Ship Building 船 を 建 て る

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2024年10月30日(水):葬儀
前日は雨だったけれど、なんとか晴れ間が覗く。
お風呂が大好きだった母が、雨で家のまわりを洗い流してくれたのかもしれない。

昼前に葬儀が終わり、火葬場へ。
昼食が出たけど、とても食べる気にはなれなかった。
こうしている間にも、母は燃えているのだから。
母の身体が、煙と灰になっていく。
まだ、抱きかかえた時の母の体温や感触が、手に残っている気がするのに。

収骨室へ入ると、灰になった母が運ばれてきた。
母の骨は小さく砕かれ、壺に収められていく。

母は、小さな箱になって、実家へ戻ってきた。
初七日法要にて、みんなでお経を上げた。
阿弥陀様は、母を無事に浄土へ導いてくださったろうか。
母が生前のように迷子になっていたら、どうか手を引いてあげてください。

お母さん…仏様になっても、ウチらをずっと見守っていてください。

2024年10月29日(火):夜伽
実家は会社をやってるから、断ってもやっぱり会社関係の花や弔問客は来てしまう。
大きな会社の会長さん、社長さん。
会計士の先生。
香典は全て辞退したけど、せめてお花だけは、ってなっちゃうよね。
お通夜の時間に都合が悪い方は、日中に。移動が間に合わない方もいた。
それでも、お通夜が終わってお坊さんが帰られると、家がまた静かになった。

2024年10月28日(月):湯灌と死化粧
葬儀屋に連絡すると、夜中だというのに家の中は慌ただしくなった。
あれこれ打ち合わせて、自宅での家族葬となった。
冷たくなった母をベッドから下ろし、仏間に敷いた布団に寝かせた。
仏間のクーラーを全開にし、布団の中にはドライアイス。
昼間、母が傷まないように。

昼間は湯灌師さんが来てくれて、母を清めて化粧してくれた。
黄疸で黄色かった肌を、生前のように白い肌に変えてくれたのもあり、母はすごく綺麗になった。
ますます、目を覚ましてくれそうなほどに。
しかし、母はそのまま棺へ収められた。ドライアイスとともに。
寒いかな、冷たいかな。
でももう痛くないね、苦しくないね。
これからはもう何も我慢しなくていいんだよ。

通夜は29日、葬儀は30日に決まった。

2024年10月27日(日):永遠の眠り
母の目が開きっぱなしになっているので、目薬を点眼。
3時間おきにオムツをチェックして、口腔ケアと水分補給。
チェックの合間に掃除、洗濯、食事を取って洗い物…母が頻回に起き上がらなくなって、皮肉にも時間とこころに余裕ができた。
(別記予定だから端折るけど、金曜から猫と父親の面倒は見ないことになった)

この日は選挙の日だった、今更余裕ができても、投票には行けない。
自宅のある街の役所に申請書を送って投票用紙を実家へ送ってもらわないと、実家から投票ができないからだ。
母の看病が片時も目を離せないくらいの状況下で日中はワンオペ介護、夜は薬でダウンしてるのに申請書をプリントアウトして郵便出す余裕なんてあるわけなく。
今回の選挙は諦めた。

22時半を過ぎて、選挙速報が流れる中、持病の薬を飲んでウトウトしていたら…弟が家へ飛び込んできた。
監視カメラに映る母の映像に違和感を感じたとのこと。
「…お母さん、息してない」
弟はすぐさま胸元に耳を当てたが、心音が聞こえないと言う。
お嫁さんが聴診器を持ち出して聴いてみたが、やはり心音がないとのこと。

母のいのちの火は、ウチらが少し目を離している間に、燃え尽きてしまっていた。

ほんの30分ほど前まで聞こえていた母の息遣いは決して静かではなく、ともすればしんどそうだったけれど、不思議と眉間にしわはなかった。
入れ歯を入れてあげると、そのまま目を覚まして起き上がってくれそうな顔だった。
しかし、トイレやオムツ替えの際に抱きかかえると温かかった身体は、もう冷えはじめていた。

22時57分、医師が死亡を確認した。

2024年10月26日(土):起き上がれなくなってきた
母が食事を取らなくなって1週間。
スポンジブラシで口腔ケアをする際に少し水を含ませてあげてる程度だったけど、トイレは何度も。
そんな母だったけれど、いよいよ起き上がる力がなくなってきたのか、足だけをパタパタと動かすようになった。
足が動いている時はオムツに用を足している。
実際に、ポータブルトイレに連れて行こうとしても、自力で立てなくなっているのか、以前よりかなり重い。
姉貴では抱きかかえるのは無理だと思う、と弟が言っていた。
そして、だんだんと、介護内容はオムツ交換がメインになってきた。
腹水がたくさん溜まっていたお腹は、いつの間にか随分と小さくなっている。
恒例だった酸素マスク外しも、今日はしなかった。
できなかった、が正解なのかもしれない。

2024年10月20日(日):散髪
髪が長いとどうしても酸素チューブが耳にかけづらく、顔から外れやすくなる。
母も不快らしく、チューブを外してしまう。
酸欠になるから外されないように酸素マスクに変えたけど、今度は吐く息で蒸れるのかやっぱり外してしまう。

困った末、弟は知り合いの美容室へ訪問散髪サービスを依頼した。
母は寝たきりだが、ベッドを起こして背中に枕を入れてくれれば散髪できるとのことで、やってもらうことにした。
母とは土曜以来意思の疎通が困難な状態だが、髪を切ってもらえる旨を話しかけたところ、最後までじっと座り続けてくれた。
髪を切り終えた母は、これまでにないくらい短いショートヘアになった。
…水前寺清子にちょっと似てる。
起き上がったままだったのが疲れたのか、その後母は寝てしまった。

夜中はまた、起き上がる、横になるを繰り返した。
絶対にオムツに用を足したくないらしく、気合いで起き上がる。
教えてもらってウチひとりでも抱っこしてポータブルトイレで用を足してもらうことができるようになったけど、夜中は持病の薬でウチが寝てしまうから、寝ないで介護する弟には本当に申し訳ない。

2024年10月19日(土):せん妄
母が夜中に起き出したので、弟がトイレに連れて行ったが、なんだか様子がおかしい。
黄疸がひどいので退院前から濃いオレンジ色のビリルビン尿が出ていたのは確かだけど、今回のは茶色だ。恐ろしい色をしている。
血尿の経験がある弟に言わせると、血尿とは色が違うとのこと。
その後も母は起き上がる、横になるを繰り返し、全く落ち着かなくなった。
弟が話しかけても反応がない。
その後も起きる、横になるを繰り返す理由がわからなかったけれど、トイレに連れて行ったら落ち着いた。
しかし、また時間が経つと起き上がる、疲れて横になるのを繰り返す。
ベッドの手すりに頭を打ちつけそうで目が離せない。

やむなく、訪問看護の方へ緊急連絡し、ポータブルトイレをお借りした。
トイレまで連れていくよりもだいぶ楽になった。
なぜこんなことになったのか…?
…心当たりがあるのは、あのテープだ。
弟が調べたところ、肝不全腎不全の人には禁忌に等しいと…
ごめんねお母さん、そんな大変なものだって知ってたら、処方断ったのに…
医師に連絡してテープを剥がしたけど、母の奇行はおさまらない。
結局テープは貼り直すことになった。

この日から1週間、弟は夜ほとんど寝ないで母の看病を続けた。

2024年10月18日(金):医療用麻薬
今日は髪を洗ってもらった。
さっぱりしたみたいで、嬉しそうだった。

午後の往診で、痛みがひどい件について相談したところ、鎮痛薬を内服するとまた胃に穴が開いてしまうからとテープタイプの鎮痛薬が2種類処方された。

そのうちひとつは、医療用麻薬だった。

テープの効果が出るまでしばらくかかります、と言われたので、薬局から戻ったらすぐに貼った。
母親はそのまま昼寝した。
その間に、ウチは植木に水をやり、猫を病院へ連れて行った。

弟が晩ごはんに山芋をおろしたものを蒸してくれて、食べてもらったんだけど、また全部吐いてしまった。
だいぶ胃腸が弱ってるみたい。
母は、寝るわ、と横になった。

…母とまともに会話できたのは、これが最後になった。

2024年10月17日(木):入浴
昼間は母とまたおしゃべりをした。
頼まれごともあったけど、猫を病院へ連れて行ってほしい、植木に水をやってほしい、銀行の残高大丈夫かな、郵便局へ行って保険の手続きとか、生命保険会社にも連絡が要るとか、自分のことより家のことの方が多くて、それってウチじゃなきゃあかんか?って感じの話が多かったかな。
痛いところをさすってほしいとか、そういうのじゃなくて、なんか、母らしいなぁとも思ったけど…

午後は訪問看護の看護師さんたちが、母をお風呂に入れてくれた。
母はとても嬉しそうだった。
ずっとお風呂に入りたかったらしい。
母は入院前まで、毎日欠かさずお風呂に入ってたしね…お風呂に浸かると身体が楽になるって。
体調の都合で短時間しか入れなかったけど、それでもお風呂の後は4時間くらい寝られたみたい。
痛みがあって夜寝られないって言ってたから、長めに寝られたのはよかった。

夜、梅干し食べたいって言ったから食べさせてあげたら吐いちゃった。
黄疸出てるし、肝不全腎不全寸前だから、塩分良くないってわかってるんだけど、どうしてもって話だから、食べてもらったんだけど…。
吐いたのは本人もちょっとショックだったみたい。

2024年10月16日(水):退院日
母は、3週間の入院の末、歩けないのに退院しろと言われてしまった。
三次救急なので、病床を空けたいのだと思われる。
そこで、ホスピスか自宅かを選択させられることになった。
死ぬ気がない母だったが、いよいよ余命が残っていないことを実感したらしい。
自宅がいいと、弟に伝えた。
弟は、それを叶えてあげることにした。
退院と同時に、在宅医療が始まる。

酸素ボンベが必要な状態になってしまった母と、一緒に介護タクシーに乗った。
道中、いろんな話をした。
電気もガスも止まっている駅前ビルに一人だけ入居者が残っているから駅前の再開発が進まないこととか、帰ったらお風呂に入りたいとか、髪が切りたいとか、猫を病院に連れて行ってほしいとか、そういうな何気ないこと。
母と長くおしゃべりしたのは久しぶりだった。

自宅に着き、母を介護ベッドへ移し、酸素ボンベから酸素濃縮装置にチューブを繋ぎかえた。
午後からは訪問看護サービスの方や、在宅医療サービスの医師がやってきた。
自宅に戻った母は、とても嬉しそうだった。
「やっぱ家がええわ」
なんとか自力でつかまり立ちできてるから、元気を取り戻して歩行の練習できたらいいなって思った。
ゆるやかに、介護初日が終わった。

カクテル music by kalas