カラジ風味

2007年05月29日(火) ケロケロ

ゲゴゲゴ 一匹ではないようだ 姿は見たことがない。晩くまで
手を抜かないやつ等だ 騒音というほどではない ほおっておく。
120リットルのポリ容器が庭にある。
あふれんばかりの少し緑がはいった水 ホテイアオイ小さめの葉の
やつが二株浮いている。先週まで取っ手の淵に泡で包まれた彼等の
卵と思われる代物があった。雨が降ると溢れる水はそこにかかる
微妙な傾斜を見切った見事な位置関係だ。蛙だと馬鹿にはできない。
カタツムリがはっている、泡の幾つかが消えた跡が残る。僕は
カタツムリを払い除けた。泡は今はない 僕の心配する事ではないか。
母が死んでやがて二年 彼女はカタツムリが好きではなかったと思う。
この時期 薬をまいた。酌量の余地はない意志は硬かった。
僕は彼女ほど彼等に敵対心がない しかし ユリの花に彼等の姿を
みたときはさすがにショックでした。
ユリ 清楚そんな言葉がぴったりです 
今年はいっぱい咲く よかった!

カタツムリはユリの葉は嫌いなぶるいにはいると思われます。
花の高みまで登っていくのですから偉いものです 立ち居振舞いに
凄みを感じます おそるべしカタツムリ。

アフリカマイマイ砕いてカメにやります
ミミズにマイマイホテイアオイと高プロテインの食材
カメさん、手足伸ばして日向ぼっこ幸せを絵に書いた顔をしています。



2007年05月27日(日) 驚く

久しぶりに書く
25日の朝刊に養老先生の投稿をみつける。丸ごと書いてみるははは。

「石油文明から脱却を」 温暖化は人類全体の問題
国連の「気候変動に関する政府間パネル」の報告書が出て、地球温暖化に
関する記事が増えた。温暖化そのものは、自然界のさまざまの異変を通じ
て、多くの人は身近な問題として気がついているであろう。
たとえば春についていうならば、ここ二年は花冷えがひどく、
虫の出が遅い。箱根では四月に雪が降り、冬の間は白くなかった山が
白くなった。それなら寒冷化だ。そう思う人がいるかもしれない。
そうではなくて、全体として温暖化しているのである。
温暖化すると気候の変化が激しくなる。温度が一〇度高くなれば、
化学反応なら速度が倍になる。フランスではこの春、一部の地方で
ひょうが大量に降った。気温は二十六度だったそうである。
現在の温暖化が人為的かどうか、意見が分かれるところだ。
しかし国連では人為的だという意見が主体を占めた。温暖化自体には
まず疑いの余地がない。それならあとは原因だが、二酸化炭素による
温暖効果以外にいまのところ有効な説明がない。
そこへ今度はアル・ゴアの「不都合な真実」という本が出た。
ゴアはクリントン政権の副大統領だった。ゴアは温暖化は人為的だと
断定する。さらにブッシュ政権が、温暖化は人為的だとみる意見に
検閲を加え、押さえ込んだ事情を暴露した。温暖化問題はアメリカの
政治問題になった。

石油政権
現ブッシュ政権は要するに石油政権である。
ブッシュ家はテキサスの出身で、副大統領のチェイニ−は石油会社の
重役だった。イラク戦争は石油確保のための戦争であって、「テロに
対する正義の戦い」なんて標語にすぎない。私はそう思っている。
ずいぶん都合のいいときに9・11が起きたものだ。そうも思って
いるのである。とはいえ私は、温暖化問題を政治問題にすべきでは
ないと思っている。ブッシュ政権のように、言論を統制するのも
論外である。なぜなら温暖化問題は人類全体の問題であり、誰かに
都合が悪いからといって、事実を隠したりねじ曲げたりすべき性質の
ことではないからである。二酸化炭素についていうなら、アメリカは
世界の四分の一を放出している。次は中国、EU、ロシアの順である。
日本は五%に満たない。その意味では日本がこの問題で具体的に
いくら努力しても、精神運動の域を出ない。国連がいうように
「二〇五〇年までに温室効果ガス排出を半減する」のにいちばん
重要な国々は、すでに挙げたとおりの順序である。
もちろん一人当たりということになれば計算は違ってくる。
でもともあれ地球上のガス全体の問題だから、絶対値は無視できない。
日本が一人頭で五〇年までに半減可能かというなら、私は可能だと
思っている。しかし日本だけでは意味がない。これこそまさに
国際問題なのである。

人はやすきにつく
この問題の根本はアメリカ文明だということは明白である。
アメリカほど石油に強く依存している文明はない。石油に限らない。
高エネルギー消費文明といっていいであろう。それを主として支えたのが
石油だった。その石油が二面から終焉が見えてきた。一つは実際に石油が
なくなるという埋蔵量問題であり、もう一つが二酸化炭素による温暖化
問題である。この二つの問題をどう解決するか、大げさにいうなら、
そこに現代文明の未来がかかっている。ここで代替エネルギーを考える
人もあろう。十分に論じる余裕がないが、それはダメだと私は考えている。
代替エネルギーが現実にないというだけではない。もはや高エネルギー
消費文明を許すべきではない。私はそう思っている。なぜなら、
エネルギー消費は、結局は人間の質を落とすからである。
つい人は「やすきにつく」からである。
自分の身近なものごとを考えてみても、それは明らかであろう。
昔の人が楽にできたことが、今の人にはできない。たとえば、
田舎で暮らせないからと、過疎地ができる。では昔の人はどうして
暮らしていたのか。
いつの時代でも、根本はモノでなく、人なのである。




   


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