本日12時過ぎに、祖母は逝った。あまりにあっけない死だった。今葬儀屋の一室で、祖母と二人きりの部屋でこれを書いている。
以下は以前に書いた文章。書いたまま放置していた。途中になるが、今日のこの日にここに書き記しておこうと思う。
ちなみにこの後、祖母は施設から病院に再度移り、本日大往生を果たした。
「ところでお祖母様ですが、お好きな音楽やご趣味などはありましたか?」 とてめえは聞かれた。暫く考えたが全く出て来ない。出てこないのは祖母のことを知らないからではなく、知ってるから出てこないのだ。
「いや、好きな音楽も趣味もなかったです」 と、てめえは絞り出すように答えた。てめえに質問してきた看護婦さんは、少し納得の行かないような視線を返してきた。
祖母が病院から施設に移った。そんなわけで、今後は「治療」ではなく、残された人生をどう過ごすかということに主眼が置かれることになる。
施設に移るにあたり、事前に事務サイドとの面談と、移った日に設定された看護サイドとの面談があった。加えて入所後には医師との面談もある。全て同日にしていただけると助かるのだが、なかなかそういうわけにはいかないのは同業者として痛いほどわかる。でも、なんとかしてほしいとは思う。
事務との面談は事務的に終始し、ひたすら書類にてめえの名前を書いてサインをし、印鑑を押し続けた。
看護との面談は入所当日に行われた。治療施設ではないので病院とは違って病状についての質問はほとんどない。むしろ、今後どう過ごしていくのかの話に終始した。そして上記の話につながるわけだ。
そんなわけで、祖母の人生を振り返ってみる。
彼女は京都市北区紫野で生まれたらしい。らしいというのは、戸籍を見て知った以上の情報がないからだ。どこで生まれてどのように育ったのか。本人から聞いたことはないし、今回てめえの父にも聞いたが全く知らなかった。
てめえが知っているのは、昔の京福電鉄で勤務していたところからである。駅で働く祖母に、近くのアパートに住んでいた祖父が惚れて一緒になったところからの話を知っている。祖父の住むアパートから見える駅の駅員として働く祖母に、祖父は猛烈にアタックしたらしい。その思いが通じ、祖母が20歳、祖父が30歳の時に一緒になったらしい。
ただし、この国際結婚に祖母の家族は大反対した。結果として、祖父を選んだ祖母は家族との縁が切れる。
その後、祖父と二人で屋台のラーメン屋を始める。屋台を引くのは午後9時から売り切れるまでで、だいたい午前3時くらいまで屋台を引いていた。それから後片付けをして、家に帰って寝るのはもう夜も明けた頃だった。そこから子供二人の朝の支度を行い、子供を送り出してから眠る。昼過ぎには起きだして、夜の屋台の仕込みを始める。
そんな人生を送ってきたので、親戚付き合いは全くないどころか友人も一人もいなかった。祖母にあったのは夫と二人の子供だけだった。趣味もなかった。あえて言うなら、祖父そのものが祖母の楽しみだった、としか言いようがない。
祖父は若いころ、たいそうもてたようだ。180cmくらいの長身に甘いマスクがあり、ユーモアのセンスもある人だった。今回実家を売り飛ばすにあたり昔の写真をたくさん発掘したが、若くてギラギラしている祖父は、女性に好かれただろうなと思う。
そんな祖父と、祖母はいつも一緒だった。家族に捨てられ友人もいなかった祖母。でも、祖父と一緒にいるだけできっと幸せだったのだろうと思う。
てめえは祖父母が屋台を引退したころ、てめえが小学生の頃から母が家を追い出されてしばらく経った中学3年の頃までと、高校3年で実家に帰った時から大学に入学するまで祖父母と同居した。母が追い出されたあとは、祖母がてめえの弁当を毎日作ってくれた。でかい弁当箱には大きなおにぎりがきっちり6つと、卵焼きと鯖の塩焼き。プラス一品がいつもの弁当の中身だった。卵焼きも鯖の塩焼きもがっつり塩が効いていて、具もなくただ海苔で巻かれただけのおにぎりががっつりとすすんだ。
祖父が母を追い出した日のことは多分死ぬまで忘れないだろう。いつもにこにこと祖父にただ追従していた祖母は、この日だけは祖父に激しく反対した。祖母が祖父に反したのは、てめえはこの日しか知らない。
ここまで書いた。もう疲れた。続きはまた気が向いた時に書くかもしれない。
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