I think so...
Even if there is tomorrow, and there is nothing, nothing changes now.
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2005年07月28日(木) |
生きる必要のない人間なんていない |
最初は特定の人にあてたメールの返信でしたが、 趣旨が少し変わったので日記での公開に切り替えました。 出来ればみんなに読んでほしいです。
日記読みました。 今○○さんが↓↓モードになってるのわかりました。
あたしもこの間まですごく↓↓モードで 何もする気にならなくて でも何かしなくちゃいけないって気にかられてて 何かしても空回りで やってもうまくいかなくて 堂々巡りをずっとしてました。
人と話しても話せなくて 話す気にもならなくて 自分の状況を説明しても意味がない気がして 相談する気にもならなくて 言葉を紡ぐ気にもならなかった。
だから人と会う気も無くて、会っても結局そんな感じで。
食事をすることすら興味がなくて。 胃に物を入れることすらしなくて。
表情も死んだみたいで。 周りからそういわれるまでそれにすら気づかなくて。
そんな状態から今は少しずつあがってきてます。
○○さんは何か書くお仕事してるんですよね? 創作作業は身を削って自分自身を紡いでいく仕事だと思います。 その作品が世に出る限り、○○さんは必要とされていると思います。
と、いうかその仕事がなくても、 ○○さんは必要な人間なんです。
何もなくても、しなくても 存在に意味の無い人間などいないのです。
みな、何か使命をもってるのだと思います。
宗教くさくなっちゃったけど。笑
うちの父も私が10歳の時に亡くなりました。 突然死でした。くも膜下出血 でした。 一ヶ月前の会社での健康診断では良好と判断されていました。 風邪ひとつ引くことない人でした。 だからこそ健康を過信したのかもしれません。
その日、私は自然教室と言う名の学校行事から帰ってきたばかりで おみやげを両親に渡して興奮冷めやらぬまま床につきました。
夜中になって父が苦しみだしたのを私は見ていないのに見たように覚えています。 救急車を呼びました。
急性アルコール中毒だと言われました。
二度電話をしました。
同じように言われました。
救急車が来て診断された病名は脳動脈瘤破裂でした。 アルコール中毒などではありませんでした。
救急車がすぐに来てくれていれば父はまだ生きていたかもしれません。
私はそれから医療というものがあまり信じられません。
運ばれていった父は二度と家に帰ることはありませんでした。 父はおおよそ一ヶ月意識不明のまま入院していました。
意識不明の状態なのにも関わらず、 父は私や家族が名前を呼ぶと泣くのです。
涙を流すのです。
それはもう目すら開けない、声も出すことの出来ない 父の返事だったのだと今も思っています。
父は厳しい人でした。 行儀の悪い私はよく怒鳴られていました。
そんな人が涙を流すのです。 寝たきりの身体を微動だにせず管に繋がれて 辛うじて機械に生かされている体で 泣くのです。
父が泣くのを見たのはそれがはじめてで そして最後の出来事になりました。
父が病院に入院している一ヶ月程の間、 私と妹たちは学校を休んで毎日家にいました。 いつ亡くなってもおかしくない状態だったからです。 不憫に思った母方の祖母は常に傍にいてたくさんのものを買い与えてくれました。 いろいろなお菓子、おもちゃ…以前の私なら手放しで喜んだでしょう。
しかし、すべて色あせたものに感じました。
そしてしばらくして父は亡くなりました。
心臓マッサージは最初は手で行います。 その後、機械で行います。 電率をあげて何度か行うと心臓は動くかもしれませんが 肋骨はぼろぼろになります。
そんなことを10歳の私は知りました。
お葬式の式場のココアの味を未だに覚えています。 父が亡くなった時の記憶ではそれが一番鮮明なものなのです。 何年間も父の話題が出る度、 そんな事を話して気丈にふるまっていました。
式場の人が言っていました。 「著名人でもない普通の方のお葬式でこれだけの参列者を見たのははじめてです」 父がいかに人に愛されていたかを私は父が死んでから知りました。
私は父の事が嫌いだと思っていました。 いつも怒られてばかりいたから。 私は萎縮していたのです。そう思い込んでいました。
でも、父が亡くなってから私は父の事がどれだけ好きだったのか 思い知ったのです。
父が私にしてくれたたくさんの出来事を忘れられないのです。
父が私に買ってくれた大きなけろっぴのぬいぐるみは もう無いけれど、 私の記憶の中で生きているのです。 そして父も私の中で生き続けているのです。
私たち3姉妹はいつもおそろいの洋服を着て いろいろなところへ連れて行ってもらいました。 その写真は今でもたくさん残っています。
父が死んで何年も経ってから、 母が父に出してあてたラブレターをたくさん見つけました。 筆不精の父からの返事は二通だけでした。
営業職をしていた父は人との付き合いが上手でした。 そしてその血は私に確実に流れています。
父が死んでしばらくしてから母に私が言った言葉があるそうです。 「運命なんて無い、すべて天命だよ」 これは与えられた命をまっとうして死んでいったんだよ、 という意味で私が母に話した言葉です。
意味が無い出来事なんて無い。
父が亡くなってからの母は33歳の若さで3人の子供の片親になりました。 様々な困難に一人で立ち向かっていったと思います。 愛する人を失った辛さは私にはまだわかりません。 私にとっての死はあくまでも父のものだから。
その母もそれから5年後に再婚して、今では義理の弟も7歳になります。 そして、家も新しく建て直しました。
もう父がいた家ではありません。
けれど、新しい父がいます。 義理と他人に思われないぐらい仲の良い家族です。
失うことがあります。
でも、手に入れることが出来ます。
手に入れた以上、失うこともあります。
でも、手に入れることが出来るのです。
もう手に入れることが出来ないものもあります。
でも、新たな何かを手に入れることが出来ます。
自然教室の両親へのおみやげは栗羊羹でした。 母と私だけが栗羊羹を見るとほくそ笑みます。 それは辛く苦しい事を乗り切って思い出になった者だけが出来る 痛い笑いです。 今では「栗羊羹は買ったら死んじゃうよ」なんて冗談もでます。 何も知らない下の妹は?という顔をします。 それを見て更に私と母はほくそ笑むのです。
父が亡くなった時私は10歳でした。 次の妹は9歳で、その次の妹は3歳でした。
一番下の妹は父の記憶が薄いのです。 数年後、 その妹の誕生日にプレゼントした大きなけろっぴのぬいぐるみは 今も彼女の枕元に飾ってあります。 彼女がそのぬいぐるみの本当の意味を理解しているかは わかりませんが。
記憶は色あせることもあります。 でも、思い出はずっと生き続けています。
父は亡くなっても、生きているのです。
私がここにいる限り、父は生き続けているのだと思うから。
だから、生きる必要のない人間なんていないんです。 あなたがそこにいる限り、 あなたの中だけで生き続ける人がいるのだから。
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