群青

wandervogel /目次 /一覧 my

0817
2008年11月23日(日)




 おそらく僕は一生を子の親になることなく終わるだろう。だから難産のAさんの二子には、とにかく健やかにこの世へ生を受けて欲しい。僕の生まれたであろう子供の分まで生きて欲しい、というのは勝手な言い草だが、会う度にできることの増えているUちゃんに接していると、有り得たかもしれない自分の可能性の一部が救われたような気がして、だからこそ、予め用意されていた(のかもしれない)育み慈しむ力が、次に産まれてくる命にその恩恵を譲ってはくれないだろうかと願ってしまう。

 不意に、医者をどなりつける父の姿が浮かぶ。僕はその姿を知らない。しかし、子の命を途切らせまいと叫ぶ必死さの温かな感触を思い浮かべることはできる。両親の判断は正しく僕は国立小児病院に転院して命を長らえることができたのだが、見舞客は同床のあまりに重篤な患児を見て、この子(僕)はきっと長くはないのだろうと思ったのだそうだ。僕の不安の原形、ひいては終始、人の顔色を窺ってやまない性質はきっとここで産み育まれたものなのだろう。

 「なんのなんのよー、ぴいさしないで、」母が敷き布団を送って寄越した。煎餅布団ではフローリングの冷気を感じて寒かろうと思ったのだろう。お礼のメールを送ると、冒頭の件で始まる一文が返送されてきた。いつまで経っても子供は子供なのだと思って妙におかしかった。国立小児時代、面会は夕までとのことで、ベッドの柵越しに今にも泣き出しそうな顔をしている僕を残し、身の裂かれる思いで母は毎日病院を後にしたそうだ。

 術痕を別にすれば、当時の記憶は一切残っていない。伝え聞く話をつなぎ合わせてそのときの状況を回想するのみで、ましてや、自分の歪みの源流をそこに見出そうとするのなんてのも馬鹿馬鹿しい話だ。当時と今の僕はつながっているのだろうが、現在においてその禍根は見当たらない。唯一、残っているとすれば、彼と彼女に生かされているのだという思いだけだ。





 職場では、困難な生まれ方をした方達のケアにあたる。(表面的には)自ら訴える能力に乏しいように見えて、自己主張をしっかりすることに驚いたのが三年前で、あと数ヶ月で四年になる。その間にMさんとKさんを葬(おく)った。冷たく硬くなった身体に触れて頭の奥がしんとしたのはまだ記憶に新しい。死に直面したときの言葉を僕はまだ形作ることができない。直前まで確かにそこにあった命がどこへ行ってしまったのだろうかと、なぜ?の思いは尽きることがない。

 なぜ?はそのまま父にもあてはまることで、はるばる水戸に移住してしまってからはなかなか会う機会もない(多分作ろうとしないからだろうが)。器は確かにそこにあるのに、中に入っているものがすっかり替わってしまって久しい。もともとそこにあったもの(父を父たらしめたもの)は一体どこへ行ったというのだろう。子を産み、育てたが、杯を交わすことなく、どこかへ行ってしまった(子に還った)父。

 生もうとする命。生まれようとする命。生まれたかもしれない命。生かそうとする命。生かされた命。困難な生を送る命。死に行く命。それを支えようとする命。生まれたままに還ろうとする命。生きる自信をなくした命。

 命が廻る。ぐるぐるぐるぐる命が巡る。起きがけにふとそんなことが想われて(それは夢の続きだったのかもしれないが)少し泣いた。



0816
2008年11月22日(土)




 追い立てられる感覚がまるで消えない。身体のどこか一部が常に力んでいて、とりあえず湯船に浸かってみて対処するも、ちっとも平静に戻らない。初期のパニック症患者が連れ合いと一緒であれば外出できるように、親しい間柄の人間と時間を共有していれば多少なりとも気が紛れようものだが、一旦関西を離れてしまえばそれとてもない。きっと、引き算の発想だから辛いのだろう。性根が貧しいから、足されるものよりも、引かれるものにまず先に目が行ってしまう。





 また夢を見る。以前付き合っていた、Tと同名のTの荷物を僕は持っている。そこは地元の駅だ。終電で向かう。帰りの移動手段はない。きっと長い距離を歩くことになるのだろう。電話はつながらない。それでも僕は向かっている(屋根のないヘンテコな電車で)。あるいは僕は両親にカミングアウトをしている(そして父は健在だ)。言うべきことをつらつらと考えて、結局、言うべき相手がもういないことに思い至る。夢から覚めるまでは。





 このところ、夢の方が現実よりも感情的に充足した生を送れているのは悲しむべきことなのだろうか。選ばれなかった選択肢。送ったかもしれない人生。僕は予定調和を生きている。職場で、そして東京で。ギアチェンジをしたらば誰もついてこられないことが明白になってしまったので、頓服を服用して自ずからギアを変えられないようにしている。後悔はしていない。ただ、傲慢だと自問することで、自分の傲慢さを糊塗するのに疲れた。





 輪郭を際立たせる冬の光が苦手だ。くっきりと照らし出されると身の置きどころがない。それに伴い、人と人との距離も寸断されるような気がする。引き換え、夏のまどろむような日差しと境界を曖昧にする暑さは優しく、混沌のなかでぐつぐつと煮えたぎるとき、僕は生きていることを実感できる。きっとこれもまた、冬を前にした世迷い言なのだろうが、僕は年々強く(鈍感に)なっているのか、弱く(過敏に)なっているのか、それすらもう分からない。一人で生きて行く自信がない。


-----------------------------------------------------------


GALLERY・MAで「安藤忠雄 建築展[挑戦 -原点から-]」


-----------------------------------------------------------


河合香織「セックスボランティア」
ジュンパ・ラヒリ「停電の夜に」

読了。



0815
2008年11月01日(土)




 敬語を交えずにNさんと話すのは骨が折れる。時間の経過と共により自然に近い状態で話すことはできるものの、あまりに身近な呼びかけをしてしまったとき、息を詰めてNさんの動静を窺うことがある。それでも会話から敬語を排するのは当時との差異を明確にするためで、近付いて遠く、離れて近い、この距離感にもどかしさを感じないでもないが、今はきっとそういう時期なのだと言い聞かせて逸脱しそうになる気持ちに蓋をする。








 中国地方の小都市だったような気がする。遅くまでNさんと会っていたせいで、東京行きの最終の交通手段を逃してしまった。今夜中に来ることはないと知りながら、僕は東京行きのバスを待ち続ける。そんな夢を見た。








 自分にコミットしてくる情報にのみ着目していれば心穏やかでいられようなものを、進んで辺りに気を配るから疲れる。消耗するのを(損なわれるのを)恐れる気持ちは、高じて拒絶と敵愾心に転じるので、東京で暮らす自分がほとほと嫌になるときがある。では、いっそのこと東京を離れてみれば良いものだが、そこに第二第三の東京が立ち現れるだけで、よほど辺鄙な所へでも越さない限り逃亡することは難しいように思える。旅先では心の掛けがねが緩むから、少しはかくありたい自分に近付けようものだが、終生旅を続けるというのも土台無理な話だ。

 河原町で、Tやその友人達と午前五時までカラオケ。よくもまあうたう歌が尽きないものだと感心しながら、もう若くない僕は零時を過ぎた辺りからうつらうつら。大音声と充満した煙に耳と喉をやられ這う這うの体で閑古鳥の鳴く四条通を歩いた。Tとベッドに横たわると、ブラインドの隙間から朝が覗いた。









-----------------------------------------------------------


アートエリアB1で「中之島哲学コレージュ 哲学セミナー 第1回 臨床哲学」

SHIBUYA-AXでイースタンユース
「極東最前線/巡業 ~スットコドッコイ20年~」
東京国際フォーラムでシガー・ロス「JAPAN TOUR 2008」

森美術館で「アネット・メサジェ:聖と俗の使者たち」















-----------------------------------------------------------


カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」
ジュンパ・ラヒリ「その名にちなんで」

読了。














過日   後日