日記でもなく、手紙でもなく
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2000年12月29日(金) |
<クァトロ・ルーリオ>今年最後の営業日 |
今朝、御徒町のそば、昭和通り沿いを、たまたまタクシーで通ったら、ディスカウンターの多慶屋は9時過ぎにもう開店していました。 店のそばにお客の姿を多数発見。道路はかなり空いているものの、多慶屋のそばだけは人が集まって混雑しているという感じ。
我が家のそばにあるロジャースなんかでも、今日あたりが特に混むのだろうな、そんなふうにも思ったり。ただ、ロジャースの場合は、本当の意味で年中無休だし、元日からは初売りを兼ねて、福袋(大きな箱入りなので福箱というべきか)を売るので、いつ行っても人が多いといえば多いのですが。
夜は、今年最終営業日となった<クァトロ・ルーリオ>という店で知人と食事をしました。 1年程前、最初にこの店に来た時も北風吹き抜ける頃で、座っていると足元がスースーしてしまい、ちょっと寒い思いをしたのですが、今回はそのへんがなくなっていました。前はもっとBARのような感じで、照明をおとした感じだったように思ったのですが、少し明るい感じに変わったようでもあります。
ピザが相変わらず美味しく食べられるのは、最初の印象と全く変わりませんが、メインのおすすめ料理が、結構洗練された感じもします。そのため、全体での満足感も上がり、とても良い店になってきたようです。 前菜だけが少し限られるようなところもありますが、このクラスの店とすれば、それでも結構頑張っているほうでしょうか。 この時期、ほとんど会社は休みに入り始めていて、あまり客が入っていないのではないかとも思いましたが、2つのテーブルが空席の他は埋まっていました。
たぶん、気軽にふらりと寄るには、なかなかいい店になってきたように感じた年末の日でした。
年末になると、(結局はすぐ散らかってしまうのに)これ、あれ、それをこんなふうに、あんなふうに片づけて、みたいな気分になってくるのはなぜでしょうか。 不思議といえば不思議です。
仕事のほうは、年末にけりがつけられるようなものは、どんどん減っていて、来年も持ち越し、というものが増え、年賀状は25日までに投函のこと、などとも言われるし。 ううん。 それとは別に、正月2日から百貨店がオープンするとか、常態化の典型「コンビニ」様は、ずっと開いてるし−−
そんなこんなが、場合により、年末さっさとかたづけたいというような焦りを生み出したり、反対に、年末年始などはあまり自分とは関係ない気持ちににしてしまったりしてるようにも思います。
ほんのちょっとした気持ちの置き場の違い、それが自分の中にすらあるような感じがするのと同時に、その気持ちの置き場そのものが、なんか変な位置にずれてくる感じとでも言えば良いでしょうか。どっちつかずで、結局いつも終わってしまう、このあまり幸せな感じとは言えない現実。 もちろん、それぞれの気分をたぐっていくと、そういうような気分を持ってしまう、その元になる、自分にとってのモノやことがらの意味みたいなものの「出どころ」が、たぶん違うのだろうとは思ってはいます。
お正月ののんびりした気分も味わいたいと同時に、お正月出かけたときの不便さも結構よくわかっていたりして、その両方をいつも満たそうとしてしまい、結果気持ちの置き方すらずれてきてしまう..... これも、決して幸せなことではないのだろうなと思います。
なかなかうまく言うのは難しいのですが。
あっという間に、2000年の年の瀬を迎えました。 昨年の今ごろは、コンピュータのY2K問題で、本当にどうなるか、わかりませんでしたが、騒いだ割に、ほとんどなにも起こらなかった、というのは、今年全体を通してみても、今年年初に現れた象徴的出来事だったようにも思います。 何か起こっていたら、もっと不幸なことがいろいろ出てきたのではないかと思うと、その意味では「幸」でした。
でも、世紀末最後の年の、最後の月。なんとなく、社会全体が、特に日本の場合、出口のない迷路に入っているような、同じ所をぐるぐる回っているような、そんな感じもします。 そんな時には、本当は少し休んでみる、というのも手なのですけどね。 休んでもっと全体の風景をよく眺めてみる、みたいなこと。。
ちょうど、来年は新世紀初年度。 決して簡単に答は出ないのですが、眺め直してちょっと考えてみる年かもしれません。これからの百年、というのが長すぎるのなら、これからの十年・二十年のことくらい、少し考えてみたいと思います。
そのために、もう一度「しあわせ」を考えないといけないのだろうなぁという気もします。一番自分に近いところからの「しあわせ」。 でも一人だけだといろいろな意味で生きられないので、自分の周囲も含めていくと、本当に難しくなってきますよね。 去年くらいから実は考え始めていますが、私はまだまだ煩悩多くして、このあたりだろうか、というところにも辿り着けないでいるのですけど。
簡単なようで難しく、答があるようでないような――。
21世紀最初の年が、今まで以上に素晴らしい年でありますよう。
京都生まれで、その後あちこちに住み、今住んでるところがもう一番長くなってしまいました。 でも、京都に出かけるなら、ちょうど年末、ぐっと押しつまった頃に行くのが一番好きです。観光客向けではない、普通の京都に住む人にだけ向けられたような、そんな京都の顔が見られるように思うからです。
できるだけ朝早起きして、東山あたりとか、子どもの頃住んでいた場所のそばにあった東福寺とか、そんなところを歩いているだけで、ちょっぴりですが、心の余白みたいなものが取り戻せる−−そんな感じでしょうか。 決してのんびりするというわけではなく、むしろ、かすかな物音も聞き逃さない、木の葉の雫も見逃さない、というような、そこにはある種の緊張感があるのも事実です。
その緊張感というのは、東京の雑踏で人にぶつからないように歩いている時のような、そういう緊張感というものとは、ぜんぜん別なのだろうと思います。東京にいたらあまり使うことのないような神経を、鋭くしてくれる−−、そのような心地良さでしょうか。 だから、時間の流れ方がちょっとゆっくりしてくるような....
東山方面からだと、歩いてもさほどではない、錦の通りへ向かって、その店で作っているだし巻きを求めて並んでいる人を見ると、たぶんそれを買って帰ると、お正月を「迎える」みたいに感じられるんだろうなぁ、というようにも思えてきます。
季節が、普段の日常生活そのものの中に入って、しかも、それを造形したり、様式化できた時に、(手垢がついたコトバで照れくさいのですけど)文化になる、ということが、年末に京都にいくと、街角や路地の風景の中から、手に取るように見えてきます。見えてくるからこそ、続いてきたのだろうなぁ、とも思います。 そのように振舞わないと、何か忘れているような、何か足りないような気持ちになってくる、みたいなこと。その<足りない気持ち>というのがココロ貧しいことだ、ということに気がついてしまえば、もっと気持ちが豊かになれる方法も、その中から見つけられそうではありますが。
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