時々日刊たえ新聞
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2015年05月06日(水) 春だよ〜!

先週この日記を2回書きましたが2回とも途中で消えた!キーボードを打っていると、つい違う所を打ってしまい、別画面に飛んでしまうことがある。そうなると、この日記は戻ってもデータが消えています。こまめに保存しながら打ちこんでいく必要があるかな。いい方法がないかな。あ、昔みたいにワードにでも打ちこんで貼り付けるとか?懐かしい。

消えてしまった日記には4月12日のメッセージに触れた箇所があったんだけど、2回も消えたということはupしなくてもよろしいってことだな。(笑)
聖書の箇所と説教題を記しておく。ルカによる福音書24章28〜32節「互いの心が燃えたじゃないか」石橋牧師による。

4月からパートヘルパーとして本格的に稼働中。1ヶ月経ちましたが、各利用者宅の違いや実施事項が頭に入って、すべきことを迷わず時間内で出来るようになりました。失敗も多々あるけれど。ドンマイ!(笑)

仕事で家を出たり入ったりがとても多い。車を走らせながら突然の桜の開花に感動したり、その過ぎ去る早さに驚いたり。見渡せば山々は若葉色。花壇に花々。札幌のこの時期はダイナミック、大好きな季節です。


さて、5月3日の礼拝のことを書きましょう。
我が教会の若き牧師、杉山望先生のメッセージでした。夕礼拝でメッセージを聴いたことはあるけれど、主日礼拝でメッセージを聴くのは初めて。去年7月の来札時とこの4月19日のメッセージを、わたしは旅行中でお聴きしていない。
ピリピ人への手紙3:12〜16より「追い求め続ける」と題して。
この「続ける」というのがわたしは好きでして、完璧に何かをなさなくても、続けていれば何かが変わる、あるいは近づいて行く・・・と思っている所がある。タイトルからイメージを膨らませるわたしには魅力的なスタート。

ところが、杉山先生は「パウロは完全な者になるという目標を追い求め続けました」と言う。目標が「完全な者になる」というのは、人間は完全な者になり得ないと思っているわたしには不思議な言葉。そういう議論も出てくるだろうと予測しながら、杉山師は敢えてそこから口を切ったのだろうか。

パウロがイエスさまに引きつけられ、捕らえられた時、パウロは全く新しい歩みを始めた(キリスト者を迫害する者からキリストを伝える者へと)。その原動力は「救われた喜び」だろうか。
パウロは「わたしは救われているのだから変わる必要がない」とは言わず、自分の変化を良しとして生き続けた。
自分のことで言えば、わたしがイエス・キリストに捕らわれた後、何かに縛られたのではなく、むしろ年々日々自由になっていることを実感した。どんどん変わる事が出来る自分を知った。

変わる事をいとわないパウロには追い求めるのに疲れてしまったり諦めてしまったり、やめてしまわないエネルギーがある。そのエネルギーさえも神さまが与えて下さる。パウロは、神さまが与えて下さるものを信頼している。目標に向かってひた走るパウロは、自分が到達するところさえも神さまが与えて下さると信じているんだね。

キリスト者を殺す程の反キリスト者だった者が、徹底的にイエス・キリストを宣べ伝える者になっていく、何て神さまのなさることは大胆なんだろう。
徹底的に身を任せ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指す・・・やっぱりこの目標は「完全な者になる」ということでいいんだなと納得した。なし得ようとなし得なかろうと、それは神さまにお任せ。諦めずに追い求め続けること、それがパウロさんから聴くメッセージだと知る。

※わたしが礼拝等メッセージに触れて書くのは、あくまでもわたしの聴き方の範囲でして、忠実にメッセージを追って書くということはほとんどありません。勝手な感想なのです。








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