尿道再形成の手術後はじめて自転車に乗ったらば、直後にルビーを溶かして液体にしたかのようにきれいな赤色の血尿が出てしまった衛澤ですこんにちは。会陰部を圧迫したために形成した尿道が身体の中でどうにかなったんですかねえ。お医者に診て貰おうにも世間さまはお盆休みでどうにもなりません。仕方ないねあはは。
さて、久し振りに小説の新刊を買いました。ここ数年は学生時代などに読みたかったけれど経済的理由により(「お金がなかった」もこう言うと恰好いいよネ)入手できなかったり買ったけど手離さなければならなかったりした過去作を買うことが多くて、新刊を買うのは漫画に限られていました。久々に買った新刊小説は何とライトノベルです。
いえ、私は「ライトノベル」の定義をよく判っていないのですが、書評などを見るとそのように書かれていたりするので、きっとそうなんだろうと思っていますこの作品は、ファミ通文庫から出ています森橋ビンゴさん作「
この恋と、その未来。―一年目 春―」です。
どうしてこの小説を読もうと思ったかと言いますと、私をご存知の方はすっかりお判りかと思いますが、主人公(少年)が恋をする相手が「心は男性だが身体は女性」の人、いえ作中にはっきりと書かれております「性同一性障害」の人だからです。
これまで「性を越境する人」が登場する創作物というのは結構沢山あり、西暦も2000年を過ぎた辺りからは「性同一性障害」という単語で当該人物を表す作品もちらほら現れてきました。そのすべてではありませんが、私もそういった作品には目を通すようにしてきました。
何故かと言いますと、世間さまが性同一性障碍とその当事者をどのように捉えているのか、ということに興味があるからです。作中でどのように描写されているのか、気になります。あまりに大きな誤謬が含まれているなら、それを読んだ当事者でない人が間違った智識を得てしまいますし、そういった場合には抗議なんかもしないといけなかったりもします。
「現実と作品世界とは異なるのだから細けえことは気にすんな」という向きもおられるとは思いますが、世の中には現実と虚構を区別できない人がほんとうに(吃驚しますがほんとうに)、少なくない数いるのです。そういう人たちが間違った智識を得てしまわないようにしないと、現実世界にどんな不具合が起きるかも判りません。
そんなことを考えていますので、作者の方には大変申し訳ないのですが、純粋に作品を愉しむというよりもちょっと検閲っぽい読み方をしてしまいがちです。自分が性同一性障碍当事者であるということ、「多少間違っていてもいいじゃないか」と思えないことを一時でも忘れてしまえない自分は物語の読み手として哀しいな、とは自分でも思います。
では本編。
主人公の松永四郎少年は母親と姉三人に隷属するような人生を送ってきました。父親は健在ですが、滅多に帰宅することがなく、いないのと同じです。女性ばかりの家の中、中学校卒業の今日まで母や姉たちに虐げられて暮らしてきました。あまりにつらいので、高校は遠方かつ全寮制の学校を受験し、合格して晴れて実家から出て学生寮に入寮します。
学生寮では二人一ト部屋が与えられます。四郎の同室の少年は「端正な顔立ちで背も高くスタイルはまるでモデルでもやっていそう」な感じ。端的に言うと「イケメン」です。名を織田未来と言います。
しかし入寮早々に校長室に呼び出されて聞かされた話では、未来は「性同一性障害の診断を受けている」、つまり「体は女性だが心は男性」。このように聞かされはしたがこれを他に一切洩らすな、この秘密が守られるように協力せよと言われます。
心は男性であっても身体は女性の人と同室になったことに戸惑う四郎。しかしともに生活するうちに四郎は未来を男性として感じられるようになってきます。虐げられて自分を抑えて育ってきた四郎は自ら行動を起こすということがあまり得意ではありません。そんな彼は積極性のある未来にちょっと振りまわされ気味にアルバイトや女の子とのデートや学校生活を経験していくうちに、未来と一緒にいることが愉しいと感じるようになります。
同様に、未来もまた四郎と過ごすうちに彼に信頼を置くようになり、「ずっと、俺の友達でいてくれ」と四郎に言います。「お前には、隠し事、しない。今の俺も、これからの俺も、全部見せるよ。(中略)だから、頼むよ。ずっと友達でいて欲しい」と。
四郎は「俺も、未来といるの、楽しい。(中略)友達でいたいって、思うよ」と答えます。しかし、心の中ではこう思うのです。「もう、遅いよ、未来」と。「俺はもう、たぶん、お前のこと、好きになってしまってる」と。
決して口には出せない、出してはいけない思いを抱えながら、高校生活一年目の春は過ぎていきます。
読んでいる間に先ず思ったのは「ああ、またイケメンか」でした。物語に現れるFTM(性同一性障碍当事者のうち、女性から男性に性移行したい人)は大抵「美少年」であったり「中性的」であったり恰好よかったりイケメンだったりします。最早や定型と言えましょう。これは小説だけでなく、漫画や映像でもそうです。2001年放送の「3年B組金八先生」第6シリーズでは「国民的美少女コンテスト」で審査員特別賞を受賞した上戸彩さんがFTMを演じていました。これが多くが知るいい例で、見目のよいFTMばかりです。
日本で性同一性障碍という言葉が使われるようになって約20年、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が施行されて10年、そろそろ角刈りガチムチおっさんFTMなんてのが登場してもいいと思います。つーか、現れてください。FTM=イケメンだとか一般に印象づいたりすると、現実に存在するスポーツ刈りの髭でデヴのおっさんFTMは何だか肩身が狭いです(個人の意見です)。
本編の地の文は一人称、つまり主人公四郎の視点で物語は進行していきます。だから仕方がないのかもしれませんが、未来を逐次「女である」と表しているのが、時折ささくれのように私の胸に引っ掛かります。未来の「身体が女性」であることを知ってしまってその点を意識せざるを得なくなってしまった四郎の目を通しての描写ですから仕方がないのだけど、でもFTMは女性じゃないんだよ、という気持ちが身体の中に澱みます。
四郎が未来に「女だ」と言ってしまったときに、未来が「俺は男だ」「次に女って言ってみろ、マジで殴るぞ」と怒る描写は、きちんとあります。同級生が何の気なしに言った「いい嫁さんになるぞ」という言葉に傷ついた(かもしれない)ことも書かれていますし、スカートが厭だったとか特撮ヒーローの変身ベルトがほしかったけど買って貰えなかったとか、そういった未来のエピソードも、四郎との会話を通して読者は知り得ます。でももの思うのは四郎です。読み手は四郎と同期することでしか未来を知り得ません。
「恋は、心でするのだろうか? それとも、体でするのだろうか?」
物語の冒頭にこの言葉が掲げられ、物語終盤では四郎が「人は、どこで恋をするのだろう」と考えます。もしも身体が恋をするのなら、この先未来が自分に恋をすることもあり得るのか、と。そして、自分の身体は未来に恋をしている、と。
自分の身体は未来に恋をしていると考えているということは、四郎は未来を女性として恋しているということに外なりません。何故なら、この小説は、人は並べてヘテロセクシュアル(異性愛者)であるという前提で書かれているからです。未来は女の子好きの健全な男の子の姿で描かれていますし、四郎たちと同じ男子寮に生活する生徒たちも「将来お嫁さんを貰う(つまり女性を伴侶とする)」のだと当然のように考えていたりします。
それだからこそ、恋をするのは身体か心かなどという葛藤が生まれるのです。
これも、作品世界においてさえヘテロセクシュアルをマジョリティとする世の中だから、仕方がないのでしょうか。
しかし、だからこそ、四郎がその気持ちを抱えていることをもしも未来が知ったなら、未来は傷つきかねません。それは物語終盤で四郎が考えています。未来のために「この恋を隠し続けよう」と。
この物語は、四郎の恋は、悲恋に終わるでしょうか。どうもそうは思えません。どんな葛藤のもとにどんな過程を経るにしろ、大団円を迎えるのではないでしょうか。その根拠は、2000年以降に発表された主立つ物語はだいたいハッピーエンドを迎えており、アンハッピーエンド(いわゆる「鬱エンド」)は物語の受け手にかなり嫌われているということです。多くの読み手を納得させるにはハッピーエンドを目指さざるを得ないのです。
さて、アンハッピーエンドを避けるにはどのような展開になればいいのでしょうか。四郎と未来が「正しく」結ばれることではないでしょうか。ここでの「正しく」は「互いにヘテロセクシュアルとして」と換言できます。ヘテロセクシュアル前提の世界ですから。
ということは、性自認が確立している(揺らぎの片鱗も見せない)四郎が「正しく」結ばれる相手は「女性の性自認を持つ」人、つまり未来が女性の性自認を持つ展開となることが予想されます。これが結末へと向かう過程の一つであればいいのですが、結末そのものになるなら、私は厭だなと思います。そんなにも「ヘテロセクシュアル万歳」か、と。そんなに性同一性障碍当事者の性自認は頼りないものと認識されているのか、と。
ヘテロセクシュアルはヘテロセクシュアルとして存在するとして、主人公がそのマジョリティに属せねばならないという法はありません。これまで姉たちに虐げられてきて女性にあまり魅力を見出せずに生きてきた四郎なのですから、未来との関係を続けるうちに女性よりも男性に魅力を感じるゲイセクシュアルとしての自己を発見するという展開があってもいいのではないでしょうか。身体は男女のままに繋がるゲイカップルも現実には確かにいます。
前提を覆して、四郎と未来がそういう関係となる展開もおもしろい(興味深い)と思います。世間さまが思い込んでいる「生物学的性と性自認とは必ず一致するものだ」という当然を当然ではないとする物語が若い読者層に読まれるというのは、セクシュアルマイノリティがまっとうな市民権を得る助力となり得ましょう。恋や愛で結ばれるのは常に男と女の二者であるという当然は実は当然ではないとする物語、それはきっとマジョリティのセクシュアリティについて考える機会を増やすよいテキストとなるでしょう。
物語のおもしろさとともに、セクシュアリティについての考察を促すものを含む作品であってほしいと思います。
※註
身体が男女として繋がるのであればヘテロセクシュアルなのではないか、という疑問をお持ちの方もあるかと思いますが、セクシュアリティは性自認で捉えるものですので、性自認が男性の四郎と性自認が男性の未来が互いを恋うことはゲイの関係となります。
この作品には「一年目 春」というサブタイトルが付いています。おそらく続編が、一年目の夏以降の物語があるのでしょう。「一年目 春」の結びも、ここで完結とするなら消化不良の感が否めません。「未来の元彼」が出てきて、これからどうなるの?というところで終わっていますから。
今後、四郎の気持ちがどう変化するのか、未来との距離感がどう変わるのか、判りません。凝り固まった性規範に囚われない物語となることを願います。それは即ち、四郎と未来はそれぞれが自分の何かを抑圧することなく、そのままの自分で互いに結ばれてほしいという読み手としての気持ちでもあります。