おおみち礼治のてくてく日記
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2003年03月30日(日) ●戦争について。自分が出来ること。

 なぜイラクだったのかといえば、イラク自身にアメリカに戦争を仕掛けられるような原因(隙)があったのだな。いくらアメリカでも、理由(名目)もなく他国に攻め入るわけにはいかない。理由なんてどうにでも作る(捏造する)ことができるかもしれないが、たとえば、いまアメリカが日本を攻撃しなくてはならない、皆が納得できそうな理由を作るのは、少なくともイラクを攻撃する理由を作るよりは難しいはずだ。
 現時点で、イラクは、アメリカにとってもっとも攻撃しやすかった国だったといって異論はないと思う。他にも攻撃されそうな国があるけどね。

 9.11とイラクは何の関係もないが、アメリカを今回の戦争に向かわせる元となったのは、9.11だろう。そして、9.11の原因――アメリカが標的とされた原因はアメリカ自身にある。あれだけのことをさせてしまう何か(原因)が、アメリカにはあった。原因もないのにやられることはない。具体的な原因については、置いておく。
 ここで大事なのは、相手にそのような行動をさせてしまった原因が、それぞれの国にあったという点だ。

 戦争という一現象をとらえ、怒ったり哀しんでみてもあまり意味はない。
 自分はどうなのか?
 アメリカはケンカしたかったわけだ。自分はどうか。誰かを(肉体的だけなく精神的に)傷つけてやろうだとか、わざとぶつかったりしていないか。
 イラクは、ケンカをふっかけられてしまったわけだ。自分はどうか。誰かに傷つけられたり、ぶつかってこられたりしていないか。相手につけいらせる隙があるとそうなる。また、自分の内部にあるものが相手を通して現れることがある。

 そうなった自分の原因を理解する。こんなことをしたら(していたら)不自由だと分かったら、まず自分を変える。原因を捨てる。自分が変わればケンカにならない。
 難しいことだが、それをしなかったら、これはもうやっていることがアメリカと同じ。イラクと同じである。そういう人間が戦争反対を唱えても説得力はない。レベルが違う、というかもしれないが、本質的には同じである。

 自分の原因とは、自分の「悪いところ」といっているのではないよ。善悪ではなく、原因。善悪に分けないで、ただ原因を原因としてみる。
 相手にも原因があるだろう。
 しかし、相手のことより自分のこと。相手のことは自分の後でいい。相手を変えるのではなく、自分を変える。相手とは在ってなきがもの、自分の内部にあるものが映し出されているだけである。
 そのように理解していかないかぎり、なにひとつ解決しない。

 戦争に対して、何か自分に出来ることはないかと苛立つ人は多いが、自分に出来ることがあるとするなら、「自分はどうなのか」理解すること。
 自分のことを棚に上げ、他人(外側)のことに口を出して怒ったり哀しんだりし続け、いざ自分の番になったら、同じ事をし出すのでは、意味がないのだ。
 歴史から学ばない、とよく言われるが、このことをいうのである。

 私は戦争賛成ではもちろんないし、反対でもない。どっちつかずでもない。
 物事には表と裏があり、裏の方が遙かに大きい影響力を持つということを考えるならば、表に現れた戦争という現象に反対すればいいというものでもないことが見えてくる。
 だから、まずは自分のこと。
 できることは自分のことだけだ。それでいいのだし、そうすることで初めて(戦争だけでなく、さまざまな現象の)意味を見いだせるように思う。


2003年03月27日(木) ●反戦について●自分について

 以前は、アメリカの戦争体質(?)について、ずいぶん批判的なことをいったけれども、反戦ムードが高まってくると、今度は逆のことを言いたくなる。(笑)
 いや、決して天の邪鬼なわけではなく――たとえば、壁にかけてある絵が右に傾いていたら左に戻し、左に傾いていたら右に戻したくなる感覚と同じと思っていただきたい。
 戦争が右とすれば、反戦、もしくは平和運動が左ということになろうか。
 どちらも中心ではありません。
 本当に、戦争がいやな人は、反戦運動もしません。普通に生活し、自分の役割(仕事)をきちんとこなしながら、日々の生活を楽しんでいます。
 戦争も反戦も、何かに対して戦っているという点では同じ。だから、反戦活動をするような人が、戦争を起こしたりする。
 ちょっと考えれば分かるけれども、そのような左右の現象にとらわれず、日々の仕事を坦々とこなしているのと、反戦活動という戦争――アジテーションに踊らされ、ここぞ自分を表現する場であると大使館の前で声を上げるのと、どっちが世の中安定してくるんでしょうーか、という話しだ。
 無抵抗主義を唱える気はないし、イラク戦争を対岸の火事と決め込むわけでもないが、左右どちらに傾いても、それは自然ではない。主義をいうなら、中庸主義、もしくは老子的無為自然を標榜するわたくしとしては、どちらも不自由の極みと感ぜられる。

 アメリカを支持せざるを得ない日本だけれども、中庸主義とは違う、どちらつかずの態度が、その不自由を発生させていることが見えてくる。
 憲法第九条はすばらしい憲法だと思うが、これを貫くならアメリカ軍には出ていってもらい、自衛隊もたとえば災害救助隊に特化するなどして、完全に武装解除するべきだし、いや、やはり自国を守るには軍隊が必要だというなら、九条を放棄し、アメリカに頼るのではない、自国の軍隊を本格的に整備すべきであろう。
 どうしたいのかという、中核となる意識というか、方針、または覚悟が不明瞭なままでいたら、結局、他人に利用されるだけで、自由自在とはほど遠くなってしまう。これは、国レベルだけではなく、個人レベルにおいても同じ事がいえる。
 依存するのは楽だが、不自由も生まれる。自立は自由自在の元だが、覚悟がいる。たとえば、完全に武装解除して他国に攻められたときに――まあ、完全に戦争放棄した国に攻め込む国があったとしても、それは国際社会が許さないだろうから、ずっとされるがままということはないだろうが、一時的な痛み、被害はどうしてもでる。その被害を乗り越える覚悟がいる。
 それでも我々は戦争しない、という覚悟。
 それを政府や社会に求めるのではなく、自分にあるのか確認するのが最初だね。批判するくせに、政府がどうにかしてくれるだろう、役所が対応してくれるだろうと思い込んでいないか。依存心や曖昧な態度は、他でもない自分にあり、その延長線上に政府の対応がある。

 時には批判も必要だろうが、他人のことをとやかくいうだけなのはバランスが悪い。文句を言う相手(事象)が変わるだけで、50年前から言っていることが同じってゆー人っていませんか? それって、その50年の間に進歩があったんでしょうか? なにをしていたんでしょうか?
 他人を批判したところで、自分自身の進化、深化はないことが分かります。では、自分を批判すればいいのかということになるけれども、これも左右であり、批判には変わりないから、あまり意味はない。
 そうではなく、他人を理解する。自分を理解する。これが中心でありましょう。物事を左右(善悪)に分けない。ただ、現象を現象として、ゼロ(中心)の目で見て、そうしていたらどうなるのか、そうしなかったらどうなるのか理解していく。
 これこそ、進化というものです。

 なんか、だんだん論旨が変わってますが(笑)、ついでなので、最近になって20年前――自我が芽生えてからの問いがなんだったのか言葉で理解し、また、その問いに充分答えられるものに出会っていたことが分かったので、そのことについて少し。
 問いというのは、仕事、趣味、恋愛、お金、地位、名誉……さまざまな、価値があるけれども、そのどれか、極端にいってすべて極めたとして、それでなんなの? というものだった。
 その答えというか、自分が求めていたものとは、自分自身の意識を高めていく――進化、ということだった。これがなくては前の話しと繋がらないので、ついでではなく、別の話になってしまうのだけれども。
 そーいうことって、みんな考えないのかな?
 その点よく分からないのだが、たとえば、事業を立ち上げて成功し、お金を稼ぎまくって、女の子にもてまくり、いいものを着て、いいものを食って……だとして、それでなんなの? とは思わないんでしょーか。
 それぞれ価値のあることは分かるのだが、いつかは死ぬからね。現世でどんなに羽振りがよくても、死んだ後、あの世に持っていけるわけでもなく――また、それら現世の権勢など、個人の本質が問われる場では、何ら意味をもたないことが無意識のうちに分かっていたし、現世でのそういう人の本質とは関係のないところで、こいつはどの程度の奴なのかと判断されてしまうことのおかしさにあきれていたりした。
 自分は、今回の人生の中で何をしていけばいいのか――単に職業を選ぶだけのことではなく、どうすれば自分の意識、本質を磨いていけるのか、高めていけるのか分からなくて、自分を見失い、虚無感に覆われ、病気になったところで出会ったものがあった。
 ここでは、それがなんなのか書かないけどね。
 一時は、求めるものは宗教にあるとも考えたが、宗教は似て非なるものだと分かった。私の知りたかったのは、人間の考え出した概念、哲学ではなく、自然法則なのだった。単なる科学法則ではなく、それを含め、現世だけではなくあの世といった多次元的な宇宙全体の成り立ち、絶対的な運行法則とでもいうべきもの。
 なんだそりゃ、って思う?
 そんなことより、お金の方がいいですか?
 それはそれで構わない。ノープロブレム。(笑) それぞれ魂の質が違うし、わたしみたいな人間ばかりだったら、社会は成り立たないからね。いろいろな人、価値があって、はじめて社会が成り立っていくのだから、それでいい。
 世の中の一般的な価値観や概念にひきずられ、社会とは人生とはそんなもの、そうしなくてどうするんだ、という未熟な魂の高圧的かつ揶揄するような態度に萎縮し、問いを置き去りにして、なんとかそれに対応しようと、自分を失っていた若い頃があったのですよ。でも、病気をしたことで、問いと自分の人生を取り戻せた。いや、人生については、取り戻しつつあるといったところだけれども。
 人生なにひとつ悪いことなど起こらない、というのは、意識を高めていく過程で理解したことのひとつだ。考え、概念ではありませんよ。そういう法則があるのですね。そう思えないのは、理解していないだけなのです。

 かっこつけるわけでもないし、どう思われようなどというイヤらしい気持ちもありません。素直に、わたしはそういう奴なんですな。
 自分が分かると、方向性も明確になるので、気持ちが楽です。覚悟は要るけどね。


2003年03月20日(木) ●UO・カスタマイズ終了●戦争



 ウルティマオンライン。
 7*7の敷地でしたが、隙を見て(笑)7*12にしてみました。カスタマイズし、ベンダーも置いて、記念写真(↑)を撮ってみました。ベンダーには、リコスク、マーク、ゲートの他、インビジとエクスプロージョンを置きました。
 ベンダーの給料分くらいは売れて欲しいなぁ。(笑)

 テレビだけでなく、いろんなところで、いろんな人が戦争の話しばかりしている。
 当然といえば当然かもしれないけれども、どーもイライラする。
 ブッシュがどうのフセインがどうのと、揶揄するように、もしくは悲哀を込めて「他者」についてのたまうことに苛立ちを感じる。
 無責任に、今回の戦争をどう思うか、という何の利もないことばかりが語られるからだろう。聞いていると、胸の奥に、もやもやしたものがつかえて「たのむから、他のことを話そうぜ」と言いたくなる。
 どう思うか、ではなく、このことから何を理解したか、が大切だ。話すのなら、そこを話そう。


2003年03月09日(日) ●どうよ?

 今日は、朝からお出かけ。会合なんだけれども、まあ、平均年齢は55歳くらいじゃなかろうか。で、お昼休みに、知り合いのおばさんの友達のおばさん(^^;が、ニヤニヤしながらわしを呼ぶのである。その時点で何を言われるのかだいたい察しがついたけれども、案の定、「あなたと同じくらいの年齢の、そりゃあ気立ての良い子がいるんだけど、どうよ?」という。
 顔も名前も知らないのに、どうよ? と言われても返事のしようがないのだが、別に断る理由もないし、たまに飯食うくらいならいっかなーと思って、「いいっすよ」と答えておいた。
 ただ、それが相手にどのように伝わるのか分からないところが恐いけどね。わし的には、あくまでお友達として、という話しだ。半年くらい前にも、そのおばさんに「どうよ?」と言われたことがあったのだった。その時は、24、5歳の女の子と言っていたと思うのだが、別人だろーか?

 まあ、わしのファンクラブ(ないって)の女性たちが泣かないように(だからないって)したいです。(爆)


2003年03月06日(木) ●ネットショップ●UO・家ゲット!

 栄養補助食品のネットショップを始める、って書いたっけ。
 参考にしようと思い、いろいろな健康食品を販売しているサイトを見てまわったのだが……。ほとんどのサイトが薬事法違反なんじゃないかね。
 健康維持、とは書いて良くても、体力増進とか、特定の病気や部位に効くと書いてはいけないはずだ。<あくまで「食品」であって「薬」ではないから
 疲労回復とさえ書いてはいけないのだからね。特に個人でやっているショップのオーナーは調べてないと思う。
 まずいんじゃないかなぁ。
 役所って、積極的に違反者がないかネットを調べてまわったりするのかね? 違反が分かっても、紙切れを送るだけで終わりなのかもしれない。
 まあ、もう少し調べてみるけど。



 ウルティマオンラインだけど、ぬわーんと、家を「いただいて」しまった!
 生きているといろいろあります。(爆) ホントうれしいです。
 右上がわしで、左下のラマに乗っているのが前の家主です。いまは土台だけして、どうカスタマイズしようかというところ。
 これでわしもやっと一人前のプレイヤーかっ!?(笑)


2003年03月04日(火) ●げ〜む

 FFX-2はプレステドットコムでプレ予約していたんだが、注文するのをやめてしまった。いや、心の中で7980円とやる気を秤にかけたら、7980円の方が重かったのだ。(笑)
 それに、買ってもやっている暇がなさそう。

 UOは、AoSになってからダンジョンで魔法を唱えても暗闇のままというバグにはまってしまい、ぜんぜん狩りが出来ない。しょーがないので、生産キャラでしこしこと書写中。
 UOを始めたのは去年の10月だけれども、つい最近始めたばかりの人がGMになっているのをみるのは珍しくない。みんなやりまくってるんですねぇ。わしはちんたらやっているので、またひとつもGMなし。
 家を手に入れるのはいつになることやら……。(^^;


2003年03月02日(日) ●いろいろ咲いてます





 春やねぇ。


2003年03月01日(土) ●誤字の訂正●自分が何をしているのか分からない奴、とは

 某冊子に掲載された原稿の誤字について、やっと今日手紙ががあり、ポスターくらいの大きさの「誤字のお詫びと訂正」の紙が入っていた。これを配送先すべてに送るという。それと、達筆なお詫びの手紙。
 ゆるす。(笑)
 しかし、でかすぎてちょっと恥ずかしいくらいだ。<お詫びと訂正

 人に迷惑をかけてはならない、というのはそうなんだけど、若いころはそれが行き過ぎて他人のために自分を犠牲にしていたところがある。嫌なものを嫌といえず、へらへら笑いながら、人の機嫌をとっていた。
 ジコチューも考えものだが、自分を失って人を中心にしたタニンチュー(造語)もおかしい。ジコチューは他人に迷惑だが、タニンチューは自分に迷惑をかけている。これは大変なことだ。一刻も早く自分自身を取り戻さなくては、そのうち倒れてしまう。わしは過去、倒れた。これもまた必然。
 もうひとつ、最近は変な人が多いから――つい先日、堺市の病院にクレームを付けに来た男に看護婦さんが殺されてしまった事件があったけれども、ああいう男のような、自分が何をしているのか分からない奴がいっぱいいるので、どんなに自分に正統性があることでも、クレームを付けた途端、逆切れされて揉めたら嫌だな、と考えて、(誤字の指摘を)やめておこうかとも一瞬、思ったのだが言ってよかった。まあ、考えすぎなんだけど。

 自分が何をしているのか分からない奴――というのは、自分がそうしていたら、当然そのようになる、という当たり前のことが理解できない人と言い換えてもいいかもしれない。理解できないから、自分のしたことで出た結果が、自分の都合に合わないと他人のせいにして怒り出す。
 たとえば(なんでもいいんだけど)野球で、ヒットを打ってわけもわからず三塁ベースに走っていったらアウトになったので、ぶち切れて怒り出す、というようなもの。
 ルール――というのは、人間が作り出したルールもそうだが、それより前に、そうなって当たり前という法則がある。引力の法則から、不潔にしていたら異性に嫌われるということまで然り。
 レベルの違いはあるにせよ、法則の無理解は誰にでもあることだから、あまり偉そうも言えない。自分の都合に合わないことが起きたら、それは自分のやり方が間違っていたのだ。いや、間違っていたというより、そのような結果が出て当たり前というやり方(生き方)を自分がしていたのだ。もしくは、そうなったからこそよかったのである。
 近視眼的な善悪や成功失敗がどうのこうのではなく、それらすべてを包み込んで、それでいい、のですね。


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