ついに来るべき決断のときが訪れた。 一番いて欲しい時に彼女はいない。 だが、時は訪れた。
このタイミングでこの時が来たという事はやはり、僕という人間は自分の事は自分でやるしかないのだろう。 だから、どんなに迷っても、どんなに辛くても、誰に助けを求める事無く、誰に助言を求める事無く、誰に支えを求める事無く、自らの道を孤独に選ぶしかない。 それが大人としての自立であり、僕の人生哲学の限界でもあるのだ。
背負うと覚悟した以上、それが例え足枷であったとしても背負うしかない。待つといった以上、人生を削ってでも待つしかない。たとえ、全てを失ったとしても、背負うと決めたのだから、それは死を選んだとしても、その際までついてくるだろう。
武器はある。 だが、振りかざす気力が残っていない。 それでも戦うしかない。 「来るべき対話」へと導くために身代わり羊として戦うしか、僕が生きる意味は残されていない。
2011年01月17日(月) |
なんだかんだ言って、やっぱり「死にたい」からは抜け出せない |
知識や技術は向上し、向上した自身のスキルは今まで理解できなかったものを急速に理解させる。30才を目前にして今までで最も学習の速度、質ともに高まっているし、今後も高まり続けるだろう。
糸が切れるまで。
これといって生きている理由がない。 社会的には哲学者としての道が残っているし、個々の状況に応じて僕にしか出来ない事はあるだろう。 けれど、個人的な理由が特に見当たらない。
自発的にコストをかけて、最終的に救世主ではなく単なる身代わり羊となる行為は、人生においてあまりにも奪われるものが多すぎる気がしてきた。
再び新たなステージに移って身代わり羊行為を行うには、きっと次は自分自身を削らなければならない気がする。自分自身、個性を削れば残るのはこの僕ではない別の僕だ。つまり、僕は死ぬ。
哲学者たろうとする僕も、真実へ至ろうとする僕も死ぬ。つまり、真の意味で僕が死ぬ。
わりとギリギリのバランスで今の生活は保たれているけれど、最近は仕事中にも糸が切れそうになるから困ったものだ。賢しいだけの自分がいやで、断続的に全てをやめたくなる日々が続いている。
僕はこの日記を書くことで昇華して消化している。けれど、その垂れ流す行為自体が嫌になってきた。この感情は今まで感じた事がない正義感だ。垂れ流す事、あるいはそういった負の感情を抱く事そのものを悪とする思考が芽生えてきている。
弱さを是としない姿勢だ。たぶん、己の全てを俯瞰して見る姿勢は最後まで貫かれるだろうから、鬱にはならず最後は己を俯瞰したまま不意に逝くのだろうと想像する。
孤独はなるもんじゃない、選ぶもんだろう。
この年になってようやく、何を本気と呼ぶべきかの手触りを感じられるようになってきた。 そして、本気は伝わるのだと知った。
同時にその気持ちは誰にでも伝わるものではないとも知った。 伝えたい人には伝わらないのだと。
「どうでもいいことから覚えていく」 本当に大事な事は伝わらない、教えられないという事実。 大事な事は何一つ教えられなかったという後悔と、本当に知って欲しかった事は何一つ分かってもらえなかったという絶望。
何のために身代わり羊になったのか。 このままでは本当にもったいない結果に終わる。
けれど、投げられたサイを拾う事は出来ない。もう、後悔しかできない。
彼の計画が成っていたら、それは革命家としての生涯となるのだろうか。
いずれにしても、それは愛なのだ。 それを美しいと言ってよいのだろうか。
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