日記でもなく、手紙でもなく
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2002年07月31日(水) |
横浜中華街・朝陽門そばにできる地下鉄駅 |
2004年に横浜中華街へ地下鉄が延び、朝陽門(東門)近くに駅ができるという記事が出ていた(日経朝刊・首都圏経済ページ)。 現在、東京方面からこの中華街へ出ようとすると、JR石川町、横浜寄りの改札から出て、中華街へ入っていくか、(関内駅降りてすぐの)横浜スタジアムの脇をぶらぶらと抜けていくか、そんな人が多いのではないかと思う。もちろん、横浜駅や桜木町駅からバスに乗るという手がなくもないが、石川町から歩いて5分くらいのところにあるわけだから、さほど歩いて遠い場所にあるとは思えない。地下鉄ができたらできたで、利用客は充分ありそうだが、東京方面からの客の一人である自分のことを考えると、どんなふうに利用するか、あまり見当がつかないようなところも残ってしまう。
ただ、この新しい地下鉄というのは、渋谷につながる路線になるとも書かれていた。とすると、東急東横線が横浜経由で中華街を通っていく路線になる、という可能性が一番高く、東横線沿線に住むような人々が、中華街に行きやすいルートをつくる、というところが、この話の一番のコアになる。 もう一つは、横浜駅から中華街へ行くにあたって、十分考えられるのが海側に新たに開発されているみなとみらいを経由していくコースである。国際会議場や赤レンガパーク経由で、神奈川県庁から中華街へ入っていくような路線を考えているのではないか、という気もする。もしそうであれば、新しく変わってきている横浜マップ上で、利用者がかなり想定できる路線になるだろう。そのようなルートが想定されているとすれば、別に中華街へ行くということではないにしても、自分自身が様々な目的や理由で横浜へ行き、その横浜の中で過ごす場所や時間のことを考えると、その新しい地下輝の利用が、少なくとも年2−3回は出てきそうな気がする。 更に、港の見える丘公園から本牧へ抜けていくことなども考えられているとすれば、本牧がイメージ的にかなり近くなってもくる。
中華街のほうに話を戻すと、地下鉄駅に近い朝陽門というのは、ホリデイ・インのすぐそばになる。横浜−桜木町−関内−石川町の駅を底辺に置いて描かれたような横長長方形の横浜市街図などで見ると、朝陽門の位置は北にあり、朱雀門(南門)が東の位置にあたるような気がしてしまう(朱雀門は、元町通りの中央あたりの位置から、運河を渡ったところにある門)。いずれにしても、現在東京方面から電車でこの中華街へ向かうと、この朝陽門をくぐって中華街に入っていくというのは、最もまれなパターンだ。 地下鉄の駅が、この朝陽門のそばにできるということになると、中華街へ入ってくる人の流れ方が、かなり変わってくることになるだろう。
ただし、中華街の場合、果して地下鉄の駅ができるだけで、(例えば大江戸線の麻布十番のように)商店街に来る人が増えたり、客層が拡がったりするようなことになるのだろうか、という疑問もまだ残る。 中華街といっても、その大半は中華料理店の集合体である。中華食材が揃うという面があるにしても、<中華料理>そのものの魅力の高さが、今の日本人に充分保たれているのかどうか、同時に中華料理を楽しむという行為の中で、横浜中華街がそれをどの程度満たしているのか、という問いかけをいつも行っていかないと、新しい中華街の発展もおぼつかない。
横浜に住んでいる人にとっての中華街だけで良いのであれば、そこまでする必要はないだろうが、東京からも足を伸ばしてもらう、ということになれば、メニューや空間設計、価格体系などの見直しは、今後一層必要になってくるような気もしている。また、それをやっていかないと、中華街全体の地盤沈下が生じてしまう。 自分のことを考えてみれば、現在、横浜中華街で中華料理をぜひとも食べたい、という気にはあまりならない。銀座で食べたほうが、自分の食べたいものが適価でおいしく食べられる、とも思ったりする。新宿にある、ヒルトンやセンチュリー・サザンのホテルで食べる中華料理のほうが、ずっと洗練された雰囲気で中華料理を楽しむことができる、とも思う。点心をいろいろ食べたいと思うような時なら、赤坂とか表参道にある店を、すぐ思い浮かべたりもする。中華を食べるために、わざわざ横浜まで行く、というような気はおこらない。 用事などがあって、横浜へ出かけた時、おなかが空いて、それが中華街のそばなら、中華街で食事をして帰るか、という気にもなるが、せいぜいその程度だ。横浜駅周辺とか、あるいはそこよりも中華街にずっと近い元町にいたとしても、恐らく中華街の中華を選択する、ということはほとんどないような気がしている。
ある意味で、食を中心とする<文化性>のコアが、食事の選択の中に無意識的に反映されてきたりもする。日本料理、イタリア料理、フランス料理、あるいはエスニック、さもなければファーストフード――などの、まさにカテゴリー対カテゴリーにおける、客の奪い合いの中にいる、ということでもある。しかも、それと同時に、もう一方では、横浜中華街の中華料理店が、日本のトップクラスの<中華料理>を、今でも牽引しているのかどうか、という視点からの検証も必要だろう。後者の視点というのは、ずいぶん前に、横浜中華街から消えているような気がしてしょうがない。
2002年07月30日(火) |
<キプリングの日本発見> |
ラドヤード・キプリングといえば、「ジャングル・ブック」の著者として、あまりにも有名な作家である。 そのキプリングが、実は明治時代に日本を2回訪問しており、その訪日記録がかつて出版されていた。しかし、時代を経るうちに、当初の文章が削除されたり修正されたりして、当初書かれた内容とはかなり程遠いものになってしまったらしい。
1980年から84年にかけて、駐日英国大使を務めた(Sir)ヒュー・コータッツィ氏と、キプリング協会が発行する機関紙(Kipling Journal)の編集長を20年間務めたジョージ・ウェッブ氏は、キプリングの訪日記を当初発表されたままの形で編集し直すと同時に、かなり詳細な解説と注を付し、1988年に<Kipling’s Japan>を発刊。1988年というのは、まさにキプリングが最初に日本に来てから、ちょうど100周年にあたる年である。 この本の翻訳書が、今年6月、中央公論新社から発刊されているのを1週間ほど前に本屋で見つけた。
第一回目の来日は明治22年、キプリングがまだ無名の23歳の時。ラフカディオ・ハーンが日本にくる少し前の明治である。 キプリングの驚異の眼差しの中で、長崎、瀬戸内海経由神戸(船の旅)、大阪、京都、(とりわけ興味深い)京都から横浜に至る東海道汽車の旅、箱根、日光、東京などのエリアと明治という時代が、まさに追体験できるような本だ。
翻訳にあたった青山学院女子短期大学の加納孝代教授の後書きによると、いかにキプリングの描写が正確であったかがよくわかる。
ただ、今回読んでいた中で、日本の描写そのものだけでなく、一点米国人のことを皮肉たっぷりに、しかしその本質(の一部)を見失うことなく記述しているくだりがあって、唖然とするほどに面白かった。 [ 日本には大勢のアメリカ人宣教師がいて ・・・・(中略)・・・・ 彼らは日本人に「進歩」という観念を浸透させつつある。そして、隣人を出し抜くことや、自分の地位を向上させるのは良いことであると、より一般的に言えば、生存競争の中に入っていって粉砕されるのは良いことだと説いてまわっている。・・・・ ] もちろん、キプリングは、良きアメリカ人のことも忘れずに描いているので、そのバランス感覚は極めて優れているのだが。
26日の金曜日も、昨日27日も、なにしろ暑い日だった。空気が熱気を帯び、それが冷めない。 昨日は午後からずっと出かけていて、夕方近く渋谷に着いたとき、銀行内の涼しいところで20分近く休憩してしまうことになった。展覧会場では、椅子に2度も腰を下ろして休んでしまうし、歩いている時は、あまりに暑くて、かき氷を道端で食べてしまうし..... これは、全て暑さのせいだ。 7月23日が大暑と言われる日だから、この日を越すあたりが一番暑い日になるのだろう。
ところが、今日は一転して、涼しい風が吹き抜けていく。ちょっと高原にいるような雰囲気もある。 空気も比較的乾燥していて、家に夜戻ってからも、エアコンのスイッチを入れずにすんだ。
暑い日が続いた後の、ほっと一息つけるような日。
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