みかんのつぶつぶ
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2001年03月31日(土)

とにかく元気が、ない。

病院の雰囲気もさることながら、
自分の体も重く感じているのだろう。

重苦しい空気が、ベッドのまわりに充満している。
二人で無口になってしまう。
元気だして、なんて、とっても言える雰囲気じゃないんだもん(T_T)

また、自分に精一杯になってしまっている自分を、
帰り道、雨に打たれながら戒める。
見慣れない景色、誰も知らない街。
こんなに心細い気持ちで道を歩くのは、
他の人には味わって欲しくないな…なんて思ったり。

私が死んだら?
私が病にかかったら?
どうなるの?
子供達は?

不安が心一杯に広がってくる。

これから、どうなるの?

立ち止まって、いつまでも泣き続けていられたらどんなに楽だろう。
自分の悲しみに溺れることが許されるならば、
それはまだ、救われるのにね。

救いようがないなぁ。
状態悪いよ。



2001年03月30日(金)

午前9時、がんセンター到着。
タクシーの運転手さんも驚くほど道が空いていた。
そんなに早く着かなくたって…っていう時に限ってね(-_-;)

病室は6人部屋。
いままでいた病院に比べると、まあ近代的ってところかな。

泌尿器科で入院しているひとばかりみたいだ。
脳外科って、イヤな響きだな。

みんな抗癌剤治療のひとばかり。
なんだか滅入っちゃう。

治療予定期間3ヶ月。
恐らくこれ以上。
もしかしたらもっと早くに逝ってしまうかもしれない。
脊髄には2つ腫瘍があるそうだ。
初耳なのは、なんだかおかしいよね。

左の肩がおかしくて、力がはいらないと言う。
痛み止めも、だんだん効きが悪くなっているって(泣)
どうしてそれを先生に言わないかなぁ・・・(T_T)
私が替わりに報告しないといけないんだよねぇ…。
我慢しちゃダメなのに(T_T)


帰りの電車では、なんだかいっきにブルーに入ってしまった。
夕暮れは、危険だな。



自分が傷だらけなんだと感じた。
目からは血がでそうだ。
言葉を吐き出そうとすると、吐血しそうだ。


寂しい兎は、死んじゃうんだって。

なんか、そんな気分だよ・・・。


2001年03月29日(木)

どうして今日は、今日に限ってこんなに雨が降るのだろう…(T_T)


同室のOさんが、玄関まで荷物を運びながら見送りに来てくださった。

「生まれてはじめての入院でなんにもわからなず不安に居たところを、声をかけてくださって親切にして頂いて、
手術後も同じ病室になれて、おかげで本当に快適に入院生活を送ることができました。
ありがとう。
これが退院だったら良かったのに…
向こうへ行っても頑張って、早く退院できるといいですね」

Oさんは、明日退院する。
病理検査結果も良性となって、やっと無罪放免だ(笑)
しきりに感謝されてしまって、なんだかちょっぴり涙がでてきてしまった。

お掃除のおばさんにも

「会えなくなると思うと、なんだか寂しいねぇ…」

って言われて、ほんと、お別れなんだと思った。
会えるのも困るけど、ね。

みなさんお世話になりました。

ありがとう、おかげさま。


2001年03月28日(水)

なんだか、身の置き所がなく困っている。
ん?なんだか意味不明な表現かな?
・・・ん〜〜〜( ̄∇ ̄;)

桜の花が妙に悲しいし、
道行く先々に咲き乱れる花々が悲しいし、
あんまりにもいいお天気なのが悲しいし、
涙がでない自分が悲しいし・・・(T_T)

病室の窓から、空を見上げた。
青かった。
はじめて運び込まれたあの夏の日も、
こんな風に真っ青な空だった。
あれから七ヶ月か・・・
明日でお別れだねこの病院と。
元気に闊歩する姿を、
もう二度とこの病院では見ることはできないんだね。

病室に行くと、転院の準備のために
荷物が綺麗に整理されていた。

旅立ちの準備をするようだな…と、
ふと思ってしまった。
父を棺に入れて、旅立ちの準備をしたように、
あの光景を思い出してしまった。

後ろ向きだね、すっかり…(泣)


2001年03月27日(火)

とっても疲れました…(T_T)
ひどいショックを受けて、彼にはとても気の毒なことをしたと思っています。

がんセンターへは予定より一時間もはやく到着。
しかし、受付がやたらと時間がかかったので、良かったのかも知れません。が、
10時予約のはずが、なんと診察室へ呼ばれたのは11時過ぎ。
待っている間、だんだんと元気がなくなってくるし、
どうしようかと思っちゃった(汗

担当のN先生は、40代後半くらいの感じ。
じっくりと話しを聞いて、会話をするタイプの先生で。
まぁ、話しの内容は非常に厳しいものでしたが・・・。

骨・軟部腫瘍科の先生とも検討した結果、
効果の期待できそうな抗癌剤がみつかったという事で、
治療を引き受けようと思ったとおっしゃっていた。

彼は、てっきり放射線科での受診で、
放射線治療を受ける為に受診をすると思いこんでいたため、
寝耳に水状態。
しかも転院をしなくてはいけないとなると、
とたんに汗をかきはじめて、抵抗しはじめた。

だけど結局は、効果のある治療は抗癌剤である、という理由をしぶしぶながらも納得していた。

帰り道、ぼやきながらトボトボと電車にゆられて病院に戻った。
ベッドの上では、涙ぐんでいる様子だった。

「話しを聞くたびに悪い方向へばかりいく」

わかるよ、気持ち(T_T)
私だって、悪い方向へ考えすぎだろうと思う以上に
現実的に悲惨な話しを聞かされてきたんだもの(泣)
でもね、徹底的にやってみよう。
このまま手をこまねいて時を待つのは、やっぱり後悔すると思う。
抗癌剤の副作用は、そりゃあ想像以上に苦しみを持ってくるだろうけれど、
でも、病いと闘おう。
決めたんだ、闘う苦労をしようと…

負けないよね、病気に。
くじけないよね、抗癌剤に。
そう信じて、決めたんだから。


2001年03月26日(月)

右手の、皮膚感覚がおかしい、という。
左手よりも、冷たく感じるって。
力や動きには問題ないのだけれど…影響がでてきたかなぁ(T_T)

病院の桜が、あっという間に花開いて、
ふたりで撮影会をした(笑)
私達だけでしたね、観光気分は…(^^ゞ

レンズ越しに見る彼は、
出会った頃とちっとも変わっていない。
病気でやつれてはいるけれど、
頭は坊主になっているけれど、
かわらない笑顔で、私をみつめている。


このひとが、消えてしまう・・・?


夕暮れの桜は、
ちょっと肌寒そうに
はやく部屋におかえりと、
私達を見下ろしていた。


2001年03月25日(日)

外泊二日目。

なにごともなく、変わらない光景の我が家。
特別なことをしたり、話したりするわけでもなく、
ただただ自然な時の流れを感じている。

車の運転は、さすがに自重したらしく、
買い物にはバスででかけた。

帰り道、疲れたようすで、足をひきずって歩いている。

来週も歩いて帰ってこられるかな。


なんだか切ないね。。。


2001年03月24日(土)

あたりまえのことが

ほんとは一番

幸せなことなんだなぁと

しみじみ感じた

午後のひとときだった。


2001年03月22日(木)

・・・・・なんか、最悪だ。

寝こむと、とたんに弱気になって、
なにもかもがイヤになってくる。

正常に考えがまとまらないし、
不健康なことばかり考えるし…。


火曜日がんセンター受診。

いよいよなんだ、と思ったら、ガックリきたらしい。熱に負けた私(T_T)

また、首が痛んできたという。。。

もう、いいよ。
辛すぎるよね・・・あんまりだ。




本人へ告知。

割と、あっさり。

本人…反応がいまいちなのが気になる。

まあ、首の痛みの原因がわかったからっていうのもあるのだろうが・・・。
まあ、先生がつとめて明るく、簡単に前向きな話しでもっていって下さったからだろう。


本人に話す事前の面談では、ひたすら渋い表情だった先生。

はっきり言って、手詰まり状態だそうだ。

抗癌剤も、効くかどうかは保証しかねると。

最悪は、死期を早める、ということだろう。



桜が、ちらほらと蕾みを開かせて、
彼の誕生日も、もうすぐだ


2001年03月20日(火)

なんだか、自分が具合が悪くなって、しみじみわかった気がする。
病院のベッドにいる苦痛と苦悩を…

もう、ちぢこまって、いじけて、癇癪おこして、
八つ当たりしてしまいたいくらいに落ちこんでいるのだろう。
なんだか、今日の姿をみて、そう思った。

ほんとに、カワイソウだと本気で感じた。
カワイソウなんて思うのは、いけないことだと思って頑張ってきたけれど、
もう限界だ。。。

私には、なんの力もない。。。

ああ、熱、下がんないかなぁー。。。(T_T)
体が妙に痛いよぉー(泣)


2001年03月19日(月)

案の定、娘の風邪が移ってきました( ̄∇ ̄;)

なんだか彼も元気がない。
今日は頭のMRIを撮ったらしい。

別れ際に

「なんか、かったるくなった」

って言ってた。。。(泣)

そんな弱音を吐いたことないのに・・・。


2001年03月18日(日)

義理の姉達が見舞いに来てくれた。
ご夫婦で。久しぶりだった。
お義兄さん達はとても優しい人達で、
ほんと、いつも感謝しています。

でも帰り際、お義兄さんが厳しい顔をして

「本人に言わない方がいいよ」

って、私に囁いた。
いままで私に意見をするような人ではなかったので、驚いた。

「前向きに頑張っているんだから、もうこれ以上ガッカリさせないほうが、いいんじゃないかな…」

同感です…(泣)

今回手術の前に、
せっせとベッドサイドでジンジャー人形を作った。
何かお守りを持たせたかったから。
その人形をつけた袋を持たせて手術へ。

術後、一人でトイレに行った際に
部屋を迷ってしまうから、
何か入り口に目印を付けておくといいよっていう看護婦さんの言葉に、
その人形を入り口のカーテンに付けておいた。

それを見つけた隣りのおばあちゃまが、
とっても可愛いとほめて下さったので、
新たに作ってさしあげたらとても喜んで下さって、
変わりに折り紙と、手品と、編物を教えてくださるという(^.^)

73歳で、ましてや開頭手術後とは思えないほど手先が良く動く。
それにとってもオシャレで、傷を隠すために、ニューヨークで買ったという豹柄のスカーフを頭に巻いている(笑)

嬉しそうに彼にも見せに来たそうだ、
胸につけた人形を。。。(^^ゞ
可愛いおばあちゃまです。

どうぞお元気になって
またニューヨークへいってらっしゃい


2001年03月17日(土)

ぅぅ、娘が39度も熱があるー(T_T)
昨日の朝は微熱程度で、食欲もあるし元気そうだったから私は病院へ。
帰ってきて部屋に見に行ったら、
真っ赤っかの顔して…(泣)
な、なんと39.9度!!!

今朝病院へ連れていって、帰ってきてバタバタしてまた病院へ。

うーん・・・つ、疲れたっす(>_<)


外泊の許可は却下されたと、娘を病院へ連れていく途中に電話があった。
だって昨日抜糸したあとから『汁』が出てきたからー(笑)
・・・いったい何の汁だろう(不明)

先生が、

「申し訳無いけど、今回は・・・」

って言っていたらしい。
複雑ですな。。。

帰ってこれるよね。
きっときっときっときっと・・・


後ろから、いつも歩く姿を確認することにしているのだけど、
なんだかちょっと、
足がもつれ気味なんだよなぁ。。。
サンダルのせいかな?

明日もおにぎり持っていってあげるからね。
がんばれ


2001年03月15日(木)

また騙された…(笑)
今日は手術日なので、抜糸はありませんって。

おかしいんだなぁ。。。
点滴の数が減ったのに、お腹がものすごく減るという。
中枢神経が、壊れちゃったのかなぁ。
それとも何かの奇跡で、
腫瘍細胞がどこかに消えちゃったのかな?・・・なーんてねぇ…(泣)
それにやたらとタバコを吸いに行くんだよねぇ。
ストレスから来ているのかな(T_T)

夕方の点滴で、全て終わり。
あとは、抜糸して、そして。。。

脳が動こうとしてくれない。
昨日からずっとバファリンを飲み続けているからかな。

子供達に、病院へ行くようにと無理強いしかねている。
もしも、ってことを、どう話したらいいのだろう。

私自身の「話さなかった後悔」が先か
それとも「話した後悔」が先か。
子供達の「知らなかった後悔」を避けるべきが最優先なのか・・・?

私だったら・・・?
私が子供だったら?

きっと、どちらも悲しいだけだな


2001年03月14日(水)

「明日、抜糸するって」

明日…抜糸…いよいよなんだ・・・

彼は、なぜか今日はあまり病室にいたがらない。
もともとそうなのだが、今日は特に、だ。
目がトロンとしている、あまり熟睡していないらしい。

「少し眠ったら・・・」

「寝る時間はたくさんあるから、いま眠らなくてもいいんだ」


病室は、一気に3人の患者さんが移動してきて満室になった(笑)

向かいのベッドにいらした方は、脳に出血があり検査でようやくみつけて手術をしたらしい。
戦艦大和に乗務された経験があり、新幹線まで作り上げて引退されたという、
カクシャクとした老人だ。
当時の話しを聞いて、彼は感動していた。
もともと歴史が好きなこともあって、
歴史の生き証人に出会えて、聞くことは知識に触れることばかりで、
感動のあまり目には涙が光っていた。

そういえば、本棚には山本五十六に関する書物が多かったなぁ…と思い出した。

その方は、ゴルフも現役でされているという。
なんとかシングルプレーヤーになりたいのだが、品格が足りなくて…と笑っていた。
いえいえ、多分お歳のせいでしょう(笑)

そんな元気で楽しい患者ばかりではないのが、病室の悲しい現状だ。

隣りの方は、左の脳を手術をして、だいぶ後遺症が残っているようだ。
右の視野が狭くなっていて、言葉も頭の中に入らず飛んでいってしまうようだ、という。
ずっとベッドで横になっていらして、
時々独り言をいっている、と彼が心配していた。
なるべく話しかけてあげようと思うらしいが、
これからの不安をもらしているというし、
精神的ダメージが大きいようだから、
そっとしておいてあげた方がいいよ、と促がした。

辛かった。
お隣りの方を見ていると心が痛む。
脳を患う、という厳しい現実が伝わってくる。

心臓が痛む。チクチクチクチク。

神様…
これ以上悲しみを持ってこないでください。
せめて、
生きる喜びを知っている人を、
連れて行こうとしないで下さい。


毎日が、あっという間に過ぎていってしまう。
もう少し、お願いだからゆっくりと過ぎていって欲しいのに。

父の位牌に手を合わせる。
もう少し、待ってよね。
子供達から父親を奪わないでよ。。。

彼にとってのこれからを考える。
私は側にいて、
笑っていてあげることしかできない。

全てを知った彼を、
救うことができる自信が、ない。

生きていこう。
一緒に生きていこう。
どこまでも、側にいてあげる。

お願いだから、生きて。


2001年03月13日(火)

病室に入ると、ひとりポツンと点滴につながれて、ベッドで新聞を読んでいた。
同室の方は、午前中に退院されたんだ。

「これ、奥さんが書いてくれた」

おしゃべり好きな明るい、ご夫婦だった。
その奥様が、おすすめのレシピをメモして下さったのだ。


まもなく点滴も終わり、身軽になって外のベンチに一服へ。
陽射しは暖かいが、風は冷たい。

「ここで、お花見をするようだね…」

「冗談で言ってたら本当になった…」

古い病院だから、立派な桜の木が病院の敷地内に無数にある。
去年の夏に入院していた時に、その木陰のベンチでよくハンバーガーを食べた。
春には桜が綺麗だろうねぇ…そんなことを話しながら、きっと見ることは無いだろうと思いながら。

でも、桜が咲く頃には、ここを離れることになるかも知れないと、胸がつまった。

この先の、彼への試練を思うと、このまま陽射しを浴びたまま死ねたらいいのにと思った。


廊下でTG先生を見かけたので、痛みについて聞いてみた。

「わからないんですよ。今回の手術は勿論、首の腫瘍とは関係ないところですし、
痛くないからといって、症状が良くなった訳では決してないですからねぇ…」

・・・・・・・(T_T)

もしも、本人の気分的なもので、手術をしたから痛みの原因もとれたと思いこんでいるならば、これからの告知は、ものすごく悲惨だ。

廊下で出会ったF先生は、抜糸をしたら次の治療の話しをしましょうと、彼と一緒だったのもあって、明るく確認するように彼の顔を覗きこんで、言っていた。

「なんで抜糸してからなのかなぁ、いまでもいいのに…」

不可解だと呟く。あなどれない奴だ(笑)
笑っている場合ではないんだけれど、
笑えることには笑いたい。

それにしてもF先生。私の隣りに彼がいることに気が付いて、きっと話す内容を変更したのだろう。
慌てた様子で、もう抜糸はしたの?だって。

「え?…まだ無理ですよ、先生(汗)」

「…!そうだよねー、あはは…(汗)」

自分が切っておいて、それはないよねー(爆)
ほんと
見たこともない満面の笑顔で照れていましたね( ̄ー ̄)

でもそれだけ、深刻なんだよなぁ・・・


2001年03月12日(月)

今日は手術日のため、
先生方は、ほとんど見当たらなく。
いらしても手術着姿で慌しかった。

看護婦さんにお願いしてみた。

「手術のあと首の痛みを訴えなくなったわけを
お聞きしたいんですがお伝え頂けますか?」

「え?患者さんが聞きたいって言ってるんですか?」

「いえ、私だけです」

「ご本人は、手術で痛みも治まったと思っていらっしゃるし
精神的なことで痛むこともありますからねー」

「…精神的なことが痛みの原因ならばいいのですが
原因は、そうではないことは明らかな訳ですから」

自分でも驚いた。
キッパリ言い過ぎた、シマッた。。。
…でも精神的なことで治める段階ではないし、
済ませて欲しくないって気持ちが強い。

引いてみる作戦失敗(自爆)
失敗したと思ったら、とたんに歯痛が(泣)
ぅぅ(T_T)



相変わらずテンション高いよなぁ・・・(T_T)
暇だ暇だとボヤいてるし(笑)

6時〜12時 点滴3本
18時〜22時 点滴3本
グリセオール アクチット 抗生物質
夕食後 痙攣止め服用4錠


2001年03月11日(日)

部屋を移動した。
重症加算室から4人部屋へ。
これでテレビが見られるね。

さんざん入院しているけれど、今度の部屋は初めて入る。
とても明るい部屋で、でも、いつまで居られるのかな…なんて、内心で思ってしまった。

ふとベッドを見ると、血がついているではないか。
点滴の針を、自分で抜いたからだとケロッとして答える。

「看護婦が怒ってた」
当たり前でしょ。

壊れてるよね、いつも術後はこうだよね。
脳をいじった影響なんだろうかね…(汗)

「どこかにひっかけて、取れかけていたんだよ。もう一度刺しておこうかと思ったんだけど、やめた」

「抜いてもいいけど、自分で入れるのは絶対やめてよね」
一応、念を押しておいた(笑)

なんだか引き込まれそうだ。
彼の脳波がビリビリしているのが、側にいて感じる。
目の色が変わっている、という表現がピッタリな状態。
真ん丸く見開いている。
言い出したら、抑えが効かない。
普通じゃない。

しかし不思議なのは、首を痛がらないこと。
今日も看護婦さんに聞いてみたが、点滴に痛み止めは入っていないという回答だった。
明日、先生に聞いてみよう。


2001年03月10日(土)

彼の弟が面会に来てくれた。

帰りの車中、病状と経過について話しあっていた。
弟の勤務する病院の院長は脳外科で、
色々と話しを伺っているらしいが、病名がはっきりしないのは、
いくら何でもおかしいのではないか、と言われたという。

確かに。
退院の日に、意を決してTG先生に聞いてみたのに、

「悪性度も何も、過去にデータのない細胞ですから、いくらインターネットで検索しても出てきませんよ」

鼻で笑われた気がした。
故に病名も「脳腫瘍」のみ。

1月のMRI撮影の結果も、このTG先生が「問題なし」と診断して、帰宅したのだ。
なのに、この結果だ。

私の聞き方が悪いのか?
それとも女だから、話しても理解できないと馬鹿にされているのか?

F先生には、この様な経過は話していない。
先日の話しでは、色んな方面に問い合わせをして、
頚椎の腫瘍に関する治療法を検討して下さっているようだが・・・・・。

弟が、なぜ放射線治療が出来ないのだろう、とつぶやく。
その説明は、あったと思うが、気が動転していて定かな記憶ではないので弟には話しをしていなかった。

確か、

全脊髄に照射するようになってしまうだろう。そうなると、社会復帰は無理だ。
前回、脳に相当量の照射をしているし、
今回も脳に照射する事になると、そんなに体のあちこちに放射線をかける訳にはいかない。

こんな内容だったと思う。
故に、抗癌剤での治療を考えているという。

抗癌剤は、果たして効くものなのか、と質問してみたところ、
抗癌剤があえば「かんかい」(漢字がわからん)と言って、一時的にとても元気になるという。

多分、私達家族のことや彼の状況を含めて、
あくまでも元気に動ける体や状態を残そうと、
考えているのではないかな、と勝手な推測をしている私。
きっと、説明不足というよりは、先生の言葉が足りないのかも知れないな。


「うちの病院もそうだけど、外科の先生は言葉が足りないんですよね。内科の先生はそうでもないのだけれど」

「ああ、外科は職人さんと一緒だからかしらね。内科は結構、メンタルな部分が影響してくるからかしらね」

「そうなんですよね…でも病名がわからないって言うのは、訴訟問題になりますよねー。
よく平気でそういうこと言うなぁ…」

こんな会話をしていたら、
ちょっと不安になってきた。
今日も首の痛みがなくて、快適に過ごしている。
術後に起こる、ハイテンションな状態は相変わらずだ。

看護婦さんに聞いてみたところ、点滴に痛み止めは入っていないという。

?痛くないの?
それとも、痛く感じないの?

これでまた、病理組織検査の結果待ちで2週間、ほったらかしにされるのだろう。



診療情報提供書、書いてもらおうかな。
でも状況的にマズイかな。
がんセンターへ転院するのは、彼にとってどうなのかな。
私の本音は、
慣れ親しんだ病院を転院して、抗癌剤の副作用に苦しんで、
乗り越えられる可能性が高いのか、疑問なのだけれど。

決断して動かなければ、具体的に行動しなければ、何も解決しない。


厳しいなぁ。。。

それとも、
信じるものは救われる、かなぁ。


2001年03月09日(金)

午前8時50分 手術室へ
午後12時30分 手術終了ICUへ

簡単だから、1時間で終わるなんて、ありえませんね、ハイ(笑)
手術前の朝の回診時に、

患者「先生、今日は1時間で終わるんですよねー」

先生「え?…終わりませんよ、1時間なんて無理ですよ」

患者「そうなんですかー、F先生が言ってたんですけどねー」

先生「……F先生は1時間だけかも知れないけれど、その前後の処置がありますからねー。無理ですよ(笑)」

患者「えー!そうなんですかぁ予定が狂っちゃうなー(笑)」

先生「え?何か予定があるんですか?」(汗)

患者「お昼御飯の予定が狂うなー」

先生「・・・・・・・・・・・・」

かなり失笑されていましたね、先生方。

手術室に入る時にも、TD先生に念を押されていたらしい。
「1時間では終わりませんよ」
「丁寧にしますから、1時間以上かかりますからね」
大爆笑だ。

1時には終わるって言葉を、1時間で終わると勘違いしていたんですねー(汗)
そりゃあそうだよねー。
簡単にザクザク切るわけにはいかないんだから。
素人は恐ろしいですな(爆)

さて。。。
手術内容に関しては、術前の面談で聞いた通りに行われて問題なし。

当初は、膜を大幅に切除して、大腿部から移植し不足分は人工膜を移植するという
計画であったが、
首のMRIで腫瘍が認められたため
治療法の変更をしなければならず、
腫瘍のみの切除に止めて、病理組織検査を行う目的の手術となったのだった。

結局のところ、今回の手術は根治手術ではないのだ。

頚椎にできた腫瘍は、
抗癌剤での治療を進める方針でいるという。
その場合は、がんセンターへの転院をする。



相変わらず、手術後だというのに元気なのだ。
このまま治ってしまうのではないかと信じたくなってしまう位に。

首や肩の痛みがないらしく、
恐らく点滴に痛み止めが入っているのだろうが、
彼は手術で全て治まったと思い、
とても嬉しそうだ。
いままで、相当な痛みだったのだろう、軽やかに腕を上げ下げして、
痛みのない体に満足している。

夕食前、看護婦さんが、痛み止めを持ってきた。

もしかしたら、今ごろは痛みが襲ってきているのではないだろうか。

明日。
明日は、いつまで続くのだろう。


2001年03月07日(水)

病院へ行くバスに、同じ病棟に入院している方の奥様が乗ってこられた。
声をかけた訳ではないが、
ああ、これから病院かぁ一緒だなって思っていた。
すると、途中のバス停で降りて行かれた。
私は、何となく理由がわかった。
そのバス停は、Aさんのお宅があるから。
その奥様の姿を追ってみると、
Aさん宅の玄関へ向かっていった。

私は、なんだか切なくて、涙がでてきた。

Aさんは、彼と同じ日に手術をした人。
今日見かけた奥様の旦那様も、確か同じくらいに入院されていた。現在も入院中だ。

Aさんは、先日亡くなった。
お線香をあげに行ったのだろう。

みんな、切ない想いをしているのだ。
自分だけではない。


病院は、病を治す場所だけれど、
心を癒す場所ではないと、
とても痛感したのだった。

厳しい現実が、
弱った体と精神に、容赦なく襲いかかる。
他人のことも、
自身のこととして受けとめてしまう…


今日、腰のMRI撮影だった。
昼食を抜いて待っていた。

彼は、ちょっと不信に思っている。

「肩が痛いだけであちこちMRIって、大袈裟だなぁ。おまけに腰になんか、関係あるのかな」

「きっと私に文句を言われないように、痛いって言うからって、必死で調べているんだよ。
だってそうでしょ、原因も調べず痛み止めを処方するって、おかしいものね!!」

彼は、くすっと笑って、そんなこともあるかなって顔をした。

我ながら、口が上手いな(笑)
いや、普段から文句の多い私の性格が、功を奏したのだ(〃∇〃)

MRIが終わってからすぐに、断髪式だった。

すっかり頭を丸めて、照れながら帰ってきた。

はっきり言って、
可愛い。
思わず微笑んでしまうくらいだ。

もう見慣れているはずだったが、
似合うもんだと改めて感心してしまった。
病室の方達からもほめられて、
結構嬉しそうだったなぁ。。。

しかし反面、
明日が手術という厳しさを噛み締めてしまう姿に、
皆さん動揺されていた。

たくさん励ましの声を頂いた。

「お互い頑張りましょう」



・・・本当に、みなさんも頑張ってください。
一足お先に、手術をしてきます。
お互いの無事を祈りましょう。


2001年03月06日(火)

陽射しも風も、すっかり春らしい日だった。

病室で、一日穏やかな時を過ごしていた。
横たわっている時間が長くなった彼は、
天井をみつめて、何を思っているのだろう。

婦長さんに、子供達へ話すタイミングに迷っていることを打ち明けた。

「手術が終わってから、先生にご相談されたら如何ですか?その方が、手術の結果によって今後の治療法もお話しがあるでしょうから」

即答だった、さすがだ。
おっしゃる通りだと感心してしまった。
感謝しています、婦長さん。


昨日、彼の会社へ診断書を届けに行ってきた。
Eさんとの会話でのことを彼に話すと照れくさそうに笑っていた。

「いまでも思い出しますよ。危険物の免許が取れたと報告しにきた姿を。
ちょうどこの会議室にいた時で、嬉しそうな顔で入ってきたんですよ。
なかなか一発合格は難しいのに、頑張りましたよねー」

新たに任された仕事で、必要だった資格だ。
オープンに向けて連日泊まりこむ程多忙で、
その合間に勉強をしていた姿を覚えている。
やっと準備万端これからという時に、病に倒れたのだ。

ふっと彼に目をやると、涙が眼の端に落ちていた。
色んな想いがあるのだろう。
Eさんの言葉で、蘇えってきたのだろう。

私は、彼の涙に気づかないふりをして過ごした。
泣きたいときには、もっと泣いて欲しいと思うから。
寂しいときには、もっと甘えていいのにと願うから。



今度、聞いてみよう。
生まれ変わっても、
また私を、
奥さんにする?
って。


2001年03月05日(月)

今朝は、カブのお味噌汁を作ってくれました。
洗濯は、しなくていいって言うと悲しそうな顔をします。
俺の仕事だからって、言い張るんです。
でも今朝は、
干している途中で横になってしまいました。
首の痛みが襲ってきたのです。

副婦長さんが、
そっと私を呼びに来た。

談話室に入ると、主治医のF先生が待っていた。

首の痛みは、腫瘍がありました。
はっきりと鮮明に、頚椎の後ろに浮き出ていました。

今日は、胸のMRI撮影だったそうです。
恐らく、結果は想像がつく状態であろうということです。

小脳にも鮮明な腫瘍が浮き出ていました。

彼の身に、何が起きてもおかしくありません。

癌細胞は、活発に彼の体を乱暴しています。

人工呼吸器をつけるような事態は、避けたいという意見は一致しました。
彼の意識は、どこまでも鮮明であろうから…

精神的苦痛は、回避したいのです。これ以上は。

この一ヶ月が、ヤマであろうと主治医は静かに宣告していました。

治療をしているという姿勢を、彼に示してゆくことを、誓い合いました。



ベッドに横たわる彼は、
あまりにも痛々しくて、
彼の側から離れることはできなかった。
だけど彼は、
子供達の晩御飯を気にして、
私に帰れと言う。

玄関で別れ際、

「一緒に帰ろうか」

「そうできるなら、そうしたいよ」

病院の中へ、
彼の後姿は吸いこまれていきました。

見送る私は、
涙を流す場所を求めて、
必死に街を抜けて、
たどり着いたのは、
子供達が待っている、
我が家でした。


2001年03月04日(日)

今日で、外泊は終わり。

金曜日から今日までの、この三日間。
穏やかに 語りかけるように 爪痕を残すように 
静かに静かに、時の流れを感じていた。

首から肩にかけての痛みは、
痛み止めが切れるととたんに、表情が歪んでくるほどだ。
彼は、騒がずそっと、身を横たえる。
しばらくすると起きてくるから、
少し眠ったほうがいいよ、と声をかけると、

「眠ると一日が 早く終わっちゃうから」

目をあわさず、つぶやいていた。
照れていたんだね。
だけど、精一杯の気持ちなのだろう。
私は、言葉につまっていた。

彼は、
少しでも、
自分自身の気持ちを前に持っていこうと
必死なのだ。
静かに、必死なのだ。

息子の、6歳の時の誕生日に買った望遠鏡で、
窓の外、病院の方向を覗いていた。
高台にあるマンションの4階だから街が見渡せる。
だけど病院は、山の向こう側。

「向こうの山が邪魔していて、見えないでしょ。
今度、病院の屋上に行ってみようか…」

「屋上って、あるのかな」

「あるでしょ、屋根があるんだから」

雨上がり、富士山が姿をあらわしてくれた。


彼には、脊髄への転移は話していない。
呼吸をつかさどる筋肉にも腫瘍があるという。
恐らく腰にまで……と。
社会復帰は無理だ。

「下手したら、2、3ヶ月であっという間に逝ってしまう」

シップ薬を貼ってあげる。
ベッドで寝違えたと思っているから。
いや、
それは私へのカモフラージュかもしれない。
心配させない為の。
そんな痛みではないことは、
彼が一番承知なのだから。

3月8日午前8時50分 開頭手術開始予定

手術に、意味はあるのだろうか。
脊髄にまで転移しているのならば、
手術で痛くて不自由な思いをさせることが、
果たして…………?

彼と子供達へは、手術の話ししかしていない。
もう3回目だから、手術をすると言っても、
またすぐ元気に帰ってくると思っている。
今回は、特に表面だから1時間位で終わると先生から言われているし。


明日。
嫌だな、月曜日。

すぐに、帰ってくるよね。
きっとだよ。


2001年03月02日(金)

主治医のF先生は、悲痛な表情だった。
言葉を、終始選んでいる様子が伺えて、
私は、
どうして悪い予感って当たるのかと、
不思議な気持ちだった。
いや、
はるかに、
最悪の結果だった。

脳を守っている膜に、
はっきりと腫瘍が確認できている。
転移ではなく、浸潤していったもの。
これは、最悪のパターンだ。
広範囲に腫瘍細胞が浸蝕していて、
右脳全体、いや、全脳と脊髄、全身にまで、
拡散している恐れは免れない。
もしかしたら。。。
退院は、
できないかも知れないね。。。


病院からの帰り道、
バスの窓から見える景色は、
止まっているように感じた。

悲しいほど、お天気だった。


みかん |MAIL

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