日記でもなく、手紙でもなく
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2002年12月03日(火) イタリア風サンドウィッチ<ヴィア・クアドローノ>


 汐留の高層ビルもかなり立ち並び、既に電通ビルの飲食店を中心とした50店舗強の商業施設である<カレッタ汐留>も、12月1日にオープンしたばかりだ。

 このカレッタ汐留の中に、NYに店を構える手作りサンドウィッチ店である<ヴィア・クアドローノ>が初出店したという記事が、今朝の日経に出ていた。イタリア風サンドウィッチ「パニーニ」が食べられるということだが、生ハムを挟んだものが800円、カプレーゼ(モッツァレラ・チーズ+トマト&バジル)が900円。
 野菜は全て有機野菜を使っているそうだが、なかなかの値段である。

 サンドウィッチにも、ピン=キリがあって、かつてはクラブハウス・サンドなどがその頂点にいた時代も長かったように思われる。その昔、NYのデリで、厚さ7〜8cm近くあったクラブハウス・サンドを食べた時は、その厚さゆえ、一度に口に入れられず、分けて食べたら全く美味しくなく、なかなか残念に思った記憶がまだ残っている。

 このあたりに比べると、イタリア風サンドウィッチというのは、まだ可愛げがあって、しかもチーズ&トマトなどを挟んだものは、ぐっとヘルシーな感覚もある。
 しかし、本当のイタリア発ではなくて、NY発のイタリア風というところが、ちょっぴり国際的でもある。

 新聞記事の中には、イギリス発のホットサンド店である恵比寿ガーデンプレイス内に11月オープンした<ベヌーゴ>の店の紹介も出ていた。
 やはり今年の秋、日比谷にオープンした<プレタ・マンジェ>も英国発の店だったことを考えると、サンドウィッチはやはりイギリスか米国か、ということになるのだろうか。

 ただ、私などは、(よほどの場合を除いて)昼にサンドウィッチ、というのはどうも敬遠したくなるほうだ。少し時間をかけて、ゆっくり食事をしたいと思う時に、やはりサンドウィッチというのは似合わない。いくら手作りとはいえ、サンドウィッチの中でも特に美味しいものだと言われたとしても、サンドウィッチはサンドウィッチである(と思う)。千円近い値段だと、なおさらその店に入るのをためらってしまう。

 時間がなくて、仕事をしながら、コンビニのサンドウィッチを、飲み物で流し込む、というのが私のサンドウィッチのイメージに、一番ぴたりと合っているようだ。


2002年11月25日(月) 新JAL:経営統合と業務システム、新機内誌などの話

 二つの企業が経営統合されると、当然その統合を象徴的に示すロゴ・マークがまず話題になったりもする。JALとJASの場合もつい先ごろ、新たに発足した日本航空システムの新ロゴを発表している。
 ただ、その企業に勤めている人々の、一番具体的な業務に近いところでは、いわゆる「業務システム」の統合を図っていくのが最優先課題になる。
 
 この業務システムというのが、実はなかなか曲者なのだ。日常業務で使われるコンピュータ・プログラムの考え方、その設計、インターフェイスなどの違いなどはすぐ思い浮かべられる。しかし、そればかりではなく、その企業内の業務手続きや仕事の手順みたいなものと、コンピュータ・プログラムは当然連動しており、このようなところが、曲者中の曲者。そのような業務における手続きや手順といったものは、ある意味でその企業の<文化>であったりするからだ。

 企業が合併するということは、どちらかのシステム、手順・手続きに合わせるという方法がないでもない。但し、これは極めて短期間にそれを実現しないといけない場合の選択だろう。旧来用いられていた業務システムというのは、極めてローカルなルールまで飲み込んでいたりして、傍から見ていると滑稽に見えてしまう場合すらある。

 本当に新たな企業として生まれ変わるという決意があるのであれば、新しい企業文化である手続きを、双方が歩み寄って議論を戦わせながら固め、それを根気よく新しい社内に浸透させるという努力が一にも二にも必要になる。また、そのようなプロセスを踏んで、本質的な経営統合が、末端に至るまで図っていける。
 デザインやマニュアルの変更だけでは、社員一人一人の頭の中は、新しい会社のシンボルが変わったというだけの理解と、ある程度熟知している日常業務の処理手順が書かれた、普段ほとんど使わないような、すぐ引出しやキャビネットの中に眠ってしまう文書が増えたという認識だけが付け加わるにしかすぎないのだ。

 実は、後者のマニュアル上、特に重要なところは、旧来双方がそれぞれ進めていた手続き・手順が、新たにどのように変更されるのか、どのような考え方をベースに、なぜそのように変更されるのか、という点を一番理解してもらう必要がある。
 細かい部分ではあるのだが、実はその細かい部分に、今後の新たに生まれ変わる企業の方向性、新しい環境認識に基づく企業戦略というものが反映されてくることも多い。同時にこのことは、旧来進めてきた旧組織の手続きや手順上、新たな企業の考え方、新しい経営のビジョンや、フィロソフィーなどと、極めて適合する部分なども明示しておくと、抽象的概念とその具体的な業務の中での意味が、一層理解されやすい仕組みとして提示できることにもなる。

 ところで、業務システムというのは、狭い意味で言えば、日常の業務を処理していくプロセス上で不可分なコンピュータ・プログラムを示す場合が極めて多くなっている。BtoC(Business to Consumer)の場合、しかもそれがサービス業の場合では、この新しいシステムが古いものに替わってうまく稼動するかどうか、今やそのことがサービスの品質に関わる部分と深く関連しているだけに、絶対手抜きはできない。この点甘く見ていて大チョンボした例が「みずほ銀行」で、まだ本当に記憶に新しい。

 航空会社を例にとると、(銀行のシステムほどデータのトランザクションが多いとは思えないものの、)業務システムは、予約・発券・入金情報、あるいは空席情報などが、様々な業務のコアと密接に関わっているし、チケット一つ取ってみても、サブ・モジュールとして、搭乗手続き/座席指定の有無によるキャンセル待ちへの対応なども絡んでくることになり、やはりサービス業務の根幹と直接に結びついている。(あるいは、各フライトとそのクルー、各フライトにおける当該クルーの勤務時間と給与などを関連させるプログラム、あるいは、様々なフライトのスケジュールとクルー・メンバーの割り付けなどの処理をかませていると、かなり細かいモジュールが付け加わってくることになる。)
 それらが常時機能してこそ、必要な情報に基づき、様々な利用者への対応業務や社内的な処理業務が可能になる。統合化されたシステムであればあるほど、それが機能しなくなると、もはや混乱しか生みださない。

  ☆  ☆  ☆

 ところで、エアラインの機内各席に置かれていた機内誌も、統合されることになったという少し前にリリースされた記事を、今日たまたま見つけて読んだ。
 旧JALが<winds>、旧JASが<ARCAS>をそれぞれ発行していたが、この2誌が統合され、2003年4月号より<Skyward>という新雑誌になるという。
 
 新しいJALグループの目指す「Dream Skyward(空に限りない夢とよろこびを)」というところから、新雑誌は命名されているとも書かれていた。やはりというか、当然というか、新雑誌の編集長は、旧windsの編集長が引き継ぎ、コンセプトも『<winds>を継承し、視点を絞った切り口・奥行きある内容で「旅」を取り上げ、「より多くの人が興味を持つであろうテーマ」を「上質な読みもの」「美しい写真」で紹介し........「上品な派手さ」「読みやすさ」を感じさせる誌面を目指す』というところに落ち着いている。
 言い方を変えると、新機内誌は、単にWindsの継承形、もしくはよく見てもその発展形であるように思われてくる。口の悪い言い方をすると、windsの発展形の機内誌が名称を変えて、旧JASの機内にも置かれる、ということらしい。
 もちろん、既に経営統合を果たしている新会社からすれば、旧JALや旧JASということで話をしていては、決して経営統合にはなっていないわけで、むしろ新しい形をいろいろ作りながら、新会社が形成されていくと言い直しておくことにしよう。

 さて、この機内誌であるが、ある意味でどこのものも、似たり寄ったりと言えないこともない。若干の違いはあるにせよ、その性格や内容は、かなり重なっているようにも思われる。どちらかの旧機内誌の愛読者がいたとして、統合されて新しい雑誌を読んだとしても、あまり違和感なく捉えられてしまうのではないだろうか、という気もする。
 書店などで一般に売られている雑誌の場合、今回の機内誌のように、発展的統合というのは、なかなかできにくいことだ。同じ出版社の雑誌でも、その一つ一つの雑誌は、当然編集コンセプトも異なれば、読者層・当該誌の購買層なども異なるため、統合して一緒にする、みたいなことをしてしまうと、コンセプトが絞りきれず甘くなり、旧来の愛読者が逃げて販売部数も減ってしまう確率が極めて高くなる。従って、出版業界ではある雑誌を出しつづけるか、あるいは休刊・廃刊にするか、そのどちらかの選択しかないに等しい。

 ところで、機内誌の場合は、書店に並ぶことが目的ではなく、機内の各座席にプリセットされる、ところに大きな<流通>上の特徴がある。基本的にはそれを買ってもらうということではなく、機内で読んでもらうPR用のパンフレットに近い。
 しかし、PRを意図しただけの情報だと、1回手にしたら、たぶん2度と手にされない。しかも、エアラインにとって重要な顧客というのは、エアライン多頻度ユーザーである。このようなヘビー・ユーザーに、できるだけ読んでもらう仕組みとして、機内誌という形で発展してきた。

 当初は、今まであまり知られていなかった場所やその土地の文化を伝えたり、そこでの楽しみ方を理解してもらったりすることで、実は新しい<旅>の需要創造につながっていたと考える。しかし、旅行などに係わる情報が様々な形ですぐ得られるような環境の中では、なかなかそのような情報の鮮度というのは保ちにくいことも事実である。
 むしろ、その機内誌では、既に行き見たところを追体験し、その記憶を強化し、あるいはそこで愉しかったことを思い出してもらう、というような方向が、ある時期以降実は大きくなったのではないか、と私などは見ている。それにより(確かに新しい旅の需要ではあるが)初体験需要を刺激するのではなく、リピート型需要創造の方向に変わっていくことになる。
 このような考え方・編集視点というのは、今でも(全部とは言えないまでも)その核の部分には置かれているのではないか、と思っている。コンセプトそのものはさほど変わっていない、変える必要はないものの、テーマの取り上げ方や切り口を変え、併せてそのテーマに基づく需要層の質的な変化といったものを、確実に押さえておかないと、これも読者の価値観や感覚と、ずれてしまうことになりかねない。

 なお、新しい機内誌の発行部数は、旧来よりも増え、国際線版・国内線版合計で84万部となる。一般雑誌で現在80万部を確保しているようなものは、極めて限られる。また、その雑誌によく接する人こそ、<旅>そのもののフリクエント・ユーザーであること、などを考えると、独特のポジションを確保している雑誌の一つであり、恐らくその特色が今後一層強化されることになるのではないだろうか。


2002年11月24日(日) 国産野菜と輸入野菜

 今回頂いたメールで、野菜をコアにしたテーマを探されているという、その意味や雰囲気が何か見えてきたように思います。ただ、グリーン・ツーリズムを生産者側の視点で見ること、自然環境と子供の情操教育という視点、消費者が求める野菜とその情報、あるいは、国産野菜と輸入野菜.....等々のテーマというのは、恐らく辿っていくと同じような根をもつ問題と関連しているようにも思いました。
 私自身がこれらのテーマの中で、特に関心を持って見ることができるのは、<国産野菜と輸入野菜>でしょうか。このへんのことから少し書き始めようか、などとも考えました。

 今のような時代、特に問題になるのが、中国などからの輸入野菜の安さに(国産野菜が)負けてしまうということでしょう。
 しかしその前に、これとは全く正反対のことがあったりもするのですね。

 現在東京で人気のある、イタリア料理店のシェフは、全てではないにしても、かなり野菜に関心を持っている人が多いようです。有機野菜を使うというのもその初歩的な例ではあるのですが、やはりイタリア料理ということで、日本にない野菜を使わないといけない料理も多いし、それを使うとなると高価な輸入野菜を使わざるを得ない......
 かといって高いのに鮮度は落ちるわ、それで不味いわ、ということになると、我慢できないわけです。

 で、生産地を尋ねて、日本でそのようなイタリアの野菜を作って行くことになります。徐々にこの辺が効を奏し始めて、新しい野菜を作り始め、日本の土壌・気候にあったイタリア野菜の種類も増えつつあるようです。

 もう一つ。日本で特に野菜の種類が多いのは京都です。
 京野菜というのが、ちょっとしたブランドにもなってきています。これも、一時期死にかかっていたところもあります。
 京都とその近辺の気候・土壌でとれるから、京野菜なわけで、そこに多様な品種の作物がとれていたわけですが、それらが西洋野菜に押され、作る人も少なくなっていき、どんどん減ってしまっていくことになりました。
 これも、やはり京都の調理人たちが、いろいろ見直し始め、生産者と一緒に、一部そのような昔の野菜を見直していることもあるようです。典型的には、京都・菊乃井の板長を務める村田吉弘さんとか。

 このへんが、高付加価値型の野菜栽培ということで、全般的に、若い生産者の人が、本当に力を注ぎ始めているわけです。生産者の人も、その野菜がどのように調理されて、客に提供されているのか、それを知ることで、その野菜がもっている力、美味しさみたいなものを、新たに実感するそうです。
 
 ところで、基本的に、<食>という領域では、外食メニューの家庭の中への取り込みというのが、戦後の食マーケティングでは、何しろ大きなうねりだったと思います。
 野菜をもっと食べてもらうためには、当たり前のことなのですが、美味しく野菜を食べられる、という人が増える、ことです。この意味は、毎日食べても本当に美味しい、と感じる素材と、それを調理できる腕と、そのような野菜料理を美味しいと感じる食べ手が同時に増えていかない限り、決して消費は伸びません。

 美味しい和食の店に行くと、調理された煮物の野菜などが本当に美味しく、食べたときに、ああ、自分はこんなものが食べたかったのだ、という気にさせてくれます。
 それは、美味しい中華料理を食べに行ったり、凝りに凝ったフランス料理を食べに行ったりする時などとは全く異なる感覚です。
 サラダというのは、野菜の中でも最も便利な食べ方ではあるのですが、私などは、これだけでは貧しい感じがしてしまうのです。野菜料理というのは、結構手間がかかる、その手間をかけないと美味しくないのですね。
 ここが、なかなか難しいところではないかと思っています。

 以前、某食品事業部で、メニュー開発をしたことがあり、そのテーマが実は蛋白源と併せた野菜煮物料理メニューの開発だったのですね。そのことを、思い出しながら以上のことを書いてみました。

 野菜は必要だ、というのは、誰にも頭の中では本当に良く分かっていることなのですが、それが、なぜちゃんと摂取できないのか、それを阻害しているのはどこなのか、都市生活の中では、その阻害要因が山ほどあったりするのです。
 同時に、それを美味しく食べる技術が失われている、そのことも大きな課題だろうとも思います。
 あるいは、スーパーで買うトマトの不味いこと。これ一つとっても、生産だけの問題ではなくて、また流通にその責任全てをなすりつけることでもないのですね。そのようなトマトを買ってしまう人がまだまだ多いから、その不味いトマトが流れる仕組みが残ってしまう、なんてこともあります。

 野菜ということだけではなく、もっと<食>そのものの全般的な問題が、食のある分野を探っていくと、すぐそこらへんに行き着いたりもします。つまり、野菜を例えば<魚>に変えても、同じようなことが出てきたりしますね。
 昔、食というのは、厚生省や農林省が扱う課題だったのです。それで十分事足りました。今、食をもっと真剣に扱わないといけないのは、文部省や文化庁だという人もいました。

 経済のグローバル化とは、今後もっと多くの安い野菜が日本に流れ込むということです。検疫のチェックの問題だけで、それを押しとどめるということにはなりません。
 日本人が、今の調理力だけで野菜を使っているのなら、そのような調理力に合わせた野菜しか売れませんし、外国からも、それが売れるのですから、そのような野菜が流れ込んでくるということになります。

 イタリアに端を発したヨーロッパなどのスロー・フード運動というのは、やはり、なかなか含蓄のある運動なのではないか、というようなことも感じています。

 あまりまとまりがつきませんでしたけれど、食の問題というのは結構根深いものがあるからだと思っています。


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