鼻くそ駄文日記
目次へ次へ


2001年08月09日(木) 『犬ですが、ちょっと一言』(ミュリエル・ドビン ハヤカワ文庫)

 二日ほど前に、犬が出てくる小説は哀しい、と書いたが、この『犬ですが、ちょっと一言』に出てくる犬はまったくもって哀しくない。
 なぜならこの小説は人間の視点からではなく、犬の視点から書かれているからだ。
 動物の擬人法、そして犬と同居している人間が新聞記者となれば、猫の擬人法で書生と同居していた『我が輩は猫である』を思い出してしまうが、まあ、それの現代版という感じである。
 主人公のローバー(しかし、アメリカ人は犬にローバーと名付ける飼い主が多いなあ)はゴールデンレトリバーの酒飲みの犬だ。このローバーが退屈を紛らわすためにタイプライターでこの作品を打ち込んだことになっている(もしかしたら、本当に犬が書いたものかも知れない)。
 まずは、甘えて堕落した犬や飼い主の趣味を押し付けられてかわいそうな犬、そして国を挙げての猫人気への愚痴から話がはじまる。
 それから、研究所から逃げてきたネズミをかくまったり、ゴリラ夫婦の愚痴をきいたりと犬の苦労がずっと書いてある。どのエピソードも風刺がきき、ジョークも生きていておもしろい。ちょっと引用してみよう。怒ったミミズとの会話である。

「ミミズは国民的メディアに無視されている。ウサギみたいに殖やすために、いわゆる農民たちに泥土並に売られているとしてもだ」
「いやごめんよ」といってやった。「いままでぼくは、ミミズの重大な問題はどうしたら魚釣りの餌にされるのを避けられるかということばかり思っていたもんだからね」

 アメリカ人らしい、いかにもなジョークだ。ジョークをローバーが、虫や動物と話ながら進む。時にはチクリと風刺を利かせて。
 そして、読み進んでいくうちに、滑稽に腹を立てている虫や動物を見て、ぼくらは当たり前のことに気がつくのである。
 地球は人間のためではない。
 エコロジー、なんて言葉が叫ばれて近しい。地球を守ろう、地球を大切にしよう、という運動も各地で起こっている。
 しかし、ぼくたちはうっかりしたことを忘れている。
 車が二酸化炭素を排出するなら車を走らせなければいい。ゴミが増えるならゴミが出ないように工夫しなければいけない。
 エコロジストはそう言うけど、でも、実際に車を走らせたり、ゴミを出しているのは人間だけなのである。
 極論だが、人間が恐竜みたいにあっけなく絶滅してしまえば、地球はいまよりも美しくなるかもしれないのだ。
 地球を守ろう、と言っている人に、自殺した人が何人いるだろうか?
 エコロジストの言っている「地球を守ろう」は、地球のためではなく、人間のために「地球を守ろう」と言っているのである。
 だけど、地球は人間のものではない。だから、ローバーはほのぼのと風刺をきかせた愚痴を本一冊ぶんもこぼしたのである。


2001年08月08日(水) 『畜犬談』(太宰治 新潮文庫『きりぎりす』に収録)

 国語の授業を除いて太宰治を最初に読んだのは『人間失格』の角川文庫版だった。読んでみて、世間とうまくやっていけないイタイおたくのつぶやきみたいで、好きになれなかった。角川文庫版には『桜桃』も収録されている。ついでだから読んでみて、やっぱり好きになれなかった。胸の谷間のあせもが涙の谷? どうでもいいじゃん、勝手に泣いてろー、と思った。
 次に読んだのは『斜陽』。よくわからなかった。だいたい、ぼくら戦後生まれには、華族や平民という階級差がよくわからない。それなのに理解しろというのが無理である。おまけに『斜陽』は登場人物のほとんどがよく悩む。それもわずらわしかった。
 では、ぼくは太宰を嫌いなのかというと、どっこいそうではない。『斜陽』の内容はよくわからなかったぼくだが、『斜陽』の文章には驚愕したのだ。『斜陽』の文章はまじですごい。ひとつ試しに引用してみよう。

「どうしても、もう、とても生きておられないような心細さ。これが、あの、不安、とかいう感情なのであろうか。胸に苦しい浪が打ち寄せ、それはちょうど、夕立がすんだのちの空をあわただしく白雲が次々と走って走り過ぎて行くように、私の心臓をしめつけたり、ゆるめたり、私の脈は結滞して、呼吸が稀薄になり、眼のさきがもやもやと暗くなって、全身の力が、手の指の先からふっと抜けてしまう心地がして、編物をつづけてゆく事ができなくなった。」

『斜陽』は全体においてこのテンションで進むので一読した感じではかなり読むのは苦痛だ。しかし、ひとつの文章、段落で抜き取って読むと、すげー文章の宝庫なのである。
 志賀直哉で、文章がうまい日本の作家は短編がうまい、と勝手に法則を作っていたぼくは、じゃあ太宰の短編を読んでみようと思った。そして、幸運にもその法則は当たっていた。太宰の長編の欠点だとぼくが思う、うじうじとしたダラダラ感が、短編ではすっきりまとめられていてすごくいいのだ。
『畜犬談』は、個人的に太宰が作家としての才能をいかんなく発揮したと思う中期(昭和十二年)の作品である。まず、

「私は犬については自信がある。いつの日か、必ず喰いつかれるであろうという自信である。私は、きっと噛まれるに違いない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過ごして来たものだと不思議な気さえしているのである。」

と軽妙な語り口でスタートする。私小説とは言え、めちゃくちゃうまいつかみだ。主人公の犬嫌いがよくわかる。
 そんな主人公が散歩をしていると犬がついてきた。気の弱い主人公は内心では犬を「ピストルでもあったなら、躊躇せずドカンドカンと射殺してしまいたい気持ち」なのだが、とうとう家の玄関まで犬を連れてきてしまう。
 それからずるずると半年も主人公は犬を「ポチ」と名付け飼ってしまう。この間の主人公が語る、犬と主人公の駆け引きも面白い。たとえば、犬が下駄をおもちゃにして、洗濯物を引きずり下ろすと、主人公は犬に「こういう冗談はしないでおくれ。実に困るのだ。誰が君に、こんなことをしてくれと頼みましたか?」と内に針を含んだ言葉をいや味をきかせて言ったりする。当然犬は相手にしないが。
 半年が過ぎ、主人公はいいかげん犬を捨てようとする。だが、捨てようと決めたとたん、皮膚病になってしまい、捨てるわけにもいかず、殺すことになる。殺すために主人公は犬に、肉片に薬剤を混ぜたのを食べさせる。
 だが、翌朝、犬は死ななかった。犬が生きているのを見た主人公の発言が秀逸だ。

「だめだよ、薬が効かないのだ。ゆるしてやろうよ。あいつには罪が無かったんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だった筈なんだ」

 ここで太宰の主題がぱっと浮かぶ。おそらく、太宰はずるがしこくて卑屈な犬を、弱い人間と照らし合わせていたのだと思う。どんなにけなされても、弱い人間は生きるために卑屈にならなければいけない。親・兄弟・友達を捨て、卑屈になって卑屈になって殺されかけても卑屈になって、やっと同情を買えば安住の地で生きていける。それが弱い者の生き方だと。
 そして、最後に主人公が犬を飼うことを決めると、主人公の妻は浮かぬ顔をするところが、この作品の深さだ。
 弱い者がひとりに同情されても、すべては好転しない。
 同情されて安住の地を手に入れても、他の人から見たら弱い者は弱いままなのだ。
 おそらく、最後の妻の浮かぬ顔にそんなメッセージが隠されているとぼくは考えるのだが、考えすぎだろうか?


2001年08月07日(火) 犬の悲劇 (ガルシア=マルケス『愛その他の悪霊について』新潮社、大江健三郎『芽むしり 仔撃ち』新潮文庫)

 動物の出てくる小説にはなぜか哀しい空気が漂っている。あの『我が輩は猫である』でさえ、全体的にはどこはかとなく哀しさがある。人間と接触する動物には、常に哀しみが漂っているのかもしれない。
 犬が出てくる小説として、ぼくが頭に浮かんだのはガルシア=マルケスの『愛その他の悪霊について』(新潮社)と大江健三郎の『芽むしり 仔撃ち』(新潮文庫)である。
 二作品とも犬が出てくる以外に共通点がある。伝染病だ。
『愛その他の悪霊について』では、主人公の女の子が狂犬病の犬に噛まれたところから話がスタートする。物語中、狂犬病は悪霊のメタファとして使われる。事実とは言え、犬に噛まれただけで悪霊憑きにされる少女は哀しすぎるし、その原因として扱われる犬も哀しい。
『芽むしり 仔撃ち』の犬はもっと哀しい。『芽むしり 仔撃ち』は伝染病が流行る村に取り残された少年たちの話である。ここに登場する犬は、伝染病の中でたくさんの動物が死んでいるのに生き残っている。せっかく「クマ」と名前をつけたのに、脱走兵から「レオ」と改名されるのも哀しい。レオは少女の指を噛んで、少女を伝染病にしてしまう。それから、少年たちに「病原菌の塊」として棒で撲殺され、それが原因で飼い主の少年は行方不明になる。犬のせいでふたりの人間が死に、犬も棒で殺されてしまうのだ。哀しすぎるではないか。
 二作品とも犬は悪くない。二作品とも犬は故意に少女を噛んだわけではなく、うっかり噛んでしまっただけだ。過失に過ぎない。
 なのに、伝染病の原因となれば犬はあっけなく殺されてしまう。
 しょせん、犬の運命なんて人間に委ねられているのだろう。それが浮き彫りにされるから、犬が出てくる小説は哀しい。


2001年08月06日(月) 毛むくじゃらの犬(フレドリック・ブラウン 創元推理文庫『復讐のの女神』に収録)

『未来世界から来た男』(創元ミステリ文庫)をはじめ、SFショートショートの名手フレドリック・ブラウン。ブラウンのSF短編は、奇抜なアイデアとユーモアに満ちあふれ、『ドラえもん』を見慣れているぼくらにはとても親しみやすくておもしろい。
 ブラウンはミステリも書く。ブラウンのミステリは、『名探偵コナン』を見たことがあるぼくでもど肝を抜かれる。なんなんだ、これは! という世界なのだ。
 ぼくのような頭の固い日本人は、SFならば奇抜なアイデアもユーモアも無批判に受け入れることができる。時間が逆流しようが、宇宙から変な奴らが責めてこようが、植物がしゃべろうが、「SFってこんなもんだよね」と思っているから安心して読めるのだ。
 しかし、ミステリとなるとそうはいかない。ミステリというのは、探偵がいて、人が死んで、うだうだと捜査が難航して、最後に探偵がずばっと犯人をいい当たるものだ。
 だが、そういうものとブラウンのミステリはひと味違う。奇抜なアイデアとユーモアのおかげで、いわゆるミステリを思い浮かべていると痛い目に遭遇する。

『毛むくじゃらの犬』の主人公は新米探偵のピーター・キッド。彼はどうでもいいラテン語のうんちくを得意気になって誰彼となく話す癖があり、新米としての意気込みを隠すためにわざと、事務所に十分遅刻するような生真面目な男である。
 主人公の探偵事務所の最初の依頼人として現れたスミス氏、毛むくじゃらのローバーという犬と一緒にやってくる。相談の内容は、ローバーの持ち主を探してほしい。ローバーには拾ったときに、飼い主の死を暗示させる手紙が入っていたそうだ。そして昨日、何度も殺されるような目にあったと言う。
 主人公はまったく別の推理を立てて事務所から一歩も出ずに事件を解決させるが、その直後、依頼人が本当に殺されてしまう。
 時には閉口するようなアメリカンジョークが溢れる明るい文体で、すらすらと話は進む。生真面目な主人公とぼけーっとした美人秘書、まぬけなローバーの絡み合いがおもしろい。最後のオチまでアメリカンジョークというおそろしさだ。
 実はこの『毛むくじゃらの犬』というタイトルもアメリカンジョークである。
 原題 The Shaggy Dog Murders は直訳すると『毛むくじゃらの犬の殺人』となるが、この shaggy dog は米語のスラングで「話し手がひとりで面白がって話していて聞き手を退屈させている様子」という意味がある。
 やたらとラテン語のうんちくをうれしそうに話す主人公は、このタイトルだからこそ生まれているのだ。
 そして、そのタイトルにはもちろん、本一冊ぶん、相手が退屈していてもえんえんと語る小説家へのアイロニーでもあるだろう。
 フレドリック・ブラウン、おそるべし。 


2001年08月05日(日) 日記を書こうと思いつきました

 日記を書こうと思いつきました。
 大して文才もなく、またこれといって変化の多い毎日を過ごしているわけでもない私の日常を書くだけではつまらないでしょう。
 だから、日常生活とは関係ないことも書きたいと思います。
 たとえば、読んだ本の感想なんかを気楽に書きたいなと思います。
 気楽に書いてしまうから、思いこみや勘違いで間違いの記述をしてしまうかもしれません。
 気楽に書いてしまうから、読んでくださる方には全然面白くないものになってしまうかもしれません。
 そんな不安がいくらでも浮かぶけど、ちょっぴり面白そうだから、日記を書こうと思いつきました。


iwa |MAILHomePage

My追加