日記でもなく、手紙でもなく
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2002年07月31日(水) 横浜中華街・朝陽門そばにできる地下鉄駅

 2004年に横浜中華街へ地下鉄が延び、朝陽門(東門)近くに駅ができるという記事が出ていた(日経朝刊・首都圏経済ページ)。
 現在、東京方面からこの中華街へ出ようとすると、JR石川町、横浜寄りの改札から出て、中華街へ入っていくか、(関内駅降りてすぐの)横浜スタジアムの脇をぶらぶらと抜けていくか、そんな人が多いのではないかと思う。もちろん、横浜駅や桜木町駅からバスに乗るという手がなくもないが、石川町から歩いて5分くらいのところにあるわけだから、さほど歩いて遠い場所にあるとは思えない。地下鉄ができたらできたで、利用客は充分ありそうだが、東京方面からの客の一人である自分のことを考えると、どんなふうに利用するか、あまり見当がつかないようなところも残ってしまう。

 ただ、この新しい地下鉄というのは、渋谷につながる路線になるとも書かれていた。とすると、東急東横線が横浜経由で中華街を通っていく路線になる、という可能性が一番高く、東横線沿線に住むような人々が、中華街に行きやすいルートをつくる、というところが、この話の一番のコアになる。
 もう一つは、横浜駅から中華街へ行くにあたって、十分考えられるのが海側に新たに開発されているみなとみらいを経由していくコースである。国際会議場や赤レンガパーク経由で、神奈川県庁から中華街へ入っていくような路線を考えているのではないか、という気もする。もしそうであれば、新しく変わってきている横浜マップ上で、利用者がかなり想定できる路線になるだろう。そのようなルートが想定されているとすれば、別に中華街へ行くということではないにしても、自分自身が様々な目的や理由で横浜へ行き、その横浜の中で過ごす場所や時間のことを考えると、その新しい地下輝の利用が、少なくとも年2−3回は出てきそうな気がする。
 更に、港の見える丘公園から本牧へ抜けていくことなども考えられているとすれば、本牧がイメージ的にかなり近くなってもくる。

 中華街のほうに話を戻すと、地下鉄駅に近い朝陽門というのは、ホリデイ・インのすぐそばになる。横浜−桜木町−関内−石川町の駅を底辺に置いて描かれたような横長長方形の横浜市街図などで見ると、朝陽門の位置は北にあり、朱雀門(南門)が東の位置にあたるような気がしてしまう(朱雀門は、元町通りの中央あたりの位置から、運河を渡ったところにある門)。いずれにしても、現在東京方面から電車でこの中華街へ向かうと、この朝陽門をくぐって中華街に入っていくというのは、最もまれなパターンだ。
 地下鉄の駅が、この朝陽門のそばにできるということになると、中華街へ入ってくる人の流れ方が、かなり変わってくることになるだろう。

 ただし、中華街の場合、果して地下鉄の駅ができるだけで、(例えば大江戸線の麻布十番のように)商店街に来る人が増えたり、客層が拡がったりするようなことになるのだろうか、という疑問もまだ残る。
 中華街といっても、その大半は中華料理店の集合体である。中華食材が揃うという面があるにしても、<中華料理>そのものの魅力の高さが、今の日本人に充分保たれているのかどうか、同時に中華料理を楽しむという行為の中で、横浜中華街がそれをどの程度満たしているのか、という問いかけをいつも行っていかないと、新しい中華街の発展もおぼつかない。

 横浜に住んでいる人にとっての中華街だけで良いのであれば、そこまでする必要はないだろうが、東京からも足を伸ばしてもらう、ということになれば、メニューや空間設計、価格体系などの見直しは、今後一層必要になってくるような気もしている。また、それをやっていかないと、中華街全体の地盤沈下が生じてしまう。
 自分のことを考えてみれば、現在、横浜中華街で中華料理をぜひとも食べたい、という気にはあまりならない。銀座で食べたほうが、自分の食べたいものが適価でおいしく食べられる、とも思ったりする。新宿にある、ヒルトンやセンチュリー・サザンのホテルで食べる中華料理のほうが、ずっと洗練された雰囲気で中華料理を楽しむことができる、とも思う。点心をいろいろ食べたいと思うような時なら、赤坂とか表参道にある店を、すぐ思い浮かべたりもする。中華を食べるために、わざわざ横浜まで行く、というような気はおこらない。
 用事などがあって、横浜へ出かけた時、おなかが空いて、それが中華街のそばなら、中華街で食事をして帰るか、という気にもなるが、せいぜいその程度だ。横浜駅周辺とか、あるいはそこよりも中華街にずっと近い元町にいたとしても、恐らく中華街の中華を選択する、ということはほとんどないような気がしている。

 ある意味で、食を中心とする<文化性>のコアが、食事の選択の中に無意識的に反映されてきたりもする。日本料理、イタリア料理、フランス料理、あるいはエスニック、さもなければファーストフード――などの、まさにカテゴリー対カテゴリーにおける、客の奪い合いの中にいる、ということでもある。しかも、それと同時に、もう一方では、横浜中華街の中華料理店が、日本のトップクラスの<中華料理>を、今でも牽引しているのかどうか、という視点からの検証も必要だろう。後者の視点というのは、ずいぶん前に、横浜中華街から消えているような気がしてしょうがない。


2002年07月30日(火) <キプリングの日本発見>

 ラドヤード・キプリングといえば、「ジャングル・ブック」の著者として、あまりにも有名な作家である。
 そのキプリングが、実は明治時代に日本を2回訪問しており、その訪日記録がかつて出版されていた。しかし、時代を経るうちに、当初の文章が削除されたり修正されたりして、当初書かれた内容とはかなり程遠いものになってしまったらしい。

 1980年から84年にかけて、駐日英国大使を務めた(Sir)ヒュー・コータッツィ氏と、キプリング協会が発行する機関紙(Kipling Journal)の編集長を20年間務めたジョージ・ウェッブ氏は、キプリングの訪日記を当初発表されたままの形で編集し直すと同時に、かなり詳細な解説と注を付し、1988年に<Kipling’s Japan>を発刊。1988年というのは、まさにキプリングが最初に日本に来てから、ちょうど100周年にあたる年である。
 この本の翻訳書が、今年6月、中央公論新社から発刊されているのを1週間ほど前に本屋で見つけた。

 第一回目の来日は明治22年、キプリングがまだ無名の23歳の時。ラフカディオ・ハーンが日本にくる少し前の明治である。
 キプリングの驚異の眼差しの中で、長崎、瀬戸内海経由神戸(船の旅)、大阪、京都、(とりわけ興味深い)京都から横浜に至る東海道汽車の旅、箱根、日光、東京などのエリアと明治という時代が、まさに追体験できるような本だ。

 翻訳にあたった青山学院女子短期大学の加納孝代教授の後書きによると、いかにキプリングの描写が正確であったかがよくわかる。

 ただ、今回読んでいた中で、日本の描写そのものだけでなく、一点米国人のことを皮肉たっぷりに、しかしその本質(の一部)を見失うことなく記述しているくだりがあって、唖然とするほどに面白かった。
 [ 日本には大勢のアメリカ人宣教師がいて ・・・・(中略)・・・・ 彼らは日本人に「進歩」という観念を浸透させつつある。そして、隣人を出し抜くことや、自分の地位を向上させるのは良いことであると、より一般的に言えば、生存競争の中に入っていって粉砕されるのは良いことだと説いてまわっている。・・・・ ]
 もちろん、キプリングは、良きアメリカ人のことも忘れずに描いているので、そのバランス感覚は極めて優れているのだが。


2002年07月28日(日) 大暑過ぎて

 26日の金曜日も、昨日27日も、なにしろ暑い日だった。空気が熱気を帯び、それが冷めない。
 昨日は午後からずっと出かけていて、夕方近く渋谷に着いたとき、銀行内の涼しいところで20分近く休憩してしまうことになった。展覧会場では、椅子に2度も腰を下ろして休んでしまうし、歩いている時は、あまりに暑くて、かき氷を道端で食べてしまうし..... これは、全て暑さのせいだ。
 
 7月23日が大暑と言われる日だから、この日を越すあたりが一番暑い日になるのだろう。

 ところが、今日は一転して、涼しい風が吹き抜けていく。ちょっと高原にいるような雰囲気もある。
 空気も比較的乾燥していて、家に夜戻ってからも、エアコンのスイッチを入れずにすんだ。

 暑い日が続いた後の、ほっと一息つけるような日。


2002年07月23日(火) 中国製ダイエット食品禍

 健康食品として売られていて、それを食べたら病気になった−−。これでは落語のオチにもならない。病気で済めばよいが、死んでしまうみたいなことになれば、これでは<毒>を食べさせられていたことになる。

 亡くなった人の原因の特定化というのは、ある意味で結構難しいところがあるが、このダイエット食品が限りなく<クロ>のように思われ、同時にそれが毒である可能性があるのであれば、疑わしきは罰すという方針をとらざるを得ないだろう。

 しかし、である。中国というのは医食同源の国。それを支えていたのが漢方薬でもある。中国4000年の歴史に支えられた(支えられていたはずの)漢方である。  もともと漢方処方というのは、今までの概念だと、<ホメオタシス>を維持しそれを増進させるというようなところがあったように思う。だから、じわっと効くし、(化学薬品と比べると)飲みつづけても他に悪い影響が出にくい、というイメージもあった。気を癒して、体を直す、みたいなこと。まさに中国の叡智、東洋の生に対する深い見識。

 しかし、今回の中国製ダイエット食品禍がこれだけ拡がってくると、下手をすると漢方薬全体に悪いイメージが付着しないとも限らない。単なる怪しいモノで済ませられればまだ良いが、悪いヤツが悪用しかねない、という危険と隣り合わせに置かれている、というところもあるからタチが悪い。
 既に、いくつかのダイエット食品から、原発性肺高血圧症(心臓と肺の移植などが必要になる難病)や心臓弁の異常を引き起こすとされるフェンフルラミンや、健康な人が飲むと脂肪ではなく筋肉を落としてしまうような甲状腺ホルモンなどが、一部検出されていたりもする。

 考えれば考えるほど、この医食同源とか、漢方薬とかのコンテクストで、今回の中国製食品を捉えると大間違いする、ということが私たちにとって大きな教訓になる。

 これは、最近のいくつかの事象とも関連する。基準値の180倍もの高濃度残留農薬つきホウレンソウも、中国からの輸入品だ。売られた後で発覚する、というのが今回のダイエット食品と共通している。
 もうひとつ、似たケースが中国産<鰻>である。中国産鰻から、日本で禁止されている抗生物質が4月に発見され、検査体制が強化された。現在鰻輸入業者はこれを嫌って、中国産から台湾産にシフトをかけたそうだが、結果として土用の鰻の値段がアップしたというオマケがついた。

 この3つのこと、何か共通するものが感じられる。人が食べる食品を作り育成するにあたって、対処療法的化学薬品を用いるような概念がもちこまれていることである。
 肥料でいえば、有機肥料ではなくて、化学肥料を使うようなこと。自然の摂理に逆らうような農薬を、少しならまだしも、大量に使ってしまうようなこと。(これは、日本では今本当の野菜の旨さを求めて、有機栽培に走るところも増えてきている点とは正反対である。)

 そこに、目先の儲けの概念が入り込みすぎていないか、という危惧もある。全く異なる考え方と倫理観が同居していることの混乱もあるに違いないが、そのような時期にこそ、その混乱の中に<危険な歪み>が発生し、その歪みをすり抜けて、まさに<毒>すら生み出す連中も輩出してしまう。
 あれだけの人口を抱える国である。大都市部と農村部の経済的落差の指摘もされる。対外的には開放経済策をとりながら、国内では都市部への人口流入を抑制していたりもする。
 
 たまたま、今朝の日経には、中国インターネット情報センターが発表したネット利用者数が6月末時点で4580万人、人口の3.6%であったことが報じられていた。普及率4%に達してもいなくて、これだけの利用人口がある。利用者数としては、米国・日本に次ぐことになるらしい。
 日本のネット利用者は、昨年末時点で5590万人だが、普及率は既に44%に達している。中国のネット普及率が、現在の2倍にあたる7%になるには、あまり時間を要しないであろうことを考えれば、また同時に日本のネット普及率というのは、簡単に2倍にはならないであろうことを考えれば、中国のネット人口は、すぐに日本を上回ることになる。中国の場合、恐らく1年かかるかかからないかくらいで、その程度の普及率に達していくことも考えられるし、その数量的な拡大スピードの中にこそ、新しい<市場>が存在しているという意味を含んでいることに他ならない。

 インターネットに限らず、様々な商品やサービス・カテゴリーにおいて、中国の新しい市場へ参入するところも増大している。この参入において、異なる文化や価値観を持つ国からも数多くの参入がある。
 このような環境の中で、旧来の中華思想だけではない概念が、他の国の人間には想像がつかないほど中国に流入してきているのではないか、と見ることもできる。新旧、東西の概念が錯綜するのはやむを得ないにしても、その概念の錯綜・混乱が様々な歪みを大きくしてしまう。その歪みは、ややもするとアキレス腱になりかねない。

 歪みから往々にして生まれる毒素、それは人の心にきたり、脳にきたりすると、一層危なくなってしまう。
 


2002年07月21日(日) 水撒き


 熱気でむっとするほどの空気。
 昨日ほど陽射しは強くないものの、それでも空気と道路や塀などが熱を持っている。

 夜、家に戻ってもエアコンの効き方が今ひとつ。
 午後10時30分頃から、玄関に近いところと猫の額のような庭に水を撒く。

 水道の水は生ぬるいが、それでも熱を持った道路やブロック塀などに水をかけていると、少し涼しい感じがしてはくる。木の葉から水滴が滴っているだけでも、少し目に涼しい。
 しかし、水を撒き終わったら、急に汗が噴出してくる。

 やはり湿度が高く、本格的な夏には至っていないようだ。


2002年07月17日(水) 日比谷:スタバ(insted of Beer)・ガーデン !?


 朝から蒸し暑い。昼、食事に出ようとしたら雨になる。
 食事が終わって、外へ出たら既にほとんど雨は止んでいた。少し温度は下がったような気配だが、それでもまだ蒸し暑い。

  ***

 夕方近く、新橋駅から日比谷シティまで歩く。

 日比谷シティの、ちょうど広場になったようなスペースは、夏の時期必ずビア・ガーデンに変わる。時間がまだ早いせいか、客はほどんどその席に座っていないが、端の方のテーブルが3つほど埋まっている。
 人によっては、昼間からビールが飲めて幸せそうにみえるかもしれない。

 しかし−−。
 よくよく見ると、スターバックスのコーヒーを飲んでいる人たちだった。

 ビルの1Fにある、スタバの店内と少し外にはみ出した席ではなく、数多く置かれたビア・ガーデンの席が、スタバの席になっている。ここならタバコも吸えて、いいかもしれない、などとも思ったり。


2002年07月16日(火) 台風一過


 先週に引き続き、今週もまた台風が関東の南側をすり抜けていった。
 幸いにも2回とも進行方向に向かって左側で、さほど大きな被害は出なかったようだ。7月上旬にこれだけやってくるというのも珍しい。

 今回の台風の関東近辺通過速度は時速65km。かなり速い。クルマの少ない高速道路なら、これより速いスピードを出すのは造作もないだろうが、都内でクルマで移動する速度よりもおそらくかなり速い。

 昼食を終えて、店の外に出ると既に通過した後だったような気配。
 通過した後の蒸し暑さ。夜までまだまだこの暑さが続いている。


2002年07月13日(土) 博多祇園山笠<集団山見せ>

 ちょうど、福岡アジア美術館で始まったばかりの北京故宮博物館<黄金の輝き展>と常設展を見終わって、エスカレーターのほうへ足が向いたとき、多くの人が窓側で、下の道路のほうを覗き込んでいました。

 山笠か....と思いながら、美術館を入る前に、博多リバレインの飾り山のところでもらったチラシを見返してみると、午後3時30分から始まる集団山見せでした。
 この下の道路を通るのなら、もう少し早くから見ておくのだった−−とは思いましたが、それでもまだまだ続いていきます。
 十数年ぶりに実際に見る流れです。

 大勢で舁(か)きながら走るので、これがまっすぐに進むとすばらしい速さになるのですが、そうとばかりいえないところが、また面白くもあるところです。見物客のほうに飛び込んで行くような場合もあるようですが。

 山笠には飾り山と舁き山の2種類があるそうで、その昔は飾り山そのものを舁いて走ったようです。ところが、市内電車のケーブルが張り巡らされた時期から、背の低い舁き山を担いで走ることになり、それと呼応するかのように、速さを競うダイナミックな祭りに変身していき、今に至っているというようなことも書かれていました。
 
 ちょうど恵比寿流(ながれ)が通る直前、約束していた友人から、少し早いがこれからどうか、という電話が入りました。
 もちろん、恵比寿さまの顔を拝んでから、ホテルに戻ったのは言うまでもありません。

  ***

 舁き山の数は限られているものの、飾り山のほうは、市内のあちこち、とはいえかなり人の多くあつまるようなところになりますが、その倍くらいの数があるようです。東は千代流あるいは博多駅商店会から西の福岡ドームに至るまで、かなりあちこちに点在しています。

 昼食前に新天町とソラリア・プラザの山を、アジア美術館のあるリバレインの山以外に、西中洲で食事の後ホテルへ戻るまでの一時間ほどで、今回は中洲、川端中央街、上川端通などの飾り山と、ホテルのすぐそばにある土井流の舁き山を見ることができました。
 川端中央街の飾り山の見送り(後ろ側)はドラえもん。広い明治通側から、見送りの方のドラえもんが見えるように置かれているのは、やはり商店街の客寄せに機能しているようではありました。

 ただ、後でチェックしてみると、キャナルシティにもある、というようなことまでは考え及びませんでした。それだけ、かつてこの山笠を見た時期と今との隔たりが大きいということを再確認。
 ソラリアにあるなら、キャナルシティにも置かれているはずだ、と思えば見損ねずに済んだのかもしれませんが。

 追い山直前の土曜日の夜の賑わいは、夜更けまで続きます。


2002年07月12日(金) ホテル・エクレール博多

 昨日の深夜、気になっていた台風6号は千葉を通過し、今日は何もなかったような雰囲気の空。次の台風が日本付近に来るまでには、少し時間がかかりそうで、まさに、台風の間隙を突いて飛行機に乗るような感じだ。

 仕事をなんとか片付けて、早めに羽田に着く。安売りチケットなので、当日カウンターで引き換えということになっていた。
 カウンターに着くと、既に搭乗手続きは終わっていて、座席は<14−J>とタイプされている。14といえば、比較的前のほうの席。

 20時過ぎの便なので、福岡空港に着くと22時になってしまい、少し早めの夕食を中華料理の店でとっておく。
 それでも、実際の出発までに40分近く時間が余ることになった。

 早めに手荷物検査をしておこうかとも思ったが、ふとポケットの中のお札を見たら、大きい金額の紙幣しかない。千円紙幣が1〜2枚ないと、いざというときに困るので、お土産のお菓子でも買っておこうかと近くの売店を見ると、これっというものはないが、クローバーのチョコレート・ケーキやチーズ・ケーキを売っている、(まさに)コーナーがあった。
 チーズ・ケーキはいつまでもつか尋ねてみると、15日までというので、これなら十分と思いそれを買っておく。

 ふと気がつくと、そこのコーナーのガラスケース上に、広島行きチケットが置き忘れられている。今ごろ、その本人は大騒ぎしているのではないか、というと、店のオヤジは、「何、気がついてすぐ取りに来ますよ。」と。
 本人は、どこに置き忘れたか、すぐ気がつけばよいのだが。

  ***

 福岡空港から、地下鉄で中洲川端まで。
 道を挟んでホテル・オークラの真向かいにあるホテルなので、オークラの表示を探しながら進むが、ほとんどビル内の店がしまっていて、外へ出るまでに少し時間がかかる。

 やはり九州は暑い。1年前に来た時の夜の雰囲気と似ていて、少し蒸し暑い。

 エクレール博多の部屋は、5Fの角部屋。5Fに着いて、エレベーターから外に出ると、廊下の照明がともるようになっている。角部屋だということは悪くはないが、部屋のキーは、苦手なカード・キー。
 5回ほど入れたり出したりして、緑色のOK表示が点灯して、ほっとする。途中で、鍵を開けるのに手間取っていて、照明が消えてしまった時には少し焦る。

 部屋はシングルなら普通かこころもち広く感じるつくり。窓は残念ながら開かない構造になっている。
 エアコンは、25度に設定すると少し涼しすぎるし、26度にするとどういうわけか暑く感じる。参ったと思いながら、バスルームを換気状態にしてドアを開けて眠ることにする。
 


2002年07月11日(木) 渋谷HMV


 久々に、渋谷のHMVを覗いてみる。
 7Fフロアで、アウトレット・セールをやっている。期間限定か?
 以前のフロア構成からかなり変わったが、それ以上に、このビルの1〜7Fが全てHMVになってしまったのも結構驚きだ。以前は5Fのクラシック・フロアの上には、パソコン専門店が入っていた。

 ところで、セールフロアは、半分くらいを使ってやっているのだろうと思ったら、何のことはない、全フロアを使って、置けるだけ置いてある感じ。
 100円(!)からというのは、ちょっとどうかと思うが、大半が500円。大量にストックがあるアルバムが300円。ごく一部が700円。

 エアコンの効きがあまりよくないので、見ているだけで汗がでてきたりするし、十分整理されていないので、よほど時間的に余裕がないと、探し切れないところもある。JAZZとポップス系を中心にみたものの、クラシックについては、ほとんど探す気力もなかったので、こちらは次回。


2002年07月06日(土) 皐月の盆栽

 高校3年時担任をしてくれていたN先生が、校長になったのを記念してかなり枝ぶりの良い<皐月>を贈ったことがある。有志ということで募ったところ、結構な金額になった。
 今、熊本のほうで幼稚園の理事をやっている同級生が、つてを頼りに、かなり安価でその皐月を譲ってもらったものだ。後で盆栽好きの人に、その皐月の写真を見せたところ、集めた金額の少なくとも2倍くらいのお金を出さないと、それくらいの皐月は手に入らない、ということもわかった。

 今日は午後から、東京で毎年開かれている高校の全体同窓会。そのN先生が恩師ということで出席。
 昨年の退任記念会以来、まだ一年もたっていないのだが、ちょっと様子を見に行くことにした。

 挨拶をしにいったら、今年咲いた皐月の花の写真を頂戴することになった。
 あまり手入れができていないのだが、それでもこれだけの花がついている、と。なかなか見事な花のつき方。

  ***

 その後、二次会の午後5時まで時間があるからということで、今年出席していた同期5人とともに、麻布十番のアジアン・カフェ<モンスーン>へ。
 土曜日の十番、人気の菓子店などは、なかなか賑わっている。


2002年07月05日(金) 再び現代美術館・再び錦糸町、今回は<植むら>の見掛け倒しメニュー

 仕事は早めに切り上げて、ルイス・バラガン展へ行くことにする。
 それでも錦糸町駅に着いたのが、午後7時少し前。バスでのたのた行っていると、7時半近くになってしまいそうだったので、タクシーに乗り込むと、10分もかからずに着く。

 帰りは、ほとんど錦糸町行きのバスに待たずに乗ることができた。
 駅ビルの中のレストラン街で食事をすることにして、ぐるっとレストランのフロアを回ると<植むら>がある。しかも、植むらにしては、なかなか安価である。

 これは入ってみる価値はありそうだと思い、ショーウィンドウの中では、なかなか見かけが良さそうなセットを頼んでみたら、実際はかなり中身は違っていたので、少しがっくりする。
 この値段なら、やはりこんなものか、と。


2002年07月04日(木) 返信メール

 昨日メールを送った友人から、返信が入っていて、3人で会おうということになる。午後、もう一人の友人からもメールが入っていて、良かったら泊まっていけばどうか、とも書かれていて、大変恐縮してしまう。
 夕方、中洲川端の駅に近いホテルをとっていること含め、返信を2人に入れておく。

 久々に、本当に楽しみな福岡行きになりそうだ。

 小児科のM君に電話を入れておく。日曜朝イチなら、会えなくもないという話をしたら、笑ってそれは勘弁してくれと。私でもそれは勘弁して欲しい。
 年に3−4回は東京へ行くので、東京でゆっくり会おうということと、来年の夏、まともなクラス会を企画しようという話をする。


2002年07月03日(水) 福岡行き

 来週末、ほぼ一年ぶりで、福岡へ行くことにする。
 午前〜午後の予定は既に決まっているのだが、土曜日夕方の時間はまだ空いているので、以前東京にも住んでいて、顔を合わせたことのある高校時代同期の友人に、打診のメールを入れておくことにした。

 彼のほうが都合がつかないようなら、少し前に顔を合わせている、小学5年〜中学1年の時の友人M君のほうにでも打診を入れ、担任の先生を担ぎ出して集まる会を急遽やる、ということをまた考えることにはなりそうだ。
 
 西鉄沿線の駅前で、お父さんを継いで小児科をやっているのだが、彼の場合私の思い込みから、一度会い損ねてしまったことがある。

 高校時代、一度だけぶらっと福岡へ遊びに行った折、彼の家にも寄ったことがあったのだが、それ以来ずっとご無沙汰していた。
 たまたま、6〜7年ほど前になるが、仕事で福岡へ行った折、一日有給休暇にして、昔住んでいたところまで行ったことがある。
 
 その病院の前を通りかかって、玄関のブザーを押そうと思って、表札をみたら、その友人の名前ではない。
 てっきりもうその病院を継いでいると思って、友人の名前を看板などに探してみたものの、名前が違うのだ。
 これは、ひょっとしたらひょっとして、継いでいないのかもしれないなどと考えて、ブザーを押さずに引き返してしまったことがあった。

 我々2人の担任だったK先生に電話をして、彼のことを一番に尋ねてみたら、何の事はない、やはりその小児科・内科を継いで、あの場所にいるということだった。ご両親はご健在で、玄関の表札はお父さんの名前がそのままになっているという。
 本人からしてみるとしごくあたり前のことに違いない。しかし、かなり長いブランクのある私には、その友人が継いでいるはずだから、その友人の名前が看板かどこかに書かれていてもいいはずだと思ってしまっていた。

 看板に表示された病院長名の父上は、先年尋ねた折はご健在で、ご挨拶した時には大変元気そうだった。通っていた小学校の校医をされていたことも、よく記憶に残っている。

 ブランクが長すぎると、勝手にその人のストーリーを想像して判断してしまったりする。このときばかりは、やや早計だったなぁと今でも考えたり。

 昨年末、彼から喪中はがきが届いていた。不思議なことに、彼も私も同じ年に父が亡くなったことを、その時知った。


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