鼻くそ駄文日記
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2001年08月31日(金) いらいらいらいら

いらいらいらいら
いらいらいらいら
ぼくは
何に
いらいらいらいら

ぼくを見れば
君も
いらいらいらいら
ぼくだって
いらいらいらいら

腹筋しないか
運動不足じゃないかな
いらいらいらいら

君は
いらいらいらいら
ぼくも
いらいらいらいら

君の
いらいらいらいら

ぼくにうつったのかな
それとも
ぼくの
いらいらいらいら

どうして
こんなに
いらいらいらいら
まえみたいに
みんな
ぼくのことを
きらっていないはずなのに
いらいらいらいら

ぼくは
いらいらいらいら


2001年08月30日(木) もう、秋なのさ(自作詩)

雨のにおいが
夕立とは違うね
もう
秋なのさ

夏さえ来なきゃ
君は海に行かなかった

去年の秋を
憶えているかい
君と一緒だった
はじめての秋
君は
巨人が優勝したのを
ものすごく
喜んでた
君と一緒だった
最後の秋

夏さえ来なきゃ
君はあいつと出会わなかった

朝の空気が
冷たいよ
まるで
君みたいに
もう
秋なのさ


2001年08月29日(水) 悪魔の瞳(自作詩)

正気を失った世界が
人々を混乱させる
石から血を搾るような難題の連続
どんな子供でも知っている
大人になればつらいことばかりだと

内秘めた悪魔の瞳が
おまえを操り続ける
もう
たくさんだ
おれはそんなにバカじゃない

地平線も見えない地球上で
身が粉になり
手足が棒になる
清き心が
悪い子でいようと
おまえを悟らせる

最愛なるもの
それは知識
おまえには見当もつかないだろう
知識は力だと覚えておけ!

おまえの
働きを知らない手は
近い将来
おれの墓に石を投げつける
おれにはわかる

大地が激しく揺れ
河川は泥を吐きだす
よく聞け
悪魔の瞳を自分と思うな!


2001年08月28日(火) わたしは投げ込まれた存在である――ハイデガー/投企

 まだ、なにひとつ自覚できていなかった子供の頃。わたしたちは、この世界を自分の思い通りになるものだと思ってはいなかっただろうか?
 ぼくはサッカー選手になりたかったし、なれると信じていた。当時はまだJリーグはなかったけれど、海外でプロとして活躍して、日本代表になってワールドカップで日本を優勝させることが「わたしには」できると思っていた。
 やがて、ぼくは自分が人よりも運動神経が鈍いことを知る。自分の母国、日本がとてもじゃないがワールドカップで優勝できるような国でもないことを知る。
 そのような挫折に直面し、人は世界が自分のために存在していないことを知るのである。
 さて、挫折したわたしはどうすればいいのだろう?
 世界が自分のために存在していないのならば、自分という存在は世界にとっても必要ないのではないだろうか?
 自分の思い通りにならず、つらい思いばかりしなければならないのなら、生きる価値などあるのだろうか?
 そんなアイデンティティークライシスに陥ったときに、わたしたちに突きつけられるのがハイデガーの言う「投企」の現実である。
 世界はわたしたちがいるから存在しているのではない。
 わたしたちは、自分で望んだわけでなく、選んだわけでなく、ましてや造ったわけでもない世界に、否応なく投げ込まれた存在に過ぎない。
 このことをわたしたちは自覚しなければならないのだ。
 更にわたしたちは、自分が世界に投げ込まれた存在であることを気づくと、同時に「死」によってこの世界から強制的にいつかは退場させられる存在であることにも気づく。
 そして、この死を自覚することによって、まったく新たな「生」の意味をつかむことができるのだ。
 世界に投げ込まれたことを自覚した人間が、そのことに絶望しないで、逆に自分を世界に投げ返す。そこからが本当の意味での自分の人生のはじまりなのである。


2001年08月27日(月) 誕生とモーニング娘。

 モーニング娘。のメンバーがまた増えたそうだ。
 ぼくはこのニュースを今朝のスポーツ新聞の芸能欄で知った。特に驚きもしなかった。またか、と思った。
 しかし、メンバーの加入、もしくは脱退を「またか」と冷静に受け止められる「モーニング娘。」。よくよく考えるとかなりイノベータなグループではある。
 なぜ、あんなにメンバーがころころ替わるのだろう?
 そして、メンバーチェンジのたびにCCガールズのように人気が落ちるならまだしも、人気が上昇しているというのだから驚きだ。
 いったい何が、人々をモーニング娘。の虜にさせているんだろうか?
 理由はたくさんあるのだろう。そして、そのほとんどがぼくにはわからないものだろう(わかってれば、タレント事務所をやって儲けるよ)。
 ただ、メンバーチェンジを繰り返すからこそ、モーニング娘。とぼくは勝手に思っている。
 モーニング娘。の彼女たちはご存じの通り、テレビ番組のオーディションから選ばれた女の子である。つまり、いまモーニング娘。をやっている子たちが、はじめてテレビに出たときはモーニング娘。ではなかったのだ。
 そして、人間にしろ住宅にしろなんでもそうだが、もっとも刺激的で重大なのはそのものが「誕生」したときである。
 人間は生まれたときがもっともめでたく、もっとも家族に感激を与える機会である。
 それまでなんでもなかった普通の女の子が、変身してモーニング娘。になる。その瞬間がいちばん刺激的で感動させるのである。
 だから、モーニング娘。はこれからも、解散するまで半永久的にメンバーチェンジを繰り返さなければならないだろう。
 オートポイエーシスシステムのように、自己産出を繰り返すなければ、飽きられてしまうのが21世紀なのだ。


2001年08月26日(日) 自分のサイトが雑誌掲載された!

 残念ながらShaggy Dogではないんだけど、別にやっているGO AHEAD!!というサイトが雑誌に掲載されることになった。明日、福岡県を中心に発売される「シティ情報ふくおか」の197ページに、ぼくが管理をしているサイトの記事が載る。
 掲載依頼をメールでもらったとき、「うれしいな」と素直に思った。
 だけど、あくまで「うれしいな」だった。小学校のテストで100点を取ったぐらいの気分に過ぎず、うれしいことはうれしいのだが、感動もしなかったし、わりかしクールに受け止めていた。
 そして昨日、一足早くぼくのサイトが掲載されている「シティ情報ふくおか」を郵送でいただいた。
 そこでぼくは思わぬ行動に出る。まさかこんな気持ちが潜在下の自分にあるとは思いもしなかった。
 ぼくは郵便ポストから封筒を取り出すと、すぐにバリバリと破って開け、自分のサイトの載っている記事を探した。まるで遠方の大学を受験して、郵送の合格発表の表を見ながら自分の数字を探すように焦った手つきで。
 そして見つけた。合格発表と違い、自分のサイトは必ず載っている(大学の合格発表は血眼になって探しても自分の番号を見つけられなかった)と頭ではわかっているのだが、感動した。
 まさかこんなにうれしいものとは思わなかった。
 見た瞬間、あまりのうれしさに家の廊下をスキップで何度も往復した。家族が誰も家にいないのが幸いだった。
 それから、また自分のサイトの記事が載っている197ページをニタニタと気持ち悪く眺め、更にスキップ! ほとんど挙動不審である。
 この記事を見て、どれだけの人がアクセスしてくれるかなんてどうでもいい。
 ただ、ちょっと載っただけでわくわくできたのがすごくしあわせでした。
 


2001年08月25日(土) 越えられない壁をどう処理するか――ヤスパース限界状況を私的に解釈

 昨日話したガダマーさんの後輩であるヤスパースさんのお話である。
 ぼくらは日常生活で壁(葛藤、悩みなどのことです)ができたときは、その壁を越えろとよく言われる。それはおおむね正しい。壁から逃げれば、越えられなかった自分を尊敬できなくなり、現実を直視できない言い訳だらけの人間になってしまう。
 しかし、世の中には絶対に越えられない壁もある。
 ヤスパースはその絶対に越えられない壁を体験したひとりだ。ヤスパースは、ドイツ人である。そして、ナチス政権誕生後、ナチスへの協力を拒否したため大学の教授職と全著作の発売禁止処分を受けた。ナチスドイツという壁、これは個人ではどうしても越えられない壁である。
 ヤスパースはこのようなどうしても越えられない壁を「限界状況」と名付けた。
 そして、人が限界状況におかれたときは、その挫折を直視することを、自分をもうひとつ上のステージへ上げる(つまり擬似的に壁を越えたことになる)きっかけになると考えた。
 つまり、壁を越えられなければ、なぜ自分が越えられなかったかを直視することが大切なのである。
 なにか挫折をしたとき、ぼくらは「運がなかった」などと適当なことを言ってごまかしがちだ。しかし、それではなんにもならない。「本当だったら、こうなっていた」と結果も出てないのに思いこみ、本当の自分はこういう人間ではないと疑うはめになる。疑っているうちに、本当の自分ではないと思いこんでいる現実の自分を軽蔑するようになり、自分を偽って生きるようになってしまう。
 それではいけない。
 自分の挫折、いたらなさ、失敗、それらを直視し、「たら、れば」な自分を一切忘れるべきである。いま、生きている自分が本当の自分なのだから。
 限界を知ること、それが壁の向こう側を知るひとつの方法でもある。


2001年08月24日(金) 頭ごなしな先入観――ベーコン的イドラからガダマーの先行判断へ

 ぼくらにとって先入観とはどんなものなんだろう?
 今日はそれを考えてみようと思う。誰も読まないポエムを書き続けるのもいいけれど、たまにはこんなことを書くのもいいだろう。どうせ、誰も読まないんだし。
 ぼくらは、新しいものに接するたびに先入観を持つ。警察官や学校の先生のような聖職者でも「こいつはむかつくツラだなあ」とか「この女の子はかわいいなあ」と思ってしまうのだ。これは人間である以上、否定できない。
 問題はこの先入観をどう扱うかである。
 ベーコンは先入観をイドラ(偶像)と決めつけ、否定した。先入観というのはあくまで「偏見」であると断定し、先入観が正しい知識を獲得することへの妨げになるとしたのだ。
 これは、警察官が「こいつはむかつくツラだから、拷問をしてでも自白させよう」と先入観で考えて行動してはいけないということだ。学校の先生が「この女の子(生徒)はかわいいから、特別扱いしてあげよう」と考えたらろくなことにならない。このような例は実際に起こった事件などを踏まえてもおわかりいただけると思う。
 つまり、ベーコン的思考法では、先入観は捨て去るべき偏見なのである。そして、この考え方はいまでもひとつの「道徳」として残っている。
 たとえば、「あたしは男の子は第一印象でしか見ないよ。第一印象でやだなって思ったら、絶対に口をきかない」という女がいたら、ぼくは間違いなく張り倒す。ぼくの道徳心が、そういう女がのうのうと生きていることを許せなくなるからだ。
 しかし、そうやって捨て去るものと考えられている先入観を「捨てなくてもいいじゃん」とエコロに考えている人もいる。ガダマーだ。
 ガダマーは、ベーコンが断定した「先入観は偏見だ」という考えかたを否定した。
「先入観に偏見があるのは認めるよ。だけど、物事を知るために必要な正しい先入観もあるんじゃないかな。はじめに何かを知っておかないと、物事は深く知れないでしょ」
 簡単にまとめると、このようなことをガダマーは言った。
 たとえば、大リーグのシアトルマリナーズというチームがいま日本では人気がある。そして、シアトルマリナーズを応援しているほとんどの人は、いきなり何の先入観もなしにシアトルマリナーズを応援しはじめたわけではない。日本人初の大リーグの打者、イチローがいるチーム、という先入観をシアトルマリナーズに持っていたから、応援するようになったのだ。そして、もし「イチローがいるチーム」という先入観がなければ、日本人の多くはシアトルマリナーズを応援することはなかっただろう。
 このように先入観がなければ、物事を深く知ることはできない、とガダマーさんは考えたのである。
 そして、ガダマーはそうやって先入観を持って物事に触れてから、その先入観が変わることを指摘している。
 そしてここからが大切なのだが、この先入観が変わるときに、自分のものの見方の一面性を自覚し、自己を修正することができるのだ。
 すなわち、先入観を持つのはいい。ただし、「あたしは男の子は第一印象でしか見ないよ。第一印象でやだなって思ったら、絶対に口をきかない」と言うバカ女(あ、これも偏見かも)では、なにひとつ知ることはできないが、ここで第一印象がいやでも口をきけば、新たな可能性が生まれると言うことだ。
 頭ごなしに決めてもいいけど、頑固になるなよ、ってことである。


2001年08月23日(木) 台風11号

ひとりぼっちで考えていたら
台風がやってきた
川の流れが激しいな
ぼくはこのまま
流されそうだよ

君住む町も
風が吹いているの
雨が窓を叩いているの
いろんなことを
知りすぎたぼくは
暴風域で
川に飲まれる

あ!
電気が消えたよ
停電だね

忘れ物は
気持ちの中
精一杯に生きてるけれど
誰もぼくに
満足しちゃいない

台風なのに
飛んでる飛行機
落ちるといいな
おもしろいから

結局ぼくは
貧弱な評論家
自分の話はちょっとも
恥ずかしくてできないのに
人を笑いものにするのが得意

そんなことを
ひとりぼっちで考えていたら
台風がやってきた
川の流れが激しいな
ぼくはこのまま
流されそうだね


2001年08月22日(水) ドール

ファッション雑誌を眺めてうなずく
ピンクのインナーを買いに行こう
いまのハヤリをしっかり押さえて
鏡の前で
ひとりニタつく

遠い昔
着せ替え人形で遊ぶ男を
バカにした
いまでは
自分が着せ替え人形
臆面もなく
おしゃれなものに身を包む

うまい話もあるものだ
見た目だけでもてるなんて
たいていは
ろくに恋を知らない女だけど
そんなことは
どうでもいいのさ

人混みの中
女の子に見せるためだけに
歩いていこう
どこまでもどこまでも


2001年08月21日(火) 強いぼくなのに(自作詩)

人より強くありたい
弱みを見せたら
バカにされる

それなのに
それなのに

どうしてだれも
ぼくの相手をしてくれないの

あ、そうか
強いぼくが
うらやましいんだな

それで
ぼくに嫉妬して
ぼくを相手しなくなったんだな

レベルの低いバカどもめ
おまえらなんかに
相手されなくていいよ

ぼくは強いから
ぼくは強いから

だけど
どうしてだれも
ぼくの相手をしてくれないの


2001年08月20日(月) 『カチカチ山』(太宰治 新潮文庫『お伽草子』に収録)

 太宰治の小説の中でぼくがいちばん好きなのはこの『カチカチ山』である。

「カチカチ山の物語に於ける兎は少女、そうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋している醜男。これはもう疑い容れぬ厳然たる事実のように私は思われる。」

 引用のように、カチカチ山の兎を十六歳の処女、狸をまったくもてない愚鈍な醜男とした『カチカチ山』は、まったく新しい解釈で話が進む。狸は兎の気持ちにはほとんど気がつかない。かまえばかまうほど嫌われるのに、狸は兎につきまとってしまう。
 山に登れば集めた薪に火を点けられ背中に大やけどを負うし、その大やけどの傷には唐辛子をたっぷり塗られる。最後には泥船で沈められ溺死である。
 あまりの悲劇だ。
 そして、最後に太宰がこの悲劇の原因を考察する。

「ところでこれは、好色の戒めとでもいうものであろうか。十六歳の美しい処女には近寄るなという深切な忠告を匂わせた滑稽物語でもあろうか。或いはまた、気に入ったからとて、あまりしつこくお伺いしては、ついには極度に嫌悪せられ、殺害せられるほどのひどいめに遭うから節度を守れ、という礼儀作法の教科書でもあろうか。
 或いはまた、道徳の善悪よりも、感覚の好き嫌いに依って世の中の人たちはその日常生活に於いて互いに罵り、または罰し、または賞し、または服しているものだという事を暗示している笑話であろうか。
 いやいや、そのように評論家的な結論に焦躁せずとも、狸の死ぬるいまわの際の一言にだけ留意して置いたら、いいのではあるまいか。
 曰く、惚れたが悪いか。」

 はじめて『カチカチ山』を読んだのはいまから七年ほど前のことだった。そして、読んでこの深い人間洞察と真実の提議に圧倒された。多感で、ちょっとかわいい女の子だったら誰でも簡単に恋をしてしまう年頃でもあったからこそ、男からちやほやされてる女、面食いな女、には、醜男の人生を狂わせるほどのひどいこともしかねい恐ろしさがあることをぼくは学んだ。
 そして、それから二年後くらいである。映画『ファンメイル』から、ひとつの流行語が生まれた。
「ストーカー」
 ぼくはこの言葉と意味を理解したとき、すぐに『カチカチ山』を思い出した。
「惚れたが悪いか」
 醜男には女性に惚れる権利がないのである。惚れてしまえば、女性には嫌悪されるだけだ。人を不愉快にさせる行為はなるべく慎んだほうがいいに決まっている。
 この真実を露呈した太宰治の天才的な人間洞察力には恐れいった。


2001年08月18日(土) 純粋とは(自作詩)

わたしたちにとって
純粋とはなんなのでしょう
愛が純粋であるならば
セックスも純粋ということに
なるでしょう
となると
エロビデオやエロ本までもが
純粋と認めざるを得なくなる
純粋とは
そんなものなんでしょうか

男の子と結びつきたい女の子は
処女を捨てなければなりません
それは罪らしいです
しかし
その結果として生まれてくる子供は
純粋の塊のように言われますから
結局のところ
わけがわかりません

わたしたちが純粋と感じることは
現実とは違うベクトルの方向に
あるもののようです
現実に価値のないものこそ
純粋なのです
宝石より川原の石ころのほうが
大きいから美しいと思える気持ちは
純粋に見えるでしょう
血統書付きのゴールデンレトリバーより
道ばたに捨てられた子犬のほうが
純粋に見えるものです

では
純粋とは価値のないものでしょうか
しかし
純粋は価値あるものと考えられているから
まったくもって
わけがわからなくなっているのです


2001年08月17日(金) 勝者はだれだ(自作詩)


ブランコの上で
おまえを抱いているようだ
揺れるだけ揺れて
なにも残らない

この勝負は
おまえの負け

支配したのはおれだ
おまえは
優秀な奴隷のように
態度をうかがい
喜んで従う

偽りだらけの
おれとおまえ
いつか裁きが降りるだろう
代償は必ず請求される
許しを乞う権利はない
おれたちは
罪を犯しているんだ

はじまってしまえば
だれにも止められない
惰性でずるずると
はまっていく
深い深い底なし沼
底にあるのは絶望だけ
わかっていても
ひきずられる

おまえの独房に
おれを閉じこめることはできない
おまえだって
おれの独房に入るわけにはいかない

それでも
冗談めかしたキスが
おれを呼んでいるのさ
おまえが
特別な存在になっていく
そろそろ認めなければならないだろう
おれが負けつつあることを

若く見えるがおまえはトシだ
真実は見えない
おれとおまえに
真実はない
おれたちは
ニセモノに酔いしれる


2001年08月16日(木) 真夏の夜(自作詩)

真夏の空に二尺玉
君の横顔
白く照らす

ぼくは君を
愛していた
それは
永遠のものだと
信じていた

誰かが言ってたよ
永遠なんて
嘘だと
この宇宙だって
永遠じゃないらしい
いつかはなくなるそうだ

あんなに
君はぼくのことを
好きだったのに
あんなに
愛してくれたのに
君はぼくを
好きじゃなくなった
「どうして」と思うぼくの気持ちは
君に愛されることに
慣れていたんだろう

ぼくは
もっと早く
気づくべきだった
君に愛されることが
どれだけしあわせなのかを

当たり前だとおもったとき
君の気持ちは
置いていかれた
愛情表現できない
冷たい男
君はぼくをそう思っているだろう

君がほしいよ
暗い夜空が不安なのが
何よりの証拠さ

失敗は成功のもとだけど
信じられなくなった君は
もう信じてはくれない
今夜も夜がやってくる
無事
乗り越えられるだろうか
ふとんをかぶり
目をつむり
付き合っていた頃の何倍も
君をおもう

チャンスがほしいと叫ぶほど
君の気持ちは遠ざかる
だけど
君をほおっておけないんだ
ぼくが君の気持ちを
わかってあげられなかったように
君はわかってくれない


2001年08月15日(水) 君の自由(自作詩)

思い通りにいかないね
毎日が煮詰まりすぎているよ
心の悲鳴が痛いから
君は
トイレのドアに鍵をかけ
生ぬるい涙を流す

君がくれたプリクラは
バニラの香のかおりがする
プラクラでおどけている君は
目に見えない悩みを
背負っていたんだね

悔しさに胸をつまらせ
歯がゆさに絶望し
悲しみに身を任せても
なんにも
かわりはしないよ
腹が減ったと嘆くより
餌を探したほうがいいのと同じさ

「いつだって話を聞く」
たしかに言ったよ
だから聞いているじゃない
ぼくにできることは限られている
君の行動は君のもの
助けを求められても
ぼくには指図ができないよ
それが
君の自由というやつさ


2001年08月14日(火) 血まみれ国道210号(自作詩)

原チャリをキックする
ぶっこわれてなけりゃいいな
割れたキャッツアイ
破れたジーンズ
血まみれ国道210号

額の汗が目に痛い
クソ暑いぜ、熱帯夜
君は飽きたんだろう
こんな遊び
血まみれ国道210号

もう一度やりなおせるなら
フットブレーキもっと踏んで
大切にあのコーナーを曲がるのに

コンビニひとつ見えないよ
道の駅はずっと先
通り過ぎる車
シカトぶっこきやがる
血まみれ国道210号

ポケットにつっこんだ
携帯電話がやけに重いよ
ついさっきのことだから
君はまだ怒ってるだろうな
血まみれ国道210号

もう一度やりなおせるなら
フットブレーキ強く踏んで
大切にあのコーナーを曲がるのに

君の言い分よくわかるよ
ぼくの言い分とそう違わない
意地さえ張らなきゃ
君を許せば
ケンカなんかしないですんだろう

原チャリをキックする
君の家の近くのコーナー
エンジンはかからない
携帯電話はポケットの中

もう一度やりなおせるなら
あんなことでキレたりしないで
いつも通りあのコーナーを曲がるのに


2001年08月13日(月) 天気(自作詩)

テレビは言ってました
今日の最高気温33度、
真夏日だそうです
でも
ぼくの部屋は
冷房の風で
25度なんです

あなたの職場も
きっと
そんな温度でしょう
君の車の中は
もっと
涼しいかも知れないね

いまが夏だなんて
どうして
言い切れるんですか?

空が青いと
みんな言います
だけど
本当にそうなんですか?
ここのところのぼくは
朝靄のかかった
鉛色の空と
夕焼けが染めた
オレンジ色の空
そして
星も見えないヴァイオレットの夜空しか
見ていません
百聞は一見にしかずと言いますよね
だからぼくには
空が青いだなんて
信じられないんです

小学校に入学して
一日中
学校にいると
外の空気を感じられなくて
哀しくて
泣いたことがあります
あれから
ぼくの生活は
まぶしい太陽を浴びる時間より
薄暗い建物にいる時間のほうが
長くなりました

さんさんと照らす太陽
綿のような雲
一雨きそうなくもり空
地球が
もっとも
輝いているときです
そんなときに
影に潜るなんて
地球人らしくないと
思いませんか

外に出ろ
天気を感じるんだ
ほら
人間らしくなれただろう


2001年08月12日(日) すごく(自作詩)

恋の話をしてあげよう
君たちがすごく聞きたがる話だから
ほら
そこの君だって
ききみみたてているだろ?

あれは
何回目の恋だっけ
クラスの中で
すごく気になる女の子が
いたんだ

女の子の好みに
ぼくはすごくうるさいけれど
あの子はなかなかの
ものだった
すぐにでも
いいことがしたかった
けれど
まずは
ドトールコーヒーに
誘ったのさ

あの子と話すだけで
当分は
楽しめそうだったよ
ショートケーキのイチゴは
最後に食べるよね
熱い気持ちと
みなぎる性欲を
抑えて
ぼくは
あの子と
話したんだ

クラスには
あの子以外にも
何十人も人がいる
いい子もいれば
悪い子もね

ある日
ドトールコーヒーで
あの子がクラスの話を
はじめたんだ
クラスの子の悪口を
はじめたんだ
あの子は
ひとりのクラスの子の
外見的なことばかり
ひどいことを
ぼくの前で
すごく言ったんだ

すごくいやだった
ぼくの中で
あの子が
あんな子に
変わってしまったんだ
すごく自分を責めたよ
どうして
あんな子の
気をひこうとしてたんだろうって

クラスの中で
すごく気になった女の子が
いたんだ
女の子の好みに
ぼくはすごくうるさいけれど
あの子はなかなかの
ものだった
ぼくは
あの子と
話したんだ
ぼくは
あの子と
話したんだ


2001年08月11日(土) サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド(THE BEATLES/EMI)

 ビートルズのアルバムの中でもかなり評価の高いアルバムが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド』である。
 ポール色が強すぎてぼくはサージェントよりは『リボルバー』のほうが名盤と思うし、マニア層ではホワイトアルバムのほうが評価が高かったりするけれど。まあ、そんなことはどうでもいいか。
 その、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド』の一曲目が「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド」という曲である。そのままだが。
 この曲は、意外にマイナーな曲だ。激しいエレキギターのイントロから、ロックンロールを意識した歌い方をするポールの声が、ヘッドホンで聴いていると片方の耳からしか聞こえない変な曲である。
 んで、ぼく自身もこのアルバムに入っているこの曲は好きではない。
 ちなみに『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド』を発売した当時のビートルズは、ライブ活動を一切しなかったひきこもりミュージシャンだったから、ビートルズ自身のこの曲のライブ演奏はないので、この曲のビートルズによる演奏はオフィシャルアルバムにしか残っていない。探せばどっかにデモテイクぐらいはあるかもしれないが、ブートレッグ盤でもあまり「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド」は出ていないからぼくは知らない。
 後にこの曲が、ビートルズのメンバーによって演奏されたことはある。1990年のポールマッカートニーのワールドツアーから、ポール・マッカートニーはこの曲を自らのバンドでやっている。しかし、ぼくはそれも好きじゃない。
 じゃあ、おまえは何が好きなんだ? 結局、サージェントが嫌いなんだろ! と怒られそうだが、ぼくはこの曲の好きなバージョンがひとつだけある。
 それは、ジミ・ヘンドリックスのカバーだ。
 ジミヘンは、ライブでたびたびこの曲を演奏している。これがすごくいいのだ。もっとも、当のポール自身もジミヘンのヴァージョンを聴いて「ジミヘンがぼくらの曲をやってくれた」と感動したそうだが。
 ノイズの激しい歪んだギターで演奏されるジミヘンの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド」は、ビートルズのそれよりも野蛮で激しくラフで、そしてブルーズだ。
 世界一のレノン/マッカートニーの楽曲を、ウッドストックでもっとも注目を浴びたロックヒーロー、ジミ・ヘンドリックスが演奏しているのだ。そこには神がかりてきなものまである。
 ビデオ盤のモンターレポップフェスティバル(オーティス・レディングも同時に収録されてると思う)のインタビューの場面と、ワイト島ロックフェスティバルでこのジミヘンの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド」は聴ける。
聴くたびにぼくは、クラシックの伝統のある白人のほうが曲を作る能力はあっても、ロックはやっぱり黒人のものなんだなあと思ってしまいます。たぶん、これは間違ってないでしょ。
 


2001年08月10日(金) 『この人を見よ』(ニーチェ 新潮文庫)

 ニーチェをはじめて読んだのは十八歳の時だった。しかも、読んだのは『ツァラトストラかく語りき』(新潮文庫)ではない。『この人を見よ』(新潮文庫)を読んでしまった。
 本屋で立ち読みをするために手に取り、目次を見た瞬間、ぼくはまいってしまったのだ。
「なぜ私はかくも賢明なのか」
「なぜ私はかくも怜悧なのか」
「なぜ私はかくも良い本を書くのか」
 この三つのタイトルにやられた。ここまで自分を肯定し、自信に満ちあふれている言葉をぼくは知らなかった。
 これは買わなくては、と思い、その場で購入し、家に帰って読んだ。
 はっきり言って読んでみて、それほどおもしろいとは思わなかった。なんだか、年寄りの大学教授の杵柄を延々と聞かされている気分になった。
 当時のぼくにニーチェが楽しめなかったいちばんの理由は、ぼくが「人間とは本来弱い者だ」と、なんの根拠もなく純粋に思いこんでいたからだろう。
 ルサンチマン(内向的復讐感情、つまり社会的弱者が「弱者こそ善人」だと思う幻想)を余計な感情と呼ぶニーチェの思想にはなじめなかった。
 いま、ぼくは二十代である。純粋さを失い、そのぶん怜悧さを少しだけ身につけたぼくは久しぶりに『この人を見よ』を読んでみた。内容に関しては、まあそういう考え方もあるなあという程度にしか受け取れなかった(ぼくは戦後日本の同和教育を受けているから、なかなか弱い人を切り捨てられません)けれど、すごい衝撃を受けた。
 表現が過激なのである。特に後半部分は強烈だ。軽く引用してみよう。

「神とは我々デンカー(思索人)にとっては一つの大づかみな答えであり、何とも不味い料理なのである」
「私は人間ではないのである。私はダイナマイトだ」
「善人の概念に置いてはすべての弱者、病者、出来損い、自分自身に悩んでいる者、すなわち滅んでしかるべきいっさいの者の擁護者として立つことが証明されており――誇りを抱く出来の良い人間、肯定する人間、未来を革新し未来を保証する人間に対する否定的抗議が、一つの理想として祭り上げられている始末である」

 ぼくはタイトルにショックを受けて『この人を見よ』を買ったのだった。思想に関心があったわけではなく、「なぜ私はかくも賢明なのか」のアフォリズムに惹かれたのだ。
 そうやって読むと、『この人を見よ』はなんとも最高である。
 それもそのはず、『この人を見よ』を執筆した直後にニーチェは発狂している。麻薬に汚染されたミュージシャンが作るサイケデリックなサウンドが心を躍らせるのと同じで、本当に狂っている人の文章は平凡なぼくの心を掴んで離さないようだ。


2001年08月09日(木) 『犬ですが、ちょっと一言』(ミュリエル・ドビン ハヤカワ文庫)

 二日ほど前に、犬が出てくる小説は哀しい、と書いたが、この『犬ですが、ちょっと一言』に出てくる犬はまったくもって哀しくない。
 なぜならこの小説は人間の視点からではなく、犬の視点から書かれているからだ。
 動物の擬人法、そして犬と同居している人間が新聞記者となれば、猫の擬人法で書生と同居していた『我が輩は猫である』を思い出してしまうが、まあ、それの現代版という感じである。
 主人公のローバー(しかし、アメリカ人は犬にローバーと名付ける飼い主が多いなあ)はゴールデンレトリバーの酒飲みの犬だ。このローバーが退屈を紛らわすためにタイプライターでこの作品を打ち込んだことになっている(もしかしたら、本当に犬が書いたものかも知れない)。
 まずは、甘えて堕落した犬や飼い主の趣味を押し付けられてかわいそうな犬、そして国を挙げての猫人気への愚痴から話がはじまる。
 それから、研究所から逃げてきたネズミをかくまったり、ゴリラ夫婦の愚痴をきいたりと犬の苦労がずっと書いてある。どのエピソードも風刺がきき、ジョークも生きていておもしろい。ちょっと引用してみよう。怒ったミミズとの会話である。

「ミミズは国民的メディアに無視されている。ウサギみたいに殖やすために、いわゆる農民たちに泥土並に売られているとしてもだ」
「いやごめんよ」といってやった。「いままでぼくは、ミミズの重大な問題はどうしたら魚釣りの餌にされるのを避けられるかということばかり思っていたもんだからね」

 アメリカ人らしい、いかにもなジョークだ。ジョークをローバーが、虫や動物と話ながら進む。時にはチクリと風刺を利かせて。
 そして、読み進んでいくうちに、滑稽に腹を立てている虫や動物を見て、ぼくらは当たり前のことに気がつくのである。
 地球は人間のためではない。
 エコロジー、なんて言葉が叫ばれて近しい。地球を守ろう、地球を大切にしよう、という運動も各地で起こっている。
 しかし、ぼくたちはうっかりしたことを忘れている。
 車が二酸化炭素を排出するなら車を走らせなければいい。ゴミが増えるならゴミが出ないように工夫しなければいけない。
 エコロジストはそう言うけど、でも、実際に車を走らせたり、ゴミを出しているのは人間だけなのである。
 極論だが、人間が恐竜みたいにあっけなく絶滅してしまえば、地球はいまよりも美しくなるかもしれないのだ。
 地球を守ろう、と言っている人に、自殺した人が何人いるだろうか?
 エコロジストの言っている「地球を守ろう」は、地球のためではなく、人間のために「地球を守ろう」と言っているのである。
 だけど、地球は人間のものではない。だから、ローバーはほのぼのと風刺をきかせた愚痴を本一冊ぶんもこぼしたのである。


2001年08月08日(水) 『畜犬談』(太宰治 新潮文庫『きりぎりす』に収録)

 国語の授業を除いて太宰治を最初に読んだのは『人間失格』の角川文庫版だった。読んでみて、世間とうまくやっていけないイタイおたくのつぶやきみたいで、好きになれなかった。角川文庫版には『桜桃』も収録されている。ついでだから読んでみて、やっぱり好きになれなかった。胸の谷間のあせもが涙の谷? どうでもいいじゃん、勝手に泣いてろー、と思った。
 次に読んだのは『斜陽』。よくわからなかった。だいたい、ぼくら戦後生まれには、華族や平民という階級差がよくわからない。それなのに理解しろというのが無理である。おまけに『斜陽』は登場人物のほとんどがよく悩む。それもわずらわしかった。
 では、ぼくは太宰を嫌いなのかというと、どっこいそうではない。『斜陽』の内容はよくわからなかったぼくだが、『斜陽』の文章には驚愕したのだ。『斜陽』の文章はまじですごい。ひとつ試しに引用してみよう。

「どうしても、もう、とても生きておられないような心細さ。これが、あの、不安、とかいう感情なのであろうか。胸に苦しい浪が打ち寄せ、それはちょうど、夕立がすんだのちの空をあわただしく白雲が次々と走って走り過ぎて行くように、私の心臓をしめつけたり、ゆるめたり、私の脈は結滞して、呼吸が稀薄になり、眼のさきがもやもやと暗くなって、全身の力が、手の指の先からふっと抜けてしまう心地がして、編物をつづけてゆく事ができなくなった。」

『斜陽』は全体においてこのテンションで進むので一読した感じではかなり読むのは苦痛だ。しかし、ひとつの文章、段落で抜き取って読むと、すげー文章の宝庫なのである。
 志賀直哉で、文章がうまい日本の作家は短編がうまい、と勝手に法則を作っていたぼくは、じゃあ太宰の短編を読んでみようと思った。そして、幸運にもその法則は当たっていた。太宰の長編の欠点だとぼくが思う、うじうじとしたダラダラ感が、短編ではすっきりまとめられていてすごくいいのだ。
『畜犬談』は、個人的に太宰が作家としての才能をいかんなく発揮したと思う中期(昭和十二年)の作品である。まず、

「私は犬については自信がある。いつの日か、必ず喰いつかれるであろうという自信である。私は、きっと噛まれるに違いない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過ごして来たものだと不思議な気さえしているのである。」

と軽妙な語り口でスタートする。私小説とは言え、めちゃくちゃうまいつかみだ。主人公の犬嫌いがよくわかる。
 そんな主人公が散歩をしていると犬がついてきた。気の弱い主人公は内心では犬を「ピストルでもあったなら、躊躇せずドカンドカンと射殺してしまいたい気持ち」なのだが、とうとう家の玄関まで犬を連れてきてしまう。
 それからずるずると半年も主人公は犬を「ポチ」と名付け飼ってしまう。この間の主人公が語る、犬と主人公の駆け引きも面白い。たとえば、犬が下駄をおもちゃにして、洗濯物を引きずり下ろすと、主人公は犬に「こういう冗談はしないでおくれ。実に困るのだ。誰が君に、こんなことをしてくれと頼みましたか?」と内に針を含んだ言葉をいや味をきかせて言ったりする。当然犬は相手にしないが。
 半年が過ぎ、主人公はいいかげん犬を捨てようとする。だが、捨てようと決めたとたん、皮膚病になってしまい、捨てるわけにもいかず、殺すことになる。殺すために主人公は犬に、肉片に薬剤を混ぜたのを食べさせる。
 だが、翌朝、犬は死ななかった。犬が生きているのを見た主人公の発言が秀逸だ。

「だめだよ、薬が効かないのだ。ゆるしてやろうよ。あいつには罪が無かったんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だった筈なんだ」

 ここで太宰の主題がぱっと浮かぶ。おそらく、太宰はずるがしこくて卑屈な犬を、弱い人間と照らし合わせていたのだと思う。どんなにけなされても、弱い人間は生きるために卑屈にならなければいけない。親・兄弟・友達を捨て、卑屈になって卑屈になって殺されかけても卑屈になって、やっと同情を買えば安住の地で生きていける。それが弱い者の生き方だと。
 そして、最後に主人公が犬を飼うことを決めると、主人公の妻は浮かぬ顔をするところが、この作品の深さだ。
 弱い者がひとりに同情されても、すべては好転しない。
 同情されて安住の地を手に入れても、他の人から見たら弱い者は弱いままなのだ。
 おそらく、最後の妻の浮かぬ顔にそんなメッセージが隠されているとぼくは考えるのだが、考えすぎだろうか?


2001年08月07日(火) 犬の悲劇 (ガルシア=マルケス『愛その他の悪霊について』新潮社、大江健三郎『芽むしり 仔撃ち』新潮文庫)

 動物の出てくる小説にはなぜか哀しい空気が漂っている。あの『我が輩は猫である』でさえ、全体的にはどこはかとなく哀しさがある。人間と接触する動物には、常に哀しみが漂っているのかもしれない。
 犬が出てくる小説として、ぼくが頭に浮かんだのはガルシア=マルケスの『愛その他の悪霊について』(新潮社)と大江健三郎の『芽むしり 仔撃ち』(新潮文庫)である。
 二作品とも犬が出てくる以外に共通点がある。伝染病だ。
『愛その他の悪霊について』では、主人公の女の子が狂犬病の犬に噛まれたところから話がスタートする。物語中、狂犬病は悪霊のメタファとして使われる。事実とは言え、犬に噛まれただけで悪霊憑きにされる少女は哀しすぎるし、その原因として扱われる犬も哀しい。
『芽むしり 仔撃ち』の犬はもっと哀しい。『芽むしり 仔撃ち』は伝染病が流行る村に取り残された少年たちの話である。ここに登場する犬は、伝染病の中でたくさんの動物が死んでいるのに生き残っている。せっかく「クマ」と名前をつけたのに、脱走兵から「レオ」と改名されるのも哀しい。レオは少女の指を噛んで、少女を伝染病にしてしまう。それから、少年たちに「病原菌の塊」として棒で撲殺され、それが原因で飼い主の少年は行方不明になる。犬のせいでふたりの人間が死に、犬も棒で殺されてしまうのだ。哀しすぎるではないか。
 二作品とも犬は悪くない。二作品とも犬は故意に少女を噛んだわけではなく、うっかり噛んでしまっただけだ。過失に過ぎない。
 なのに、伝染病の原因となれば犬はあっけなく殺されてしまう。
 しょせん、犬の運命なんて人間に委ねられているのだろう。それが浮き彫りにされるから、犬が出てくる小説は哀しい。


2001年08月06日(月) 毛むくじゃらの犬(フレドリック・ブラウン 創元推理文庫『復讐のの女神』に収録)

『未来世界から来た男』(創元ミステリ文庫)をはじめ、SFショートショートの名手フレドリック・ブラウン。ブラウンのSF短編は、奇抜なアイデアとユーモアに満ちあふれ、『ドラえもん』を見慣れているぼくらにはとても親しみやすくておもしろい。
 ブラウンはミステリも書く。ブラウンのミステリは、『名探偵コナン』を見たことがあるぼくでもど肝を抜かれる。なんなんだ、これは! という世界なのだ。
 ぼくのような頭の固い日本人は、SFならば奇抜なアイデアもユーモアも無批判に受け入れることができる。時間が逆流しようが、宇宙から変な奴らが責めてこようが、植物がしゃべろうが、「SFってこんなもんだよね」と思っているから安心して読めるのだ。
 しかし、ミステリとなるとそうはいかない。ミステリというのは、探偵がいて、人が死んで、うだうだと捜査が難航して、最後に探偵がずばっと犯人をいい当たるものだ。
 だが、そういうものとブラウンのミステリはひと味違う。奇抜なアイデアとユーモアのおかげで、いわゆるミステリを思い浮かべていると痛い目に遭遇する。

『毛むくじゃらの犬』の主人公は新米探偵のピーター・キッド。彼はどうでもいいラテン語のうんちくを得意気になって誰彼となく話す癖があり、新米としての意気込みを隠すためにわざと、事務所に十分遅刻するような生真面目な男である。
 主人公の探偵事務所の最初の依頼人として現れたスミス氏、毛むくじゃらのローバーという犬と一緒にやってくる。相談の内容は、ローバーの持ち主を探してほしい。ローバーには拾ったときに、飼い主の死を暗示させる手紙が入っていたそうだ。そして昨日、何度も殺されるような目にあったと言う。
 主人公はまったく別の推理を立てて事務所から一歩も出ずに事件を解決させるが、その直後、依頼人が本当に殺されてしまう。
 時には閉口するようなアメリカンジョークが溢れる明るい文体で、すらすらと話は進む。生真面目な主人公とぼけーっとした美人秘書、まぬけなローバーの絡み合いがおもしろい。最後のオチまでアメリカンジョークというおそろしさだ。
 実はこの『毛むくじゃらの犬』というタイトルもアメリカンジョークである。
 原題 The Shaggy Dog Murders は直訳すると『毛むくじゃらの犬の殺人』となるが、この shaggy dog は米語のスラングで「話し手がひとりで面白がって話していて聞き手を退屈させている様子」という意味がある。
 やたらとラテン語のうんちくをうれしそうに話す主人公は、このタイトルだからこそ生まれているのだ。
 そして、そのタイトルにはもちろん、本一冊ぶん、相手が退屈していてもえんえんと語る小説家へのアイロニーでもあるだろう。
 フレドリック・ブラウン、おそるべし。 


2001年08月05日(日) 日記を書こうと思いつきました

 日記を書こうと思いつきました。
 大して文才もなく、またこれといって変化の多い毎日を過ごしているわけでもない私の日常を書くだけではつまらないでしょう。
 だから、日常生活とは関係ないことも書きたいと思います。
 たとえば、読んだ本の感想なんかを気楽に書きたいなと思います。
 気楽に書いてしまうから、思いこみや勘違いで間違いの記述をしてしまうかもしれません。
 気楽に書いてしまうから、読んでくださる方には全然面白くないものになってしまうかもしれません。
 そんな不安がいくらでも浮かぶけど、ちょっぴり面白そうだから、日記を書こうと思いつきました。


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