★ 夏海の日記 ★
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これを書いている今は、11月6日... すでに日記じゃ、なくなってるわ~ ^^;
10月29日に書いた日記を読んで、友達が教えてくれた言葉が、まさしく私の欲しかった言葉だったので、それについて書きます。
29日、カウンセラーの存在が欲しいって書いたのだけど、彼女の言葉を借りると、私が今 欲しいのは『心を写す鏡』なのです。
私が長い間自分の気持ちを我慢していて、どんどんストレスを溜めて、壊れてしまった話は、今までいっぱいしてきしました。でね、誰にも言えなかった私の心を、一番最初に話をしたのは、長い付き合いの指圧の先生だったんです。その付き合いは長くて、私が20才くらいからだから、私のストレス加減が判ろうというものです ^^; 私の肩凝りの歴史は長くて、それは『体質』なんだと思っていたけれど、どうもストレスのせいだったようで。だからストレスが我慢できない状態、つまり寝込む状態になる直前になると、もう泣きそうなほどの肩凝り&首凝り&頭痛に襲われます。そして先生に泣きつきに行くんです。辛いよ~!何とかして下さ~い!って。で、指圧や鍼をしてもらって、その次の日、寝込むんです。(それが『普通』だと思っていたっていうのが怖いなぁって思います)
さて、彼は『少林寺拳法』の師範で、『少林寺』っていうくらいだから、師範クラスになると、お寺の住職の資格がないとダメなのだそうです。つまり、彼は少林寺のお坊さんなのです。(もちろん普通の生活をしているので『在家出家』になるのでしょうが)だから、精神的な話ができるのですが、そういう(ぼくはお坊さんなんだよ~って)話を聞いたのが、7年ほど前なので、それ以来かな。私が自分の弱音を吐けるようになったのは。
流産して、その傷が癒えず、毎日毎日辛い毎日だった時に、前にも書いたけど、仕事で転んで、自分の意志で体の力が抜けない状態になって、彼の元に通いました。筋肉を柔らかくするお薬を飲んで、指圧や鍼をしてもらって、でも体の硬直が取れず、体が緊張しているせいで、睡眠も充分取れないという体的にも辛い毎日でした。 その時に先生が言ってくれた言葉をお教えします。
ぼくは、指圧や鍼で体を治すお手伝いをしてあげることはできる。でも、本当の意味で治すのは、自分自身なんだよ。何か辛いこと、ある?
ぶわーって涙が出ました。その言葉は、私が本当に欲しかった言葉だったんです。心に溜まって、膿のように溜まっていた、辛い辛い思いを吐き出しました。私は流産で辛い思いをした。なのに、当然のように働かされている。流産でさえ、義母の世代には「たったそれだけ」の出来事で、よくある「大したことのない」出来事で、流産だったのに、『ただ生理が遅れただけ』だとさえ言われました。なのに大げさだと。 そして、ころんだことも、着地があまりに華麗だったため、この体中の痛みは、痛がりな私の大げさな表現だとしか思われていないということ。 毎日何を言われるかと、心でファイティングポーズをとって生活していて、心でファイティングポーズをとったまま寝ているので、眠れないっていうこと。 心に膿がいっぱい、いっぱい溜まっていたんだと思います。それを吐き出すことが出来た。吐き出せる相手ができた。
辛いことは辛い。でも、その思いばかりに囚われていては前に進めない。だから、少しずつ少しずつ未来に歩いて行けばいい。それは、夏海さんがすること。夏海さんにしかできないことです。だからね、体が辛くなったらいつでもおいで。お手伝いは、いつでもするからね。ここへ来て、体の疲れを取って、また頑張れば良いんだから。って言ってくれました。
先生が、何かアドバイスしてくれたとか、カウンセリングしてくれたとかではなく、ただ私を受け入れてくれた、弱っていても私、泣いていても私、笑っていても私、私が私でいるだけで、ただそれだけで良いんだってことを教えてくれたの。 泣くなら、どんどん泣きなさいって。
でも、泣きやむのは私が決めること。 その後に、1歩踏み出すのも私。 先生は、手助けは出来るけれど、私の替わりには誰にもなれないんですよね。
だから 泣けるだけ泣いたら、 私は私の足で立って 自分の足で歩き出す 答えは私の中にある それを見付けるか、見付けられるか
その言葉は、関係ない人には、ただの言葉かもしれない。でも、その『ただの言葉』の中に真実があるかもしれない。生きる、考える為のヒントがあるかもしれない。私が先生の言葉の中に救いを見付けたように。 本当に欲しいのは、私の心を写す鏡なんだけど、そんなものは悲しいかな存在しないから、指標になる存在や、目標になる人、私が私でいられる存在が身近にあるなら、私はいま、幸せなのかも知れない。
でもね、カウンセラーが欲しいの(くどいって? ^^;)
2001年10月29日(月) |
お医者さんへ行って来ました |
前回から、もう2週間経ったのね。年を取るのは早いわぁ~(センセイも、そう言ってました 笑) 受付カウンターに、センセイが載った新聞のコピーが置いてあったので、貰って帰って来ました。 『じゃじゃ~ん!!とうとう院長新聞にのっちゃいました』って書いてあるの。 私の病院って、明るいわ(笑) 内容は、『教えて!ドクター Q&A』
Q. 同居している主人の妹が、うつ病と診断されました。家族としてどのように対応したら良いのでしょうか。
A. ストレスの多い現代社会では、うつ状態やうつ病の人が増えています。 うつ状態とは、気分がひどく落ち込み、何事もおっくうになる状態をいい、うつ病はこのうつ状態にある時期を繰り返す症状のことを言います。しかし、うつ病は単に気持ちも問題ではなく、セロトニン、ノルアドレナリンといった脳内の神経伝達物質の働きが悪くなることによって起こると考えられています。 うつ病の治療には家族をはじめ、周りの人の温かいバックアップが欠かせません。まず、うつ病という病気を理解してあげることが必要です。うつ病の人は、怠けているのではなく、頑張るエネルギーが少なくなっているのです。その為に、励ましは逆効果となってしまいます。また、気分転換に外出や運動を進めるのも良いことではありません。患者さんが安心して休めるように、サポートしていくことを心掛けて下さい。
やっぱり私の考えていた『うつ病』の印象と、同じ事が書いてあるーー! 女脳男脳に付いて、友達と話をしたんだけど、女性のうつ病が多い傾向にある(それって本当かなぁ...)のは、男性より女性の方が、脳内の伝達物質の線が太いからなんじゃないかって思います。 男脳・女脳 に付いては、後日書くね。面白そうだから(*^_^*)
風邪薬を併用した時期に、ちょっとヤバイ感じはあったけど、結構お薬で落ち着いた日々を過ごせたので、別に普通のお医者さんと同じ感じで、聞かれたことに答えるって感じで、診察が進んでいきました。 で、「他に何か話したいことは、ありますか?」って言われて、別になかったんだけど、子供の頃の二重生活(父母とパパママ それぞれの家で育ったことなど)の話をしました。 2週間前に「カウンセリングをしたい」と言ったら、「? 何をテーマに話がしたいの?」って言われて、特になかったので、「う~ん...そう言われると、ない...」って答えたら、「じゃぁ、またの機会に」って断られたの。私は鬱に関してはお薬で何とかなるって思ってるし、不安はないわけではないけど、悲観はしてないから、じゃぁ、カウンセリングで話すのって何があるかなって考えました。センセイ曰く、「これもカウンセリングなんだよ~」って言ったの。確かに、カウンセリングだよね。問診も。でも、時間が短すぎるって思ったの。じっくりと話ができない。(実際受けたことがないのだけど、時間どれくらい持たせてくれるんだろう) 私の母には相談とかできないし、本音を話せる相手として、『もしも』の時のために、カウンセリングの人と知り合いになっていたいって言うのが本音かな。(相性もあることだし)悩みにしても、結局解決するのは私なので、私が『本当は』どうしたいのか、どう思っているのかっていうことを引き出してくれる相手として、カウンセラーの存在が欲しいの。(変かなぁ...?) ここずーっとのテーマである、『子供をどうするのか』ってことも、もう私には分からなくなってる。欲しいのか、欲しくないのか。本当は、どうなのか、が知りたい。
と、いうことで、私が如何に信頼できる相談相手がいないかを説明するために、両親の他に親と呼ぶ存在がいて、不安定な子供時代を過ごしたという話をしたの。 淡々と静かに話をしました。でも、「親が忙しくて、この家に預けられた可哀想な子」と言われて育ったと言葉に出したら、涙が出てきました。あらら...私は、まだそこから立ち直っていないんだ...って、とっても冷静に思いました。私は可哀想な子供だった...? こうなる(うつ病になる)前は、幸せな子供時代を過ごしてきたって思ってました。父母は好きではなかったけど、私にはパパとママがいるって。でも、こうなって、子供時代の記憶がないってことに気が付いた。私はとっても辛かったの?まだ傷は癒えていないのかなぁ...?泣くってことは、癒えてないんだろうね。まだ可哀想な子のまんまなんだね。う~ん...立ち直ったって思ってたのになぁ。
子供のことも聞かれました。どう?って。 私の結婚して最初の悩みは、産む場所が、ないってことだったの。実家には、もう住みたくない。私には実家がない って思っていたし、今も思ってるし。あそこには、私の居場所は、ない から。実家へ『行く』のであって、あこそは私の『帰る』場所では ないのです。 過去に流産したとき、実家へは帰れませんでした。夫の両親と同居していたけど、実家へも帰れなかった。毎日死ぬことばかり考えて、もうダメだ~ってパパママの所へ行こうって思った直後に、家の仕事の手伝いを再開しなくちゃいけなくなって、なし崩しに仕事に復帰しました。 流産した経緯も、義父の心ない言葉を毎日毎日聞かされて、そのストレスのせいだと思っています。毎日が、とっても辛くて、辛くて。 で、やっぱり話しているうちに涙が出てきました。 7年も昔の話。でも、その傷は、まだ引っかかれるとすぐに出血するのね。
そうやって泣いて、泣いて、いっぱい泣いて 過去に変えて、それらも含めて自分を愛せるようになれば良いなぁって思います。 カウンセリング、したいなぁ~
2001年10月26日(金) |
難治性うつ病治療の最前線 ~新聞から |
今朝の新聞にこんな情報が載っていたので、知識を共有しようと思って転記します。 『難治性うつ病』というものの存在があるとは知りませんでした。でもこれを読んでやっぱり鬱病は心の病気ではなく、脳の病気なんだなって思いました。 これを読んで、「自分がそうなのかも」と不安になる必要は、ないと思います。また、「いずれこれに移行していくのでは」とも思わなくても大丈夫ですよ。 ただ、『知識』として、もしなったとしても、こういう治療によって治るのだから、不安にならなくても大丈夫だよとお知らせしたくて。
【難治性うつ病治療の最前線】(記者:藤 英樹)
東京都内在住のA子さん(63)は、うつ病を何度も再発させてきた。薬物治療が効かず、経口投与より即効性がある点滴注射も試したがだめ。立ちくらみなどの副作用もひどかった。 食事がとれず体重が減り、不眠が続いて、自分を責める罪業妄想も著しく、自殺を心配した家族が総合病院に入院させた。 同病院の医師は薬物治療は難しいと判断、電気けいれん療法を勧めた。100~200ボルトの電極を患者の頭部に当て、3~4秒間、通電して、脳機能を改善させる。全身麻酔を施し、けいれんによる骨折を予防するため筋弛緩薬も用いる。 血圧上昇や不整脈、頭痛や吐き気、一時的な記憶喪失など副作用もある。こうしたことを詳しく説明し、同意を得た。 治療は30分ほど。1回の治療でA子さんに生気が戻り、3,4回目の治療で罪業妄想、自殺願望なども消えた。治療は計6回行われ、うつ症状は快方に向かい、3週間で退院。現在は抗うつ薬を飲みながら、医師が経過を見ている。 電気けいれん療法に詳しい都立荏原病院精神科の土井永史医長は「電気ショックというと、負のイメージがあるが、現在は安全性に十分配慮して行われており、難治性うつ病に大変効果がある」と話す。 同治療法は1930年代、イタリアで精神分裂病治療に使われ、効果があり広がった。しかし、麻酔が施されないなど乱用もあり、50年代以降、抗うつ薬の啓発が進むにつれ衰退した。 その後、70年代になって「欧米では、薬が効かない、副作用が強い、自殺の危険が高いなど、高齢者らの難治性うつ病を対象に再評価されてきた」と土井医長。 欧米では電気量を自動的に設定、脳波解析も行え、副作用が少ない「サイトマトロン」と呼ばれる最新機器も導入されている。 日本でも90年代に入って、同療法を行う病院が増えてきたが、「サイマトロンが許可されていないなど、欧米に比べて立ち後れは否めない。難治性うつ病に苦しむ患者の治療選択肢を広げるため、もっと正当に評価して」と強調する。 ただ、同療法になぜ効果があるのかの作用メカニズムは、まだよく分からない。神経伝達を一気にリセットする働きや、「脳神経系の代謝を変える」(土井医長)可能性などが指摘されるが、今後さらに調査研究を進める必要がある。 一方、最近は新たに「磁気刺激療法」も注目されている。磁気を頭部に貫通させ、それによって発生する過電流が大脳の神経細胞を刺激し、難治性うつ病などに効果があるとされている。去年カナダが世界で初めて臨床使用を許可した。 同療法に詳しい鹿児島大医学部の瀧川森國教授は「麻酔も不要で、患者への負担がより少ない簡便な治療法。将来、電気けいれん療法に取って代わる可能性もある」とみている。
◆ 高い治療費 ◆ 米製薬会社・イーライリリーの調査によると、抵抗性(難治性)うつ病患者の年間治療費(約131万円)は、そうでない通常うつ病患者の治療費(約60万円)の2倍以上だった。抵抗性(難治性)患者は自殺率も高まるという。 更に調査では、米国で広く使われている同社製の抗うつ薬プロザック(日本未発売)と抗精神病薬ジプレキサを併用治療したところ、単剤治療より抵抗性(難治性)患者に顕著な症状改善がみられ、副作用にも大きな差はなかった、という。
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今日は盛りだくさん!もう一つの記事を。 紙上診察室で、『被害妄想が激しい61才の父』についてのQ&Aを転記します。 精神科の先生の往診があると書かれてあったので、もしもの時の為に、知って置いた方が良いかなぁって思います。(確かに、私の行っているお医者さんも、往診をしていたわ...引き籠もりの人の往診のことも本で読んだこともあるし。すっかり忘れていた!^^;)そうだよね~。外の世界が怖くて外出できない人が、受診なんてできるハズは ないのだから、往診って、珍しいことではないんだろうね。
Q. 去年、保険会社を退職した61才の父親の被害妄想が激しくなり困っています。近所の人に監視されていると言いだし、被害内容をノートに書き、警察や弁護士に訴えると言います。精神科の受診も拒否するため、母が精神科で精神安定剤を処方してもらい、食事に混ぜて飲ませています。
A. 診察をしていないので、断定はできませんが、内容から、次の三つの精神疾患が考えられます。 ①うつ病の初期。 相談者の父親は完璧主義で几帳面な性格のようです。そう言った人は、退職や身内の死、病気などを契機にうつ病の症状が出やすくなります。 ②老人性痴呆の初期。 被害妄想は、初期の老人性痴呆の典型的症状です。几帳面で真面目な性格の持ち主が、被害妄想の内容をノートに記録して警察などに訴えることは珍しくありません。 ③器質性精神疾患。 脳の老化に伴って、精神障害と似たような症状(被害妄想、幻聴など)が現れることがあります。
これらの症状は、薬でよくなります。副作用が少なく、よく効く薬が出ています。症状に合った薬を処方して貰うためには、専門家の診察を受け、正しい診断をつける必要があります。本人が精神科に行くことを嫌がっている場合には、精神科医が患者さんの自宅に往診に行くこともあります。 精神科と心療内科の医師が連携をとり、患者さんの抵抗が少ない内科を受診して貰うこともできます。内科医や心療内科医を通じて薬の処方も可能ですから、かかりつけの医師に相談してみたらどうでしょうか。 (ストレスケア日比谷クリニック院長 酒井 和夫)
先週の土曜日に、久しぶりに『写真を撮りに』出掛けました。昔はよく撮影に出掛けたのですが、夫の撮影熱が冷めてしまったので、最近はあまり写真を撮ることを目的に出掛けることはなかったんです。 今回は、岐阜県にある、旧中山道の宿場町であった、妻籠宿と馬籠宿へ出掛けました。妻籠・馬籠と言えば、五平餅!(固めに炊いたご飯を軽く潰して、平ぺったい棒に小判型にくっつけて、ごま&くるみ&しょうゆ&みりん で作ったタレを付けて焼いたもの)と、言うことで、夫は五平餅三昧を堪能し、新蕎麦の季節ってことで、お昼ご飯は、蕎麦と川魚の塩焼きも堪能しました。歩く(写真を撮る)→食べる→歩く(写真を撮る)→食べる→の繰り返しで、絶えずお腹が一杯だったような気が...^^;(体重は1kg増 何てこった!)
夫と写真を撮りに出掛けるといつも思うの。人の目線は、千差万別なんだなぁって。夫が見たいもの、興味がある視点と、私が見たいモノ、興味がある視点が、全然別物で、同じもの、同じ場所、同じ時間に撮ったものでも、出来上がった写真は、全然別のものになってるの。 感性が違う以前に、見えているものが違うの。 同じ時間に同じ場所にいるのに、夫の写真には、私の見ていないものが写ってる。夫も(あまり褒めてはくれないんだけど)私の写真を見て、「おっ!」とか言ってくれる。 今回も、同じ夕日を撮ったものを見ても、夫は夕日をメインに、私は景色を撮ることが中心だったし。 夫は昔写真を結構本格的に趣味にしていたので、構図とか被写体とか背景の飛ばしかたとか、『作品』にする取り方をする。(だから、私には解らない写真も多いの) 私は、頭の中に絵があって、その絵を撮りたがる。明暗とか、深い森の感じとか、見上げる構図とか。
私と夫とは、身長が35cmちょっと違う。私はちびっ子なので、絶えず見上げて生活している。だから、見上げる構図が好きで、下から上へ見上げる写真をよく撮る。自分が低いのに、しゃがんだり寝そべったりして、どんどん低い位置から見上げたりして(笑)普通に撮っても、迫力があるのは、私の背が低いせいもあるかもしれないな。(普通の人の視点よりも、子供の背の視点?) 夫が見ている景色と、私の見えている景色は全然別なんだろうな~。もっと背が高くなりたいなぁって、よく思う。空気の流れ加減で、夫の嗅いでいる匂いと、私の嗅いでいる匂いが違うときもあるの。夫は私の目線になれるけど(時々、「ここから見てみ~」って、私の目線で見させたりするから)悔しいことに、夫の目線でみることができない。(三脚でカメラを固定して、抱っこして見せて貰ったことはあるけど)
でもね、同じ高さの身長だったとしても、私が撮る写真と、夫の撮る写真は、全然違うものだと思うの。だって、夫と私は別々の人間だから。 私は私の写真を、夫は夫の写真を。 つまり、オリジナリティーって、そういうことだと思う。 私の目に映ってるものが、相手の目に映ってるとは限らないし、逆もまた然り。
写真を撮るってことだけで、色んなことを考える。 今回、公開したけど、私の脳味噌や、心の中を見せたみたいで、ちょっと恥ずかしいです。 自分に余裕がないと、ものを見る眼も無くなってしまいます。 そこに存在しているはずの『何か』が目に映らない。 1年前、辛くて苦しんでいたある日、車を運転している途中で、何気なく視点を上げたら、美しい雪山が遠くに見えた。その山はずーっと前からそこにちゃんと存在していたのに、その時初めてその存在に気が付いたんです。 見えるってことは、本当に幸運なことです。 見える心の余裕があって、初めて見ることができるのだから。
見る 視る 観る
心も頭も柔らかく、肩の力を抜いて、季節を感じることができるように、 平和に暮らせたら良いね。それって、幸せだよね。
2001年10月17日(水) |
アルコール依存症の記事を読んで |
明日と言いながら、これを打ち込んでいるのは、25日です...。 いつもながら、申し訳ないですm(_ _)m
さて、16日に載せた、『アルコール依存症』の記事に付いて思ったことを書きます。 16日にも書いたように、私はアルコール依存症とは、過去も、今現在も関係なく過ごしています。では、なぜ、この記事に引っかかったのか。それは、記事に書かれている『アルコール依存症患者と家族は、共依存関係にある』という記述です。
『鬱の軌跡』にも書きましたが、依存者の影に、それに荷担する依存者がいることは、あまり認識されていません。例えば、暴力を振るう人と振るわれる人。 暴力を振るわれて子供時代を過ごしてしまった人は、三つに別れます。まず、1.そこから抜け出せて、暴力とは関係のない生活を送ってる幸運な人。次ぎに、2.暴力を振るう人。最後は、3.見逃し勝ちな暴力を振るわれる人。
2の人は、暴力を振るうことでしか自己表現ができず、相手をつなぎ止める手段として、暴力を振るったりします。そしてもちろん暴力が悪いと知っているので、不安になって、優しくいかに自分が相手を愛しているかを訴える。捨てられるのが怖い、愛情不足な人です。 また、逆説的に、暴力を振るったり、相手に嫌がられることをして、相手を怒らせて自分を確認するタイプの人もいます。無視よりも嫌われてでも注目して欲しい寂しい子供。 または、相手を値踏みしたりするのです。相手が本気で自分のことを考えているかを、怒らせることによって試すの。無償の愛情が信じられないから、無意識にワザと嫌われるようなことをして、それでも自分を許してくれるかを試しているんです。
さて、3番目の人。暴力を振るわれても、その相手は、本当は良い人で、自分が悪いから暴力を振るわれても仕方がないって思ってる人。私の為を思って、相手が殴っているんだって思い込もうとしている人。自分に自信がなく、自分がいるだけで、相手を不快にさせてしまうって、相手の機嫌が悪いのは、私のせいだからって思ってる、暴力慣れしてしまっている悲しい子供。 または、暴力を振るわれることによってでしか、自分の存在を確立できない悲しい人。暴力慣れをし過ぎて、平和に過ごしていることに不安を感じて、相手に暴力を振るわせるように仕向ける人(それは無意識に行われるのだから、悲しすぎます!)。
この悲しい2と3の人がカップリングされたら、それが『共依存』の関係にならないハズはないですよね?(恋人・夫婦・親子・友達、男女を問わず)
人に依存する傾向にある人は、ニオイ(オーラ)で分かるんですよ。依存させてくれることに依存している人を。 例えば親子。無償の愛情を注いで子供を育てる親の愛情は、とっても尊いですが、自分の人生を全て子供の為に!自分の人生イコール子供!っていう人は、子供を愛している以上に、子供に依存している人。子供を大人に育てない、子供が子供のままでいるように、自分だけを見るように育てて、子供を潰す人。(でも、その親自身もそのように育てられた、又は正反対の対極な育てられ方をしたと想像できるので、一方的には責められはしないのだけど)
不登校・家庭内暴力・摂食障害も、問題なのは本人だけではなく、親や兄弟姉妹との共依存が隠れている場合も少なくないでしょう。本当にカウンセリングすべきは、本人ではなく、その周りの関係者だったりします。そして、その多くの人は、自分は関係ない、問題は本人であって、本人さえ『まとも』になれば、問題は解決するんだと考えていたりするのです。(そう!私の母のように)
う~ん...長くなって、何が言いたいのか分からなくなってきたわ (--; つまり、共依存の危険と、本人以外のカウンセリングの必要性 それと、今、心の病気で苦しんでいるひとへのメッセージ
あなただけが問題ではなく、ましてや、あなたが悪いのでもない。 自分を責めないでね! まずは、お薬で楽になって、そして過去の親子や兄弟姉妹との関係を(辛いけど)思い出して、何が引っかかっていたかを思い出して、肯定していたそのことを、辛かった!と口に出して、その悪循環から抜け出して下さい。 親子だからこそ、その家を抜け出して、別々の場所で暮らす事は、不自然ではなく、自立と言う名の(世間で言うところの)『普通』のことなんですよ。(嫁姑となると、世間から『別居』なんて言われて大変なんです~!簡単に家を出られないんですよぉぉぉ)そういう選択も可能で、その選択権は、当然あなたにあります。辛かったら、会いに行くのを休止することでさえ、全然オッケーなのです。その道を選ぶ権利を、あなたは持っているのですよ! あなたを傷つける親と一緒に住む必要は、どこにもないよ! 生きる力と、自活できる程度のお金を蓄えて。 今は幸せになる準備の時だからね。 焦らないで 一歩ずつ 一歩ずつ
2001年10月16日(火) |
アルコール依存症~新聞から~ |
いつもの新聞からです。 長くなりそうなので、今日はまず『新聞だけ』入力しますね。
ヨーコ先生の 精神科入門(精神科医・詩人 斉藤 陽子)
【アルコール依存症 1】 家族の一員にアルコール依存症が疑われたとき、専門家に相談するのは当然と思われるかも知れません。しかし、事態はそう容易に展開していかないからこそ、末期状態での受診が多くなるわけです。そこには、どんな問題が潜んでいるのでしょう。 さて、質問。皆さんは家庭において、何らかの役を演じていると意識したことはありますか。 例えば、物分かりの良い父親、優しく朗らかな母親、自慢の娘...。社会の最小単位である家族が均衡を保つために、それぞれが無意識に、特徴的な性格を受け持っていると考えることができるのです。中には「反抗的な息子」という役を演じている人もいるでしょう。 通常は健全に機能している”家族劇団”ですが、アルコール依存症の家庭はどうなのか。その一例を紹介します。 仕事に接待にと、家庭を顧みる事のない夫に不満を募られていた妻。酒量が増えていき、会社にも行けなくなった夫の面倒を見ることで充足感を得る。時々暴れれば、息子が母親をかばう ―― ここでは、依存症患者が家庭内の不安や怒り、緊張感といった負の部分を全て請け負って表現することで、妻と息子は”世話焼きな女房”と”母親思いの息子”をいう健全な役を取得できるわけです。 本来解決すべき家庭内問題が、この図式に隠れて見えなくなっている、という考え方も出来ます。依存患者の存在が、家庭の安定を維持するためには不可欠というパターンに陥ってしまうのです。 否認の病気であるアルコール依存症。本人のみならず、その家族もまた、足並み揃えて治療に取り組む必要があるんですね。そこには、根深い家族の病理が見えてきます。
【アルコール依存症 2】 依存患者の面倒を見てしまう、優しい親・配偶者などの支え手を「イネイブラー」と呼びます。しなし、患者のみならず、イネイブラーもまた、不安や依存性が強いときています。患者を支えていく行為によって、自分が持つ内面の葛藤(かっとう)を解決する、そんな病理が見てえてくるのです。患者を養っていくことに、自分の存在価値を見いだすんですね。それを受け、最近ではイネイブラー改め「共依存」と呼ぶのが適切だと考えられています。 原因が何であれ、患者が飲酒という行為に逃げる、つまり自分を守ろうとするわけですが、酔いつぶれて迷惑を掛けたり、失業したりと、さまざまに派生してくる問題を自分で処理できるはずがありません。共依存者は手助けすることによって依存を助長していたと言うことになるのです。 まず、そこに気付くことから、共依存者の治療あるいは教育が始まるのです。 こうして、人間関係のゆがみに焦点をあてていくと、隠れていた問題が次々に浮上してくる事が少なくありません。虐待があったり、子供の不登校があったり。飲酒問題は、深刻な諸問題の隠れ蓑にすぎなかった、ということだってあるわけです。 依存者の家族は皆、依存とは限りません。そかし、往々にしてよくみられることもまた事実なのです。だれもが家族として、あるいは友人として問題に直面する立場になりえます。 アメリカでは、飲酒運転で数回摘発されると、アルコール依存症の治療プログラムに参加させられる所があります。一方、依存治療が遅れがちな日本。早期発見は、皆さん一人ひとりの適切な判断と行動にゆだねられているのです。とにかく専門家に相談を。治療へつなぐ方法を、一緒に考えていきましょう。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ アルコール依存症のシリーズの第3と4を紹介しましたが、アルコールがなぜ依存に繋がるかという記述が、この前にありました。 タバコやアルコールの依存は、『自分を満たしてくれる』『人と違って、裏切らない』そして、これが依存になる一番の問題点である『自分は、いつでも止められる』と思っていること、が特徴です。 『否認の病気』とは、つまり『自分は、依存症ではない。今すぐにでも止められるんだ』と過信し、自分が依存症だと認識できない病気だということです。
私は、アルコール分解酵素が体内にないのか、お酒を飲めない体です。夫もあまり飲めません。だから、幸いなことに『アルコール依存症』では悩まなくても良いんですが、このシリーズを読んで、心に引っかかったこと、考えたことを、明日お話ししようと思います。
2001年10月15日(月) |
こんな時には、病院へGO! |
病院へ行って来ました。 きっかけは、金曜日のパニック。
沖縄で潜った時に感じた『パニック』のせいで、あの頃のことを思い出してしまったの。 そして、あの嫌な感じがつきまとって、そして金曜日...。 何気なく座っているときに、急に波がやって来た。
う~ん...どういう風に説明すれば解りやすいかなぁ...? 例えば、夫には、こう説明しました。(夫は高所恐怖症です) 高い吊り橋を歩いていて、谷底を覗き込んだ時に、後ろから誰かにドンって押された時に感じる、感じ。全身の毛穴が開いて、全身の毛が毛羽立ち、鳥肌が立つ。冷や汗が出る。体中にとっても敏感な針が生えていて、風でさえ触れると、叫びたくなる感じ。 目の前が真っ暗になって、緊張でバクバクと心臓が2倍くらいに膨らんで、手が震える。血管を流れる血液が、冷たくなって、体の中側が冷たくなっていく。
それが急にやって来たの。 そう言えば、最近『現実感』がないし、シャレにならない程の物忘れの酷さが心配では、あった。病院へ行った方が良いのかなぁって思いは、していた。
そして金曜日。あの頃の恐怖を思い出して、以前行っていた病院へ電話をしたのだけど、「再外来は、金曜日だから...」と受付の人に言われて(診察時間は終わっていた)、余計に慌てて、近所の病院へ電話を掛けた。(留守番電話でした) その病院へは一度行ったことがあるんだけど、『私の過去』を聞くだけ聞いて「紹介状を貰ってきて」とだけ言われたので、腹が立ったのと、面倒臭くて2度と行かなかった病院だったんだけど、何はともあれ金曜日までの繋ぎにと、今日電話で連絡を入れて説明したところ、「薬を渡すには、取りあえず診察を」と言われたので、診察に出掛けた。
以前(2年ほど前)のたった1度行ったきりのカルテが置いてあったのには、驚きと感謝を感じた。(これのお陰で、同じ話を繰り返ししないで済んだ) 診察で、以前この病院へ来たときには、もうお薬から離れていたこと。今はお薬を飲んでいないとこ。以前の病院へは行っていないことを伝えると、紹介状は、必要なく、これからはここで診察して貰えると言ってもらえた。(ホッ♪)
以前飲んでいたお薬を持参して行ったので、『何が 症状として きつかったのか』を知って貰うことができたらしい。お薬について説明を受け、他に症状は?と聞かれたので、物忘れがシャレにならないほど酷いことと、フルフェースのヘルメットをかぶっているような圧迫感と、ヘルメットの外で起こってるのを見ている感じ(現実感が ないこと)を説明して、お薬を処方してもらった。
今、お薬を何も飲んでいないこと。嫌な感じが常時ある訳ではないことを伝え、「症状が軽いうちに、お薬を飲んでおこうかな~って思って」と伝えたので、 「頓服だけにする?それとも朝晩と飲む?どっちにする?」って聞かれたけど、そんなんが判るくらいなら、お医者さんいらんやん!って思いません? 結局朝晩のお薬と、緊急の頓服とを処方してもらって帰ってきました。
まずは頓服を飲んで夜まで様子をみて、晩ご飯後、夜のお薬を飲みました。 !!!!!! 頭が軽いっ!!気分が良い!目が覚めた感じがする! ヘルメットを取って、ふぁ~って感じの開放感が ある!! なぁんだ!もっと早くお薬を貰いに行けば良かった~。
さて、私の今回の症状に付いて、わたし的に、病院へGO!の判断材料を 1.同じことを繰り返し考える 2.現実感の喪失 → 自分のことなのに、TVでも見ているような感じ 3.食べ物に対する情熱が減少する → 食欲の変化 4.激しい肩凝り 5.睡眠が浅い → 起きている間中 寝起きのようにボーっとしている 6.表情がなくなる → 怒ってる?って聞かれたわ~ 7.パニック・不安感 8.自分が重い病気じゃないかと心配になる(もう何年も微熱が続いてるんだけど、最近やけに重い病気が原因な気がして心配になった)
さて、「軽い鬱ですねぇ~」って診断されて、お薬を飲んで感じたことは... 鬱って、心の病気ではなくて、頭の病気なんだなぁってことです。 (詳しくは、ポケポケさんのHPの『心の薬』を参照して下さい。 http://www4.ocn.ne.jp/~ji1nol/index.htm)
急に運動をすると、筋肉痛になりますよね? 暴飲暴食をすると、胃腸をやられたりします。 体を使って疲れると、しばらくは大人しく体を休めようとしますよね? それと同じで、原因は何であれ、心に対して異常な状態が長く続くと、脳内が緊張し続けて、それがその人のMAXを越えると、普通の状態でも脳が緊張したまま元に戻らなくなる。それが、鬱だったり何かの神経症だったりするんですよ。 喉が痛くなったら『うがい』をして、風邪をこじらせないように気を付けるように、ヘンな感じ、妙な感じ、心の違和感を感じたら、酷くならないうちに、お薬を飲んで治してしまう方が、楽だと思います。
私はお薬から離れたので、本音を言うと『再発』を怖がっていましたが、風邪を引いて完治した人が、また風邪を引いたからと言って『再発した』とは言われないんだって開きなおったら(って言うか、お薬を飲んで楽になったので、楽観的になってます)、 胃液が出過ぎて胃炎になった人が、胃液を出ないお薬を飲むように、脳の何とかっていう成分の分泌を調節するお薬を飲んで、体が楽になるなら、良いかなぁ~って、楽観的に思えるようになりました。
沖縄旅行から1週間たちました。 楽しかったけれども、考えることも多かった旅行でした。 明日から、沖縄旅行記を書くね(*^_^*)
今は12月だけど、これ、沖縄旅行へ行ったすぐに書いたものなの。だから、その時の思いが 書かれています。
沖縄への旅で、私は『マイペース』『普通』『自分』が、いかに自分になかったか、ということを思い知らされました。
私は、『私が』何かしないといけない という思いに、囚われてる(でも、それは私にとって『普通』に行われているの)。相手に「お願い」って頼めない(甘えられない・頼れない)の。 朝、空港まで車で行くのに、「迎えに来てくれる?」って素直にお願いできなかった。私の方が10分ほど空港に近いにも関わらず、「迎えに行こうか?それとも、迎えに来てくれる?」という聞き方しか出来なかった。往復20分程のロスは、早起きの苦手な私にはキツイけれど、『運転嫌い』な友達に、空港まで運転させるのが申し訳なくて。 沖縄に着いてからの運転は、当然私がした。(「私にナビをしろってか?^^;」って言いながら、友達は地図を逆さまに見てました 笑)
私の基準は、他人なので、「何がしたい?」とか、「何が食べたい?」って聞かれても、どこまで自分の意見を言って良いかの加減が分からない。そういう『加減が分からない』と思う時点で、『普通』ではないんだと思う。(そして、『普通』ではないと思うこと自体が『普通』ではないんだけど) 自己主張をしてこなかった、そういう練習をしてこなかったので、「どうしても○○が食べたい」とか、「どうしても○○がしたい」という『こと』がなくて、それが叶えられなくても全然平気でこの歳まで来てしまった。 1人だと自分のコトだけを考えて行動できる。でも、他人が一緒だと、他人のことまで考えて判断しなければいけないという強迫観念というか、つまり、相手に喜んで貰えるように行動とか選択する癖が、かなりこの旅行でも出た。(だからと言って、リラックスしていないかと言うと、かなり楽しんでリラックスもしていたんだけど。だって、それが私のパーソナリティーだから)
私の周りでは、例えば食事に行って、小皿に取り分ける係りの人のことを、「お父さん」「お母さん」と呼ぶ。一緒に旅行に行った友達の周りには、「お父さん」や「お母さん」が一杯いて、彼女の為に『何かしてあげたい』と思わせる雰囲気を持っている。そして彼女は私と違って、他人の手を煩わすことに ただ素直に感謝するだけで、借りを作ったと卑屈になったり、申し訳なく思ったりしない(たぶん、それが『普通』なんだろう)。私は私のことに他人を煩わすということに対して、とっても気を使う。だから他人の好意を疑わず、素直に受け取れるように育った彼女が羨ましいと思う。(だからと言って、彼女が何もできないかというと、何でもこなせるし、人を頼ったりしない、ちゃんとした大人の女性です)
私は『何か(誰か)の為』という目標を与えられれば、てきぱき仕事をこなせる、つまり学級委員タイプで、だから、他人の為に何かをするのは得意だけれど、自分の為に「何がしたい?」と聞かれると困ってしまう。 既婚者の私に、なかなか来られないであろう沖縄を楽しませてあげようと思っている友達が、私の希望を優先にと聞いてくれるのだが、わたし的にはすごく頑張って希望を並べるのだけれど、他人を優先にすることが日常な私なので、「ここ!」と決定できず、彼女をイライラさせてしまう。 彼女は、やってもらう、連れていってもらうのに慣れていて、自分でずんずん行くタイプではないので、予定がなかなか決まらなかった。
長くなったので、また次の日に書くね。
今日帰るはずなのに、何も予定を立てずにいたので、のんびりとチェックアウトギリギリまでノホホンと リゾートしていました。 ロビーのすぐ前が海なので、写真を撮りに行くと、2日目は台風の影響で少し濁りがあったのが、どんどん日が経つに連れて美しく澄んでいき、昨日でさえ息をのむほど美しかった海が、もっともっと美しくなっていました。今日こそ潜りたかったと思いました。
ホテルは、コテージ型で、本当に『リゾートホテル』って感じで、みんながフレンドリーなのには感心しました。ユニフォームが上はアロハシャツ、下は短パン。おじいちゃんがスタッフにいたんだけど、そのおじいちゃんもアロハなの!とっても可愛かったよ♪ 水着のままレストランに入ると、バスタオルを貸してくれるし、夜のレストランでは、頼んだドリンクが品切れだったのだけれど、「これだけしかないのですが...」と言いながら、「味見に飲んで下さい」と、サービスで持ってきてくれたり。(それでも8割りほど入っていたよ)出会うスタッフが、笑顔で会釈してくれたり、気軽に挨拶をしたり...。日本のホテルには ない リラックスできる、アットホームな雰囲気を楽しませてくれました。このホテルに泊まれて良かった(*^_^*)
帰りの車も私が運転しました。一応、「お昼ご飯を ラーメンの美味しいお店で!」と意気込んで車に乗ったのですが、走り始めてから、その場所が書いてある本を スーツケースにしまい込んでしまっていることに気が付きました。....なんてお馬鹿な私たち。 と、言うわけで、行き当たりばったりで迷いながらお店を探し、結局辿り着けずに1日目に行った『海ぶどう』へ、またまた行ったのでした。
お腹一杯で店を出て、それなのに、アイスクリーム屋さんを探しながら、車を走らせる私たち... 沖縄限定のアイスクリーム屋さんがあるのを知っていますか?そのお店に、友達が行きた~い!と、旅の最初から言っていたんです。行きの道で見付けられずに(そりゃそうだよね~!地図とは反対側にあったんだもん...^^;)帰り道で絶対リベンジするんだと燃えていました(笑) 地図をちゃんと見ると、帰り道の反対側にあるはず....見付けました!が!!中央分離帯があって、お店に入れません。 友達は、どうする?どうする?って アタフタしていましたが、私は次の信号で右折、Uターンをして反対車線に入って難なくお店に入りました。 こんな時、人の思考回路って全然別なんだなぁって、友達が妙に感心していました。友達は、中央分離帯と、その反対側にあるお店しか目に入らず、Uターンするってことを思い浮かばなかったそうです。人間は、人数が沢山いた方が、良い知恵が出るのね(*^_^*)
甘いモノがあまり得意でない私ですが、アイス好きの友達に付き合ってアイスを食べ、またUターンして空港へ向かいました。 途中、ものすごい渋滞に遭いましたが、ここでも感動!車に乗っている人は、誰も慌てていないんです。信号の変わり目には、ちゃんと止まる。(当たり前ですが、愛知では止まらないのが普通です...事故が多いのは、そのせいだね)ウインカーを出すと、ちゃんと入れてくれる。みーんなが、優しいんです。 ただ、スクーターが追い越し車線でも関係なくガンガン飛ばしていったのには、ビックリしましたけど (ーー;
思いっきり余裕を持って空港に着けるはずだったんですが、(着いた後、どうしよう...とまで心配していたんだけど)渋滞のせいで、まぁまぁの時間に到着。 荷物を預け、お買い物タイムです。私と友達は別行動をとってお買い物に励みました。こういう時に、つるまなくて良い人と一緒に行動するのって、楽で良いなぁって思います。
こうして、私の大冒険、沖縄の旅が終わりました。 何が大冒険だって?
結婚してから、こんなに長い間、家を空けたことがなかったこと しかも、沖縄なんて遠くまで、友達と旅行へ行ったこと 初めての 旅先でのレンタカーの運転 初めての ダイビング体験 初めての 長期間の友達との旅
最初から最後までが大冒険でした。
楽しかったな~ また お金を貯めよ~っと(*^_^*)
2001年10月05日(金) |
沖縄の想い出 3日目 |
って、オイオイ もう 12月だよ~(自分で突っ込んでみました (。。;) 2日目の夜から修学旅行の高校生たちが宿泊したので、ホテルは一気に活気づいたっていうか、騒がしくなって、3日目は、ビーチもマリンスポーツも全部占領されちゃったんです。 本当は、パラセイリングをしたいね~なんて言ってたんだけど、それも予約ができない状態だったので、諦めて隣にあるローカルビーチへ行くことに決めました。 水着に着替え、支度をしてたけれど、「あれっ?ローカルビーチ、どこ??」って状態で、もしかしたら車で行かなくちゃ行けない場所かも...ということで、運転免許書とレンタカーの鍵も持って部屋を出ました。 ロビーで場所を聞いたら、自転車ですぐ ということだったので、自転車を借り、ホテルのビーチで浮き輪も膨らませて、サトウキビ畑を自転車を漕いでビーチに向かいました。水着を着て、浮き輪を持って、自転車を漕いでいる。遠い日の夏休みみたな風景で、懐かしさで ちょっとキュンとしました。 教えられた道を曲がり、細い道を抜けると、写真にUP済みのビーチがパノラマ写真のように広がっていて、感動のあまり歓声を挙げるほど、それは、それは、天国に来たような景色でした。 感動しながら写真を撮って、さ~て、シュノーケリング開始です。 広い広いビーチには、平日ということもあって、私たち2人だけ。 ほんの少しだけ沖へ行っただけで、珊瑚礁の棚があり、熱帯魚が泳いでいます。ハリセンボンも見ました。友達は友達のペースで。私は私のペースで。お互い好きな場所で、自分のテンポでシュノーケリングを楽しみました。 沖縄の太陽は強いので、水の中に入っていて熱くならなくても、背中を日焼けしてしまうということを聞いていたので、「どれくらいなら大丈夫なんだろう...」と思いながらふと辺りを見回すと、友達はもう砂浜に上がっていました。 私も海から上がり、「喉が乾いたね~」ということで、近所のお店にジュースでも買いに行こうとカバンを見ると.... 私のカバンの様子がヘンです。 中を探ると、財布がありません。 ....そう言えば、ビーチに到着した時に、向こうの方にバケツを持った男がいた!! 全身の血が一気に下がりました。 6,000円ちょっとの現金と、免許証... そう!!免許証がないと、明日 車を運転して帰ることができません!! 取りあえず警察に通報することをとっさに思いつき、近所のお店へ駆け込みました。(水着のままです) すぐそこのビーチで泳いでいる時に 財布を盗られたことを お店のおばさんに話し、電話を借りて駐在所に連絡し、パトカーが車でお店で待たせて貰いました。 かなり待ち(と私が思っただけ?)パトカーが到着。現場であるビーチに戻り、そこで調書を取られました。 財布の姿形 財布の中身 現金の数 いつごろ被害にあったか その時に何をしていたか... 警官が調書を書き込み、私が拇印を押して、被害届の完了です。 この『被害届』がないと、新しい免許証が交付されないのだそうです。(その上 明日には帰るし...) 次の日に 大きな警察署で持って帰る為の被害届を貰えるようにしてあげるね」と言いながら、警官が帰ろうとした時、「あれ??これは、あなたの財布では?」と言われました。 ホテルから借りていた自転車の下に、その通り!見覚えのある黄色い財布があります!! 「中身を確認して」と言われるままに、私が財布を拾い、中身をよく調べると、現金が1円玉単位まで根こそぎ盗られているものの、運転免許証は無事 財布の中にありました!ホッ
さて、気付いた人もいるでしょう。 その間、友達は...? 何もすることがなく、かと言って、自分だけシュノーケリングを楽しむわけでもなく、ただ私の付き合いをしてくれていました。長い時間、ぼーっと。 特に、大慌てで警察に連絡しに行った時には、私は彼女を1人でビーチに残したまま行ってしまいました。(ああ...迷惑を掛けてしまったわ)
財布を盗られて一番に思ったのは、明日レンタカーを運転できない!と言うことでした。車を運転するのが好きではない友達に運転させる。それだけは避けたい。その為には、運転しても良いということを、警察に許可して貰わなくてはいけない。そういう思いが、警察に被害届を出すことを私に選択させたんです。 そして、その後はもう、アドレナリン全開で、のんびり屋の私が 早送りしているかのような『テキパキさ』で、警察への連絡、調書と、駆け抜けた。 お金なんて(実際 痛いけど)どうでも良い。頭の中には、『車の運転』しかなかった。 パニクった。手足が、声が震えた。 でも、もの凄くクリアに頭が冴えていた。
こんなに天国のような景色なのに、財布を盗られたことにショックで、そのままホテルに帰り、安全なホテルのビーチで、その後は昼寝をすることにし、ホテルへとすごすごと帰っていきました。
その夜は最期の夜なので、ホテルの鉄板焼きのお店で豪華に食べよう!と言うことで、5,000円のコースで席を予約しました。 夜、ちょっとだけドレスアップした私と友達は、エビと魚とイカを追加で頼み、「これ、女2人で食べるの?」って(きっと思っていたな)何度も首を傾げていた担当のシェフに、目の前で焼いて貰いました。 もう、気合いを入れて死ぬきで食べたよ~(笑)少しでも休憩すると、絶対入らないっ!って思って、もう勢いだけで食べに食べました。幸せに美味しかったよ~(*^_^*) みなさーん!オクマリゾートホテルでは、鉄板焼きを食べましょう♪
2001年10月04日(木) |
体験ダイビング - 2本目 - |
体験ダイビングの続きです。
お昼休憩が入って、次は3時に集合だと言われた。時間は12時過ぎ...。友達と2人でお昼ご飯に出掛けた。ロビーで水着のまま入れるレストランを聞いて、そこに入った。 「臭うものを食べると、潜った時にクサイよ」との友達のアドバイスで、2人ともサンドイッチをチョイスし、食べながら朝のダイビングに付いて話をした。 C級のライセンスを持っている友達は、ダイバーウォッチを持参していて、それを見ながら、「魚にエサをやった場所が水深3m」とか、「一番潜った時は、水深5m」とか、「全部で30分間潜っていた」とか説明してくれた。《 これが、まず頭にインプットされた 》 「魚、凄かったね~あんなに集まらなくても良かったのにね」なんて笑い話もした。そして、潜るアドバイスももらった。 潜っているとき、インストラクターは、私の上の位置にいて、私を掴んでいたそうだ。彼女曰く、私を『重り』にしていたそうだ。だから、私は何も考えず、インストラクターに全てを預け、海の中を楽しむだけで良いのだと言った。でも、そう言いながら、「流れがあったのに気が付いた?」って聞かれて、「少しぐらいは、フィンを動かして貰わないと、インストラクターも自分の重さと夏海の重さ2人分が掛かって大変だから...。」とも言われた。《 流れがある&フィンを動かすと言うことがインプットされた 》 そして核心を突いてきた。「上に上がったけど、どうしたの?」 上手く説明できるハズもなく、「口から吐き出した酸素が耳に入ってきたのと、口にくわえたのが外れそうだったので、焦った」って答えた。「また言ってる~(笑)そんなこと言う人、初めて聞いたよ~!ダメなのかもしれないね。夏海はダイビングに合わないのかも」って笑いながら言われた。《 ダイビングに合わないのかも、ダメなタイプなのかもとインプットされた 》 初めてパラオの海で潜った時の感動が忘れられなくて、ライセンスを取った彼女が、美しい沖縄の海をちょっと自慢げに「海の中はどうだった?綺麗だった?また潜りたいと思った?」と聞いた。私が思ったより綺麗ではなかったと思ったが、ちゃんとプログラムをこなせたことに自信が涌いたので、「お昼からも潜りたいと思った」と答えた。ただ、記憶が定かじゃなくて、見た魚を覚えていないと伝えたら、「酸素が少ないせいか、どんどん忘れていくみたいだよ~」と教えられ、ちょっとホッとした。 お昼からのダイビングにはまだ1時間ほど時間が空いたので、ビーチで昼寝をした。(有料のパラソルとイスを、タダで貸してくれたインストのお兄さん、どうもありがとう♪)
さて時間がきた。友達曰く、体験ダイビングで、あんなに泳ぐことはないと思う。たぶんマンツーマンだったから、特別だったんだよ~!って言っていたので、てっきり同じ場所に潜るのだとばかり思っていた。同じ場所でもう一度、今度は落ち着いて潜りたいと思っていた。が、船はどんどん沖に進み、船が錨を下ろした処は、海の真ん中。友達が、「この海の色は、深いよ~!」って歓声を上げた。《 ここは深いんだとインプットされた 》その声を聞いて、私は緊張し始めた。
午前中と同じく、ゆっくりと耳抜きが出来ているかどうかを聞かれながら、海の中へ潜っていった。沖だけあって、TV通りの綺麗な珊瑚礁&魚たちが見え、感動した。そしてその先には深いブルーが広がっていた。太陽の光がエメラルドグリーンに光っている現在の位置から、少し深くなって光が届きにくくなると、海はマリンブルーより深い蒼い色に変わることを実感した。(私の知っている海は、深い緑色です。透明度の違いなんだね、きっと。)そして、インストラクターは、私の顔を上に向けながら(たぶん深いので、緊張しないように視線を逸らしたのかな)、下へ向かって進み始めた。蒼い海の底に向かって。 朝潜った時には、水深5mだった。海で育った私には、素潜りでもいける距離だったと、お昼ご飯の時に聞いた時にはホッとした。最深5m。今回は、それより深い...。 「30分も潜らなくちゃいけないのか...」ふっと思った瞬間!朝感じたのと同じ緊張がやって来た。うまく息が吐けなくなった。ヤバイ!すぐにインストの人に浮上したいと合図を送った。送った。送ったのに、どんどん深く潜っていく。私は慌てた。でも、冷静な私もいて、今パニックになって呼吸が乱れると、命に関わると真剣に呼吸をすることに集中した。やっと合図に気が付いてくれて、浮上を始めた。向き合って、呼吸のタイミングの指導をしてくれながら無事に海の上に上がれた。 インストラクターに、うまく息が吐けなくなったと訴えた。そして呼吸を整えた。もう絶対ダメだと伝えようと思ったが、朝と同じタイミングで、強引に海の中にまた連れていかれ、浮上した時間のロスを埋める為か、真下を向かされて、どんどん深く潜っていった。あまりの強引さに笑ってしまって、緊張が解けた。後で友達に聞いたら、合図もせずに浮上してしまったので、友達は「あらら~上がってっちゃった~!で、私はどうすれば良いの?」って状態だったらしい。 浮上する前と同じ深さまで潜って、インストラクターが鈴で友達に合図を送っていた。位置関係が判らないのだが、離れた場所にいたのかな?なかなか気が付かなくて、ちょっとドキドキが早くなった。落ち着け、落ち着けと心の中で思った。友達も気が付き、再び海の底へと潜っていった。 インストラクターやガイドと一緒に潜る時には、彼らが先頭になって泳ぎ、それより前に行ってはいけない約束事があるのだそうだ。つまり、友達はインストラクターより先に出られない。インストラクターは、私の背中当たりで私を掴んで泳いでいる。だから、私が先頭で泳ぐという格好になっていた。誰もいない海の中。自分の命を他人に預けると言うこと。自分の意志で自由にできないという不安感。自分の命を自分で守れない不安感。流れがあるかもしれない。流されているかもしれない。でも、それが判らない不安感。 余裕が出て、ちょっと周りを見回していると、頭を掴まれて下を向かされる。そして深く潜っていく。私は一体どこに向かっているのか?どういうルートを案内したいのか?潜るのか、浮上するのか?前に進みたいのか、少し曲がりたいのか?強引に行き先をずらされて、体勢が斜めになったりする。その強引さに『人間』を感じて、心に余裕ができて、笑っちゃった。 少し上に向かうと、ああ!浮上できる♪と期待する。(また頭を掴まれて潜り直されるんだけど)海の中は綺麗だった。美味しそうな魚が群をなして、波に身をゆだねていたのも見た。でも浮上することばかり考えていた。タンクの中にある独特のニオイのある空気でなはく、海の上の空気が恋しかった。
やっと海の上にがって船に乗り込んだら、全身が震えていた。やっぱり緊張していたんだ。どれくらい潜っていたんだろう。どれくらい長い間緊張していたんだろう。やっぱり私には、潜るのは まだ早かったんだと思った。 帰る途中で、朝潜ったポイントの側を通った。ホテルが見える距離。本当にすぐのポイントだった。こんな近くの浅いところで、私は緊張して浮上して貰ったんだと思った。次は大丈夫だと妙な自信が涌いた。
陸に上がり、ダイビング機材を持ち込んでいた友達の手伝いを、ちょっとだけした。(だって、何をすれば良いのか判らないんだもーん)塩を抜くのは、なかなか大変だったよ。(ウエットスーツは、家に帰ってから改めて塩抜きするそうです)
こうして、緊張とパニックの連続の体験ダイビングが終わった。インストラクターのお兄さん、どうもありがとう!イライラしただろうに、満点の笑顔で対応してくれて、インストラクターとしては、パーフェクトだったよ!!彼じゃなかったら、最後までこなせなかったと思うの。とっても感謝しています。(ちなみに、10/6の朝の番組でオクマをやってたの見た人いる?フーミンと潜ったうちの1人が、私がお世話になった人だったそうです)
2001年10月03日(水) |
初めての体験ダイビング |
2日目は、体験ダイビングをした。旅行前に予約をして、朝1回昼から1回潜る予定だった。 ホテルでチェックインしたときに、申込用紙に記入をしたんだけど、それには、身長・体重・靴のサイズ・視力など、機材のレンタル用の質問と、病気の有無(現在・過去)や、その他のアンケートのような質問が申込用紙の裏と表に書いてあった。 実は、私は簡単なアンケートを、『簡単に書けない』性格をしている。つまり、その質問に ただ答えるのではなく、質問の意図を考えるのだ。その質問は、私にどう答えて欲しいのか、どう答えさせたいのか、を考えてしまう。特に今回は無記名ではなく、読まれることを前提として書き込むのだから、考え込んだ。 『慌て者の性格だ はい・いいえ』『泳ぎに自信があるか はい いいえ』 さて、どう答えますか? 『慌て者の性格』の設問の意図は、海の中に潜っている時に、パニックにならないかどうか、の質問だと考えた。パニックに陥ると、命の危険がある。何故か酸素を供給している口にくわえているものを外したり、上手に呼吸ができなくなったり、危険な急浮上して肺がどうかなってしまって意識不明になるということを、知識として知っている。 私は、慌て者ではない。自分だけに関係した『こと』が起こった場合、パニックにならずに対処できる。その点だけ考えれば、『いいえ』だ。 でも、私はその設問の意図とするパニックになる心配は、『ある』と思った。でも、パニックになってもその状態を冷静に観察している私がいるのも確かだ。そして、それを『はい』と書いても潜るのを許可してくれるだろうか?私の過去の病気を話すべきだろうか?悩んだ末『いいえ』に丸をつけた。 『泳ぎに自信があるか』には、困った。どれくらい泳げるか なら、書き込める。どれくらい泳ぐことが出来たのなら、自信があると言って良いんだろうか?私は海で育ったので、プールの中のように、何メートル泳げると聞かれると、50mだけだけど、(それも全力で泳いだので、本当はどれくらい泳げるのかは、知らない)海の中で泳いで、沈まないように浮いて(立ち泳ぎ?)と言われれば、泳げると書くんだろうか?この設問の意図は、長距離を泳げることに重点を置いているのだろうか?それとも溺れないことに重点を置いているのだろうか? 疑問だったので、「はいと いいえの境目」を質問した。「プールでの距離的には50m」だと伝えたら、「海では波があるので、そんなに泳げないですしね~」と笑って言われた。『普通はそんな質問は、しない』と言われたようで、ちょっとショックだった。友達も、変な質問してるなぁって笑っていた。 こんな簡単な質問を、サラッと答えられないことを思い知らされて、ちょっと落ち込んだ。こんな簡単な質問に答えるのに時間が掛かっていることに、焦った。そして次の日のダイビングに、ちょっと不安を感じた。
ダイビング当日、まずはプールで基礎の練習をした。水中めがねの中に水が入った時の抜き方の練習・空気の吸い方&吐き方の練習・耳の空気の抜き方の練習・水中では声が出せないので、サインも教えて貰った。 耳の空気とは、新幹線でトンネルに入ったときや、飛行機で上空に上がったときなど、気圧の変化で耳の中が圧迫されたような、あの感じで、普段の対処として、アメを舐めたり、あくびをしたり、鼻をつまんだままで鼻をかむようにいきむと、耳がクリアになる。水中では、アメを舐められないので、つばを飲み込む・マスクの上から鼻をつまんで~ という対処で、『耳抜き』をする。 私は、あくびをしないでも、あくびをした感じで耳の空気を抜くことができるので、簡単に練習をクリアできた。緊張して唾が出ない私を心配していたインストラクターの人は、安心していた。 ただ、酸素を供給する口にくわえるやつが、上手にくわえられなくて、どうしても外れてしまうので、インストの人に質問したら、口の中央で自然に奥に押し込めば良いと教えてくれ、私の場合「左だか右だかにずれる傾向にあるから、注意してね」と言われた。でも鏡がないので、どういう位置が真っ直ぐな位置かということが判らない。 そう。私は自分に自信がないので、外から見ないと加減が分からないのだ。その『姿の』確認が出来なかったので、不安が残った。(『普通』は、誰もそんな質問はしないし、口から外れると言う人は初めてだ!と友達に笑われた)
さて、1回目の本番が来た。船でポイントまで移動し、準備をした時には、つばもちゃんと出てプールの時ほど緊張しなかった。そして潜り始め、絶えず『耳抜き』はOKか?とインストの人が聞いてくれて、全然OKだとサインを返し、ゆっくりと順調に深く潜っていった。 周りを見ると、熱帯魚のような魚が泳いでいる。でも、妙に現実感がない。水族館で魚を見ているような感覚だった。それに対してショックを受けた。まだ早かったのかも...そう思った瞬間、急に不安になった。体中の毛が総毛立ち、水が急に冷たくなり、呼吸も怪しくなった。叫びだしたい、あの感じ。恐怖だった。浮上して欲しいとサインを出し、呼吸だけはしないと!と(呼吸を止めてしまうと、肺を壊してしまうらしい)それだけに集中し、無事海上に上がれた。 空気を直接口から吸い、大きく深呼吸をし、緊張を解いた。もう無理だぁ!私を置いて、友達と2人で潜ってくれーー!って思った。友達はC級のライセンスを持っているので、迷惑は掛けたくなかった。(パニックになっているって言うのに、私ったら -_-;) 呼吸が整り、取りあえずくわえて!って言われて、パニクった時にそれによって何かするのかと思って口にくわえたら、なんだか分からないうちに、インストの人に、強引に海中に連れて行かれた。初めと違って、容赦なしに(笑)どんどん潜って行く。(耳抜きが簡単にできると安心したからだろう) 今度は緊張しながらも海底まで行けた。海底にロープが張ってあって、そこに掴まるように指示され、掴まっていると、丸いパンを渡された。白と黒の縞模様の三角の魚が、視界一面に集まり、凄い勢いでつつかれた。やっとパンが無くなってホッとしたら、もう1個渡された。 魚にエサをやった後に、泳ぎ始めた。フィンを初めて履いたので、練習もしていなかったんだけど、バタバタ早く動かすのではなく、ゆっくりと足を動かすようにジェスチャーで教えられ、手を繋がれ、泳ぎ始め(させられ)た。 海の中は綺麗だった。魚にエサをやった場所は、綺麗なサンゴとは思わなかったけど、泳ぎ始めたら、TVで見た通りの景色だった。魚も私が知っているものではなく、カラフルで、可愛かった。途中でハリセンボンを掴んで手渡された。居酒屋でつり下げられた、膨らんだ状態で固まっているのしか見たことがなかったので、面白かった。(ただ、これをどうするの?って困ったんだけど)ウツボも見た。つつくと白いひも状のものを出すナマコを見付けたインストの人が、私の指を掴んで、つつかされた。強引で、お茶目なインストラクターだったな(笑) 最初にパニクったけれど、かなり楽しめた。でも最後まで、自分の目で見ているという『現実感』は、なかったような気がする。そして上に上がったら、見た魚を忘れてしまっていた。 プログラムを最後までこなせたので、ホッとした。船の上で出してくれたお茶(さんぴん茶)が、冷たくて美味しかったな。
長くなったので、お昼からの2本目は、4日の日記に書きますね。
朝6:30頃、友達に迎えに来て貰い、空港へ向かいました。 空港では周辺に駐車場があり、車を預けた後に『空港まで送迎してくれる駐車場』を 電話で予約していましたが、地図がなかったので、場所がイマイチ...^^; 迷いながらも無事到着し、前金で4,000円(1日1,000円)渡して、駐車場の人に空港まで送って貰いました。 空港でのチェックインやゲート通過は緊張しましたが、時間も掛からずに「こんなんで良いの?」って感じで、結構すんなりと飛行機に乗れました。
一応ツアーなのですが、出発地でも現地でも、案内や添乗もなしで、2人だけで全部こなす旅行が始まりました。 私には、2人っきりで一緒に旅行へ行くほど仲良しの友達はいなかったし、だから友達との2泊以上の旅行は、生まれて初めての経験で舞い上がってしまい、自分が何をすれば良いのかが分からなくなり、でも、何かしないといけない!って あたふたしたりして、飛行機に乗るまで何だか焦っていました。
そう この旅のキーワードは、『マイペース』と、『普通』が、いかに私になかったか、ということを思い知らされた旅でした。(沖縄の旅後記へ続く)
沖縄へ着いて、レンタカーに乗り換え、沖縄にしかないアイスクリーム屋さんを探しながら北上しました。地図には右側にあると書いてあったのに、実は左側にあったので、見落としてしまって、この日に寄ることは諦めました。(笑) そしてそのままお昼ご飯を食べに、ずんずん北上しました。 『海ぶどう』というお店に到着し、友達は『海ぶどう丼』を、私は『ソーキそば』を頼み、ゴーヤチャンプルも頼みました。全部が初体験で、カメラまで持ってお店に入ったにも関わらず、カメラの存在に気が付いたのは、食事が終わった後でした(笑) 友達の印象では、ソーキそばは、薄味で美味しいとは思わなかったと言っていたんですが、結構濃い味付けで、美味しかったです。 ゴーヤも苦くて、(でも彼女に言わせたら、「あまり苦くない。これは、観光客用に苦みを抜いてあるのかも」だそうです)でも、体に良さそうな味がしました ^^;
私は写真を撮るのが好きなので、『ビオスの丘』に寄ってもらいました。でも、お花の時期がずれていて、蘭以外の花を楽しむことは出来ませんでした。(;_;) 川をせき止めて作った池を一周する船に乗りました。ジャングルクルーズのように、ユーモアたっぷりのお兄さんのガイド付きで、花が少ないにも関わらず、かなり楽しめました。 ここでゆったりと時間を過ごし、今度は夕日を見に瀬底ビーチへ迷いながら行きました。 (時間との戦いでした ^^;) 夕日に間に合い、沈む姿を浜辺でボーっと見て、久しぶりにこんなにゆったりとした贅沢な時間を楽しめました。
行きも迷ってUターンしましたが、帰りも迷って2回Uターンしました。(Uターンは、私の得意技です ^-^ 「『わ(レンタカー)』だから許して!」と、何度言ったか ^^;)
沖縄では、車は制限速度で走ります。その風土そのものの、のんびりと、ゆっくりと。 北に行くにつれて、信号もあまりなくなり、眠気とかなり戦って、やっとホテルに到着したのが9時前でした。 目も疲れたし、眠いしで、もう車の運転したくなくて、この夜はホテルで食事をしました。
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