだ。しかも、この人たちは、クーポンブックを買うと言うことで食べ歩きの好きな人たちであるというセレクションがかかっているし、しかも数ある店の中で自分の店に興味を持ってくれた人たち。
これは常連になる可能性がある客ということになる。非常に効率が良い。
てめえはそこに思い当って、この「クーポンブック」というのはなかなか頭の良いやり方だなと感心した。いやあ世の中にはまだまだ頭のいい人がいるなぁ。
2014年05月02日(金) |
卑屈である、ということについて。 |
卑屈であるということについて。
てめえは卑屈さが大嫌いである。好きな人もあまりいないとは思うが、ここまで徹底して嫌いなのは、てめえがかつてそうだったからだと思う。そう、てめえはかつては極めて卑屈な人間だった。だから、ほとんど同族嫌悪に似たところはあると思う。
てめえの人生は、両親に翻弄され続けた人生だったと思う。
小学校の時、何を思ったか突然父親が仕事を辞めて選挙に立候補した。おそらく親父なりに社会を憂いていたのだろうと思う。てめえはまったくそのあたりの事情は知らないが、母は最後まで選挙に出ることには反対していた。そりゃあそうだろうと思う。男のロマンと女の事情が戦った結果、母の父への愛が勝って親父は選挙に出馬し、そしてみごとに上位で当選した。
しかし子供にとってはそこから地獄のような日々が待っていた。
選挙は終わった。しかし、若くて上位当選した親父はたちまち地域で話題となった。
「おい○○の息子やろお前」と、知らないクソガキに突然頭を叩かれる。てめえが振り返ると「おい、やり返す気か? おれを殴ったらてめえの父ちゃんは仕事なくなるぞ」と言われ、無抵抗のまま殴られた。クソ田舎はまあこんなもんである。
議論するのなら。脳みそでの勝負ならば、負ける自信はなかった。もちろん殴り合いでも負ける気はしなかったが、その手段は封印され、てめえは結果的にただ殴られるだけになった。肉体的にも、精神的にも。
親父が議会で教育委員会の役職に就いたことで、教師の態度も腫れものに触れるようなものになった。
そんなクソみたいな、親父に起因するエピソードは、両親の突然の離婚にて終結した。それまで議員として成功していた親父は「嫁に逃げられた議員」というレッテルを貼られて公人としての進路を絶たれ、次の選挙の出馬を断念した。
そして、てめえ的には別の地獄の日々が始まった。詳細は省く(過去のどっかにあります)が、いろいろあって父側に残らざるを得なかったてめえは、最終的に親父を捨てた。
母との生活は、経済的には最低だったが精神的には最高だった。母は貧乏でも笑いを忘れず、家族での楽しみを優先した。土日になれば家族で近くにレクリエーションに出た。弁当を作り、御所とかその辺の川べりとか、とにかく金のかからないところに家族みんなで出かけた。笑いの絶えない貧乏レクリエーションはとても楽しかった。心を満たすのはお金ではないということを心の底から実感した。
しかしそんな生活をしていても、ないものはなかったのだ。てめえは知らなかったが、母はいろんなところからお金を借りまくっていた。しかも、それだけではなかった。詳細はさすがに書かない。
ある時、妹たちが寝静まってからてめえは母に相談された、実は贅沢を何もしていないが家計は火の車だったということ、ヤバい筋からも生きるためにお金を借りたこと。実は一家心中も考えていたということ。でもなんとか頑張って働いてお金を作ったので返しに行きたいが、正直一人で行くのは怖いということ。ので、てめえもついてきてほしいと。
そうか。てめえは一人で納得した。そしててめえは我が家に横たわる闇を悟った。さすがにその金をどうやって作ったのかは聞けなかった。
それはその数日前の夕方だった。母は、何気なく「ちょっと散歩に行こうか」と、てめえを誘いだしたのだ。その言葉とは裏腹に、母の表情は曇っていた。散歩に行く人のものでは少なくともなかった。
自転車に乗って川べりの道を二人で走った。先行する母は振り向きもせず、ただペダルを漕いでいた。
ひたすらペダルを漕ぐ母の背中には、いつしか殺気が漂っていた。ああ、てめえはおそらく、このまま人気のないところで道連れになるのだろうなと覚悟した。しかし恐怖はなかった。親に殺されれば、それはそれで一つの理屈だろう。てめえを産んだ人に殺されるのはある意味もっとも幸せなことではないだろうかと思った。
母はきっと途中で考えが変わったのだろうと思う。何も言わずに川に架かる橋を渡り、反対方向を走って家に帰った。その間いっさいてめえの方を見なかった。
それから数日後、母と二人で祇園近くの一軒家に行った。「ここから先は私一人で行く。30分たっても出て来なかったら警察に連絡してほしい」と母はてめえに告げて、その家に入って行った。
何かあればすぐに飛び込んでいくつもりだった。てめえはこう見えても柔道の心得もある。そう、何かあれば。数日前に、妄想かもしれないが母に殺されかけたてめえは、人を殺す覚悟ができていた。そして母が家に入ったその後の数分間をよく耐えた。ただ、数分後には殺人マシーンと化した自分が想像できた。
幸いなことに、母は数分で出てきた。よくわからんが、借金の返済はうまくいったようだ。その家から出てきて母はてめえを呼び、二人でその家の主に深く頭を下げた。
なんで、うちだけこんなことになるのだろ。世の中は腐っている。苦労してい ない人もたくさんいるし、こんなてめえのような世界を知らずに真っ直ぐに大人になっていく人がほとんどではないか。
てめえはそうして卑屈な人になっていった。努力は報われず、貧乏人の子は救われない。
家計を助けるために、ずっとアルバイト三昧だった。公立高校では禁止されていたアルバイトだったが、背に腹は代えられない。学校にばれたら学校を辞めるしかなかった。
高校一年のときの夏休みは、40日間休みなく倉庫のアルバイトをした。「おい、休み中は暇で死にそうやし、遊ぼうや」という同級生には殺意が湧いた。
40日間休みなく働き、20万円ほどの賃金を得た。当時の高校生にしてはとんでもない稼ぎだった。自分へのご褒美に安いギターを一台買って、残りは家計に入れた。
高校一年生の冬休みは、その後もお世話になる郵便局アルバイトをした。暖かい部屋の中で仕分け作業をする女性とは異なり、男性は寒い中かじかむ手をてめえの息で暖めながら、自転車を漕いでひたすら郵便物を配達をした。もちろん、得たお金は家計に消えた。
なんで、てめえだけこんなことになっているのだろ。同級生の連中は休みを満喫しているというのに。
そんなてめえはどんどん卑屈になっていった。残念なことに負の力を正に変えるほどの器は10代の人間にはなかったのだ。世の中はクソの塊で、苦労していないやつはクソして死ね。
そんなわけで自然とてめえはロックに走った。今思えば適切な鬱憤晴らし。卑屈さ満開のてめえ作の歌を、恥を忍んでさらしてみる。「ひと(親とか、その他)の金」がなかったてめえの妄想が爆発している。
「クソして死ね」words by てめえ music by 今祇園で歌ってる人。笑
ひとの金で着飾って 気取った大人が歩いてる ひとの金でメシ食って 女口説いてクソしてる
バイトもせずに コンパでナンパ 勉強せずに 理想は高く
お前らみんな クソして死ね お前らみんな クソして死ね
ひとの金で酒飲んで ゲロってアジって騒いでる ひとの金で部屋借りて 男連れ込みしゃぶってる ひとの金で免許取って 車の中で口説いてる ひとの金でエロ本買って ティッシュ片手に自家発電
その電気で パンでも焼こう コーヒー淹れて もう一発抜こう
お前らみんな 感電して死ね お前らみんな 感電して死ね
ひとの金でお茶飲んで ウンチク垂れていばってる ひとの金で学校行って 授業サボってクソしてる ひとの金で旅行して 一夜限りのmake love ひとの金でビデオ見て ティッシュ片手に自家発電
その電気で お風呂を沸かそう ○○○(自主規制)洗って もう一発抜こう
お前らみんな 感電して死ね お前らみんな 感電して死ね
お前らみんな クソして死ね お前らみんな クソして死ね
高校3年生の冬休み。てめえは毎年恒例となった郵便局バイトに応募し、漫画のようだが正月の一番くそ忙しい時に、道端に落ちていたバナナで転んだ。
高校2年、及び3年も同じ感じなので省略。学校に禁止されているアルバイトをせざるを得なかった高校生活。大学進学って何? それ美味しいの?
そんなてめえの卑屈さを癒してくれたのは、主に二つ。
一つ目。負のエネルギーを始めて正の方向に燃やし、てめえは奇跡的に大学受験に合格した。世の中の最底辺から、初めて表舞台に出ることができた。大学生活で出会った友人たちは本物のエリートで、卑屈さの欠片もない眩しい人たちだった。てめえは卑屈さを全く持っていない人たちに初めて会った。そして、卑屈さに囲まれたてめえの人生を初めて恥じた。
二つ目は、娘が生まれたこと。無垢な娘を見て、てめえが卑屈であったということの恥ずかしさと、娘にはこうなってほしくない、と言うことを強く感じた。
そしててめえは変わった。と思いたい。「今も卑屈さ全開やんけ!」と言われるかもしれないが、自分ではそうでないように気をつけているつもり。そして逆に、大人になっても卑屈であり続ける人には可哀想だと思わざるを得ないし、同族嫌悪的なものを感じる。ていうか、30超えたらさすがに克服しようや。出来ない人はそれまでだし、てめえもそうであった可能性は否定できない。
てめえの人生は、20歳くらいまではいくつも小説が書けるくらい悲惨だったが、その後は比較的ありがたい人生を送っている。そのせいか、たいがいのことは苦労とは思えず、自分としては平坦な人生を歩んだために20歳から全く齢を取っていない顔になった。「男の顔は履歴書である」と言うのとは裏腹に、てめえは残念なことに深みのない顔をしているらしい。逆に、20歳のころはすげえ老けてたぜ? ワイルドだろ?
|