衆院の動向とか、決定的にヤバイニュースのあった日だけど、 自分の一日としては何もない日。になってしまう。
暇なのでAと風呂屋にいった。 風呂場で何を思ったのか、一目散に他の女の人を追いかけていく。 いつも慎重なあの人が、すべりそうな床をものともせず、だ。 どうやら他の人を私と間違えたのらしい。
風呂場というシチュエーションではあったけど まるで「禁じられた遊び」のラストシーンみたいだった。
小さい子供が親の後を追いかける衝動は、生存本能が剥き出しだ。 それだけに、あの映画の、戦争孤児の少女が、 生きているはずのない親を追って、雑踏の中に消えていくラストシーンは悲しい。
ついこの間まで、この映画は 昔あった戦争の悲惨な話で、今は関係ないと思っていた。
でも、 今世界の何処かで実際に起きていることとか、 これから日本で起こりうる未来への、あってはならない戒めとして この映画に思いを馳せる時がくるとは思わなかった。
2004年01月30日(金) |
抽選12万名様に裁判体験 |
少し早く起きたので新聞を全面見ることが出来た。
■司法制度改革推進本部が発表した裁判員制度の話。 住民台帳からくじ引きで裁判員を決めて、裁判に参加させるのだそうだ。 選任された人は指定された日に指定された場所へ出頭しなければならず、相当の理由がなければ拒否もできないらしい。 詳細を簡単に知るサイトがあったので後でまたいこう。
まず驚いたのは、「出頭」という表記。 出頭といえば警察をすぐに思い浮かべるのだけれど、 ちょっと怖い響きがある。 よく考えればそれは「国家権力」をさして、 「国家権力」は自分の中で 「理不尽な暴力」という置き換えがされているせいだとおもう。
国民参加の司法制度として裁判員制度の導入を検討、ぐらいのことは 前々から知っていた。 参加の機会が与えられるのはいいのではないかとも思っていた。
でも迂闊であった。私は愚民ちゃんであり、それ以降を詳細に調べなかった。
肝心の二文字が抜けている。
「国民参加」ではなくて「国民「強制」参加」だ。
人を裁きたいなどと思っていない人に、人を裁くことを強制すること、 行動を国に拘束されること、この二つが腑に落ちない。 意味不明のアレルギー反応が起きて、脳が発作している。
本当の意味で、市民の視点から犯罪の結末を判断しようというのならば、 「抽選12万名様に裁判体験あります」というのはあまりに浅はかだ。
それが犯罪のないよりよい社会のために、 一体どういうふうに貢献するものなのか、私には理解できないのだ。
人を裁くということには、それを職業としているかどうかに関わらず、 「資格」というものがあると思う。人格に対する「信頼」と言ってもいいかもしれない。 それはそんなに簡単に制度化できるものではないし、 誰でも出来るわけではないし、裁くという方法を 多数決で決めるものでさえない気がする。
もしも自分や友人や家族や愛する人が 裁判の舞台に立たねばならなくなった時、可能性として 「絶対に人を裁く資格などない」という人に 人生を左右されることがあり得ると思うと、 いきなり自分の世界が不信感で覆われてしまう。 こんな不幸な想像をしたくない。
あるいはその逆で、自分がもし何かの間違いの中で、 罪を犯した自覚や良心の呵責を感じていた場合に、 同じような罪にある人を裁くことができるのだろうか。
ついでに思うのは、運用の問題だ。 海外旅行や長期出張で不在の人はどうするのだろう。 プータローで実際は所在地不定の人はどうするのだろう。 呆けちゃっている人は、まあ「相応の理由」になるのかもしれない。
これは絶対日本の未来のために必要な制度だ!という主張を だれでもいいから正面からきちんと聞かせてほしいものだ。
事務所にて仕事。
昼食をとりながらHと映画の話をしていたつもりが、 ボウリング・フォー・コロンバインのところで 銃の話になってしまった。
アメリカはそのうち、銃刀法改正に圧力をかけてくるんじゃない?という話。
米国の銃産業がどんな構造になっているかは知らない。 知っているのは「ボウリング…」でみた、 全米ライフル協会の会長や会の活動の異常さだけだ。
そしてはっきり予想できるのは、もし、 パソコン並みの勢いで銃が日本に進出したら、 ものすごい市場になるだろうということだ。
アメリカにとって日本は未開拓の市場、 銃は売りたくても売れない商品というように見ようによっては見える。 そして日本に無理を押し通すことはもはやアメリカのお家芸だ。
その時がくれば間違いなく、 ものすごい正当性を持ち出して圧力を加えてくるに違いない。
もちろんとんでもないことだしただの妄想であるべきなのだけれど、 一番恐ろしいと思ったのは、日本の安全神話が崩れかけてきている今日、 自分自身の中で「銃輸入を日本では認めるべきでない」という言葉に力が入らない。
何故だめなのか、暴力に対して暴力で備えることは何故いけないのか。 隣の家の住人が銃をもったら、自分も欲しくなってしまうのではないか。 別れた恋人がしつこくつきまとったら、備えておきたいと思うのではないか。
言葉に力を込めるために、今考察の時間が必要なんだ。 何を失い何を得ることになるのか。 彼らのセールストークに屈しない、理念と理論を持たなくてはいけない。
本当はイラクの問題にしても同じように危機感をリアルに感じ、 考えることが必要なのだと思う。自分の愚民ぶりを情けなく思う。
同居人Hとの会話に最近頻繁に出てくるキーワードが「ネガい」。
ネガティブな、という意味。 もう若くないのであまり周囲のことに文句を言ったり否定的になるのは見っとも無いし、自分の馬鹿さ加減を露呈するようなものだからやめよう、という戒めで沸いて出た言葉なのである。
気をつけないとついついネガくなってしまう。 小さい子供の前では特に気をつけないと、大切な世界の始まりをネガで汚してしまう。その人の一生の「ネガ度」は、多分ここで決まると私は信じている。
本当に、小さい人たちには−どんな時代に生まれても−幸せや喜びの体験から心の土台をつくっていってほしいと思う。エリッヒ・ケストナーやミヒャエルエンデなど優れた児童文学者の著作を読むと、そうした愛情がよく伝わり嬉しくなる。宮崎駿夫や村上春樹の最近の作品からもすごくそう思う。
もう一つ、気をつけないといけないのは、あまり近しくない人に「君ネガいね」と指摘してしまうことだ。すごく怒られるし多分すごく傷つける。
母にこれをやったら烈火のごとく怒っていた。でもそれは「そうです私はネガいです」って言っているような気もするのだが。どこかに「ネガの虫下し」みたいなものがあればいいのにな。
気をつけても、どうしても溜まってしまうネガい考えを、この日記に書き付けているのである。「王様の耳はロバの耳」。国民総ガス抜き日記、なんである。
2004年01月25日(日) |
国民総ガス抜き表現者 |
「若者もすなる日記というものを我もしてみんと欲せし」の心境で始めた日記だけど、本当に沢山の人がWEB上で日記を書いているのに驚く。
皆それぞれに自分を軸とした思いの丈を語っている。 もちろんアブナイ日記や稚拙な内容のものもある。 反対に、実は著名な人が書いているのでは?と驚くほど はっとさせられるものもある。
そういう「日記群現象」を俯瞰していると、執筆者はみな、一方的に押し付けられる情報でパンパンになり消化不良になりそうな自分の、ガス抜きをしているようにみえる。 学校の授業、テレビ、新聞、本・・・インタラティブを謳いつつ、そこには権力の浸透圧が存在する。そういうものの束縛から解放されたところで自分を見て欲しい、人々とつながりたい、という気持ちが伝わる。
市井の人々の話には、もともと真実と味わいが含まれているものだと思う。 優れたものは、カンタベリ物語やら、○○鏡とか、名作古典になるまでだ。尊重に値すべきものだと思う。印税いくら、ページいくらの欲目で書かれた駄文とは、魂の入り方が違う。
興味があるのは、このガス抜き段階の後、私たちがどこへ行くかだ。 自分のガス抜きが果たせた後、もう少し力の抜けた表現になるときが楽しみである。
上手く整理できないのだけれど、そういうガス抜きの結果で、 見知らぬ人どうしの会話が豊かになっていくといいなと思う。 昔のむかしの小説や書物、落語に残るような、行きずりの人との暖かいコミュニケーションに成熟しないかな、と密かに思う。
広中平祐氏が、レジオン・ドヌール勲章というのを受賞したらしい。 ナポレオンが創設した名誉と歴史ある賞だそう。
「数学を芸術としてとらえる文化がフランスにはある」という。 一流を極めた人による、そうしたコメントを何だか嬉しく思う。
それからもう一つ嬉しかったのは、 「一度やってみたかった」と、現在小学校で算数を教えておられるということ。
「一度やってみたかった」このコメントがいい。 数学の原点にもどるつもりで、と、 何からでも教わる姿勢を感じて敬服する。 一流ホテルの料理長が給食のおばさんになるみたいだ。
閑話休題。
社会人野球クラブを創設した野茂英雄。 彼はやはり、パイオニアワーカーだ。
こんなにも野球を愛する男が好きだ。
私は別に野球が特別好きでもないし嫌いでもないけれど、 彼の行動の原点がいつも「野球が好きだから」にある純粋さがいい。 そして誰もやっていないことを「一人で淡々と」やるところも。 そういう意味で私はイチローより野茂が好きだ。
彼の事業がどんな結果になるか何をもたらすかはわからないが、 少なくとも今の私には、彼が、渡辺という商業球界使いによって失われた 「野球を愛する心」を、人々の元にとり返してくれるヒーローに見えるのだ。
頑張れ野茂英雄!
最近の弘兼さんはどうしたというのだろう。 迷走している気がしてならない。
「黄昏流星群」という連載については 「中高年にふさわしい漫画が必要」という 彼なりの目的があったことは知っている。 それにしても、だ。
先週のエピソードときたら、 −乱暴に説明すると− ある社会的地位のある初老の男が、息子と交際している年上女に、 息子のため交際をやめるよう試みる。 ところが逆にその女性に誘惑され愛し合うようになり、 挙句の果てには二人の間に子どもができてしまうという話だ。
ここで気になるのは、物語の中での息子の位置づけだ。
彼は最愛の女性から結婚を拒否され自殺未遂を図り、 身体の一部と生殖機能を失ってしまう。結局結婚するも、 妻は父親の子を宿しており、その息子との偽りの家庭の中で、 若い死を遂げてしまう。一切を知りつつ、死に際に妻を奪った父親を許す。
老人達の娯楽漫画とはいえ、弘兼は何故、 なんのためにこんな酷な「逆オイディプス王」を創出するのか。
物語の中では、女達も主人公の都合のいいように現れ、消える。 若さを失った初老の男の妻は、 浮気を重ね離婚を申し出て、舞台から去る。 しかも弘兼は、老いた妻が都合よく 主人公の前から消えるだけでは飽き足らず、 再婚した浮気相手とも破局するという救い難い結末を付け加える。
息子の妻でありながら、 自分と関係を持ち子までなしたその女ときたら、 息子が病死した葬儀の場で早くも主人公の男を誘う。
弘兼はこの女を 子どもを産もうが家庭を持とうがいつまでも人間として成長させず、 男に対し自分から性的アピールをし続ける、 まったく都合のいい女性として描いている。
「人間交差点」であんなに見事に、 上品な小説のように人の情を描くことができた弘兼は 一体どこへいったのだろう。
老人の色と金の欲ボケに対するアジテーターではないか、これでは。 これが本当に高齢者へ向けるファンタジーなのか。
息子が自慢できるような立派な男になり、 自分を超えていくことを自然な喜びとして 受け入れられないのだろうか、この人は。
それにこの作品のように、若い女が年老いた男を一目見て 性的魅力を感じるということはありえない。
年老いた人間というのはもっと素晴らしいものだし、 素晴らしいものにならなくてはならない。 セックスなんか若者にまかせておけばいいのだ。
何しろ最近の弘兼氏の作品はこんな調子で、 申し訳ないが老害傾向が著しい。 現代社会の匂いや風を捉えることができなくなっている。
島耕作とともにエグゼクティブになりすぎてしまったのだろう。 漫画は庶民のものなのに。
少し前の「取締役島耕作」で、 路上にタムロする日本の若者と勉強熱心な中国の若者を比べて、 島耕作が日本の未来を嘆く場面があった。 このことに私はとても腹が立った。
子供達をこういうふうにした弘兼達の世代、そして まさに弘兼の描く企業社会の世界の責任のはずである。
大量生産、大量消費の文化を創り環境を破壊し、 学歴社会を増徴し、組織に埋没して 家族や自分自身を大切にしてこなかったつけを目の当たりにして、 この人は何を無責任なことをいうのだろう。
皮肉にも作品中で島耕作には一人娘がいる。 幼い頃から別居し、島は親らしいコミュニケーションを ほとんどとっていない。
作品の中では立派な女性に成長し、父親との関係も上手くいっているが、 これはむしのいい話である。 絶対に十代で摂食障害になり、二十代で不倫をし、 よしんば結婚して子を設けても、子を愛すことなどできない。 そういう人生を送るはずだ。 この作品のなかで、ここだけ現代社会のもつリアリティに欠けている。
未来を担う世代に何の恨みがあるのか知らないけれど、 こんな作品は本当に「65歳未満禁止」の老害図書にして、 若者の目にふれないようにしてほしいものだ。
10代の若者が間違って読んで、未来に対する希望を失いかねない。
金原ひとみさんの受賞後エッセイ。 友達受けもよかったし、ただ好きで小説を書いていただけだったのに、気がついたら自分の作品によって強制的に社会参加させられていた女の子、という印象。
芥川賞を誰が受賞するかどうかについては別に興味ないのだけど、 文学を評価する作業というものを作家ばかりでやるこの「選考」という作業について、私はとても不自然な感じを受ける。そもそも何で読者のためにこんな賞が必要なのかも理解できない。
情けない話だけど、選考作業をしている作家陣がどういう作品を書いているのかさえよく知らないので、本当に自分にとって「よい文学」が選ばれているのか判断できない。 そうなると受賞作家という情報だけで読む理由にならないし(繰り返しになるけれど私は芥川賞ウォッチャーではない)、何よりも他に読むべき本は沢山あるのだ。
2004年01月18日(日) |
コインロッカーベイビーズ |
保育園の統合がすすんでいる。 理由は少子化、そして行政の財政難。
広報でまたそうした知らせがあった。 統合される保育園は、120人規模。 別の地域の例では、200人規模。
「200人規模の保育園なんて、はっきり言って子どもの名前も顔も覚えられないわ。クラスの中だけでも危ない」 と、知り合いの保育士が言っていた。 そうした環境で保育という仕事に就くことがとても心苦しい、とも。
名前と顔を覚えてもらえない、ということは、 まだ社会的に自分を確立するものが何もない子どもの世界では、 人格そのものを認めてもらえないのと一緒ではないか。 そんなところで1日を過ごさざるを得ない子どもたちのことを 思うだけで胸が苦しくなる。
親と離れて心細さに泣いている子どももいるだろう。 喧嘩して、もやもやした心の整理がつかない子どももいるだろう。 新しい発見や喜びを認めてもらいたい子どももいるだろう。
そんな子ども達の名前ひとつ呼べないで、 どうして子どもの心に寄り添うことができるというのだ。
子どもというのはだいたい、とても非効率な生き物である。 非効率は不必要とは訳が違う。
大人になるためには長い長い非効率な旅が必要だし、 それを許すことが成熟した大人の社会なのだ。
子どもはものではない。 入れものの都合で押し込めばよいという考えは絶対に間違っている。 質のよいコミュニケーションのための適正規模とか保育の質というものをもっとしっかり検討するべきだ。
就学前の子ども達が、一箇所に200人も集められて生活する 異様さを感じないのだろうか。 東京駅地下銀の鈴のコインロッカーじゃあるまいし。
現代のコインロッカーベイビーズ達は、 たったの15年すれば生物学的に、 20年もすれば社会的に一人前の大人になる。
その時、中高年に達しているであろう私達は、 効率優先でどのように遇されるのだろう。
朝から、(朝だからか)とても寒い。 4時ぐらいになると、「もののけ姫」のダイダラボッチの如く、背後の山から寒気の塊がぬーっと降りてくるのを、布団の中にいてもはっきり感じる。 ピシピシピシーと、端から順に、窓が、畳が、家具が、自分が、凍てついていく。 こういう人知の及ばない自然の力を感じられる時、(寒いのはすごく嫌なんだけど)ちょっとマゾ的にうれしくもある。 アーモーヤッチャッテチョウダイ。
赤塚不二夫対談集を読んだ。 対談している人は、タモリ、柳美里、北野武、ダニエルカール、談志師匠、松本人志、だったかな。 「笑いの質が下がっているのは、受け手が堕落しているんだ」ということを色々な人の前で発言している。昔は笑いのセンスが高かった、今はただの駄洒落が落語というじゃないか。と。 歌舞伎が(古典であっても新作であっても)現実のコミュニケーションを再現しているかどうかはわからないけれど、確かに会話が細やかだなあと思うし、そこまで遡らなくても、自分より前の世代の人の話し方というのはとても丁寧だ。言葉遣いというよりも、話のやりとりが丁寧だ。
それと印象的だったのは、実は赤塚不二夫って社会の色々なことに実はすごく怒っている人だと思うのだけど、その怒りのエネルギーを笑いに変えるための「変換器」がものすごく優れている。変換ノイズもないし、エネルギーロスもない。怒り100%を笑い100%に完全にスイッチしている。曰く、「チャップリンみたいに最後説教臭いのはダメ」なんだそう。だから対談集を読むまでこんな人だとは全然わからなかった。
「天才バカボン」が話題のそこ個々に出てくるせいか、全体に懐かしい昭和の文化のにおいがする。タモリとの出会いの辺りも、なんか自分が子どもだった頃、おぼろげに感じていた大人の匂いがぷんぷんしていいにおい。
こういう本質的なところの話をする人には、すぐ騙されちゃうんだよなあ、私。まあいいや面白かったから。これでいいのだ!
2004年01月14日(水) |
今日から日記はじめます |
日記は昔よくつけたなあ。
親に見られてすごく頭にきたのに、 今はこんな公開型の環境で書いている。
こんな酔狂なことを始めたのは、 誰かに読んでもらいたいというよりも 他人の目を意識した文章を書く訓練をしたいと思ったからだ。 事実WEB日記先行組みの彼ら彼女らは、いつの間にか すごく文章が上手になっている気がする。
そういえばどうして日記は「つける」っていうんだろう。 帳簿やなんかと一緒で「記録」だからなのか? 記録だとすれば、あんまり文学的なことを無理に 考えなくていいんだよなあ。何を食べたとか誰にあったとか。 まあそんなことぐらいじゃないと、毎日は書けないしね。
手紙は「したためる」だよなあ。
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