解放区

2014年03月16日(日) 東西の違いとか。

東にある大学(はっきり言うと東大ですが)に研修に行ったことがある。まあとても楽しい経験だったし、出会った方々は素晴らしい人ばかりだったのだが、ここでは東西の違いをいやというほど感じることになってしまった。

このときの研修だけではない。子供と一緒に旅行した時も同じ感想を得たので、これはある程度普遍的なのかもしれないと思った。そして、なぜ東大が優れた研究結果を残さないのかもわかった気がする。今回の早稲田がクソだった件も含め。


簡単に言うと、関東は「ダメ出し文化」で、関西は「面白がる文化」ということだ。とにかく関東にいくと、あれがダメだこれがダメだと怒られる。

子供と一緒に旅行した時の話。ペンダントを作ることのできるコーナーがあったので、「あれがしたい」という娘に従ってペンダント作りに参加した。

自分で材料を選んでデザインを考えて、と娘は楽しそうにしていたのだが、付いていたインストラクターが「この色はダメ! このデザインもダメ!」みたいにひたすら小学生にダメ出ししたのだ。子供の旅の思い出にそこまで言うか? というくらい。娘は素直に一緒に色を選びなおしたりして結局満足のいくものが出来たみたいなのだが、ちょっとそれでいいのかという疑問が残った。というか、関西ではありえない(子供の作るものなんてどうでもよい、適当にほめようというのが関西的だと思います。そんで、それでいいとてめえは思う)ので非常に驚いた。

最初の違和感はそこだったような気がする。その後も同様の違和感があり、てめえは上記のように確信した。

関東では、ひたすらダメ出しする。細かいところまで。完璧を目指しているのかもしれないが、その結果は? しつこいが東大は科学の発展に何を残しているの?

ダメ出しを恐れ、学生はレポート段階から自分の言葉を否定されることを恐れ、ひたすら優れたレポートのコピーを試みるようになる。早稲田よ、それでいいのか。

関西ではひたすら面白がる。それ、面白いやん。ちょっと適当でもいいので、まずはやってみたら? 的な。ストレスを与えたら万能化する? 何それ面白いやん!

面白い面白いと言われた関東出身の研究者は、ダメ出しを恐れてコピーに走った。というか、彼女は本当にコピーがダメだとは思わなかったのだろう。そういう文化で育ってしまったから。かの論文のほとんどは共著者の方が書いたといわれているが、本文そのものには盗用は全くない。盗用・剽窃が言われているのは実験データおよび画像である。

関西出身のエリートである共著者は、まさかデータや画像を捏造するなど夢にも思わなかったのだろう。そういう人も周りにはいなかった。想像すら付かなかったのだろう。彼が書いたとされる本文はそれなりに誇り高い。ただし、もとになる画像などは盗用だった。


今回の論文問題については、早稲田がクソである。さっそくネット上でも、早稲田が与えた博士論文の検証が始まった。今後まともな方向に行けば、この大学の存在意義はなくなるだろう。教育の間違いは一刻も早くただした方がよいと思う。第二の小保方を生み出さないためにも。正直、彼女はむしろ腐った教育の被害者ですらあると思う。



2014年03月15日(土) 梅うどんの思い出

思えば自分の育った環境はいろいろと異常だった。詳細は書けないが小学校から中学に上がるころが最も異常な状態で、もうすぐ小学校を卒業する小さな頭で必死に考えた結果、自分の身は自分で守らないとだめだろうという結論に達し、中学校に入るとてめえは柔道部に入った。そうでなければ好きな野球の出来る野球部に入部していただろうと思う。

中学に入学してすぐのある祝日、財布だけをもった状態で母と子は突然家を追い出された。本当に「着の身着のまま」であった。その数日後、結果的にてめえだけが家に帰ることになった。

なかなか仕事の見つからない母のために、てめえは年齢を偽って働いた。朝の新聞配達から始まり、夜のラーメン屋の仕事を終えるのはいつも午後10時ごろだった。

ラーメン屋の仕事が終わった後も、本当は家に帰りたくなかった。母と妹のいる、トイレもない狭いアパートの部屋に帰りたかった。

母に会うことは固く禁止されていたので、いつも仕事の合間夕方などにちらりと立ち寄るくらいだったが、家具も何もない部屋にぽつんとかけられたカレンダーに、見えないくらいの細かい字で母は日記を書いていた。「今日も職安に行ったが仕事は見つからなかった。生活保護の相談も役所にしたが、正式に離婚もせずに別居しているだけでは血税は出せないと言われた。今日も具のない棒ラーメンを食べた。ああ以前のように息子と一緒に暮らしたい…」

しかし長男であるてめえに、祖父母は執着した。昔の人だっただからだろう。そして、孫とはいえ女の子に全く興味がなかったようだ。今はどうだか知らないが、昔の台湾は男尊女卑がとても強かった。未だに結婚しても妻は夫の姓を名乗ることができず、死んだ後も墓には名前が書かれることはなく、死亡した日の下に「女」と書かれる。「男の子以外は興味ないわ」と、祖父ははっきりと言った。そして、その通りに長男の長男であるてめえに執着したのだ。

てめえが母を選択すると何をされるのかわからなかったので、追い出された後要求されるままにてめえだけしかたなく家に帰った。

いつもラーメン屋を後にすると、すぐに家に帰りたくなかったので、友人の家が経営するうどん屋に寄って帰った。晩御飯代わりでもあったのだが、いつも友人の両親は暖かく迎えてくれた。そして、いつもメニューにはない「梅うどん」を作ってくれた。といっても、梅干しとわかめとネギが乗っただけのうどんなのだが、これがいつも沁みるように旨かった。


そんな生活をしていたら生活のみならず精神的に荒れていくのも当たり前の話で、まず夜眠れなくなった。大人に相談するなどという知恵が全くなかったので、アルコールに手を出した。その時最も安かったのが芋焼酎だったので、お金のない中学生は毎晩芋焼酎を浴びるように飲んだ。今ではブームになった感もあるが、当時は本物の労働者御用達の飲み物だった。なので、今でも芋焼酎を飲むとあの時の空気を思い出し胸が苦しくなる(けど、もちろん飲む)。

憂さ晴らしにたばこにも手を出した。もちろん、最も安い「ハイライト」。これまた本物の労働者御用達タバコ。芋焼酎とハイライトはこれまたよく合うのだ。

そして暴力。といっても、怒りの向かい先は大人たちという尾崎豊病だったので、暴力は教師に向かった。


そんな日々を送っていると、もちろん学校に行かなくなる。さすがに年齢を偽っていても昼間のバイトはできない(たまにしてたけど)し、これだけ先の見えない状態でそもそも勉強するということに全く興味が持てなかった。毎日食べる梅うどんだけがささやかな楽しみだった。

そういう日々を送っていると、徐々に感情がなくなって来たのだ。とうとう中学2年の3学期、体育以外はすべて「1」という、ほぼ「オール1」という成績を頂いた。とうとう落ちるところまで落ちたなとてめえは思った。


中学3年への進級を控えた3月、いつものように何とか時間を作ってこっそりと母の家に行った。その時は住宅事情もあり、母はちょっと遠くの公営住宅に転居していたので、気軽に行けることもなかった。ので、てめえは数カ月ぶりに母の家に行ったのだ。訪問するには以前よりハードルが上がっていた。


数か月ぶりに母の家に行く。経済的な理由で電話を引けなかったので、前もって連絡することもできなかった。もちろん携帯電話のない時代の話。そんなわけで、どうでもいいが緊急の連絡は電報だった。笑 今の時代からは全く想像できないけれども。


公営住宅の階段を最上階まで登り、母の家に着いた。母と妹は喜んでてめえを迎えてくれた。もうその時は母も仕事を見つけており、てめえの稼ぎは必要ない状態だった。

家に入るとちょっとした違和感があった。久しぶりだからなんだろうか、と思ったが、その違和感の正体はすぐに判明した。なんと生まれたての赤ちゃんがいたのだ! 壁には「命名 ○○」という紙も貼ってある。母親が妊娠したという話は聞いていないし、誰かの子供を預かっているのか? としたら壁の張り紙はなんだ?

「知り合いがな、赤ちゃん産んでそのまま死んだんや。その子は天涯孤独で相手もわからん。そんなわけでうちで育てることにしてん」と母は言ったが、さすがに突っ込みどころ満載で正直それ以上聞く気が失せた。それ以上に目の前にいる、14歳離れた「妹」が可愛かったということもある。

それからは、少しでも時間ができると新しい妹に会いに出かけた。無垢な赤ん坊の世話をするだけで、てめえのガチガチに歪んだ心が少しずつ溶けていくような気がした。

学校にも少しずつ行くようになった。教師に暴力的になることもなくなった。しかしアルコールとタバコは止められなかった。梅うどんを食べに行く機会も徐々に減った。あの妹のためにも、中卒で学歴を止めることはやめた方がよいだろうなと漠然と考えた。勉強については、例えば英語はbe動詞からやり直し。

そして、柔らかくなった心で考えた結果、父の家を出ることにした。長男なんてクソくらえじゃ。んな都合てめえには知るか。ラーメン屋も継ぐつもりはないぜ! Yo、 ニガー(同朋)! ファックラーメン屋! 

ある日の朝、小さなボストンバッグに身の回りの物だけ入れ、父に「ばいばいてめえは母さんと一緒に生きていく」と一応のあいさつをして、自転車でてめえは父の家を出た。もう帰るつもりはなかった。


それから1年後、私学には落ちたがてめえはなんとか公立高校に合格することができた。



2014年03月14日(金) STAP細胞のある意味さらに衝撃

もうほとんど結論は出てしまったのでここに記す必要もないような気がするが、自分が何を考えていたのかだけは残しておこうと思う。


STAP細胞の一報が出た時の驚きは前に記した。やはり理系で医学系であるかぎり、興味はあるのだ。そしてこれが臨床応用される夢をてめえも見た。

しばらくして、画像が盗用? というか使いまわされているのではないかという疑惑が出てきた。サイエンスのことなど何も分からない妹に「どういうことなん?」と聞かれたが、「論文としての完成度とSTAP細胞の存在は別。前者に関してはあまり興味はなく、後者に関しては7:3の割合で信じている」と答えた。

さらに大学院の博士論文の問題なども出てきたが、正直どうでもよかった。STAP細胞が実存すれば。


さて、ここで一回問題を整理しておいた方がよいと思う。

1.論文が剽窃されているか?
2.STAP細胞は存在するか?

この二点を混同している人が多いと思う。正直な話、専門外の人間は前者を主に追求するだろう。そして専門が近い人間は、むしろ後者に興味があるのだと思う。

1.についてはこの時点でほぼ決着が付いてしまった。

2.に関しては、てめえはある程度信じていた。おそらく、発表を急いだあまり勇み足をしてしまったのではないか(勇み足どころではないのは現時点でははっきりしてしまったが)と考えていた。

これが完全に裏返ったのは、3/5の理研のプロトコール発表においてである。「T細胞受容体の再構成はなかった」! ということは、STAP細胞はT細胞由来ではないということ。つまり、STAP細胞自体が存在しないということを認めたのとほぼイコールである。

T細胞受容体の再構成については医学部レベルで習う知識である。免疫の基本で、これを発見したのが利根川さんであった。厳密にはB細胞でノーベル賞を取ったのであるが、ほぼ同じ話である。てめえも免疫については興味があったので、珍しく学生の時にまじめに勉強した分野でもある。


これがなかったということは、T細胞由来ではないということ。考えてみると、T細胞ってすげえ分化した細胞であり、そこから幹細胞ができるなんてありえないレベル。なので世界中が驚愕したのだ。


剽窃については散々取り上げられているのでここでは扱わないが、現時点での情報を総合すると、これは彼女の問題というよりは早稲田大学が抱える構造的な問題だと思う。

早稲田大学の理工系におけるコピペ文化について

たぶん彼女はまともな教育を受けて来なかったのだろう。博士論文がコピペばかりなのは驚愕するが、問題はそれを通した大学側にある。正直な話、これは早稲田の理工学部の存在意義にかかわる問題で、こんな大学潰した方がよい。

コピペで博士号をとれる環境で育ってしまった彼女。理研の共同研究者はまともな人が多いが、まさかnature論文をコピペで作るなんて予想もしなかったのだろう。性善説で生きてきた人、捏造なんて頭の片隅にもない人は特にそうだ。

ではなぜ、そんなことが起きたのか。この辺は徹底的に調べてほしいと思うが、政治的な理由で彼女だけが処分され終わりになる気がする。ただし今回の問題はネットがあったからこそ燃え上がったのだし、そういった理由で予想もしない方向に処分が流れる可能性はあるかと思う。


今後まともな方向に話が進めば、小保方さんは解雇。その後どうなるのだろうか? 笹井さんも本来であれば主犯なので解雇レベルだが、政治的な力学が働き研究者としては残るだろう。というか、むしろ彼は政治的に生き残る道を力ずくでつくるだろう。ほかの研究はまともな人なので、この件で彼をつぶすのは適当ではないと考える人たちにおり生き残るだろう。噂によると笹井さんは小保方さんにぞっこんで、小保方さんはうんざりしていたということだが、その辺の力学がどのように今後に作用するのだろうか、まあどうでもいいわ。



2014年03月07日(金) 異国からの来客とかワクチンとか。

今日の仕事は、日本語も英語も話せない親子がやって来たところから始まった。

看護婦さんが身振り手振りで得た情報によると、連れてきた1歳の子供が鼻水が出るようになったとのこと。それ以上の情報は得られなかった。とりあえず院内で測定した体温は平熱だった。

さて、てめえが診察前に得た情報は、いつからかわからないけど鼻水で苦しんでいるということ、今現在発熱はないということ。そして、日本語も英語も通じないということ。

まあ、深く考えても仕方ないよね、言葉がわからんというだけ(!)で、あとは同じにんげんだもの。苦しんでいることに対する処置を求めて来られているわけなので、てめえはあまり深く考えずに一家を呼び入れた。


お母さんと、1歳児。子供は見るからに鼻水に塗れている。ああこれは可哀想だなあ。でも熱がなければ、診察で異常なければ風邪だろうね。などと考えながらてめえはお母さんに"What's wrong with him?"と聞いてみた。曖昧に笑う母。あきさみよー。


そこからは身振り手振りでてめえ劇場が開演した。鼻水のジェスチャーをする、イエス。咳き込むジェスチャー、イエス。吐くジェスチャー、イエス。下痢のジェスチャー(恥ずかしー)、ノー。おなか痛がる? ノー。ご飯食べてる? ちょっと。夜寝てる? ノー。鼻水が多くて…。と、徐々にコミュニケーションがとれるような心が通じるような気がしてきた。だってにんげんだもの。


不意に診察室の扉が開いた。ノックもなしに入って来た男性は、家族の表情や流れからすると父親だろう。てめえはあらためて挨拶をした。てめえはドクター○○です、この子のことについて教えていただけますか?

てめえの拙い英語を、彼は何とか理解してくれたようだ。堰を切るように片言の英語で彼はてめえに訴えた。月曜日から鼻水が酷いこと。昨日は嘔吐したが、どちらかというと咳き込んでもどしたということ。今まで大きな病気はしたことはなく、入院歴もなくアレルギーも喘息もないこと。日本に来たのは去年の末であることなど。


これだけの情報があれが十分で、てめえは診察を始めた。まずは胸部の聴診から入るが、心音は雑音もなく、肺の音もきれい。おなかも柔らかく、音も元気。

両耳を見る。大人と違って、子供の場合中耳炎が潜んでいることが多いのでルーチンで耳は診る。鼓膜は発赤しておらず、異常なし。喉も見たが腫れていなかった。頚部リンパ節は腫脹も圧痛もない。

これは風邪ですよ、怖い病気はありません、薬飲んで寝ていれば治りますよと拙い英語に笑顔を加えて説明すると、父親は安どの表情を浮かべて母国語で妻に説明した。


"Any question?"とてめえは診察を終えようとしたら、父親がカバンから書類を出してきて「これはこの子が母国で受けてきたワクチンの書類だ。今後のワクチンスケジュールについて教えてほしい」と尋ねてきた。


正直、非常に驚いた。貴重品を出すようにワクチンの接種記録を出す父親の姿は、日本では見たことがない。日本でワクチンの仕事をしていれば「副作用が云々」などのネガティブな質問ばかりで、中には「危ないワクチンは受けさせません!」とどや顔で訴える親もいるというのに。


結論から言うと、ワクチンは無条件で打った方がよい。ワクチンでどれだけの子供の命が救われてきたことか。自分としては、過激な言い方をするとワクチンを打たない親は児童虐待レベルだと思う。

ワクチンに関しては、医療従事者であれば皆知っている歴史がある。「百日咳」である。

百日咳ワクチンが含まれる「三種混合ワクチン」が、副作用が出るということでいったん中止されたことがあった。中止したとたん、百日咳患者が激増したのだ(のちにワクチン接種再開)。

その時に接種しなかった世代の人は、現在も百日咳に罹って苦しむ人がいる。その歴史から学ぶべきことは、ワクチンの副作用を恐れてワクチン接種をしないと、より悲惨なことになるということ。数万人に一人の副作用を恐れて数千人が命を落としたら全く意味がない。副作用の起こった一人はもちろんつらいことだが、副作用のない医療はない。


日本は非常に恵まれている。ワクチンも十分な量が準備されており、行政の案内するままにワクチンを打っていると、大きな病気にもなることはなく子供は育っていく。そんな中で小さな副作用が大きな記事になる。

そもそもワクチンが打てない子供が世界中にどれくらいたくさんいるかということを、君たちは知っているのかと叫びたくなる。ワクチンは人類の財産そのものなのに。


というわけで、父親から受け取った書類を基に今後のワクチンスケジュールを立てた。母国にはないワクチンもあるし、接種スケジュールの異なるものもあり、間違いがないように調べてスケジュールを組んだ。

「風邪が治ってからやで。そしたらワクチンを再開しようね」と、てめえは拙い英語で父親に説明した。彼はにっこり笑って「アリガト」と拙い日本語で応えて帰って行った。


気が付くと、この件だけで30分以上対応している。通常は一人に30分以上使うことはない。そうこうしているうちにも待合室はどんどんと込み合っており、看護婦さんは「いやあ疲れましたね」と苦笑いした。「ほんま、一日分のエネルギー使ってしまったわ」と、てめえは答えたが、疲労以上の充実感が勝った。



2014年03月06日(木) その2

案内された部屋は8畳くらいの大きさの和室で、先客の荷物は部屋の端の方に遠慮がちに置かれていた。一人旅にしては結構な量の荷物で、バックパックの横には無造作に使いこまれた寝袋が転がっていた。

部屋を一通り見渡す。入口のドアには鍵もなく、これだとセキュリティーはないに等しいな、それもまたある意味沖縄っぽいよな、ということは貴重品は持って歩かないとな、などと考えながら、私も小さな荷物を対側に置いた。

相部屋になるといわれて、宿泊を断ることもできたはずだが、なぜだか私には全く抵抗がなかった。海外でドミトリーに泊まる貧乏旅行を経験していたからなのかもしれないが、もしここが東京や京都であれば違和感があっただろうとふと思った。そう考えると、沖縄という土地は、日本というよりはよりアジア的なのかもしれない。



不意に屋根裏に生き物の気配がして、私は思わず天井を睨んだ。

「あきさみよー、昼間には珍しいね。やーるー(ヤモリ)が昼から運動会してるさぁね」

と、宿の主人はにっと笑った。



「じゃあ、一泊四千円のところを、半額の二千円で、先払いでお願いしましょうね。食事は付かないので、またあとで近くの食堂を教えようね」

「随分と安いですね。それじゃあ商売にならないんじゃないですか」

「あい、儲けなんて考えていたらこんな仕事しないよ。まあ、死なない程度に食べていけたらそれでいいわけ。お客さんが来なくなったら海に潜ればいいさぁね」




少し時間があるので、宿を出て外を歩く。

潮の香りに誘われるままに58号線を越えるとすぐにビーチが広がっていた。波打ち際で水と戯れる子供や、その近くでバーベキューを楽しむ大人たちがいる。やんばるの海は那覇で見た海よりもさらに青く透き通っている。

海を眺めていると、緊張がようやく解けたのか、はるばる南風原から原付を運転してきた疲れがどっと出て、私は砂浜に寝転んだ。シャツを通して感じる砂は日中に浴びた熱を発散している、その心地よい温度に、私はしばし微睡(まどろ)んだ。

もうすぐ夕方だというのに、沖縄の太陽はまだ高く私の身を焼いた。

気が付くともう夜だった。どれくらい眠ってしまったのだろうか、しかし時計で時間を確認する気にはならなかった。ゆっくりと起き上がって背中に付いた砂を叩き、私はここまで来た道を帰ることにした。


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