めずらしく、 朝っぱらから散歩をした。
一人っきりの散歩は好きじゃない。
でも財布の残金が27円だったから。
小雨の舞っている中を、 てくてくと歩いて、 ATMで金を引き出す。
折角外出したんだからと、 本屋にも寄ってみる。
雨の日に本を買うのは好きじゃない。
でも久しぶりにザッシというものを、 手にとってみたくなったから。
雨が酷くなってきたので、 ザッシを抱えてマクドナルドに入った。
一人で飲食店に入るのは好きじゃない。
でも数時間ぶりに出会う、 マイルドセブン(SL)が、 私を呼んでいたから。
所々に植わっていた金木犀の匂いが、 私の鼻腔に染み付いて、 自分から香ってきているようだった。
自分から花の匂いがするのは好きじゃない。
本だかテレビだかで、 もうすぐ死期を迎える人からは、
クチナシの香りがすると、 誰かが言っていたのを、
思い出すから。
『自分に厳しく、人に優しく』
これが理想だとは思うんだけれども、 実際に実現できている人には、 出会ったことが無い。
『自分に厳しく、人にも厳しく』
自分に厳しい人というのは、 自分が我慢強いものだから、 「みんなができるものだ」
もしくは、 「みんなそうでなければならない」 と思っている人が多い。
人に厳しい人は、 私が一番苦手とするタイプなので、 親しい人間には全くいない。
『自分に優しく、人に厳しく』
私の母親。 最悪。 話にならない。
『自分に優しく、人にも優しく』
周囲の人間が無意識にできていること。
私だけが、 意識しなくては、 できないこと。
その人が生活の中で、 何に比重を置いているのか。
ちなみに、 私は「衣食住」の中では、 「住」である。
現在の住居は、 築10年のワンルーム。
古いし汚いし何しろ、 ダンナと愛猫の3人生活には狭すぎる。
こんな状態で、 なんで「住」重視なのか。
それは、 狙いが現在ではなく、 将来だからだ。
いずれは、 マイホームが欲しい。
しかも、 地価が決して安くは無い、 この近辺に。
そのために、 他の全ては最低限で生活している。
人それぞれ事情や重視しているものがあるのだ。
だから、
ファッション評論家が、 街中の若者をつかまえて、
「流行おくれ」だの、 「もっと金をかけろ」だの、
人格全てを否定するような、 とうてい評論とは思えない、 ただの悪態をついてるのを見ていると、
イライラするんだよ。
十人いれば十人分の、 百人いれば百人分の、
悩みや痛みがあると思う。
国全体の将来を案じる総理大臣。 失恋の痛手から立ち直れない少女。 今晩のおかずに悩む主婦。 浮気をどう隠そうか画策する亭主。
大きさや重さは違えど、 それぞれは本当に真剣に悩んでいて、
「ばっかじゃないの? そんな問題なんて、 悩みなんていえないわよ」
……なんて第三者に判断される筋合いは、
どこにも無い。
「あんたなんか良い方よ? わたしなんかね……」
……と悩み対決をされるのも見当違いだ。
わかってるよ。
そんなことは十分承知の上で、 言わせてもらうけど、
休みの日になると、
「腹へった」 「眠い」 「暑い」 「あ〜ぁ」
……と本能直結型の言葉だけを、 一日中繰り返されるのは、
ちょっと鬱陶しいです。
マイ・ダーリン。
もうすっかり慣れてきったしまったが、 元来「電話」というものは非常に不躾なものだと思う。
相手が何をやっていようが、 お構いなしに鳴り出す。
大抵の人は、 何か作業中であっても手を止めて受話器を取る。
(ちなみに、私はとらない方が多い。 着信をみて、後で掛けなおすか放置するかだ)
それが申し訳ないのと、 自分の邪魔をされたくないという理由で、
電話はあまり好きではない。
パソコンや携帯電話のメール普及により、 受話器を取る回数がさらに減った。
おそらく、 みなさんもそうだと思う。
大変便利なものだけど、 メールのせいでさらに電話が嫌いになった。
メールでは遅すぎる緊急な用事が、 全て電話になったわけで、
緊急で吉報なんてあまりない。
おかげで、 今日も私は電話の音にビクビクする。
携帯電話の方だとお気軽な感じがして、 家の電話に比べると楽しそうに思うのも、
不思議な話だけど。
自分の知っている狭い狭い世界で、 「最近の……」と、 世の中の全ての統計を取ったような言い草は、
本来好きじゃないのだけれど、 あえて使ってみようと思う。
夜道で自転車に乗っていた。
三叉路で道を曲がろうと思った時、 その道からこちらの道に曲がろうとした、
同じく自転車の中年女性と、 ぶつかりそうになった。
お互いブレーキをかけ、 衝突は免れた。
私はホッとして、 「すみません」と頭を下げた。
こういう場合、 どちらが悪いという問題じゃないが、 自分の非は認めようと思ったのだ。
彼女もそうするだろうと思ったのに、 思いっきり睨まれて、 舌打ちまでされた。
先日ダンナと一緒に、 近所のレンタルビデオ屋に赴いた。
自転車置き場で、 小学校低学年ぐらいの少年が、
自分の自転車に他の自転車が倒れてしまい、 身動きがとれなくなっていた。
私たちは、 その自転車をどかした。
自転車でのりつけた女性も、 無言でそれを手伝ってくれた。
世の中、 まだまだ捨てたもんじゃないな。
そう思った時、 少年は彼女に向かって、 「お母さん」と言った。
親子だった二人は、 私たちに一言の礼もなく、
店内に消えていった。
このたった二つの事例から、
最近の大人は、
感謝の気持ちには疎くて、 不満の気持ちだけを、 相手にぶつけるのかなと思った。
彼女たちは同一人物ではないし、 全ての大人がそうだとは思ってないのだけれど。
不愉快な出来事が続くと、 視野が狭くなってしまうみたい。
大人をも正せる大人には、 なれないだろうな。
私は。
家族という単位は、 ひどく奇妙な結びつきだと思う。
その小さな集団の中には、 独特の風習や規律が存在して、 他の人からみれば理解しがたい内容でも、 その狭い空間では常識になってしまう。
幼い子どもが、 本来は保護してくれるはずの親に、
性的な対象にされて自分自身を苛なんだり、 虐待を受けて命を摘み取られたり。
家族以外の人間がその異常さを指摘しないと、 我に返れないこともあるだろう。
それがもしも大きな集団になったらどうなるだろう?
大きな単位で洗脳や犯罪が当たり前になったらどうなるだろう?
戦いに「聖なる」や「正義」なんて存在しない。
日本には、 家族以外の冷静な人間の役割を、 担って欲しかった。
なんのために義務教育で歴史を学んだのか。 悲しい過去を繰り返さないためじゃないのか。
新しい何かを生み出した前向きな戦争があったなんて、
少なくとも私は、 習ったことがないよ。
「優しい人」と思う理由は、 きっとそれぞれ違うと思う。
私が優しいなと思う人には、 ぶっきらぼうな人が多い。
例えば。
電車で前に老人が立ったら、 無言で立ち上がる青年。
乗客のほとんどが、 彼は下車するのだろうと考えていたと思うが、
彼は車両を変えてつり革につかまった。
「どうぞ」と声をかけるのが照れくさかっただけかもしれない。
でも、 人に気を使わせない気の使い方ができる人は、
本物の優しさをわかっている人だと、 私は思っている。
自分もそうできるかというと、 これが、なかなか難しい。
なんだか厄介なコンピュータウィルスが出現。 全世界で猛威をふるっているらしい。
「ホームページの閲覧で感染」という見出しに慄いて、 対処方を教えてもらい、 そのとおりにやってみたら不具合が生じ、 泣く泣く初期化をする羽目になった。
幸い保存が必要なファイルは、 Dドライブにコピーできたので、 すすり泣き程度で済む。
勇気を出して再び対処法を試すか、 自分は絶対大丈夫という、 なんの根拠もない自信をもつか、 考え中。
パソコンは便利だ。
だが、 パソコンに限らず、
便利なものに頼りすぎで、 困ることも多々ある。
携帯電話の充電が切れるとか。
昔の人は、 電気が無くても、 水を汲みにいかなくてはいけなくても、 不便だとは思わなかっただろう。
不便は便利がつくるものなんだ。
今、きがついた。
励ますのも、 励まされるのも、 どうにもこうにも不得手だ。
昔から得意ではなかったのだが、 心理カウンセラーの学校に通ってから、 苦手さに拍車がかかった。
気合いを入れて欲しい時に、 ガンバレと言われるのはすごく嬉しい。
でも、 落ち込んでいる時に、 本当に苦しい時に、 そう言われると悲しくなる。
ああ、 この人は私のことを何もわかってない。
そう思う。
だから、 誰かが暗闇を彷徨っている時に、 私は励ます術を知らない。
心理カウンセラーの学校で習ったことは、 誰にでもできることはするなということ。
一緒に泣くことで、 励ますことで、 解決するなら、 周囲の人間がとっくにやっていると。
じゃぁ、どうすればいい。
自分がそうなった時には、 どうしてもらえばいい。
その答えは、 いまだに見つけることができない。
ただ、 落ち込んでいる人に、 純粋にガンバレと言える人は、
落ち込んでいる時に、 ガンバレと言われて嬉しい人は、
優しくて素直なんだろうなと、 羨ましくも思う。
ひねくれてしまった私にとっては、 キレイごとになってしまうから。
私の近辺には「傷つきやすい人」が数人いる。
その代表が母親だ。
友人にはいない。 ネット友人にはたまにいる。
傷つきやすい人というのは、 自分が傷つくことで精一杯だ。
「あなたにこんな理由で傷つけられた」と、 平気で言う。
自分が傷ついたと伝えることで、 悪気のなかった相手を傷つけることに、 なんの罪悪感も持たない。
気がついてすらいないのかもしれない。
「傷つきやすい人=人の痛みが分かる人」という定義は、 私は信用していない。
「感受性が強い人=傷つきやすい人」という定義も、 信用していない。
でも「傷つきやすい人」はこの定義を心底信じているらしい。
私が上手に泣くことができなくなったのは、 こんな母親に育てられたからだろう。
彼女にとって私は「傷つきすらしない冷淡な人間」らしいから。
文章って一体どうやってできるんだろう?
よく、そんなことを考える。
脳の中に「言葉」がたくさん散らばっていて、 それをいくつか選んで並べていくんだろうか。
誰かと会話する時の文章は、 それでも納得がいく。
でも日記や小説、 相手がいない状態でつづる文章は?
感情を適切な言葉で表現して、 それを伝わりやすく配置して。
……。
動物は感情を声のトーンでかえる。
きっと、 それが一番語弊が無くて、 合理的だ。
「私は自分で思ってるほど強くもないし、 私は自分で思ってるほど弱くもない」
切羽詰った時の、自分言葉だ。
これが、割と効いたりする。
「もうだめ。私には無理だ」
……と思っている時は、 ただ、がんばりが足りないだけとか、 ただ、めんどくさがって逃げている。
「私は大丈夫。大丈夫」
……と思っている時は、ズタズタだ。 セルフストップのかけ時だ。
以前勤めていた会社では、 日々精神的に忙しくて、 この自分言葉をすっかり忘れていた。
大丈夫、大丈夫。 これぐらいなんでもないと思いつづけて、 月末には資金繰りがヘタだった会社の身を案じてヘトヘトになり、
現金を一番扱う人間だったために、 下っ端の私が会社に現金数百万を幾度となく貸した。
平気な顔をしていた私は実は全然平気じゃなくて、 徹底的に体調を崩して退社した。
最近、また自分言葉を忘れている。
体が本調子じゃないから、 まだ仕事はムリだ。
なんて、日々思っているけれど、 実はもう全然平気で、 あとはヤル気の問題。
「主婦」という位にあぐらをかいてのさばっているだけだ。
じゃ、せめて家事ぐらいちゃんとしろよ。 自分。
友人の付き添いで 某病院の救急診察室に行った。
処置に結構時間がかかったので 診察に訪れる人間たちをずっと見ていた。
日本語がわからないために 1歳にも満たない我が子の病状が 上手に説明できない東洋系外国人夫婦。
階段で転倒し 頭を少し切っただけなのに 奥さん同伴で しかも病状説明まで彼女任せの 中年男性。
右手が痛くて動かなくなったと 無表情で淡々と語る 19歳の今風の少年。
用事があるのに 子どもの処置がなかなか終わらず 時間ばかりを気にして 我が子に「おちついて」とたしなめられる 若い母親。
会社の同僚の付き添いで来て 公衆電話でペコペコ頭を下げながら 彼の病状を上司に報告する 若手社員かと思いきや わりと中年だったサラリーマン。
午前中に堕胎手術をしたのだが 出血がとまらないと訴える 夜の仕事をしているらしい外国人美女。
それでも、夜はふけていく。
よく「死んでもいいや」と思う。
これは「死にたい」という自殺願望ではなくて、 あくまでも、受動的にそう思う。
生に対する意識が希薄なのかなんなのか、 不謹慎だと怒られようと思ってしまうものは仕方がない。
頭痛がひどい。 タバコがおいしくない。 晩御飯のメニューが思いつかない。 ダンナが不機嫌だ。 一転して誰かがやさしい。
理由は様々だが、 いとも簡単に「死んでもいいや」と思う。
実際本当に死にそうになったら、 それこそ死に物狂いで助けを請うのだろうけど。
一度だけ能動的な衝動に駆られたことがあった。
現ダンナと「付き合う付き合わない」で、 こじれにこじれた時だった。
私にとって彼に注いだ全精力は、 容易にひき返すことができない程だったので、 今一人で放り出されたらもう生きていけないと思った。
でもいつでも冷静な私の内なる人物が言った。
―どこまで本気?―
「すごく本気だよ。もう死んでやる」
―じゃぁさ、ちょっとその心意気を見せてごらんよ―
その声の指示どおり風呂場に水を溜める。
―1時間、ここに身を沈めていられたら、もう好きにしな―
当時は冬の真っ只中だったが、 それぐらいなんでもないと思った。
結果的には30分しかもたず、 45分後に駆けつけた彼に救出され、 その後、2時間もの間、歯を鳴らし続けた。
私の消滅願望なんて所詮そんなものだ。
親にひどい虐待をうけましたとか、 生き方を左右するほどのトラウマがありますとか、 大きな理由を持たない私に消滅願望なんて、 高尚すぎる。
ただの面倒くさがりの甘えだ。
心理学では「言い間違い」や「物忘れ」は無意識が作用していることになっている。
例えばフロイトは、 「インクの吸い取り紙を買ってこよう」と毎日思ってるのに毎日忘れた。
それを外国名でなんというのか忘れたけれど、 似たような名前の人と仲たがいをしていたからだと結論づけた。
同じ現象が私にも起きた。
私は「砂糖」がどうしても買えない。 ダンナと一緒に買物に行って「砂糖が無かったよ」と言われるまで忘れつづける。
もちろん意図的じゃなく、 すっかり忘れてしまうのだ。
フロイト的な自己分析をすると、 ダンナが私のことを過去に2回「サトちゃん」と 間違って呼んだことに起因するのだろう。
彼の前の彼女は「サトコ」という名前だった。
これらの事例は「物忘れ」だが、 「失言」にも無意識は充分作用するはずだ。
「2機目の飛行機が突撃する瞬間は残念ながら見ることはできませんでした」
アナウンサーがヤジウマ根性みせちゃうのは、ヤバイと思いますよ。
2001年09月11日(火) |
私ごときが申し訳ないけど。 |
この内容に触れようかどうしようか悩んだが、 自分の誕生日に起こった惨劇ということで、 取り上げてみようと思う。
アメリカのテロについて。
詳細は皆さんテレビや新聞でご存知だと思うので省略。 驚愕や哀悼の意も、大多数の方の同じだと思うので割愛。
私が感じたのは意識の差だった。
あんな惨事が計画的に行われた背景には、
「旅客機を乗っ取ってビルに突っ込もう」と発案した者がいるわけで、 「そうしましょう」と賛同した者もいるわけで、 「自分が突撃します」と承諾した者もいるわけだ。
同じ人間だということがあまりに信じられなかったが、 お祭り騒ぎだったパレスチナ人の報道を見て、 なるほどなと思った。
世界には「敵は人間じゃない」と考える人達がまだまだたくさんいるのだ。
ただ、今の私が自分勝手に願うことは、 米国が武力をもって報復することはやめてほしい。
同じだよ。 それじゃ。
同じだよ?
明日、27歳の誕生日を迎える。
歳をおうごとに、
「あれ? いくつになるんだっけ……」と悩む時間が増えてきている。
歳をとりたくない意識のささやかな抵抗なのだろう。
それにしても、なぜ、歳をとりたくないと感じるんだろうか。
男性の多くが若い方が好きだからだろうか。 おばさんのイメージが、マイナス面ばかりだからだろうか。 幼い頃に想像した「○○歳の自分」に程遠いからだろうか。 それとも、死に近づいた気が鮮明にするからだろうか。
年齢を重ねても素敵な方はたくさんいる。
いつか、
「私はいい歳のとり方をしたわ」
……と、思える女性になりたい。
そして、
「いい人生だったわ」
……と、つぶやける生活を紡ぎたい。
最近、本当に多い。
子どもが事件に巻き込まれるケース。
もちろん、全面的に大人が悪い。 事件の加害者である大人も、子どもを守りきれなかった大人も。
だけれども、残念ながらここまで卑劣で残酷な大人が多い以上、 子どもにも自己防衛を頼むしかないのだ。
お願い。
非力な子どもをストレス発散対象や資金源にするような、 一部だけれども多数の大人の餌食にならないで。
今の若い人は「自分さえよければいいと思っている」なんて報道されているけど、 それは大人にもあてはまる。
あてはまるというよりも、 誰の監視下にも置かれない大人の方が性質が悪い。
大人を信用しないで。
大人は子どもが思ってるほど、 強くも優しくも賢くもないんだから。
「アイツの生き方は間違ってる」
そう思う人ってたまにいる。
世間でいう「いい歳」の男が無職だったり、 援助交際を繰り返す若い女性だったり、 我が子にしつけという名の虐待を加える母親だったり。
どれもこれも、眉をひそめてしまう。
でも、きっとそれは少数派だからだ。 そして、生活している環境が彼らに合わないからだ。
サラリーマンにむいていない無職の男は、漁村に生まれていれば凄腕の猟師になっていたかもしれない。 貧しい国の少女達は、売春を日常的に行う。 一昔前には、親が厳しいほど良い子どもに育つと思われていた。
「今の環境にそぐわないだけで、人間的にはなんら間違ってないんじゃないの?」
……って、誰かに言われたら、きっと私は何も言い返せない。
それはもう人それぞれだけれども、 愛の確認の仕方がある。
その人の育ち方が大きく左右するらしい。
私の愛情確認方法は、体調を壊すことだ。
幼い頃、具合が悪い時だけ母が優しかったせいだと思う。
おかげで、仕事に切羽詰ると風邪をひいてたし、 彼とケンカをすると喘息の発作がでる。
感心しない愛情確認方法かもしれないけど、 それで確認が取れちゃうもんだから、
きっと一生続けるんだろうな。
裏日記が裏らしく書ける時期は、 表の私は大層人当たりが良くなることに気がついた。
裏日記が表でも通用する程度の内容になる時期は、 表の私は一言一句に気を配らないと意地悪になる。
裏っぽい私も、表っぽい私も、 どちらも本当の私だけど、
どっちかだけじゃ自分じゃない。
イチゴは甘酸っぱいからおいしいのであって、 甘味だけでも酸味だけでもそれは不完全だ。
裏と表がくっきり分かれる周期というものが、 果たしてバイオリズムによるものなのか、 奇想天外にも月の満ち欠けによるものだったりするのか、 よくわからないけど、
うまくブレンドした私で現実を生きたい。
自分に一番近い自分の形で。
|