朝。自然と7時前には目が覚めた。今回泊まった宿はスイートルームタイプなので、ベッドルームとは別にリビングがある。そんなわけでシャワーを浴びて8時くらいまでリビングのソファーで本を読みながらごろごろし、それに飽きたら全く起きてくる気配のない弟を叩き起して雙連の朝市に向かった。
ここはほぼ地元民御用達といった風情で、肉や野菜や魚などを売る店が軒を並べる。食べ物を提供しているところはなかったが、これはこれで面白い。一通り見て回った後、近くの「天祥蚵仔麺線」という店で麺を食べた。くたくたに煮た麺に、具は牡蛎と肉団子とモツ。汁はエビのスープが利いていて、これが香菜の風味とよく合いとても旨い。地元の方もたくさんいて、もちろん誰も「麺固め」などと無粋なことをいう輩はいない。
大が50元、小が40元で、機会があればもっといろいろと食べたいと思っていたので弟と二人とも「小」にしたのだが、これでも結構ボリュームがあった。豆板醤のようなものと胡椒が置いてあり、後半はちょっと味変してみようと思い豆板醤を投入したが、辛さだけではなくさらにうま味も加わりこれまた旨かった。
さらにぶらぶら歩く。弟は「潤餅」の屋台を見つけて「これも旨そう! ねえ買っても良い?」と尋ねた。これは要は台湾風のクレープというか、小麦粉を薄く伸ばして皮を焼き、そこにいろいろな具を乗せて巻いて食べるもののようだ。
おう注文してみ、と言うと、にっこり笑って得意(?)の英語で注文を始めた。のだが、これが全く通じない。弟の英語が下手糞なのではなく、英語自体がダメのようで、English, no. と言ったきり、台湾語で「誰か! 英語わかる人!」といった勢いで人を呼びに行こうとしている。なんだかめんどくさいことになりそうだったので、なんとか中国語を思い出し「要一个」と注文した。
無事買うことができ、焼きたてを頬張る弟。一口もらったが野菜がたっぷりでナッツも入っており、味付けは意外に甘めであった。これもまた旨かった。
食欲旺盛な弟はさらにもち米の炊き込みご飯を購入。さすがに途中で腹いっぱいになったようで残りはありがたく頂いたが、台湾風ちまきの中身みたいなものでこれもまた旨かった。何食っても旨いぞ台湾。
朝市を堪能した後は、弟が行きたいと言っていた書店へ。本だけではなく雑貨もあったので結構楽しんだ。この店で面白かったのは、雑貨も「メイド・イン・台湾」のものが多かったこと。どこにでもあるような高級ブランドあるいは外国製の雑貨を置いているような店とは一線を画している。弟も欲しかった本が買えたようで大満足している。
その後、きわめてベタだが歩いて101へ。この時点でちょうど12時くらいになっており、飲食店街は混雑を極めていた。
展望台で時間をつぶそうかと思ったが、こちらも凄い混雑で、ありえないくらいの行列。てめえも弟もすでに経験済みなので展望台に行くのは断念した。ランチを予定していた「鼎泰豐」も凄い行列。まあ時間が時間だし仕方がないわな。
「鼎泰豐」はそもそも本店に行くつもりだったのだが、鼎泰豐経験者からは「本店はやめておけ、101店が良い」とのアドバイスを受けたのでこちらに変更した。
なんでも本店の方は行列のオペレーションがあまりよくないこと、101店の方が箱も大きいこと、そして実際に両方で食べてみて、あまり味に変化を感じなかったからとの理由だった。「行くのなら本店」をモットーにしているてめえとしてはそれでも本店に行こうかと思ったが、鼎泰豐経験者が口をそろえて同じことを言うので今回は言うことを聞いてみることにした。
まあ朝から腹いっぱいいろんなものも食べたし、全く腹も減っていなかったのでもう少しぶらぶらすることにした。
というわけで、今回てめえがぜひ行きたかったほぼ唯一の場所である「四四南村」に行くことにした。101から徒歩で5分くらいの場所で、元々は国民党軍の軍人が住んでいた村だったところを保存してあるのだ。その一角は雑貨屋+カフェになっており、べーグルが旨いらしい。
今回もGoogle mapで移動する。これほんまに便利で、迷うことなく到着できた。
さてこの四四南村はなかなか風情のある一角が残されており、大都会の真ん中にこのような戦後そのままの古い村が突然出現する様はまるでタイムスリップしたような気分にさえなる。
この一角にある雑貨屋+カフェの「好、丘」に入る。手前半分が雑貨スペースになっており、ここも「メイド・イン・台湾」の雑貨しか置いていない。この店は、こだわってあえてそうしているようだ。
台湾の調味料など大変面白そうなものがあったので、いろいろと買いこんだ。結論から言うと、今回の旅行で買い物したのはほぼここだけになってしまった。
カフェはまた今度の機会ということにして、101に戻る。鼎泰豐に向かうとさすがにさっきよりも入店待ちの人数は減っているが、それでも凄い人。店先には「45分待ち」と表示されている。
さっき通りかかったときにシステムを確認しておけばよかったが、どうやら整理券を発行しているようだ。順番が来ると電光掲示板に番号が示される。げげっ、これなら四四南村に行く前に整理券だけとっておけばよかった。
うーむ、これならほかの店にしようか。てめえはそう言って、第二候補に考えていた「欣葉」に向かった。101の85階に位置するこのレストランは台湾料理の名店だそうだ。
しかし、店を選ぶ客観的な評価というのはとても難しいと思う。そういう意味では「ミシュランガイド」は一つの基準を示してくれているので、ある意味便利ではあるなと思う。
というわけで85階に向かおうとしたが、何と専用のエレベーターがあり、入口近くには受付があって予約のある人しか乗れないらしい。えー予約なんてしてねえよ、と思いつつ、予約がなければ入店できないのか? と尋ねた。いえ、少々お待ちいただければ…との回答だったので、同じ待つのなら初志を貫徹しようと踵を返した。
戻ると待ち時間が40分に減っていた。さっそく整理券をもらう。整理券と同時に「注文票」のようなものを渡された。予めここに注文する品を書き込むらしい。これはこの店独特の方法ではなく、台湾ではほかの店も同じシステムをとっているところが多かった。
さっそく弟と二人でメニューとにらめっこ。看板メニューの「小籠包」はもちろん注文。あと「トリュフ小籠包」にも興味があり注文。それに加えて「小菜(台湾おつまみ)」「鶏肉の紹興酒漬け」「紅油炒手(ピリ辛ワンタン)」「炒飯」を注文。もちろん台湾ビールも。昼から飲めるのは旅行の醍醐味ですね。
そうこうしている間にあっという間に順番が来た。どうやら整理券だけゲットしてほかの店に流れた人もいたみたいで、結構すぐに席に案内していただいた。
「小菜」
春雨ともやしと昆布などを和えたもの。つまみとしては良かった。
「鶏肉の紹興酒漬け」
てめえチョイスに見えるだろうが実は弟チョイス。もちろん酒の肴としてはばっちり。
「小籠包」
さて、今回の本命メニュー。さっそくそのままで頂いたが、正直なところ「あれ? こんなもん?」。それなりにうまかったが、驚きの旨さではなかった。これは魏飯夷堂とあまり変わりない印象。期待が大きすぎた?
「トリュフ小籠包」
これも同じ。5個入りを始め注文したのだが、「二人なので2個でも可能ですよ」といわれ、その通りにした。それでよかったと思う。
「紅油炒手」
結論から言うとこれが一番旨かった。ワンタンの皮もぷりっとしており何よりタレが秀逸。弟は「このタレだけでご飯が食べたい!」と、こっそり後で出てきた炒飯にかけて食べていた。またこれが旨かった。弟は、この皿を最後まで下げられないように守ってましたよ。
「炒飯」
これも旨かった。上記のタレとまた良く合った。
ビールも2本頂き、大満足。サービスも素晴らしかった。今度はぜひ本店を攻めようかな。
食事を終えて、弟の希望で「九份」へ向かった。行きはバスで行ったが、またこれがすごい人だったのと、九份に向かう客のほとんどが日本人だったのにうんざり。
着いてからまたすごい人だかり。しかもほとんど日本人で、人ごみの大嫌いなてめえは人に酔いました。正直もうごちそうさまです。街は悪くなかったのだけどね。今度行くときは宿泊して、人気のない夜と朝を楽しむのが良いだろうと思った。
帰りの台北直通バスはこれまたすげえ行列だったので、近くの瑞芳駅までバスに乗り、そこから鉄道に乗って台北に帰ることにした。
これがまたのんびりとした鉄道で、各駅停車の上に一つ一つの駅での停車時間が長い。正直とんでもない時間がかかってしまった。
台北に戻ったらもうぐったり。復路だけで2時間くらいかかったのでは。そんなわけで目当てのレストランももう閉まりそうな時間になっていたので、とにかく急いだ。
目指したのは「長白小館」。酸菜白肉火鍋で有名な店で、酸味の効いた白菜の鍋。デフォルトで豚肉が1人前付いており、さらに豚・牛・羊の3種から2種類の肉をチョイスできる。もちろん豚二つみたいな注文もできるようだ。
正直、外国で頂く牛肉は外れが多いので、ためらわずに豚と羊を選んだ。
まずは鍋に火の通っていない豚バラ肉が乗った状態で、鍋が運ばれてきた。火が通ると食べごろで、自分で作ったタレにつけていただく。
タレは基本は芝麻醤に豆腐乳、韮泥(おろしにんにく)、韮菜花醤(ペーストにした韮)だが、てめえはここにさらに自家製と思われるラー油とおろしにんにく、そして欠かせない香菜を山盛りっ!
さてこれが結構旨かった。肉と白菜などほかの具を順に頂いたが、結構な量で。しかも高野豆腐のようなものや椎茸やカニなど山盛り。カニは正直いらんかったかな。
肉と白菜だけでも結構な量があったので、男二人で腹いっぱい頂きました。もちろんビールと共に。笑 肉は豚も羊も旨かった。
弟と宿に戻る。帰りに飲み物を買おうと宿近くのセブンイレブンに寄った。「歓迎光臨!」と店員さんの声が響く。なんかこの辺も日本的だなあと思う。
白酒と台湾ビール、そして焼いた腸詰と、茶葉蛋(茶葉ゆで卵:お茶と八角などの香辛料で茹でた茹で卵)をつまみとして思わず購入。
レジで支払いを済ませ、店を出ると、何と店員さんが追いかけてくる。なんだ? お金は払ったけど、と思ったのは全くの杞憂で、なんとてめえはレジでぴったりお金を払ったつもりが、1元と5元を間違えて払っていたために4元のお釣りが生じていた、と店員さん。これにはこちらの方が恐縮してしまった。正直、4元くらいいいのにと思ったし、4元のお釣りのために外まで客を追いかける国民性は日本と台湾くらいなものじゃないのかと思った夜だった。
ちなみに茶葉蛋はとても旨かった。弟も「旨い! 旨い!」と食べていた。腸詰はやっぱりコンビニクオリティーでいまいちだったぜ。
2014年03月20日(木) |
初日。日本精神(リップンチェンシン)に出会う。 |
台湾の桃園国際空港へと向かうピーチ航空のピンク色の飛行機は、ときおり機体を揺らせながら厚い雲の中へとゆっくり沈んで行った。ベルト着用のサインはとっくに点灯しており、客室乗務員含めてすでにみな着席している。
細かい揺れが続いたかと思うと、ときおりジェットコースターに乗っているときのように大きく揺れる。厚い雲の中を通過しているので、ある程度は仕方がないと頭では理解しているが、飛行機経験値の少ない弟は隣で一人青ざめていた。
「いま、むっちゃ降下したで。大丈夫なん?」 「大丈夫、雲の中やったらこれくらい揺れるわ」
しかしまあビビるのも仕方ないよな、と思うくらいの激しい揺れもあった。
しばらく雲の中の飛行が続くと少し退屈してきたので、持ち込んだ本を読むことにした。
今回の旅行では、カラー写真がたくさん掲載されている台湾の食に関する本のみ紙媒体として持ち込み、他の旅行用ガイドブックなどは全てkindleで調達した。ので、「書籍」として持ち込んだのはこの二つのみである。そして着陸態勢に入ると、すべての電子機器の利用は禁止されるのでkindleは読むことができない。
揺れる機体の中で本を読んでいると、本を読む私を見ている人の方が気持ち悪くなるらしい。私は船の中でも読書を楽しめる「鉄の三半規管」を持っており、したがって乗り物酔いをしたことがない。
しばらく読書をしていると揺れも小さくなってきた。そろそろ雲の中から出る頃だろうか、などと考えながら、心地よい揺れとともに私は短い時間だけ眠りに落ちた。
不意に訪れた着陸の衝撃で眼が覚めた。何とか無事着いたことを、隣の席の弟が喜んでいる。まあよく揺れたからね、と私は答えた。
飛行機を出る瞬間は、いつもその国独特の匂いがして、ようやく外国に来たのだと言う期待が高まる。
桃園国際空港の中では、ほんのりと漢方と中華スパイスとお香と独特の湿気を含んだ空気が私を包んだ。ああ台湾に来たのだなあと思う一瞬。
空港内を歩く。ぶらぶらと歩いていると免税店のお姉さんと目が合った。にっこり笑いかけられたのだが、この人の脳内は中国語で思考しているのだよな、などと妙なことを考えた。
そういえば、関西国際空港から飛行機に乗り込み、台湾に到着するまで、周りで聞こえる会話はほとんど日本語だった。なのでてっきり乗客のほとんどは日本人なのだろうと勝手に考えていたが、入国審査では台湾人の方が多かったのには驚いた。日本人と中国人が同数いれば中国語ばかりが聴こえてくるのだが、日本人と台湾人がほぼ同数いれば日本語の方が聴こえてくるのだ。つまり、日本人の方が声が大きく、台湾人の方がおとなしいのだ。この事実は私をひどく驚かせた。
入国審査は一瞬で終わった。日本人以外の外国籍の方は質問攻めにあっているのと比べ、日本人の審査のなんと早いことか。ほぼ最低限しかチェックしていないのは、日本人という集団に対する信頼の表れだろうと思う。
空港を出て、台北市内に向かうリムジンバスを探す。これもまた一瞬で見つかった。非常に分かりやすい動線になっている。
チケット売り場に並ぶ。自分の番になり、とっさに出たのは英語だった。"To Taipei Station, two ticket, please"
チケット売り場のお姉さんは、クソ面白くなさそうな顔をして
「台北駅行き、二枚ですね。二枚で250元ですありがとございましたー」
と流暢な日本語で返した。
バスは少し古かった。時間になり動き出すと、車内の電気は落とされた。ようやく愛用のiPhoneの、wifiをオンにする。桃園では電話は拾えないようだ。
仕方がないので車窓の風景を眺めた。もう真っ暗になった台湾の街並みはどこか懐かしく、「異国に来た」というよりは何ともほっとする感じがするのは父祖の地だからだろうか。あるいは今回で4回目の訪問だからだろうか。おそらくどちらもあるのだろうな、と私はぼんやりと考えた。
バスは台北市内に入ると高速道路を降りた。二つ目のバス停で下車する。さて、簡単な地図はあるのだが、まずはどっちが右か左かもわからない。
さっそくiPhoneを使ってみる。まず、台北市内に入っており、動くバスの中では電波がほとんど拾えなかったが、道端でじっとしているとWifiを拾うことができた。
さっそくGoogle mapを起動すると、たちまち自分のいる位置がわかる。なんか、とんでもない時代になったもんだと思う。あとは宿の位置を確定して、mapの通りに歩いた。意外と宿は近かった。
フロントには同年代くらいのお姉さんが一人で退屈そうに西瓜の種を噛み破っていた。とりあえず英語で、と思い英語で会話を試みた
「We have a reservation...」 「あ、どーぞー。どぞー。はいここ座って、どーぞー、で、まずはパスポート見せてください」
とまた日本語で返ってきた。以前に来た時は、それでも10年前になるが、老人は日本語を話す人がまだたくさんいたが若い人はさっぱりだったのに、なんだかそういう点でも驚きを隠せない。
宿に荷物を置いて、弟のリクエストで夜市に行くことにした。
宿を出て、ぶらぶらと夜の街中を歩く。空港からバスに乗って移動している時よりも、こうして自分の足で歩いているときの方が異国に来たという実感を強く感じる。
途中でセブンイレブンに入る。以前に訪れた時にはお酒を置いている店が皆無だったので、お酒が欲しい場合は自分で購入するしかなかったからだ。コンビニではそんなに多くの種類のお酒を置いているわけもなく、仕方なくというわけではないがとりあえず台湾ビールを1本だけ購入した。
10年ぶりに訪れた士林夜市はがらりとその様相を変えていた。10年前はそれでもまだ屋台が並んでいたのだが、今は市場と一体化して地下の食堂街に成り果てていた。
情緒は全くなくなったが、飲兵衛にはありがたいことに食堂ごとにビールを置いているところが多かった。これは以前にはなかったので驚いた。予めビールを購入していたというのに、嬉しい悲鳴といっていいのかどうか。
さっそく一つの店に腰を落ち着ける。もちろんビール含めていろいろ注文したのだが、意外だったのが、弟が臭豆腐を「旨い! 旨い!」ともりもり食べたこと。そうかそれは良かったね、と一皿のほとんどを一人で平らげる弟を見ながら、台北初日の夜は更けていった。
以下備忘録
往路
出発は関空第2ターミナル。「第2ターミナル」ってなんじゃ? と思ったが、要はLCC専用ターミナルとして建てたようで、今までの関空そのものが「第1ターミナル」になっていた。
そんな第2ターミナルは今のところピーチ航空のみが独占的に使用している。第2ターミナルへの連絡バスの位置がわからなかったので案内所で尋ねたら「ピーチですか?」「ピーチですよね?」としつこく確認された。なんでこんなにしつこく聞くのだろうと思っていたら、第2ターミナル自体がピーチオンリーだった。笑
第2ターミナル自体はプレハブみたいな作りでチープだったが、だからと言ってびゅーびゅー風が入ってくるわけでもなく。カフェもレストランもありそれなりに快適だった。
出国した後もロビーは比較的ゆったりしていた。免税店もあるのだが興味なし。しかし普通の売店(免税? 笑)があり、そこでビールとつまみで出発時間までゆっくりできた。次回第2ターミナルと使うときは、早めに出国してロビーでまったりしたい。席によっては電源もあり、スマホを充電しながら時間をつぶせそう。もちろん無料wifiも飛んでいるので、パソコン持っていってもよいだろう。
通信について。
あまり深く考えていなかったので、まともに調べたのが出発前日。正直これほどのことになっているとは夢にも思わなかった。というのも海外旅行自体が数年ぶりで、今までは海外で携帯を使用することなんて全く考えていなかったのだ。以下てめえの愛するiPhoneについて書き遺しておく。
1.そのまま使う。
なんとこれが可能。何も考えずに渡航先で電波をつなぐことも可能だが、下手をするとパケット代がすべて請求されて数十万円も請求された例もあるらしい。というわけで調べたら、海外でのパケット使い放題もあったのだが、一日約3000円。3泊4日で12000円。うーむ、もうこれでもいいかとも思ったのだが、殆ど電話を使用しない(自分からかけることはまずなく、かかってくるのは悲しいことにほとんど仕事関係)ことを考えるとアホくさくなったので却下。
2.Wifiレンタルを使う
結論から言うとこれが一番良かったと思う。ただし出発前日では申し込みが締め切られていた。電話で問い合わせしたところ、当日に関空の窓口まで行って、在庫を確認しないとわからんと。そんなわけで実際に窓口に行ってみたがやはり在庫はなかった。涙。今後は早めに申し込んでおこうと思った。
3.台湾で無料Wifiを使い倒す
ということで、出発前に台北市の無料Wifiを登録。弟の分も登録したが、結論から言うとこれがとても役にたった。登録もすげえ簡単。
そんなわけで、出発前にiPhoneを「機内モード」にして、台湾到着後にWifiのみOnにした。桃園空港は台北ではないので電波は飛んでいなかったが、台北市に入るとぎゅんぎゅん通じた。
追記
上記のぎゅんぎゅんはちょっと言い過ぎで、じっとしていればWifiの電波は拾うのだが、動くとすぐに切れる。だから日本での動きながらスマホを期待するとそれほどでもないが、しかしほぼ市内全域でWifiが拾えるのには驚いた。ちょっと困ったことがあったら立ち止まって調べ物が可能。ただし結構差はあり、駅やバス停の周辺ではかなり使い物になったがそうでなければいまいちだった。
復路
往路で使用した空港バスが、復路もそのまま使えると思っていたのだが、これが間違いだった。
往路では空港から台北市内への高速バスがあり、空港から高速道路を走って、市内に入ると高速から降りてバス停ごとに乗客を降ろしていく。復路はこの逆をしているのかと思っていたのだが、なんということか復路は台北駅からの直行しかないらしい。このことを知ったのが帰国当日で、ホテルでチェックアウトするときに軽い気持ちで「空港バスの時間は何時やろ?」と尋ねたことがきっかけだった。
往路で降りたバス停は、ホテルから歩いてすぐなので、そこから空港行きのバスに乗ろうと思っていたのだ。
ところが帰ってきた答えは「空港行きのバスなんてない。Go straight to Taipei Station」だった。いやバス停あるやん、行きしに使ったで、とてめえは関西弁をなんとか英語に訳して言った。それは往路だけや、復路はバス停では拾わへんねん、とホテルのフロントのお姉さんは言った。
そんなわけで台北駅に向かった。ちょっと余裕をぶっこいていたのだが、台北駅について驚いた。なんと空港行きのバスには見たこともないくらいの長蛇の列。これは下手すると間に合わないのでは。
詳細はまた今度ということにするが、ちょっと今後は別の方法を考えたい。だってすげえ列にすげえ時間並んでしまい無駄な労力を使ってしまったから。そういえば台北駅から直通のMRTができるとか→調べたら2015年開通予定だって。やっほー。
消費税が上がる。それ自体は正直しょうがないと思っている。そして予想された駆け込み需要。
「なんか、買いました?」
とてめえは後輩に唐突に聞かれた。初めは何の事だかよくわからんかったが、要は増税前の買い物のことらしい。
いや、まったく気にしてなかったけど、とてめえは答えたが、本は買わないのですかと彼は続けて尋ねた。そうか、本は買っておいた方がいいかもな、とおもいつつ、欲しい本はあらかた買ってしまったので、もう買ってしまったとてめえは答えた。
「そうですか、私はこの機会に高価な医学書を買い占めましたよ」
と、彼は口元だけで笑った。
本はともかく、家具などについては、むしろ増税後の需要冷え込みに対するバーゲンセールがあると思われるので今は買う必要がないと思う。
なんかいろいろ考えた。言語化すると陳腐になるのですね。でも自分の言葉で精いっぱい紡いでみたいと思う。
東にある大学(はっきり言うと東大ですが)に研修に行ったことがある。まあとても楽しい経験だったし、出会った方々は素晴らしい人ばかりだったのだが、ここでは東西の違いをいやというほど感じることになってしまった。
このときの研修だけではない。子供と一緒に旅行した時も同じ感想を得たので、これはある程度普遍的なのかもしれないと思った。そして、なぜ東大が優れた研究結果を残さないのかもわかった気がする。今回の早稲田がクソだった件も含め。
簡単に言うと、関東は「ダメ出し文化」で、関西は「面白がる文化」ということだ。とにかく関東にいくと、あれがダメだこれがダメだと怒られる。
子供と一緒に旅行した時の話。ペンダントを作ることのできるコーナーがあったので、「あれがしたい」という娘に従ってペンダント作りに参加した。
自分で材料を選んでデザインを考えて、と娘は楽しそうにしていたのだが、付いていたインストラクターが「この色はダメ! このデザインもダメ!」みたいにひたすら小学生にダメ出ししたのだ。子供の旅の思い出にそこまで言うか? というくらい。娘は素直に一緒に色を選びなおしたりして結局満足のいくものが出来たみたいなのだが、ちょっとそれでいいのかという疑問が残った。というか、関西ではありえない(子供の作るものなんてどうでもよい、適当にほめようというのが関西的だと思います。そんで、それでいいとてめえは思う)ので非常に驚いた。
最初の違和感はそこだったような気がする。その後も同様の違和感があり、てめえは上記のように確信した。
関東では、ひたすらダメ出しする。細かいところまで。完璧を目指しているのかもしれないが、その結果は? しつこいが東大は科学の発展に何を残しているの?
ダメ出しを恐れ、学生はレポート段階から自分の言葉を否定されることを恐れ、ひたすら優れたレポートのコピーを試みるようになる。早稲田よ、それでいいのか。
関西ではひたすら面白がる。それ、面白いやん。ちょっと適当でもいいので、まずはやってみたら? 的な。ストレスを与えたら万能化する? 何それ面白いやん!
面白い面白いと言われた関東出身の研究者は、ダメ出しを恐れてコピーに走った。というか、彼女は本当にコピーがダメだとは思わなかったのだろう。そういう文化で育ってしまったから。かの論文のほとんどは共著者の方が書いたといわれているが、本文そのものには盗用は全くない。盗用・剽窃が言われているのは実験データおよび画像である。
関西出身のエリートである共著者は、まさかデータや画像を捏造するなど夢にも思わなかったのだろう。そういう人も周りにはいなかった。想像すら付かなかったのだろう。彼が書いたとされる本文はそれなりに誇り高い。ただし、もとになる画像などは盗用だった。
今回の論文問題については、早稲田がクソである。さっそくネット上でも、早稲田が与えた博士論文の検証が始まった。今後まともな方向に行けば、この大学の存在意義はなくなるだろう。教育の間違いは一刻も早くただした方がよいと思う。第二の小保方を生み出さないためにも。正直、彼女はむしろ腐った教育の被害者ですらあると思う。
思えば自分の育った環境はいろいろと異常だった。詳細は書けないが小学校から中学に上がるころが最も異常な状態で、もうすぐ小学校を卒業する小さな頭で必死に考えた結果、自分の身は自分で守らないとだめだろうという結論に達し、中学校に入るとてめえは柔道部に入った。そうでなければ好きな野球の出来る野球部に入部していただろうと思う。
中学に入学してすぐのある祝日、財布だけをもった状態で母と子は突然家を追い出された。本当に「着の身着のまま」であった。その数日後、結果的にてめえだけが家に帰ることになった。
なかなか仕事の見つからない母のために、てめえは年齢を偽って働いた。朝の新聞配達から始まり、夜のラーメン屋の仕事を終えるのはいつも午後10時ごろだった。
ラーメン屋の仕事が終わった後も、本当は家に帰りたくなかった。母と妹のいる、トイレもない狭いアパートの部屋に帰りたかった。
母に会うことは固く禁止されていたので、いつも仕事の合間夕方などにちらりと立ち寄るくらいだったが、家具も何もない部屋にぽつんとかけられたカレンダーに、見えないくらいの細かい字で母は日記を書いていた。「今日も職安に行ったが仕事は見つからなかった。生活保護の相談も役所にしたが、正式に離婚もせずに別居しているだけでは血税は出せないと言われた。今日も具のない棒ラーメンを食べた。ああ以前のように息子と一緒に暮らしたい…」
しかし長男であるてめえに、祖父母は執着した。昔の人だっただからだろう。そして、孫とはいえ女の子に全く興味がなかったようだ。今はどうだか知らないが、昔の台湾は男尊女卑がとても強かった。未だに結婚しても妻は夫の姓を名乗ることができず、死んだ後も墓には名前が書かれることはなく、死亡した日の下に「女」と書かれる。「男の子以外は興味ないわ」と、祖父ははっきりと言った。そして、その通りに長男の長男であるてめえに執着したのだ。
てめえが母を選択すると何をされるのかわからなかったので、追い出された後要求されるままにてめえだけしかたなく家に帰った。
いつもラーメン屋を後にすると、すぐに家に帰りたくなかったので、友人の家が経営するうどん屋に寄って帰った。晩御飯代わりでもあったのだが、いつも友人の両親は暖かく迎えてくれた。そして、いつもメニューにはない「梅うどん」を作ってくれた。といっても、梅干しとわかめとネギが乗っただけのうどんなのだが、これがいつも沁みるように旨かった。
そんな生活をしていたら生活のみならず精神的に荒れていくのも当たり前の話で、まず夜眠れなくなった。大人に相談するなどという知恵が全くなかったので、アルコールに手を出した。その時最も安かったのが芋焼酎だったので、お金のない中学生は毎晩芋焼酎を浴びるように飲んだ。今ではブームになった感もあるが、当時は本物の労働者御用達の飲み物だった。なので、今でも芋焼酎を飲むとあの時の空気を思い出し胸が苦しくなる(けど、もちろん飲む)。
憂さ晴らしにたばこにも手を出した。もちろん、最も安い「ハイライト」。これまた本物の労働者御用達タバコ。芋焼酎とハイライトはこれまたよく合うのだ。
そして暴力。といっても、怒りの向かい先は大人たちという尾崎豊病だったので、暴力は教師に向かった。
そんな日々を送っていると、もちろん学校に行かなくなる。さすがに年齢を偽っていても昼間のバイトはできない(たまにしてたけど)し、これだけ先の見えない状態でそもそも勉強するということに全く興味が持てなかった。毎日食べる梅うどんだけがささやかな楽しみだった。
そういう日々を送っていると、徐々に感情がなくなって来たのだ。とうとう中学2年の3学期、体育以外はすべて「1」という、ほぼ「オール1」という成績を頂いた。とうとう落ちるところまで落ちたなとてめえは思った。
中学3年への進級を控えた3月、いつものように何とか時間を作ってこっそりと母の家に行った。その時は住宅事情もあり、母はちょっと遠くの公営住宅に転居していたので、気軽に行けることもなかった。ので、てめえは数カ月ぶりに母の家に行ったのだ。訪問するには以前よりハードルが上がっていた。
数か月ぶりに母の家に行く。経済的な理由で電話を引けなかったので、前もって連絡することもできなかった。もちろん携帯電話のない時代の話。そんなわけで、どうでもいいが緊急の連絡は電報だった。笑 今の時代からは全く想像できないけれども。
公営住宅の階段を最上階まで登り、母の家に着いた。母と妹は喜んでてめえを迎えてくれた。もうその時は母も仕事を見つけており、てめえの稼ぎは必要ない状態だった。
家に入るとちょっとした違和感があった。久しぶりだからなんだろうか、と思ったが、その違和感の正体はすぐに判明した。なんと生まれたての赤ちゃんがいたのだ! 壁には「命名 ○○」という紙も貼ってある。母親が妊娠したという話は聞いていないし、誰かの子供を預かっているのか? としたら壁の張り紙はなんだ?
「知り合いがな、赤ちゃん産んでそのまま死んだんや。その子は天涯孤独で相手もわからん。そんなわけでうちで育てることにしてん」と母は言ったが、さすがに突っ込みどころ満載で正直それ以上聞く気が失せた。それ以上に目の前にいる、14歳離れた「妹」が可愛かったということもある。
それからは、少しでも時間ができると新しい妹に会いに出かけた。無垢な赤ん坊の世話をするだけで、てめえのガチガチに歪んだ心が少しずつ溶けていくような気がした。
学校にも少しずつ行くようになった。教師に暴力的になることもなくなった。しかしアルコールとタバコは止められなかった。梅うどんを食べに行く機会も徐々に減った。あの妹のためにも、中卒で学歴を止めることはやめた方がよいだろうなと漠然と考えた。勉強については、例えば英語はbe動詞からやり直し。
そして、柔らかくなった心で考えた結果、父の家を出ることにした。長男なんてクソくらえじゃ。んな都合てめえには知るか。ラーメン屋も継ぐつもりはないぜ! Yo、 ニガー(同朋)! ファックラーメン屋!
ある日の朝、小さなボストンバッグに身の回りの物だけ入れ、父に「ばいばいてめえは母さんと一緒に生きていく」と一応のあいさつをして、自転車でてめえは父の家を出た。もう帰るつもりはなかった。
それから1年後、私学には落ちたがてめえはなんとか公立高校に合格することができた。
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