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お母さん、会いたい。
貴女はどこへ行ったんだろう?
私が貴女の寿命を縮めたの?
阿弥陀仏は私のようなものを西方浄土に連れて行ってくれるそうなんですけど、阿弥陀さんの御使いは、私を拒絶した。
何度も死にたいと思ったあのおばあさんは、みんな阿弥陀さんの輪の中だとおっしゃったのにね。
みんな同じ人間じゃないか、とあの課長はおっしゃった。 なぜ怒られなくちゃいけないのか私にはわからなかった。私がそう思っていないみたいだった?
みんなそれぞれの道がある。私は人の気持ちは読めないし、それはお互い様。 お母さん、私が小学校一年から三年の時の、担任の先生、好きだったよね。 きっとお母さんは、私の事が心配で仕方なかったから、保護者面談の時に、あの先生がお母さんを安心させて下さったから、ほっとした顔して、心配しなくて大丈夫ですって、みたいな笑顔で帰ってきたのが、私は嬉しかった。あの先生は算数が得意だった。 戦争に行かされて、銃弾がまだ足の中に残っていたりした。あの頃はまだ戦前から小学校の教師をしていた先生がおられた。あの先生は私の体育を評価しなかった。私は自分が体育に不真面目だったとは思わない。ただ、他の子たちのように元気がなかったのは確かだ。お父さんは私のために庭に鉄棒を置いたり、卓球台を置いたりした。だから、私は今でも少しは卓球が好きだ。キャッチボールのように人と卓球遊びできる事があったからね。ありがとうね。お父さん。そんな風に心配してくれる親が、まだ小さいのに、なくなってしまった子もあったよね。その子は今どうしているだろう?赤毛のアンやジェルーシャアボットのようになっているだろうか?そうだったらいいけれど、時には悲しい事もあるだろうね。従姉妹を思い出した。 お母さん、私、あの伯母さんがお祖母さんが亡くなるまでずっとお祖母さんのそばに居たように、家でずっとお母さんと一緒に暮らしたかった。 息子はね、頑張ってるよ。どうなることやらね。 お母さん、 私、病院に行かなくちゃいけないんですけとね。 お母さんが病院に連れていったあの伯母さんね、あれから、三十年、病院で暮らした。教会に連れて行って頂いたって言っていたよね。 あの頃伯母さん五十代だったでしょう? 私も今五十代後半なの。 お母さんも、頑張ったんだよね。お母さんは私の年にはもうお祖母さんだったね。 伯母さんはお母さんより二十年長生きしました。お母さんか亡くなって、お兄ちゃんに、お母さんが亡くなったと聞いて、さびしいですねえ、と語っていたそうよ。 あなたにはあなたの苦労があったけれど、私、聞いてあげることしかできなかった。 お母さん、お母さんに息子のお父さんを紹介したかった。 びっくりしたでしょうね。 お母さん、私の一部始終を聞いたら、どう思うかな。 悲しむかな。神様を馬鹿にしていると思う?私が神様を馬鹿にできると思うの? 神様は遍在しており、何でもお見通しであり、そして、何だったかな?
神さまは、何でもおできになる。 おできになるのかな?私はふざけているのではない。 God is omnipotent, almighty. Omniscient.
なんだかなぁ
お母さん、今年、ふうちゃんの声を聞いたの。
ふうちゃんもおばあちゃまになるんですって。信じられる?
ふうちゃん、私と一緒におばちゃんのおっぱい吸ったんだよね、とか言ってた事あったのよ。私はそれは覚えていないんだけどね。
でも、一緒に、海釣りに行ったりしたよね。
お母さんはいなかったけれど、私、ふうちゃんたちと、天草にも行った。 天草のホテルのロビーかどこかにテレビがあって、ウルトラQをやっていたと思う。 うちの白黒テレビでも見たけどね、毛布の中から恐る恐る。 ウルトラQは、ウルトラマンシリーズの前のやつですけど、ウルトラマンより怖かったの。出だしの音楽が薄気味悪いの。毛布か布団の中からでないと怖くて見られなかったわ。
海釣りでは、蛸が釣れたように思う。舟の上でね。あの頃は、もうお母さんのお父さんは亡くなっていたんでしょうけど、熊本に、お母さんの実家のおばあちゃんが伯母さんと遊びに来たのよね。 台風で、大変だったね。お父さんやお兄ちゃんたちが、夜、継ぎ足しで作った部屋の 屋根が飛ばないように押さえに上がってたじゃない?あれ、かなり危険だったよね? 次の日家の前の大きな木が根こそぎ倒れていたもの。
熊本城ね、少し壊れちゃったのよ。地震も怖いわね。お母さんは東京の空襲をサバイバルしたひとだったけど、本当に世の中には恐ろしい事がある。 お母さんは、私があのまま無事にいけると思って、逝ったのかしら?そうは問屋がおろさなかったのよ。 全く、お母さん、どうして、あんな環境の違うところに私を嫁にやれたもんだと思う。お母さんも結婚して苦労したかもしれませんけどね、いくら戦後自由民主主義四民平等の世の中だってさ。人間って本当に怖いものだ。あなたには実家にお母さんやお姉さんが控えていたから、人格が守られていられたのよ。どうしてもう少し長生きしてくれなかったのかな。あなたを失ったのは本当に痛手だった。 大食いのお姑さんにご飯食べさせてないみたいにご近所の人に思われたんじやないかで心を痛めていたお母さんが羨ましいくらいよ。 あなたはどこへ逝ってしまったんだろう。今年はあなたとわんの三十三回忌なのかもしれないのに。 小さい頃お祭りの屋台で買い食いさせてもらえなかったからって、いつかお父さんと学生さんたちと袋田の滝に行った帰り、お祭りで綿菓子買って食べたの、楽しかったね。 お母さん、私が進学しなければ、もっと長生きしてくれたかな? 会いたいよ。夢の中と言わず、実際に幽霊になって出てきて欲しい。貴女の代わりはどこにも居ないから。
お母さん、私は負け戦をしようとしているのかもしれません。
どうか笑わないで下さい。
私の我は小さい。
小さな小さな我を張っても、あの人たちには何でもないのかもしれない。
私の主張はおかしいですか?
私はまだ生きています。
生かされているとか言いたくない。
私はひとりです。私は自分のために戦ってやらなければならない。
お母さん、なぜあなたがあの時急に、私を伊丹行きの飛行機に乗せたのか私は疑問に思う。 普段からよく移動に飛行機を使うような家庭だったらいざ知らず、熊本から東京へは夜行寝台車で、新幹線にもほとんど乗った事は無かった。中学の修学旅行は京都だったけれど行けなかった。 急になぜ生まれて初めて私を飛行機に乗せたのか、わからない。 適齢期にもまだ達していなかった。 恋も知らなかった。一つ年下の学生を可愛く感じて読書会に呼んだりするだけで嬉しい時期だった。
何も急ぐ必要なんて無かったんだ。少なくとも、新幹線を楽しんでも構わなかったと思う。どうしてあんなに怒っていたのか、わからない。 もしかすると、兄の友人の中で、あの人が一番 礼儀を知っているとか、そんな風に言っていた記憶があるから、お母さんは、あの縁談を、とても成功させたかったのかもしれない。かなり気に入っていた部類の青年だったんだろうな。可愛くて仕方がないの、と私に語った事があった。
私もあの頃勧められて、そんなに拒否感は無かったが、あの人は大変だったんだろう。 本当に、住む世界が違った。
お母さん、あなたにはあなたの苦労があったでしょうが、もっと野太く生きて欲しかった。今ここに居て、もっと私と何か言い合ったりして欲しかった。もう少し生きる気力は無かったのかしら?もっと楽しく旅をしたかったよね。 何度も、あなたが死んではいなかったという夢を見た。でも目が醒めるとあなたはいない。 例えば、青島幸男さんのお母さん、意地悪ばあさんになって欲しかった。 あなたはずるいよ、いい役を取って。 私があんなに早く嫁に行かなければ、あなたは今でもまだ元気で、お祖母ちゃんみたいに夜中に寝巻きで徘徊したりするべきだったよ。そうしたらあなたは、きっとなぜおばあちゃんが夜寝間着のままそんなにも何とかあなたの実家のお母さんに談判しにいかずにはいられなかったか理解したでしょう、自分がご近所の人たちにいいお嫁さんとみなされるかどうかという見栄だけではなくて、優しいお母さんとして愛されたい、いいおばさん、可愛いおばあちゃんになりたいという願いだけではなくて、神風だけではなくて、もっと本当に必要な粘りを見せてくれたんじゃないかな。あれは、栄養が足りなかったのか、やっぱり貧しさかな。 私が夢や目標を持ってスポーツなどで一心に頑張っていたら、あなたはもっと長生きしたかな? あなたの息子が私に大きくなったら整形手術を受けさせてやるなんてあなたに言ったというのは間違いだ。 もし傷をつけたのが故意で無かったのなら、そんな言葉は出てこなかったはずだ。 あなたが私をうんだのは間違いだったのだ。 女の子が欲しかったなどというのはあなた方のエゴだ。人は見た目で判断されるべきではないという美意識さえあなたは持てなかった。これが心の貧しさでなくてなんだろう?傷つけてごめんという謝罪も無かった。人は食べ物だけで生きているわけではないんだ。 お母さんの一人っ子に生まれたい。そして、体力とか、資金とか、そんなことは心配しないで、一緒に世界を旅しようよ。 あーでもあなたは、突然のふらり旅は嫌い。法事みたいに一堂に姉妹一族が集まっておしゃべりするのが好きだったのね。でももうあなたの法事はする人はいない。きっとあなたはわがままだったんだ。私はあなたのようなわがままはできなかった。旦那さんについててもらったなんて、らうらやましいですよ。正直私はあなたに感謝できません。 私は産んでもらって有難いと感謝はできません。
死んではいかんよ
今命あるなら、その命、大事にせよ
あれ、今朝、どうして、こんな事言っていたのか私
いいおばちゃまですよね。
しかし、やはり、元々の体力の差ってありますよね
実力の差と申しますかね。
それでも、生まれてきたからには、自分の育ったところとは幾分違った土壌の生活を垣間見てみるのも悪く無いですよね。
頑張って出来る事があれば頑張るし、できないことは仕方ない。
日曜日の朝にうとうとするのは最高。
写真挿入日記にしてみようかな。
浄土真宗では、門徒間の結束のために普段元気な時はよく正信偈という念仏偈を謳うものらしい。 しかし、私の腹の中に娘が居た頃に毎日娘の父親があげていたのは、阿弥陀経だった。 お釈迦様が弟子たちに、西の方にとても美しい極楽国土があるのだと語る話。 今日は娘の叔父にあたる人の命日なのだけれど、私はその人に一度しかお会いした事は無かった。 私が次兄の友人、娘の父親と婚約して間もなくの頃、其の方は亡くなった。まだ阪神の震災の前。 私が二十二だったとして、1961たすことの、22は、1983年だろうか?
私の実家は新義真言宗のお寺さんの檀家のつもりだったようだが、父が大晦日紅白歌合戦が終わった頃初詣に行くのは、最寄りの駅近くの真言宗のお寺さんの手前にある 八幡神社だった。
浄土真宗のお寺さんというのは、本来、割合とキリスト教や回教のように、阿弥陀仏一筋で、お念仏さえあれば、白道における無碍の光明、というご信心である。 しかし私の実家は小さな神棚もあり、祖父の亡くなった時か、小さなお仏壇かあったが、いまだ祖母のお骨は押入れの中でどうしたらいいかわからない状態が長かったのではないかと思う。
結婚式は神道で、お葬式はお寺さんで、というのは当時日本人としてはよくある話ということだった。 神仏習合といい、日本には八百万の神々があるが、例えばインドの神様たちも輸入されて弁天さんだのと言われて信仰されている。そんな風なお話ありますよね。 キリスト教は仏教にとってはすこぶる脅威な存在で江戸時代にはカトリックの布教は 禁止されていた。明治維新にとうとう門を閉ざしていられなくて開港し、キリスト教も解禁になったら、それまで幕府の役所の戸籍制度を担っていたお寺さんは随分と迫害された。廃仏毀釈というやつだ。
そういったことは、私は、戦後日本の自由民主主義の地域の公立の小中学校で子供の頃日本史を漠然と習っていた頃は、僕らの名前を覚えて欲しい、戦争を知らない子供たちさ、というわけだったが、戦国時代は大昔の話、えー、インドのカースト制度?大変なのねー、というような意識だった。歴史の参考書を勉強しようとすると、考古学は最初やる気満々でゆっくり眺めている、しかし、年度の終わりの二月頃になったら、近代現代史は何だかうやむやに端折らざるを得無かった。
14歳から27歳か。。
一応ほっと一息のお正月です。謹賀新年です。
息子が新しい生活に何とか馴染んでいける事を祈っております。
皆さまのご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
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