++ワタシノココロ++
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2008年10月20日(月) |
誕生日ケーキを焼かなくなった理由(わけ) |
今日はやすくんの誕生日。
一緒に祝えるようになって…6回目かあ。
おめでとう。本当におめでとう。 そして、いつもいつも本当にありがとう。
やすくんと私の関係は、年とともに少しずつ変化したようにも思うけど、 変化したのは私たちを取り巻く環境や状況なだけで 一番根っこの、一番大切なところは何も変わっていないと思う。
本当は盛大にお祝いしたいところだけど、
今年も何も作らなかった。ケーキも御馳走も。
…今年、も。
一緒に祝えるようになって最初の誕生日の時、私は何日も前から計画を立てて二人でお祝いできるようにがんばって準備をした。 小さめに焼いたチーズケーキと、ローストのチキン、 そうそう、ケーキのように具を重ねて作ったちらしずしも。
新婚だったってこともあるし、初めてでウキウキしてたってこともあるけど 妙に張り切っていた私。 テーブルいっぱいに並んだ料理や小さな花、それに小さなプレゼント すべてがキラキラしてるように見えるほど、それは幸せなひとときで やすくんが仕事から帰ってくるその時が、待ち遠しくてたまらなった。
・・・一本の電話。
どんなやり取りをしたか覚えていない。 膝ががくがくして、頭から血の気が引くのがわかって、ふるえる手でやすくんの会社に電話した。 「○○叔父さんがね、亡くなったって」
やすくんのことを誰よりも大切にしてくれた叔父さん。 体は弱かったけれどそれでも毎日平和に暮らしていて、その数日前には友達と温泉旅行にも行っていたらしい。
「旅先で体調を崩して一人で帰ってきて、急に様子がおかしくなって、そのままだったんだって」
やすくんは「すぐ帰る」とだけ言って電話を切った。 私は、あわててもろもろ準備をしたり、やすくんの実家と連絡を取り合ったり。
叔父さんは遠くに住んでいたけど、独り身だったし以前から「墓はこちらに入れてほしい」と言っていたこと、何よりやすくんが「こっちで終ってやりたい」と希望したことから、やすくんの実家で葬儀をした。
帰宅したのは、やすくんの誕生日から3日あと。 なんとなく頭の中がボーッっとして、体もだるいような気がしたまま、部屋のドアを開けたら。
3日前の、そのままの状態の空気だった。 料理はすべて冷蔵庫に片づけて行ったけど、チキンは冷たいしサラダはクタクタ、お寿司はポロポロして食べられたものじゃない。 テーブルの上にそのままだった花もなんだか茶色く変色していて。
いまさら「おめでとう」でもないなあと思ったら、そんな料理たちも食べるような気分じゃなく。 やすくんも、さすがにそのときは私の3日前の気持ちをくみ取るような余裕はないし、なんとなく気まずい空気が流れた。
それから6回、私はケーキも御馳走も作ったことがない。
あの時のつらい思い出が繰り返されそうな気がするから。 やすくんの大切な人が亡くなるっていうつらい経験。
やすくんもなんとなくその意味が分かっているみたいで、 あれこれ言わない。 プレゼントを渡して、数日後ふと思いついた日に焼いたケーキを 今年もおいしそうに食べてくれるだろう。
2008年10月15日(水) |
そして、エンピツへ。 |
久々の自宅でインターネット。
何かしたいなあ、何をしようかなあと思っていたら、
ここを思い出した。
私の大切な場所。
ブログもやってるし、mixiだって。 でもさ、ここはなんか違うんだよなあ。
また細々とやって行けたらなあと思っています。 どうぞよろしく。
さて、今日はやすくんと2人で「僕らのミライへ逆回転」を観てきた。 内容も、出演者もほとんど予備知識がない中で選んだ映画だったけど、 想像以上に面白くて、しみじみ泣けた。
映画って、実はこれまでものすごく遠い存在のものだった。 子供のころのトラウマもあって、暗くて大きな音が出るのが怖くて。 でも、今年娘のひかるが幼稚園に通うようになって、 平日休みの私たちは完全においてけぼりになって さて、どうしようかねえ…と思っている時に、たまたま偶然映画を観て。
邦画の軽ーい映画(ドキドキもハラハラもない穏やかなもの)で、 しかも観たのがすごく居心地のいいシートだったこともあって、 この夏の初めあたりから2人でちょくちょく出かけてる。
相変わらず爆発音と、血が出るような作品は苦手で、 かなり観られる映画は限られてくるけど、 やすくんはいつも隣でコーラ片手に楽しそうな時間を過ごしてくれているから、 なんとなくどの映画もほっとしながら見ていられる。
今日観た映画は、ちらっと見た(私が観られる映画かどうかのチェックのため)公式サイトでは「コメディ」のようだったけど
今思い出しても、コメディというよりは心にじんわり温かいものが流れ込んでくるようないい映画だった。
「好き」「楽しい」「一生懸命」がまっすぐ伝わってくるような、そんな気がした。
今「閉じてる」私は、 なんだかものすごく感受性も強くなってるみたいで、 まったくストーリーと関係のないところで 出演者の一人(ごくごく脇役の人)の気持ちがすごくわかって心がジンジンしたり みんなが笑っているようなところで、泣くほどだった。
なんというか、完全にその世界に入ってその時間を共有したような気分になった。
映画を観終わったとき、私の放心ぶりはかなりのものだったようで やすくんは少しびっくりしていたけど (そして、それが映画に感動したとかその類ではないこともわかっていたみたい) 相変わらずの穏やかな笑顔で 「いい、時間だったみたいだね」って言ってくれのだった。
うまく言えないけど、今私は「閉じて」る 。 ひきこもってるわけでもないし、鬱なわけでもないけど、 実感として「閉じてるなあ、今」と思うことが多い、ただそれだけ。
ほんの数日前は、思いっきり「開いて」いた…と思う。
開く・閉じるという言葉の表現が正しいのかはわからないけど、 自分の感覚からすると、一番しっくりくる表現だと思う。
なんというか、自分の中の気の流れというか 思考回路の回転の向きみたいなもの。
「開いている私」は、とにかく何かが「外に向かって流れている」というかんじ。 「閉じてる今」は、内に内にと流れている…みたいな。
ポジティブとネガティブにちょっと似ているようだけど それとは違う気がするし、 女性特有の波みたいなものともまた少しズレがあるような気がする。
でもまあ、「閉じてる」時というのは何かが低調な感じもする (どないやねん)
前は、開いている時は思いっきり全開!という感じで、 閉じている時は鍵を何重にもかけて思いっきり閉じてる!という感じだった。
車のアクセルの踏み加減が教習所時代になかなか感覚としてつかめなくて 踏み込みすぎたり、弱すぎたりで、 ちょうどいい塩梅を覚えられず大変だったっていうのと もしかしたら少し似ているのかもしれない。
閉じてる時に、かなり頑丈に「閉じて」いたのは、 閉じてる時の自分があまり「いいもの」ではないような気がしていたからだ。 …と思う。
でもさ、いつもかも「開いて」たら疲れるし、 きっと閉じてる時も大切なんだろうなあ… と思えるようになってきたら、少し楽になって 閉じ具合も開き具合も極端すぎることがなくなってきているような気がする。
「閉じてる」時っていうのは、きっと自分の中に何かをため込んでいく時間なんだろうなあ。 ため込んでく、んじゃなくて吸引力が強いというか流れて込んでくるというか、 とにかくそんな感じなんだろう。 知識とか、感情とか、優しさとか、感覚とか。 いいものも、悪いものもいっぱい。 それがいっぱいたまって溢れそうになった時に、 周りにそれを開放するんだろうなあという感じもする。
ということで、只今閉じている私は、 この前買ってきた自宅用PCのインターネット接続を細々やり終え、 久々の「自宅ネット」に興じているところです。 まあ、いろいろやることあるんだけど、閉じてるんだもん、 勘弁してください。(だれに?)
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