時々日刊たえ新聞
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2005年10月26日(水) 今日はお休み

いつものように起きた。グラスにアイスコーヒーをたっぷり、牛乳を少し入れて、食卓に着く。半分くらい飲んで祈り始め、その後聖書を読む。残りのアイスコーヒーを飲む(若干温くなっている)。時間があればインターネット接続する。今日はしなかった。全自動洗濯機を動かし、子供たちのお弁当を作る。今日は息子も仕事がお休みだと言うので娘のだけ、彼女が喜ぶ巻き寿司を作った。毎朝なんだけど、携帯の目覚ましの音楽が何回も鳴るけれど娘は起きてこない。朝、娘は洗濯物を干す任務を負っている。容赦なくこれはやってもらう。8時、娘を車に乗せて学校に向かう。今年の初夏から車で送ることが多くなった。わたし娘を束の間甘やかしたいのです。その後今日は職場に向かうことなく、学校の近くの24時間やっているスーパーに行き買物した。朝8:30頃の24時間スーパーは、品物全然揃っていない。欲しい肉並んでいない。卵は高いのしかない。野菜高い。買うものないじゃん。今夜はおでんを作ろうと思って早く仕込むつもりで買物したかったんだけど、意味なし。こんにゃくとパンのみ買って店を出る。車を走らせると、いつも寄る美容院がすでに開いているのが見えた。よし、髪を切ろう。空いていてすぐに終わった。帰り道は河川敷を走ることにする。藻岩山の紅葉の美しさにうっとり。信号待ちの時、携帯で写真を撮った。家の近くの銀行に行き支払い等済ませる。スーパーが開くのにはまだ時間があるのでいったん家に帰る。息子のさんちゃんが、起きてご飯を食べ終わったようだ。「映画を観たいんだけど、いいのがないしなぁ」と新聞を見てつぶやいている。「お母さん、マザーテレサが28日までだよ」と教えてくれるが今日は映画に行く気がしない。「藻岩山に(登りに)行こうか?」「ドライブに行こうか?」と誘うが返事がない。返事がないってことは、彼には何か心積もりがあるってことだな。そのうち「ちょっと散歩してくるワ」と出て行った。わたしもスーパーに出かけた。1軒目、肉高いから早々に出て別の大型スーパーに行った。2軒目でおでん材料揃えて帰宅すると、さんちゃんパソコンでDVDを観ていた。「オーシャンズ12」そうか、映画を観たいってつぶやいたのは、DVDを借りに行く伏線だったわけか。お母さんとドライブするより、観たいDVD観た方が良いわけか。こんなことに「成長したなぁ」と感慨深い母。

12:00おでんを仕込んでゆっくり煮込み始めた。久々に掃除機をかける。あぁ、きれいな床っていいなぁ(笑)。ソファのカバーをきれいに掛け直して、そのソファにどっかり座って文庫本を読み始めた。先日たまたま手にとって読み始めて惹き込まれているローレンス・ブロック「聖なる酒場の挽歌」。心理描写、情景描写がすばらしい。主人公の孤独が胸に迫る。このシリーズをこれから読み続けたくなるに違いない。
さんちゃんが出かけて行った。スポーツクラブに行くそうだ。23才の息子ならどこの家でもこのくらい手が掛からないのは当然なんだろうけど、わたしはしみじみ「手が掛からなくなったなぁ」と感動している。起きる、食べる、出かける、遊ぶ・・・全部自分でしている。よしよし。

今夜は教会の祈祷会に行こう。先週は行こうと向かっていたら、娘から「家の鍵忘れた〜」と家の前から電話が来たため引き返した。まさか、今日も鍵忘れちゃいないでしょうね!?目を上げると紅葉が美しい。そろそろ電気を点けようか。日が暮れるのが早いね。
こんなにのんびりした休日を過しています。


2005年10月02日(日) 『本当の自分になること』

特別伝道集会の二日目、加藤先生による礼拝メッセージの題が上記タイトル。聖書の箇所はコリント人への第二の手紙5章17節〈だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古い者は過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。〉
実は説教の一部しか覚えていない。(^_^;)一緒に座っていた女の子に気が向いてしまった。こんな時もあるさ。(笑)でもね。タイトルだけでも勇気が出てくるような気がしませんか?口に出して言ってみる「本当の自分になること」とても魅力的な言葉だと思う。本来の(本当の)わたしというものがあって、わたしはそれに気付いて、戻りさえすればいいいんだ。素直になること。悔い改める事。自分を愛する事。・・・すいません、メッセージの中身は先生の用意したプリントを読みましょう。(^^;)

日本の多くの教会では年に一度か二度「特別伝道集会」という類の集会を持っているんじゃないかと思う。うちの教会でも毎年持たれているんだけど、実は去年はしなかった。牧師のいない二年目で、わたしたち教会員はちょっとへたっていたかもしれない。いや、ちょっと強がると、無理しない事を選択したんだと言っておこう。(笑)でもこれからは少々の無理はするだろう。牧師二人の援軍がいるから。教会は自分たちだけの平穏を願って集まっている集団ではない。イエスさまは弟子たちに世界に出て行って伝えよとおっしゃった。伝える人がいなかったら伝わらない。わたしもイエス・キリストを知って生き方が変わった。偶然に知ったのではない。伝えられたから知った。
この集会に一人でも多くの方に来ていただきたくて毎日静かに名を挙げて祈ってきた。結局声をかけることが出来なかった人もいた。神さま、次の時は勇気を下さいと祈る。お誘いできた人の何人かは足を向けて下さった。どんな風に感じられたことだろう。続けて教会に来て下さるといいな。
加藤先生ご夫妻については、もう改めて書くこともない。わたしの最初の牧師であって、よき師に出会って聖書の言葉を身に沁みるように学んだんだと今になって知る。喜美子夫人から学んだことも無尽蔵。さらにその後神さまを通して出会った全ての人がわたしにとって必要な人だった。ちょっと後ろを振り返って、さぁこれからも笑って生きるぞ!と思う集会だった。(何て大雑把な感想でしょ^^;)


2005年10月01日(土) 柔和と謙遜

加藤先生をお迎えしての特別伝道集会一日目。まずリリーズ・オブ・ザ・フィールドの賛美を聴いた。メンバーの何人かは出産や転居で参加していないけれど、少ない人数でも元気がいい。加藤先生を懐かしく思って教会に足を向けて下さった人たちは割と高齢な人が多いので、リリーズの歌声は新鮮だったんじゃないでしょうか。(笑)リリーズの、神さまを賛美するその真っ直ぐさと熱さとハーモニーの美しさに毎回感動する。今回は「ケイトス」という我が教会の賛美グループ(女性二人と男性一人)も歌った。オリジナル曲「あなたがいる」これも心に沁み入りました。涙出ました。お聞かせ出来ずに残念です。

加藤先生のメッセージは『どう生きるか』マタイによる福音書11章28節〜30節〈すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。〉
加藤先生は、イエスさまはあなたの重荷を無くしてあげるとは言わなかった、イエスさまのくびき(牛に荷車を引かせるために牛の首につける板のこと)を負いなさいと言っているんだよ、と言う。誰でも重荷は無くならない、重荷の無い人は一人もいない、だけどイエスさまから柔和と謙遜のくびきを学んで生き方を変えることによって、重荷を負うても生きていけるんだよ、こう先生は説いて下さったと思う。わたしはそう聴いた。柔和と謙遜、これ近年のわたしの最大目標です。そうなりたいのです。(加藤享牧師のメッセージ全文をプリントしたものがあるので、本当のメッセージを知りたい方はそちらを読んで下さい。お声をかけて下されば差し上げます。)


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