時々日刊たえ新聞
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2007年03月27日(火) タッチ!

3月25日の説教は奥村牧師の話された言葉を使わせていただけばわたしの心にもしっかり「触れた」!マルコによる福音書5章25節から34節。説教題は「主に触れたなら」

婦人科の病と思われる悩ましく重い病気を長年抱えていた女性が、イエスさまに出会った。押し寄せる群衆に取り囲まれているイエスさまに近づいて勇気を出して(必死で)その衣の端に触った。奥村先生は「かすかに主に触れた」あるいは「つつましやかな一触れ」と表現している。そんなささやかな一触れをイエスさまはしっかり感じて群集の中で振り向いて「わたしの着物にさわったのは誰か」と言われた。この時「一触れ」の出会いはしっかりと顔と顔を見合わせる出会いになったのを想像して胸が熱くなる。
その女性の「隠れた心の痛みすべてをご存知」であり「かすかな呼び声、魂の叫び声をしっかり聴いた」イエスさま。イエス・キリストの衣の端にかすかに触った彼女は、実はイエス・キリストに彼女の魂がタッチされたのだと言う。わたしは本当にそうだと思った。
奥村先生って聖書の中の女性のシーンを語るのが得意なのかな?先生が札幌教会に赴任する前に札幌教会に来てして下さった説教はサマリアの女のところだった。<ここ参照>わたしには忘れられないものになっている。

さて、礼拝の後、3月のお誕生祝いや、勉学で遠くに旅立つ人の送別、週の半ばに教会の集会に出かけて行く者たちの紹介がなされ、その一つ一つに祈りが捧げられた。祈りのオンパレードになった。更にそのクライマックスは、ジャーン!石橋副牧師とYちゃんの「結婚します」宣言。Yちゃんのお母さんと副牧師のご両親も前に立たれてそれぞれが満面の笑みだった。石橋先生こと大ちゃんは、普段は(その若さの割りに)落ち着き払った語りをする人だけど、今回の語りばかりはちと高揚していた。(笑)当然だね。落ち着き払っていたらハリセンしたくなったかも。
隠密に付き合っていたらしい。ふん、おばさんたちの噂には上っていたけどね。(笑)教会で出会った二人が結ばれていく。何て嬉しい事だろう。大ちゃんのポーカーフェイスには、青年達はしばらく大ちゃんをいじめていいと思うんだけど、皆さんあまりいじめていないみたい。(笑)
おめでとう!神さまに祝福されてこれからも愛を深めて行って下さい。(こういう常套句書くと結構照れるね)

今日からわたし二泊三日、教会の小羊会キャンプ(小学新5-6年生対象)の引率者として静岡県天城に行ってきます。ですから↑は置き土産で〜す。(^^)v


2007年03月26日(月) ペースダウンしよう

今日はお休みをいただいたので、しておきたいことがあった。区役所や銀行、メガネ屋さん、スーパー、郵便局と渡り歩いた。滞っていたことを片付けて気持ちがいい。
区役所の駐車場は大変混んでいてしばらく待った。高齢者の優待パスの取り扱いや、選挙(知事、市長選他)の不在者投票開始とぶつかったからのようだ。駐車場入りを待っている間、歩道の雪をあっちからこっちに運んでいる初老の男性の仕事を見ていた。年のころは60代後半。白いものが目立つ整った髪、細身でインテリ風。うちの夫の10年後はこんなかなぁという風貌。(^^;)金スコップで雪を四角く切って、カステラを切り分けたみたいに同じ大きさ・形の雪を車道側に運んでいた。こうしておくと雪解けが早い。細身であるゆえに心もとなく見えるけれど仕事はゆっくり確実に進んだ。わたしは「淡々と」とか「持続して」という言葉や実態に感動する質(たち)です。心を込めて自分の任務をし続けること、それは尊いと思う。
花火のように華やかな働きでなくていい。偉くなくていい、見るからに素敵でなくていい。ただの人(人から顧みられる事の少ない人)で十分。人知れず持続する何かを生涯に渡ってしよう。あなたの良さは神さまの目に映っているわけだけど、わたしにだって見えるよ。神さまを信じて一所懸命生きよう。(愛しい人たちにエールを送る)
さらに想った。わたしが最後まで出来ることは何かな?「祈り」かな。ある種の認知の低下が起きたら祈る事も忘れる時が来るかな?その時はその時だ。取りあえず意識が無くなる寸前まで祈る事が出来たらいいなぁ。

駐車待ちをしているだけで想いは大きく拡がった。(笑)いつもなら駐車するのに時間がかかるんだったらわたしは待てない。ずるしてどこかに停めるか、諦めて別の用事を足すでしょう。急いでいたら気付く事が出来ない光景がある。急いでいたら起らない想いがあるってことに気付いた。


2007年03月20日(火) 教会が変わる

今年度わたしは教会で「奉仕(担当)執事」という役目をいただきました。札幌バプテスト教会において、かつて無かった役目。1年弱前、何をしたらいいのか解からなくて頭が真っ白???、しかし「最初」とか「先駆者」って言葉に敏感なわたしは(^^;)、やってみるかぁと思った。「思った」のもきっと神さまがわたしの心を動かしたのだと思う。

教会には奉仕が沢山あるけれど、奉仕が重荷だったり嫌だと思う人が少なからずいる。それが嫌で教会から足が遠退くなんて本末転倒の出来事だってあった。わたしもクリスチャンになった途端に、婦人会の役員だの、未就園児の託児のグループのリーダーになったんだけど、内心「どうしてこんなに毎日教会に来なくちゃいけないの!?」と悲鳴を上げた時があった。今では毎日教会に行きたいけれど、行けない。(笑)

2年前に札幌教会に着任された牧師二人、札幌教会の奉仕のあり方に一石を投じて下さった。奉仕とは自ら進んで(喜んで)神さまに捧げるものである。人に頼まれて嫌々する奉仕から、自分で志願して(選び取って)感謝してする奉仕へと変えようと目論んだ。超多忙な牧師と、忙しぶっているわたしでは話はなかなか進まなかったが1月後半になってお尻に火が点いた!火が点いてからは早かった。

志願していただく奉仕の一覧、その奉仕の内容、期待人数など、次々と原案が決まって行った。新年度に向けて2月11日から奉仕志願アンケート用紙を配って、皆さんに奉仕を申告していただくことが始った。うちの教会の礼拝出席は約130名くらい。それより少ない時もあるし多い時もある。そして今奉仕志願アンケートに応えて下さった人が112名。この人数は驚異的な数だと思う。両牧師とわたしはこの1ヶ月間わくわくしながら集計と調整作業をしてきた。

たとえば「教会学校の教師・補教師・書記」という奉仕は今年度46名の人が関わっているけれど、新年度の志願者は当初27名だった。あの人もあの人も・・・志願していない。人数が満たされない場合、調整をしますと予告していた。両牧師とわたしは結果を持って一度話し合った後、メールやミクシィメッセージで情報を共有し、報告し合った。分担して一人ずつお声をかけ、引き受けていただく作業をした。石橋副牧師の神さまが乗り移ったかのような(^^;)繊細かつ大胆な交渉は素晴らしかった。奉仕者が着実に増えて行った。
いまだ調整中ですが、今大方の奉仕に奉仕者のお名前が載っている。教会学校小学科のメンバーなどは、若い人が一挙に加入することとなった。新年度は大きな変わり時と思われる。

これが神さまの祝福でなくてなんだろう?お尻に火が点いてからのこの間、神さまは確実にこの志願アンケートを導いて下さっている。この恵みは集計調整をしているわたしたちに役得として存分に味あわせていただいている。
さらに、志願アンケートにしるしを付けるという行動をした皆さんが、心から奉仕を捧げ、それが喜びいっぱいの出来事となりますようにと祈ります。


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