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2010年03月26日(金)

 やっぱりここが私には一番シンプルで落ち着けるところなのかもしれない。


2010年03月21日(日)

 命は授かりものなんですよね。

 どんなに頑張っても私が自分で自分の寿命を伸ばしたりすることはできない。子供だけじゃない。私の命だって授かりもの、私のものじゃないんだ。
 
 死ぬかもしれないと感じて心細くなって孤独な死を恐れたりするようになったのはある意味自分の弱さ醜さ情けなさ無力さをありのままに感じられるようになったということ?

 何ておっしゃる方だったか、禅宗、臨済宗だったかのお寺さんは、自立していなくていいのだとおっしゃった。何ていうご本だったっけ、自灯明?
そうですよねそうですよね、と嬉しくなった。だって家族やグループでなら
自給自足も目指せるかもしれないけれど、自分ひとりで生きている人なんて
今まで一人も拝見したことがないもの。

 イエス様は親兄弟を捨ててついてくるのでなければ駄目だとおっしゃったし、親鸞さんも先祖供養のために念仏申したことなど一度もないとおっしゃったけれども、これって私には自立しろと言われているような感じ。
 
 親鸞さんは9歳で得度。お山で随分苦行なさったのだろうが、その時にお世話になった師もあったろうが、法然様に騙されているとしても構わないという程念仏の教え一つで往生された。法然上人も幼くして得度せざるを得なかったんですもんね。

 私は49歳になってもまだ得度もできないし、洗礼も受けていない。9歳の頃と言えば、伯母の家族に世話になって富士山の五合目まで車に乗せてもらった程度だ。

 小学校低学年の頃か、そうだ、父方の祖母が脳血栓で倒れて口が利けなくなって同居して母が介護を始めた頃か、ある時母は突然目を三角にして、お前は神様を馬鹿にしているよ!と怒ったのだが、これは眠っている時に突然猫が落ちてきて顔を引っかかれた時や、突然近所の男の子にものも言わずに石を投げつけられた時と同じくらいに、心臓が縮まる出来事だった。

 私はその頃、怖い夢を見ないようにして下さいと神様にお祈りしてからでないと眠れなかった。実に大真面目なお祈りで、断じて神様を馬鹿にしたことなどなかったのだが、言いがかりをつけてくるのは見ず知らずの他人よりも肉親の方が多いかもしれない。

 私自身辛いこの世に、子供を送り出しても構わないと思ったのは、ただただ出産というものに一縷の望みを抱いていたからに他ならない。私は子供の世話が好きというわけでもなかったが、泣いていた生まれたての娘を初めて抱いた時、私の腕の中で泣き止んでくれたのが嬉しかったという、ただそれだけのことで、祖母や母のように3,4人くらい生みたいと思ったりしたのだ。

 しかし確かに女子供は養いがたいものに違いない。16歳から突然4人の子持ちになってさらに4人生まなければならなかった祖母は生まれた時には既に常時戦争の世の中。戦争に負けて世間の目が冷たくなったって何の申し開きも
できやしない。母が疎開もせずにせっせとミシンで下駄の鼻緒作りなどの内職をして姉弟と助け合えたのは、飢饉で貧困家庭の娘が売られたり口減らしをされたりするよりはずっと恵まれていることだった。不景気になれば兵隊か身売りだろう。百年の間にはお金の価値なんてのもてんで乱高下で当てにならない。祖母が娘の嫁入り支度にしこしこと貯金していたお金なんか霧散だ。母が積み立てていた年金もその前に死んでしまえば後妻さんへの心づけだ。

 アメリカにも貧しくて不景気で仕事もなく兵士に志願して外国に飛ばされて命を落としたり帰国しても社会復帰できなっている若者が少なくないと言うが、職業軍人もある。私の生まれる前に亡くなってしまった母方の祖父は軍人だったというが、太平洋戦争後まだ何年か生きている。外国に勝たなければ、人を殺さなければ、大勢の愛する人の死に目に遭わなければ、わが子にも先立たれなければ、暮らしが成り立っていかなかったのか。私が小さい頃お会いした事のある自衛隊の落下傘のおじちゃんという人がとても精悍な男前のお兄さんだったが、私は逢えなかった祖父の往年の写真も優しそうで男らしい精悍な感じの壮年だった。年寄りには見えないまっすぐな姿勢だった。台湾征伐がどうのこうの高砂族がどうのこうのと父や祖母が口走ったことがあったが、私が10代の頃は、軍人のおじいちゃんよりも音楽家のおじいちゃんの方がかっこいい気がするような日本になっていた。他所の国で大砲をぶっぱなしたり人殺ししたりおまけに大負けして責任者が戦争犯罪裁判にかけられたりするなんて、私の親戚は軍人です、なんて恥ずかしくて大きな声でなんて言えない。でも戦争の批判をしても母は絶対私に負けていなかった。きっと素敵で優しかったお義兄さんが頭に弾丸の貫通したヘルメットなんぞだけを残して散ってしまったりしたのだから、母もたまたま珍しく日本の弾がB29に当たったりした時には大喜びの愛国少女だったのだ。母に言わせれば外国の政治家がとっても意地が悪かったのだ。

 しかしながら、私は高校生の頃だったか、英語学校のアメリカ人の英語教師につたないスピーチをほめられて、おいおい泣いてしまった。
 
 褒められること、努力を認められる事に慣れていなかったんだ。四年生の大学に受かったって女の私は褒められなかった。祖母の内孫である同い年の従兄弟が同じ大学に受からなかったからといって祖母のお覚えはめでたくなかった。だけど祖母の葬儀の時、彼もいい伴侶に巡り合えたことが感じられるような昔のままの善良そうなおじさんになっていた。というのは、御髪がうちのお父さんの減り方に似ていた。だから彼も妻子にも気苦労があるかもしれないが、私はお会いしたことのない彼の奥さんもさほど不幸せではないような気がする。


 何があっても女の子は素直で明るいのが一番だと母は言ったけれど、私は伯父の葬儀の時に従妹たちがおいおいと泣けているのが羨ましかった。何故私の夫はゆっくり泣かせてくれなかったのか。私が母親だから?私は彼の愚痴をみんな聞いてあげたじゃないか。彼のお父さまの愚痴だって聞いてあげたじゃないか。彼のお母様が泣いていた時もそっとしておいたではないか。それなのに他所に嫁いだ若い母親は親の死を悲しむ事もできないのか。親兄弟を捨てて嫁いできたのだから?

 私は初孫に生まれたい。そして今度は親兄弟の言うことに騙されたりしないで、誰にも騙されたりしないで、自分を貶めたり犠牲にしたりしないで、自分の大事なものは自分で守る。自分を傷つけるものを安易に許したりしない。信用したりしない。それなのに私の大事な自分も子供も私のものではないんだ。私はボケて忘れたふりをするしか道が無い。私にはお金を運んでくる才能なんてないんだから。食べ物が欲しければ、お金が欲しければ、目をつぶらなければならないことがある。持っているものは持っていることを思い煩い、持っていないものは持っていないことを思い煩う。持ち家がないのがどうだというの?故郷がないのがどうだというの?明日のことは明日が思い煩う。今は雨露を凌げる。屋根の下で眠りたいがために不法侵入したりせずに済んでいる。

 たまたまどういう成り行きでかクリスチャンの教会に入ってしまった時には周りの女性が聖水で手を清めたのを見て真似して、他の人が切っている十字を真似して十字を切った。神社では拍手。お寺では合掌。回教徒にはサラ
−ムアラーの思し召しのまま。でも私に何が望めるのか。

 強情で暗いと言われても私にはどうしようもない。強情で暗い人を好きになる。怒っている人を好きになる。素直で明るい人が空虚に見える。でも素直で明るいのは私じゃないか。

 明るいのが取り柄だと思っていたらその明るさが疲れると男の子に言われてショックだった素直そうな女の子。彼女も早くに弟さんを亡くしたけど、ご両親のためにきっと悲しみに暮れていられなかったのかな。気を引き立てて努めて明るくふるまわなければいけなかったのかな。その健気さを理解して助けてくれる人に出会えたかな。

 私にとって母の底抜けの笑顔は憧れだった。もんぺだろうが何だろうが
生き生きとした表情は野の百合だった。お見合い写真よりも私が生まれてからの母の方が百倍も美しかった。だから私は自分が生まれたことを後悔したりしない。



 


2010年03月12日(金)

 寝台車が無くなっていくと聞くのもさびしいな。

 そうは言っても、私自身、実際なかなかめっきりというか、寝台車に乗ったりできなくなっている今日この頃。

 幼稚園の頃、熊本から東京まで、母と共に寝台車に乗って、夜横になりながら窓の外をひとりで覗いていた。父方の祖母が倒れた頃だ。

 あの頃別に寝台車にノスタルジーがあって乗ったというわけではなかった。寝台車に乗ること自体が目的で乗ったのではなかったのだ。きっとオリエントエクスプレスに乗った人たちだってそうだろうな。

 もう幼稚園の時に既に私は贅沢な時を与えられていたのだから、思い出が
宝物でもいいかもしれない。別に過去を捨てる必要はない。

 私はそんなに明るさを求めているわけではないから。


2010年03月11日(木)

 どうも新約聖書に出てくる山上の垂訓というのが気にかかる。思い煩うな、というイエス様の言葉に愛情を感じるのだけれど、でも思い煩わないのは難しい。

 仏教では煩悩ということを言う。

 子供に何をしてやれるかと思うと、心配すること、気を揉むことしかできそうもない。
 母が私に気を揉んでいた時、私はその気持ちをなだめてあげられなかった。
 母が日曜日に私を教会に連れていくというようなことがあって欲しかったような気がすることがある。

 元気な頃家族で行ったことがあるのは、明治神宮だった。きっと父や母には子供の頃に教育勅語が骨まで刷り込まれていたのだろうと思う。でもそれで遭ったのは、東京大空襲や広島だったのではないか?

 僕は幸せな家庭を作りたかったと父は言った。僕のお母さんはとても不幸な女性だったので。あの脳血栓で倒れたおばあちゃんは、そんなに不幸な女性だったのだろうかと面影を追うが、私が会った時はもう口がきけなくなっていた。でも、筆談したら、どうだったろうか?彼女が自分の娘に怒っていたのは、何か想いを伝えたかったのだと思う。

 快活な笑顔の母は私の目標のように感じられるところと、反対に、自分はおかあさんとは違う、と感じずにはいられないところとがせめぎあっていた。
 いくら血を分けた親子でも、生まれも育ちも違うような気がする。娘は母親に似るというが、似ているとすれば私は父親の方に似ていて、しかもあまり似たくないところばかりが似てくるような気がする。
 母や父が、そして祖母もいってしまった後で考えてみると、彼らは私が
子供の頃に感じられたようには大きな存在ではなかった。でも私にとってはかけがいのない人だったので、もっと生きていて欲しかった。植物人間でも生きていて欲しかった。それなのに私はそそくさと早い事家を出てしまった。

 ペテロやアンデレは、イエスについてこいと言われると、そのままついていってしまう。ガラリアの海辺。人を釣る猟師だなんて、なんて恐ろしいことをおっしゃるのだろう。ヤコブとヨハネも父ゼべタイと一緒に漁をしていたのに、船も父もおいてイエス様に従っていってしまった。

 地上に平和をもたらすためにきたのではないとイエス様はおっしゃる。平和ではなく、剣を投げ込むためにいらしたのですって。恐ろしいこと。

 イエス様よりも父や母を愛するものはイエス様にふさわしくない。イエス様よりも息子や娘を愛する者もふさわしくない。

 私はイエス様にはふさわしくないのかな。

 私は母のようでありたかったけれど、彼女のようでなくても不思議ではないと思う。私は18歳で大空襲に遭ったりしていない。せいぜい受験の第一志望に落ちた程度だ。私としては最善を尽くしたつもりだったが、甘かったのだろう。子供が授かると嬉しかった。それで祖母のように沢山生みたいと思ったが、私は祖母とも全然違う。私は16歳で嫁がされたりしなかった。祖母とも母とも違う。でも、闘いは私にもある。祖母は娘に先立たれたから祖母のような悲しみも知りたくないし、母のようになりたいわけでもない。でもきっと私にも幸せを望んであれこれ心配してくれた人だと思う。私はリレーのバトンを次の人に手渡すだけのものを持っているのだろうか?

 


2010年03月08日(月)

 アンビバレントな感情がもっと落ち着いてくるといいなと思います。

 でも、きっと回復しつつあるんじゃないかと思う。そんなに心配することはない。私のようにぼおっとしていた子でも、やっぱり親になると心配性になるというだけの話で、別に悪い事を企んでいるわけでもないので、多少気持ちがバタバタするのはよしとしたいと思います。

 よくわからないけど、腹式呼吸は胃腸にいいんじゃないだろうか。


2010年03月05日(金)

 生姜の葛湯が美味しい。神経がくたびれている時はね、この程度のものが
負担が少なくて助かります。

 シロップ付けの桃の缶詰なんかもいいな。

 そうだ。お粥さん炊こう。

 今日は朝から夕方まで寝ていたが、朝ごはんは食べた。昨夜も8時間は寝たが夕ご飯は頂きましたね。

 今月は生理が軽かったので、とても助かりました。出血が少なければ貧血も解消すると思います。この調子であがってくれるとすごく嬉しいです。

 お粥さんは炊けなかった。何とすき焼きです。これでメタボ解消は無理でしょう。


2010年03月04日(木)

 日本は津波がたいした事なくて良かったと思う。昔チリ地震の津波の被害は悲惨だったのだから、用心しすぎてしまうのは自然な事だ。


2010年03月02日(火) レッドクリフと三国志

慢性閉塞性肺疾患
読み方:まんせいへいそくせいはいしっかん
【英】:Chronic obstructive lung disease,COPD


たばこの煙など毒素の吸入により免疫反応が続いた結果、破壊された組織と増えたたんなどによる気道閉鎖がおこりやすい状態。
 たばこの煙を代表とする吸入された毒素によって、免疫反応が引き起こされ、その結果増えているたんなど排出物による気道の閉鎖がおこりやすい状態です。
 たんを伴うせき、息切れが何年にもわたって続き、息を吐く時間がのび、ぜいぜいするという症状があります。ひどい場合には、体重減少・やせ、気胸、心不全や呼吸不全を伴います。
 長い経過を経て至る状態でありそもそも気道や肺胞などの組織が破壊されてしまっていること、またたんなどによる気道の閉塞そのもの、とから、肺炎などへの進行へつながりやすく、また階段や坂道をのぼるといった、ちょっとした日常生活での運動でも息切れが出てきます。重症の場合には、携帯用酸素ボンベなどを用いて、酸素を補充する必要があります。

 私の心肺機能はへなちょこだけど、たいして重症じゃないな。ひどい場合には体重減少、やせってところが違う。違う。改善の余地はある。

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 ゆうべ『レッドクリフ赤壁』の録画を見て、とても面白かった。三国志の物語についてはほとんど全く知らなかったので、検索してみた。

 状況が一変するのは『世界古典文学全集24 三国志』全3巻(筑摩書房 1977年 - 1989年)で『三国志』(陳寿による史書)が初めて日本語訳され、1993年に文庫版が発売されてからである。これにより、一般の三国志愛好家が正史を読むことができるようになり、多くの人々が『三国志演義』により固定化されていたイメージに疑問を持つようになった。byうぃきぺぢあ

 レッドクリフは三国志演義(羅貫中による小説)的なのかもしれないな。
でも確かに面白い。

 呉宇森(ジョン・ウー)John Woo 香港

 梁 朝偉トニーレオン  Liáng Cháowěi



 建安13年(208年)冬、曹操は15万の軍を南下させ、病死した劉表の後を継いだ劉��を降し、長江を下って孫権領へ攻め込もうとした。だが孫権軍周瑜の部将黄蓋の策略に引っかかった曹操軍の軍船は火攻めに遭い、疫病に悩まされていたことも重なり、撤退を余儀なくされた(赤壁の戦い)。

 

史実の劉備 若き日

 父も州郡の官吏を勤めたが、劉備がまだ幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生活していた。

 家の前に生えている大きな桑の木を見て劉備少年は「僕も大きくなったら、天子の乗っている馬車に乗るんだ」と言った(天子の馬車は桑の木で出来ている)。その際、叔父の劉子敬(劉弘の弟)が劉備の口を塞ぎ「滅多なことを言うでない、そんなことを口に出すだけで、わが一族は皆殺しの刑に遭うぞ」と叱責したという。

 諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。

 
 208年、曹操が大軍を率いて南下してくると、孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。豪族の集合体である孫氏軍閥の性質から、帰順派(張昭・秦松等)が多勢を占める中、孫権は抗戦派(周瑜・魯粛等)の意見を入れて開戦を決断した。孫権は劉備と同盟を結び、曹操と戦うこととなった。周瑜らは同年の赤壁の戦いで、黄蓋の火攻めにより、曹操の水軍を大いに破り、江南の気候や地勢に不慣れな曹操軍は疫病に苦しめられていたこともあって、不利を悟って撤退した。

 

 魏 曹操

 蜀 劉備 諸葛亮

 呉 孫権 周瑜


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 今思ったのだが、どうしてchronic obstructive lung deseaseがCOPDなのだろう?略だとしたら、COLDではないだろうか?だとしたら、ただの風邪?
いや、風邪は万病の元?

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 2010年は、作曲家フレデリック・ショパンの生誕200年

まだ200年しか経っていないのか。と言っても、1810年って19世紀の初頭。フランス革命からいくらも経っていない。 






2010年03月01日(月)

 20年以上煙草を吸い続けて、煙草は嗜好品だと思っていたけれど、買いに出るのが億劫になってから今日まで、一体何ヶ月経ったのだろうか?昨年の秋には吸わなくなっていたと思う。その後、一箱くらい煙草買ったかな?
でも買い物も家事も煙草も、本当に億劫になった。でもまだ死にたくはない。死にたくはないし、苦しいのも嫌だ。当たり前だ。苦しいのを嫌がるのは生き物として元気な証拠だ。

 最後の頃は、煙草を吸った後で吸った部屋に入ると、自分でも煙草臭いのが快く感じられなくなっていた。
 タールが茶色く(黒く?)肺を覆っていることを考えると、というか、喫煙マナーを守っていても、人だけでなく、自分自身の肺を苛めていることを否定できなくなってきていたような。

 コンピューターやエアコンなどでも、時々埃を掃除してやらないと熱を持って効きが悪くなる。私の肺も、コールタールがべっとりついて性能が悪くなっていると思う。体調は急には良くならないが、何とか生活習慣を改善したいと思う。

 でもこんな風に多少元気に意欲的になると、周囲とぶつかった時、又煙草に走りたくなりそう。それをやめて、そのエネルギーを、何に注ぐかな。とりあえずヨガか柔軟体操をして筋を伸び縮みしないと、どんどんあちこちが硬化する。悲しい時も寂しい時も一人でもヨガ行者。別にお山に篭らなくても、離婚して出家しなくても、いまここでヨガ行者にはなれる。うちのおとうさんは私にお布施してくれているから、出家するのは難しいな。

 でもこんな風に思っていても、腹が立つといっぺんに忘れちゃうのよね。
今はとにかく、吸殻がたまると、後始末が面倒だから吸わない。外食で吸えるところでも、やっぱり煙草吸うと食事は美味しくないので、吸わなくなった。食事の生ごみの掃除も面倒。でもまだ食事は楽しみだから、掃除洗濯は仕方ない。食欲をもう少し抑えるにはどうしたらいいのか。

 今朝も夫に起こされてやっと起きる。まったくしょうもないやつだ。浅田真央ちゃんの爪の垢でも煎じて飲みたい。今私が死んだって十分世界は回っていくだろうけど、それでも私は自分が生きるに値しないとは思わないの。
もし死にたかったらいつでも身を投げて死ねるようなところに住んでいるのに、私はびちゃっと潰れたくないんだもの。今の百倍くらい体を壊して脳味噌も呆けなければ、とても天国には行けない。まだ人生は捨てられない。まだ私は自分の脳味噌の1パーセントも使ってないんじゃないかと思う。なんて
言っているうちに、後50年くらいさっと過ぎてしまいそうだ。
 娘が彼女自身の事を、現実逃避型と言っていたことがあった。私にもそういうところはあるが、現実逃避もたまにはいいと思う。

 今は血圧のお薬を飲んでいるから眠れるのかしら?この頃結構毎日寝る前に主の祈りかなんか唱えちゃっているのよ私。まったく悔しいけど笑っちゃうね。教会に行く元気はまだないんですが。血が普通の人の6割くらいしかなくなっているそうなんですけど、貧血が治ったら、教会のコーラスに参加したりできないかな。

 と書いていたら、夫がお昼にマックバーガーとコーラを買ってきてくれました。これってメタボに勧められている食品じゃないかもしれないけど、有難いことなので、食べて働いて運動しよう人生をもっと楽しませて頂きます。

 そういえば、今朝日本のテレビにヒューグラントさんが寝起きみたいなヘアスタイルで出演しておられて、親しみが感じられる素敵なお人柄のように思われました。私は割りとすぐころりと人に好感を抱いてしまいます。人が良すぎる。ということは、**だということ?でも、好感を抱いたからといってすぐ短絡的にならなくなるところが、年を取ることの素晴らしさだということにしたい。

 いつのまにか10年経ってしまうんだな。



 

 
 


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