2007年05月26日(土) |
Factory13(樺地・跡部) |
『TRANSMISSION』
心のずっと奥の方にある暗がりに、俺はそれを投げ込むんだ。誰にも知られたくないこと、気づかれたくないこと、弱いもの、みんな、全て。
「どうしたの?」
震えるような小さな声に跡部は振り向く。
「樺地」
窮屈そうに幼稚舎の制服を着た樺地に、久しぶりだな、と跡部は声を掛ける。中等部に入ってからは樺地と駅で会うこともめったになかった。
「また背が伸びたんじゃないか。ずるいよなぁ。俺が伸びるより早く、お前の方が大きくなるなんて」
笑いを浮かべる跡部に樺地は、血、と一言呟いた。
「え?」
「血がついてる」
樺地の指が跡部の唇の端をぐいっと拭う。
「えっ、あぁ・・・」
跡部は後ろに退く。大丈夫?と呟く樺地が、痛いほど自分を見つめてくる。
「なんでもない」
耐え切れず、視線を逸らす。
4月の終わり、跡部はレギュラーに昇格した。今までこんなに早い時期にレギュラー入りを決めた一年生はいないとのことだった。
これまでの奴が不甲斐なかっただけだろう。
当然だと思っても表に出すことはなく、一年生としての謙虚な態度を崩すことはなかった。実力主義だと言っても、この部にも体育会系にはありがちな先輩後輩のくだらない序列が蔓延していることは分かっていた。面倒が起きるぐらいなら、挨拶の一つで済ませるほうが利口だ。
それに上級生の中に、幼稚舎からの顔見知りも何人かいたし、小学生の頃から名を知られている跡部のレギュラー入りを歓迎する声も多く、思ったよりは楽に跡部は受け入れられた。
けれど、どこにでも人を妬み、恨むことしかできない奴はいる。
部活が休みだったその日の放課後、跡部は一つ上の上級生たちにプール棟の裏へ呼び出された。
強いからっていい気になるんじゃねぇよ、一年のくせに
予想通りのつまらない言葉の羅列。集団で脅すことしができない馬鹿な奴ら。侮蔑と哀れみしか感じなかった。おそらくそれが表情に出たのだろう。
人を馬鹿にするのもいいかげんにしろ
跡部の腕を上級生が捕らえる。
「でも」
樺地が言う。
「なんでもないって言ってるだろ」
跡部は口を拭う。小さな痛みを感じた。でもそれだけだ。こんなの俺が与えた傷にくらべればたいしたことない。
跡部のことをなめてかかっていたに違いない。多くの者は跡部のことをテニスがうまい、優等生程度にしか思っていないだろう。それは正しいが全てではない。
もう、いいですか
人をぶちのめすのも疲れるから、と心で呟きながら、跡部はうめき声をあげる上級生の身体を蹴って転がす。すすり泣きながら鼻を押さえ、地面にうずくまっているもう一人の上級生を睨みながら、血の混じった唾を吐く。
こいつに殴られたんだ。唇を舐めるうちに、腹の底から真っ赤な熱が沸き、跡部はその上級生の背中を横腹を蹴り、引っくり返ったところで、また何度も蹴りつけ、打ち据えた。
もうやめてくれ
あぁまだいたのか、と腰が抜けたように座り込んでいる上級生を見つめる。
俺が始めたんじゃないですよ
男の子は強ければ強いほうがいいと考えた祖父のおかげで、跡部は小さな頃から武術だ拳法だといろいろ習わされた。興味が持てず、嫌々通ったものだが、役に立って良かったなぁと笑い出したくなった。
それに、俺だって好きでやってるわけじゃないんです。先輩達も嫌ですよね、こんなの
跡部は座り込んでいる上級生を見下ろす。
やめませんか、こういうこと。俺もそれなりに一年生らしくしますから、先輩達も先輩らしくしてください
にっこり笑いながら、跡部は相手の腹を蹴り上げる。ゲッと声を上げ、上級生が身体を折り曲げる。
あなたがたが何もしなきゃ俺も何もしません。でも、もし、こんなことがまたあったら
跡部はその上級生の肩を足で踏みつける。
いいか、俺は何も恐れない。あんたたちにどれほどひどいことをしても、俺の良心は痛まない。俺はやるといったことは必ずやりとげる。俺は邪魔されたくないだけなんだ。分かるだろ?分かるなら頷いてくれ
涙でぐしゃぐしゃになった顔がゆらりと揺れ、跡部は笑いながら、その胸を思い切り蹴りあげた。
間違ったことをしたとは思わない。あぁいう奴らは倒すだけじゃない、怯えさせなければならない。二度と手を出そうとは思わないぐらい、叩き潰さなければならない。
報いだ、それが
だけど、跡部は見ることができなかった。心配そうに見つめてくる樺地の視線を受け止めることができなかった。その磨きぬかれた黒曜石のような瞳に映る自分から、肩を並べて歩いていた小さな頃の純粋さが失われていることを、気づかれたくはなかった。
「俺、今日、用があるんだ」
だからいつもの列車に、樺地と同じ方向に帰る電車には乗れないことを告げる。
「またな、樺地」
折りよくホームに入ってきた電車に向かおうとすると、ぎゅっと腕をつかまれた。
「なんだよ」
跡部は顔を強ばらせる。
「ほんとに」
「え?」
「ほんとに、また、会える?」
「当たり前だろ」
跡部は手を振り払う。
「中学は忙しいから、なかなか会えないけど」
「うん」
「また、そのうちな」
うんと樺地が頷く。
「また遊ぼうね」
分かったよ、と跡部は樺地の腕を叩く。
「また今度な」
ばいばい、と小さく手を振る樺地に、跡部は笑顔を返し、電車に乗り込んだ。ゆっくりと電車が動き出すと、跡部は止めていたものを吐き出すように深く息をついた。
避けているわけじゃない。でも、なんとなく会いたくない。それは樺地が嫌いになったとか、そういう理由からではない。むしろ。
跡部は乾ききった唇を舐める。さっき樺地に触れられた時、そこから身体を揺り動かすような力が駆け巡った。それは今、心臓に集まり、どくどくと鼓動を早めている。
それが何を意味しているのか分からないわけじゃない。気づいていないわけじゃない。もうずっと前からそれは跡部の内側を漂っている。耳を塞いでもか細く聞こえるその思いの発信元を粉々に壊せたらどんなにいいだろう。
心なんて、なければいいのにな。
そうすれば、人を傷つけた後悔や、誰かを想う痛みから逃れることができるのに。
そしてまた、内側に巣食う闇の中に一つ、何かが投げ込まれる。
前になんかの話に入れようと思ったエピソード。どっかで使ってたかな・・・書いてるものを次々忘れてしまう悪いくせ。ちゅうかいつも同じようなモチーフが好きだということ丸分かり。
番号は抜け番だったので・・・
2007年05月14日(月) |
Factory68(榊・慈郎) |
音楽準備室には鍵がかかっていた。どうってことないよ、ベランダに出ればいいんだから。でも隣の音楽室はオケ部のやつらがもう朝の練習で集まっている。あいつらの中をつっきって歩くのはいろいろと面倒で、俺はその階の一番端にある化学室まで行き、中をつっきってそこから外のベランダに出る。
準備室の窓まで一直線、そこまできたら後は簡単。
もちろん先生はきちんと鍵を閉めて帰るんだけど、この鍵はもともと緩くて壊れ気味なんだ。窓を揺らしたりしてちょっと力が入るけど、この通り、すぐに開いてしまう。
がらりと開けた窓の桟に足を掛けたところで、ドアが開いた。
「おはよう、先生」
さすがの先生もびっくりしたように目をおっきくしている。めったに見れるものじゃない。
「芥川・・・」
何か言われる前にさっさと部屋の中に入る。入ってしまえば、先生だって、窓から出てドアから入りなおしなさい、なんて言いはしないだろう。
「そこの鍵、また開いていたのか?」
机の上に鞄を置く先生に、俺はうんともううんとも取れるようなうなり声を返す。おかしいなぁ、と先生は呟いたから、たぶん「うん」だと思ったんだろう。
良かった。だって俺が嘘を言ったことにはならないでしょ?
まだしばらく鍵のことは秘密にしておこう、そう決めて、俺は邪魔にならないように、壁にずらりと並ぶ本棚に向かい合うみたいに置いてあるソファーに座る。音楽準備室、なんて言ってるけど、ここは先生の部屋みたいなものだ。本棚にびっしり並んでいる本も楽譜もレコードも先生のものだし、先生以外でこの部屋を使っている人なんてみたこともない。
先生の角ばった鞄をみると、俺は前の年の夏、跡部の別荘で見た馬を思い出す。きれいに手入れされた馬みたいな茶色の鞄はいつもぴかぴか磨かれていて、あれはいったい誰が磨いているのか、そんなことが俺はすごく気になる。
一人暮らしだって言ってるけど、まだ先生の家に行ったことはないから、本当のところはどうだか知らない。跡部の家みたいにお手伝いさんがいるのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
先生を知って一年も経つのにまだまだ分からないことがいっぱいある。
「先生」
鞄から手帳とか本とか紙の束だとか出している先生にそっと声を掛ける。先生は視線だけ俺に向ける。
「どっか行ったの?ゴールデンウィーク」
「あぁ」
先生は鞄を閉め、いつもみたいに机の脇の棚に置く。
「いいなぁ、俺はずっと練習に出てた」
「そうか」
先生の唇の端がきゅっとあがり、口の横にしわが刻まれる。俺が部活にちゃんと参加すると、先生は喜ぶ。真面目に練習すればもっともっと強くなると先生は言う。俺はそれほど勝つことにも強くなることにも興味はないが、先生が喜ぶなら、ちょっとは頑張ろうかなって思うんだ。
「今朝も出るのか?」
「え?」
「朝練に」
「まさかぁ」
なんで朝から練習なんかしなきゃいけないんだよ。
「ずいぶん早いじゃないか」
先生は腕時計に目を落とす。確かに、いつだって遅刻ぎりぎりの俺にしてはものすごく早い。これからダッシュして着替えれば朝練にだって間に合わないこともない。
でも、そんなことするつもりで、学校に早く来たんじゃない。
「ねぇ先生、どこ行ってたの、ずっと。外国?」
ゴールデンウィーク中も俺が部活なんかに来てたのは、先生もいるだろうなって思ったから。平日、学校の用事で何かと忙しい先生は、土日の方が部活に来ることが多い。つまらない家にいるぐらいなら、部活に出て先生に会うほうがマシだって思ったのに、先生は休み中一回も顔を出さなかった。用があって出かけるって言ってたらしいぞ、と跡部が部長から聞いてきて教えてくれた。
休み前にここに遊びに来た時、そんなこと一言も話してなかった。俺が聞かなかったから、ってのもあるけど。でもさぁ、俺、来るって思ってたんだもん。それにまた明日って言ったら先生、うんって頷いたじゃん。
もやもやしている俺に、先生は首を振り、実家だ、と言った。
「じっか?」
両親の家に行っていた、と先生が言う。
「先生のお父さんとお母さんって・・・」
元気なの、と言いかけて俺は口を閉じる。先生は俺の親よりちょっとは若いんだし、だったらその親だってうちの祖父ちゃんたちより若いはずだ。
「遠いところに住んでるの?」
でも言いかけてやめるのって変だから、俺は無理矢理続きを作る。それほど遠くない、車なら三十分ほどだな、と先生は言う。
「ふーん、ゆっくりしてきたんだね」
俺が暑い中、あの三年のバカたちに文句言われてた時に!
「ゆっくりか・・・」
先生は独り言のように呟く。
「じゃあ、忙しかったの?」
俺は先生のことを全て知ってるってわけじゃないけど、こんな風に俺をじっと見るってことは、このことについてあれこれ触れられたくないって思ってるってことぐらいは分かった。
「部の方にも顔を出す予定だったんだが・・・」
やっぱりね、何も聞いちゃいけないって事だ。
「何かあったか?」
俺は知らない、と答える。だって部活のことなんて部長とか三年が考えることだろう。俺はあいつらに指図される二年なんだから。
「お前は何かあったのか?」
「俺?」
別に、と俺は言う。
「変わらないよ、なんにも」
この休み中に一つ歳を取って、先生に一歳だけ近づいたんだなんて別に言ったってしょうがない。俺は去年も同じことを言って、子供の日だよって伝えたんだけど、先生は覚えてないみたいだ。それにいっこ歳を取ったからってどうせ来年にはまた一つ突き放されて、差なんか埋まらないんだ。
休み中、先生に全然会えなくて寂しかったから会いに来たんだなんてことも言わない。そんなこと言ったって先生の心は変わらないだろう。先生にとって俺は「そう思われるのは嬉しいけれど、芥川は俺の大切な生徒だ」に過ぎないんだ。
俺は悔しいからあの時の言葉、全部、覚えてる。そして思い出すたびに、迷惑だって言われなかったことと、大切って言葉に希望を繋ぐことにしている。
「芥川」
先生が席を立つ。
「これから職員室へ行くんだ」
ってことは俺もここから追い出されるってことだ。はいはい、分かりました。俺も立ち上がる。
「もう窓から入るなよ」
ドアに鍵をかけながら先生が言う。
「鍵が開いていたとしても、だ。とにかく窓からはだめだぞ」
やっぱり気づかれてるのかな。俺は聞かなかったふりをして返事をしない。
いつかその扉を開けてくれる人が来るまで地面につけた尻が冷え手足がかじかむまで待っていた昔のことをちらっと思い出す。
先生が来るまで待てばいいって分かってる。先生は必ず来るし、ここにいなきゃ職員室か校内のどこかにいるんだし、絶対大丈夫だって分かってるけど。
「芥川」
俺は顔を上げる。
「生徒には合い鍵を渡せないんだ」
「うん。分かってるよ、先生」
それぐらい分かってる。ずいぶん前に俺が聞いた時、先生はだめだって言ったもの。それに学校の鍵は全部事務室が管理していて、いちいち借りる時に書類を書かなきゃいけない。部室ならともかく、音楽準備室なんて、ほとんどの生徒が用のない場所の鍵は、よっぽどのことがなきゃ貸してくれない。
「これから、先生がいない時はちゃんとここで待つことにする」
別にここは外じゃないし、寒くもないから大丈夫だ。
「あぁ、そうだな」
しかし先生はまだ何か言いたげに俺を見つめる。
「実はな」
先生が言う。
「私の部屋、いやこの準備室には、生徒の掃除担当区域に入っていない」
知っている。ここの部屋の掃除は学校の用務員さんがやっている。先生はそれほど生徒ってものを信頼してないのだろう。ま、うちのクラスの掃除の仕方を見ればいろいろと心配になるのも分かる。
「それでだ・・・」
先生が持っていた手帳を開き、紙を取り出す。
「なに?」
「どうだ、ここの掃除当番にならないか?」
「えー!」
俺の声は相当嫌そうに響いたに違いない。だって掃除当番だぜ?クラスの掃除当番からだってなんとか逃げ出そうとしているのに。
「お前が来れる時にできる範囲でいい。引き続き用務の方にも掃除はしてもらうつもりだから」
じゃあ、俺必要ないんじゃない、と言う前に、先生は取り出した紙を俺に手渡す。
「その時はこれを事務所で見せるといい」
先生のサインと判が押してあるそれは、鍵の貸与許可証で、俺の名前と鍵の貸与理由(しっかり清掃って文字が書いてある!)がプリントしてあった。
「へぇ」
俺は頬がでれでれ緩んでいくのを感じる。
「これって、いつでも使っていいの?」
「いつでも、って訳にはいかないな。私がいる時は必要ないだろう。それから授業中にも必要ない」
サボリにくるなってことか・・・。でも俺、先生に会ってからは真面目に授業に出てるぜ。
「今朝みたいに窓から入る必要にかられた時・・・などだな」
「じゃあ、あんまり使うことないね」
言ってしまってから俺は慌てて、あ、でもいる、絶対いる、と紙を畳んで上着のポケットにしまう。
「必要にかられた時、だけ、使います」
真剣な顔で言うと、先生はそうしなさいと言うみたいに頷いた。俺はにやにやするのを抑えられない。
先生は俺を信頼してくれるんだし、こういうことを思いつく程度には俺のこと気に掛けてくれてるんだなっていうことが嬉しい。誰かに気にしてもらうっていうのは幸せなものだ。それが好きな人ならなおさら特別だ。
これが誕生日プレゼントだって思えばいいかな、とポケットを押さえる俺に、それからもう一つ、と先生が言う。
「今日、家から弁当は持ってきているか?」
俺は首を振る。弁当なんか持たせてもらったこと一度だってない。作ってくれるって言われたってこっちからお断りだ。
「それなら今日、昼にここに来られるか?」
「え?」
「前に私が食べていた弁当がおいしいと言っただろう」
俺は頷く。前に先生とここでご飯を食べた時、先生の弁当はどこかで特別頼んだものだとかですごい豪華で、量が多いからって俺におかずをちょっとわけてもらったことがあったんだ。
「お前の分も頼んでおくから・・・」
「え、おごり?」
やったーと叫ぶ俺に、先生はたいしたことじゃないが・・・と呟く。
「芥川も誕生日だったことだし」
びっくりして黙り込む俺に、これから片付けもしてもらうことだからなぁ、と先生は続ける。
「え、掃除ってマジにやるの?」
「掃除というより、片付けが主だな。まずは本棚の整理」
「えー」
プレゼントっていうよりバイト代?しかも弁当一個かよ、と思ったけど。
「できる時でいい」
「・・・先生も一緒にやる?」
「指示するものがいなければな」
もしかしたら、これが先生の精一杯なのかもしれない。俺はそれを喜んでもらおうと思う。
「じゃ、またお昼に来るね」
ばいばい、と駆け出す俺に、芥川、廊下を走るな、といつものように先生の声が後ろから聞こえた。
ちゃんと言う事聞くよ、先生。俺はまずあなたのいい生徒になりたいからね。
なんか今年も誕生日を祝えずに終わったので・・・遅ればせながら・・・!