もうすぐ長い冬があけるよ。 春になったら一緒に山をおりようね。
そう、約束したのにね。
最後の一片の雪がとけるよりも早く、 私はあなたの手のひらで小さく小さくしおれてしまった。
雪山で尽きてしまったらそこから抜け出せなくなることは、 あなたも知っているでしょう?
毎年、冬になったら必ず逢いにきてね。 萌える緑を眺め、黄色く色づき、やがて朽ち果てるのを願いながら、 ただただあなたを待ちつづけているから。
夜更けの森の中を猫が歩いていた。 数多の星がきらめく夜空に居心地悪そうに満月がひとつ浮かんでいる。 猫は森林の中央に位置する湖に向かっていた。 湿った枯葉の香りを放つ土を華奢な四肢で踏みしめながら、ひたすらそこを目指した。 時折彼女の気をそらすかのように、小さな虫が鼻をかすめる。 普段の彼女なら生まれつき兼ね備えた俊敏さを活かして追いかける所だったが、今はそんな気分じゃなかった。 足の裏がひんやりと冷たい。体のどこかが濡れるということは、雨が降ると世界がすっかり乾ききるまで眠り続けるほどに不快なことなのに、彼女は根気よく歩きつづけた。 やがて、黒々とした樹木が突如ひらけて、ぽっかりと湖が姿を現した。 彼女はようやく立ち止まった。 ひげを揺らす程度に吹く風で足元には細波が寄せてくる。 水面には夜空と同じように星と月が浮かぶ。 ただ一つ空と違ったのは、彼女の姿もそこに映し出されていたということ。 たくさんの星とひとつだけの月と一匹の猫。 彼女は月が微笑んだことを確認すると水際に座り込み、太陽が星の姿を消すまでそこで眠った。
先日ダンナが学生時代お世話になっていた方が亡くなった。 葬儀は身内でひっそりと済ませたらしく偲ぶ会がいとなまれた。
亡くなった方は当時のバイト先の経営者だったため、 偲ぶ会にはバイト仲間が集うことになる。
私は不安でしょうがなかった。
「ねぇ、くるんでしょう? 心配だなぁ」
その短い言葉で彼はちゃんと察知した。
「こないと思うよ。来たとしても、もう俺達夫婦なんだから」
私の前に8年付き合ってた彼女。 彼らがまたどうこうなるかもなんて不安はあまりない。 彼が私に寄せるのとは違う種類の愛しい感情を抱くのが嫌なのだ。
結局、彼女はその会には参列しなかったようで、
「こなかったよ。話によると結婚したみたい」
という彼の短い報告でコトは終わった。
「よかったね」
うなずく彼。 ヨカッタネの中身が分かって同意したのだろうか。
少しは「彼女が幸せになっていて」という意味もあるのだけれど、 大部分はこれで彼の罪悪感も薄れたであろうということについてと、 それによって私たちの足場が固まったということについてのヨカッタネ……だ。
きっと彼は知らない。 いまだ私がこんなにも彼女の存在に怯えているということを。
近頃、たんなる気まぐれで、 足だけじゃなくて手にもマニュキュアをしている。
塗っている最中に必ず思い出す女性がいる。
昼下がりの山手線。 ドア脇に佇んでいる。 ハミングのように繰り返される独り言。 60歳前後。 まっピンクの頬、唇、爪。
フリルが惜しみなくあしらわれた、 同じくピンク色のスカートやブラウスにまで、 血しぶきのようにマニキュアが染み付いていた。
きっとピンク色が彼女の生きがいで。 常軌を逸した精神状態でもそれは健在で。
私がもし夫も猫も、 友達もチョコも、 タバコも唄も失ってしまったとしたら。 心を落ち着かせてくれるものはなんだろう。
マニキュアじゃないことだけは、 確かなんだけど。
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