ヤグネットの毎日
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2003年04月30日(水) |
永い間のご愛読に感謝~休筆のお知らせ~ |
4月27日投票の市会議員選挙では、僕の後継候補をはじめ現職議員まで落選させてしまうという、重大な結果を生み出してしまった。支持者をはじめ有権者のみなさんに、またまた率直にお詫びしなければならない。総括はこれからすすめていくことになるが、有権者と日常的に深く、広くむすびつく活動を抜本的に強め党の路線や政策、候補者そのものの人柄などを伝える努力を継続させることが何よりも大切だろう。
昨日、久しぶりに家族サービスで映画を観にいった。時間待ちで大型スーパーの中庭のベンチに座ると、ポカポカとした陽に照らされて、なんともいえぬ落ち着いた時間が流れる。こんなゆっくりとした気分は、久しぶりのことだった。選挙では重大な結果となったけれど、いまは充電をすべき期間としていろいろなことをゆっくりと考えるときなのかもしれない。
当面、これからの生きる糧のことを考えなければいけない。
5月はGWに加え、岐阜の実家の田植えの作業などがある。農作業で体を動かし、土の匂いをかぎながら、ゆっくり考えるのもいいかもしれない。同世代の人たちは、サラリーマンや自営業で毎日を必死に生き抜いている。そういう人たちには、「なにを悠長なことを」とお叱りを受けるかもしれないが、35才という人生のターニングポイントで、じっくりこれまでの自分とこれからの自分を思い描いてみたい。
この日記「ヤグネットの日記 議員として父親として」は、しばらくの間、休筆とさせていただきたい。父親としての自分には変わりはないが、議員バッチがはずれた以上、このタイトルで続けるわけにはいかない。再開するのがいつになるのかは、お約束できないが、再開する時は、同じタイトルで必ず登場したいと考えている。
加えて、公式サイトも今日をもって、いったん閉鎖とさせていただきたい。メルマガの発行がずっと滞ってしまっていたので、今日付けで最終号を発行する予定だ。もうすぐアクセス数が20000件をヒットするのに、若干の心残りはあるが、けじめが必要である。機会に恵まれれば、必ず再開させることをお約束したい。
なお、元来、なまけものの僕が、2001年の7月以来、ほぼ毎日、日記の更新をできたのはなぜか?長続きのコツは?などの質問を受けたことがあるので、このさいお答えしておきたい。 僕の妻は、子どもが寝ている間に仕事をこなすために、毎日3時、4時に起きて仕事をしている。その妻に4時、5時に起こされ「叱咤激励」をうけながら眠い目をこすりつつ綴りつづけたというのが、実際だ。 妻の力がなければ、これほど永い間、書き続けることは間違いなく、できなかった。この場を借りて、心から感謝したい。 ありがとう、「お母ちゃん」。
永い間、ご愛読いただき、本当にありがとうございました。 また、逢う日までさようなら。
狭い地域に29台もの選挙カーがひしめきあう。名前を浸透させるために、「○○、○○でございます。みなさんのお役にたたせてください!」との名前の連呼がいまも主流となっている。 ぼくは、可能な限り、車から降りて、待ちの辻々で3~5分のミニ演説をこなすようにした。「聞いているひとは、限られているから名前の連呼を」という支援者もいたが、頑固にこのスタイルを貫いた。
ノロノロと動く選挙カーの後ろについてしまった車は、本当に迷惑なことだ。僕は、つねに後ろを気にして、可能なかぎり後続の車を先に行かせる努力をしたが。。。。
それでも、落選するものは落選する。 自分の力不足の言い訳に書くわけではないが、いまの公職選挙法では、結局、名前の連呼しかやることができなくさせられているのが現状だ。 立ち会い演説会の廃止からはじまり、候補者名を記入したちらしの配布は、告示されたら禁止される。各戸訪問も選挙になったら禁止される、インターネットのホームページも、告示後は更新すらできない。 これで、どうやって候補者の人物像、政策を有権者に届けることができるのか?
夜勤明けなどで、寝ている人、病気で床に臥せている人などが名前の連呼を聞かされることの「苦痛」は想像するに余り有る。 選挙とは、どうあるべきか。このことを国民的な議論を深め、多様な活動をもう一度保障させるような、国民の側からの運動こそが必要ではないだろうか?
ぽかぽか陽気の日中。陽だまりがうれしく、「ずっとこのままで」と思うも、陽だまりは僕ひとりだけにあるわけではない。。。かなわぬ願いとせわしい現実に戻る。 スーツを脱いでバタバタと活動する。思えば、スーツを脱いで普段着で外にでるなど、何ヶ月ぶりだったろう。。。この期間に、大変不謹慎かもしれないが、妙な開放感があふれてひとりでニヤリとしてしまった。(汗;)
朝、保育園に息子を送っていったとき、なかなか離れなかった。ギュっとだっこしたまま。(をぃ!4才なのに、まだだっこかぃ。。。) 「どしたの?」と耳もとで聞いてあげると、「お父ちゃん。。。」といったまま。思えば、ずっとバタバタした毎日が続いている。夜もあんまり遊んであげられていない。ひとりで遊ぶことがおおい日ばかりだ。 淋しいんだね。そう思って、ギューっと抱きしめてあげた。
これまでのような収入を得る生活ではなくなり、波間をただようような不安にかられることもあるけれど、こいつに淋しい思いをさせてはならない。 どんな状況にあろうとも、自分らしく生きていこう。そう、思った。 夕方、お迎えにいったとき、息子を肩車しながら帰った。息子をもちあげるときに、夕焼けの空が目に飛び込んできた。 なぜだか、急に懐かしさがこみあげる。どうしてるんだろう。。。 いろんな雲のバリエーションも見る事ができた。息子に「きれいな夕焼けだね~」と声をかける。「そうだね~」の答えを期待したが、かえってきたのは、「早く帰って、ホットケーキ食べたいよ。。。だった。(爆)
スーツを脱いだ。バッチも外れた。さぁ、素っピンの自分が試される。
2003年04月22日(火) |
あっという間に一日が |
とにかく、あっという間に一日が過ぎてゆく。 いろんなことをやりきるためには、段取りとエネルギーが必要だ。
議員になる前は、1時までとか、徹夜して仕事をやりきったりとかしていた。また、そういう生活に戻りそうな感じ。(汗;)家路についたら、1時半だった。 明日から、スーツも脱いで普段着でバリバリ裏方の仕事をするぞ。。
今日は、あまり書くことがないので、(っていうかありすぎるので)これで、おしまい。
2003年04月21日(月) |
キラキラとした瞳で「リベンジ」 |
大激戦の幕開けは雨。たしか、4月4日も雨だったような。。。 市会の選挙。僕は、届け出係。とにかく立候補の届け出の書類というのは、煩雑である。いくらでも簡略化できると思うのだが、膨大な書類に候補者の名前を記載していくことになる。僕の選挙もスタッフのみなさんは、こういう細かい実務をこなしていただいたんだな、と思うとあらためて頭が下げる思いがした。
くじ引きで、届け出の順番をきめる時には、なぜか心臓がドキドキしてしまった(笑) 狭い地域に29台の選挙カーが所狭しと走りまわる。知恵とハートと体力勝負がはじまった!
夜、僕の選挙のときに、「銀輪作戦」や「お迎え宣伝」で一緒にたたかってくれた青年たちの会合にゲストでよばれた。この日も近鉄大久保駅で、イラク戦争に関する宣伝とシール投票をやってきたそうだ。僕は、若々しい力で自分のことのようにたたかってくれた若いみんなに、心からお礼を述べるとともに、「議員の仕事って何だろう?」というテーマで短くお話をさせていただいた。 僕は、四年間の短い議員活動のなかで、議員とは、行政の提案へのイエスマンであってはだめ。住民の声を議会を通じて行政に届けること、そして行政の意思とは相反していても、住民の運動と力をあわせて実現するまで頑張り抜く事が大切であること、などなどをお話をさせてもらった。 そのあと、短時間だけれど、一言ずつみんなで感想などをだしあった。 「自分がなぜ共産党の議員さんに当選してもらいたいのか。自分の気持を大切にしてお話をしたら、相手がうんうんと話をきいてくれた。だから、自分の気持を素直に話しすることが大切だということを学んだ」という趣旨の感想がだされた。とても大切な事だと思う。政治とは、結局、人の心と心のむすびあいであり、そのむすびあいを阻むものをみんなの合意で取り除いたり、よりむすびあうための新たな方法を考えあうことではないのだろうか?そんなことを考えた。 それから、「前半戦(府議選での僕の落選)へのリベンジを後半の市会議員選挙ではらしたい」という声もだされた。キラキラした瞳で「リベンジ」という言葉をきいて、「若いっていいなぁ。自分の中で、いまのいままで『リベンジ』という言葉さえ、忘れていた。若者の未来のために、これからの自分をもっと大切に考えなあかんなぁ」と思った。
正直、まだ心は癒されていない。 体がしんどい面もあるし、まだ自分のなかでちゃんと心の整理がついていないこともある。自分のことよりも、落選したことで、悲しい思いや落胆をさせてしまった方たちが、こんなに多かったのか、とその責任の重さがいまごろになって、ずしんと迫ってくる感じだ。 でも、いまは、走り続けている。前半戦以上の激烈なたたかいが繰り広げられているから。 そのあとで、ゆっくりと、ゆっくりといろんなことを考えていきたい。
2003年04月20日(日) |
選挙にいかなかった人の気持をぜひ |
いよいよ、20日から城陽市会議員選挙がはじまる。僕も、後継者となる方の支援のために、全力をあげてたたかう。 投票率も府議選と異なり、グンとアップする市議選。やはり身近な選挙だからだろう。 しかし、それでも6割に達するのは至難の業。つねに4~5割の有権者は選挙自体にいかないのだ。理由はいろいろあるだろう。僕たちにとっても、不十分さはつねにある。だが、ぼくは投票にいかない人たちの気持をぜひ、知りたいと思う。そして、なぜ?どうすれば?をゆっくりと話しができれば、と考えている。僕のサイトの掲示板にでも、ぜひ書き込みをしていただければ、ありがたい。
ネットのニュースを検索していたら、毎日新聞が大要こんな記事を配信していた。
「お母さんと寝たい」。ジェラーちゃん(3)は夜になるとだだをこねて、祖母を困らせる。復旧しない電気の代わりに灯されたろうそくの下で、ぼろぼろ涙をこぼし始める。母はバグダッドを襲った空爆で亡くなった。姉(12)と妹(1)も同時に犠牲になり、4姉妹のうち2人が残された。
夜になると、「ママー、ママー」といって泣叫ぶという。亡くなった母親は夫との離婚後、大黒柱として家族を養っていた。復興はすすむのだろう。しかし、失われた母親の命と、母を求めて泣叫ぶ子どもたちの心の悲しみは、果たして、復興することはない。やりきれない。この怒りと悲しみは、誰に、どうやってぶつけ、おさめたらいいのだ。
いっせい地方選挙後半戦、城陽市会議員選挙が4月20日告示、27日投票で行われる。僕の後継として出馬する、加藤春生さんをはじめ7人の党候補全員の当選にむけて、自分の選挙以上にたたかう決意を固めている。そんなわけで、18日は朝からJR城陽駅に加藤春生さんとともに立つ。ハンドマイクの電池が切れていたので買いに入った近所のコンビニのご主人がねぎらいの言葉をかけてくださった。詳しくは、いろいろと差し障りがあるので控えるが、「市民はよくみているから、落胆せずにさらなる飛躍を」と激励をしてくださった。あまりにもあたかい言葉だったので、言葉につまってしまい、「ありがとうございました。。。」と頭を下げるのが精一杯だった。
午前中は、加藤事務所で会議。お昼は、保育運動連絡会の仕事で、公立保育園のある保護者の方とともに市役所へ相談に。自分にはこうした保育運動で、若いお父さんお母さんたちとの「手つなぎ」を広げていく活動が一番似合っているかもしれない。いちばん自分らしいかも。。。 いま、保育園の役割が高まっている。その保護者の方も別のまちで保育士をやっているのだが、「これからの保育園は働いているお母さんだけではなくて、ストレスが溜ってパチンコにはまってしまっているようなお母さん(あくまで例え)にも、門戸を開いて、『一緒に子どもの成長を考えましょう』と声をかけていくようなことが求められるのでは」と話していた。
午後からは、加藤事務所の様々な準備をこなす。夜は、飯田かおる市議の選挙事務所びらきであいさつ。 その後、加藤事務所にもどって会議。あちこちで、ねぎらいと激励の言葉をかけられる。「まだ、若いのだし。。。」などなど。 どれもが本当にありがたい言葉だ。まずは、後半戦を全力でたたかって、加藤さんとのバトンタッチを成功させ、7人の全員当選にむけて力をつくしたい。それからだ。自分のことは。
2003年04月18日(金) |
横井久美子さんのCD |
無性に音楽が聞きたかった。悲しみと不安が心のホールを螺旋状にかけめぐるときがある。クラッシックもいいけれど、心から泣ける音楽が聴きたかった。僕の場合、それは、まちがいなく「フォークソング」である。音楽センターの時田さんから、「横井久美子35周年記念アルバム」をすすめられていた。(実は、まだ代金を支払ってなかった。。。汗;) 6枚セットのすごいボリューム。横井久美子さんは、1969年にソロデビュー。 以下、ジャケットからの抜粋だ。
国内をはじめ、ベトナム、南アフリカ、ニカラグア、アイルランド等訪問し、世界各地の歌を日本に紹介してきた。ホールコンサートのみならず、「薬害、公害、差別」などの現場にでかけ、音楽家として「歌を必要とする人のもとに歌を届ける」活動を展開し、すでに100万人近い人々の前で歌い続けてきた。…1998年、文化庁芸術家在外研修員として、アイルランドのリマリック大学に留学。以後、毎年夏、アイルランドにてコンサート。
1枚目から順に聴きはじめる。いきなり「戦車は動けない」。1973年12月14日、ベトナム・ハノイのホン・ハ-劇場。すごい臨場感だ。この「戦車は動けない」は、ベトナムに送るM48戦車の前に市民が座り込み、戦車を阻止したときを歌った曲で、日本とベトナムの連帯を示す歌として歓迎された、そうだ。 横井さんは、アルバムの挨拶でこう述べている。
私の伝えたかった想いは、一つです。私が伝えたかったのは、ただ私が感じたこの世の痛み、悲しみ、怒り、喜びでした。それがたとえ世界の街角の、日本の片隅の、見過ごされてしまうような小さなドラマでも、それが、時代の風に向かって、ひたむきに、けなげに生きた人間の証であれば、私は歌わずにはいらせませんでした。
生きることと歌うことが、一つになっていく。それが、横井久美子さんの音楽人生なのかな、などと偉そうなことを考えた。では、僕にとって、「生きることは、○○○○こと。」こう言えるものは、何だろう。。。一つの人生の区切りに、考え続ける自分がいる。今日も、明日も横井久美子さんの世界でそのことを考えつづけたい。
選挙本番中は、なかなか空を見上げる余裕がなかった。 昨日、大切な友だちに激励をうけ、落ち込みかけていた気持が明るくなった。息子を保育園に迎えにいくときに、久しぶりに空をみあげた。
やわらかい夕焼けが西の空に。透き通ったお月さんが、東の空に。 なんともいえない、贅沢な気持になった。なんてきれいなんだろう。 「きれいだなぁ」と思えた自分が、うれしかった。 公式サイトのBBSに選挙後もカキコをいただいている。 昨日は、下のようなカキコをいただいた。一部をご紹介する。全文は、ぜひ、「ヤグネットの交流の広場」からのぞいてほしい。
一晩で世の中変わるわけないし、1人1人の力は本当に小さいけれど、今度の選挙で矢口さんが私たちに訴え、励ましてくださったことが、必ず次の力になると信じています。人として生まれてきたからには、誰もが豊に幸せに暮らす権利がある、そのために今、何をしなければならないか。やっぱり後半戦での議席をどれだけ確保するかにかかっているでしょう。暮らしと政治は絶対に切り離して考えられないことだと回りの人にお話ししていきたいと思っています。 矢口さんの次の活躍に期待しています。
まだ残っていた桜の花も、昨日ぐらいから慌てて散りはじめた。 4月13日投開票の府会議員選挙。力不足で当選することができなかった。 支援していただいた、みなさん。僕に期待を寄せてくれた「あなた」に、心からお礼とお詫びをしなければいけない。本当に、ごめんなさい。
後半戦が残っているので(20日告示、27日投票)、まだ走り続けなければいけない。 そのあとに、僕の心境や今後のことなどは、ここに記すようにしたい。
ただ、今度の選挙でたくさんの笑顔や激励をいただいた。 人の命を守る政治こそ21世紀の政治の大道であること、ひとりひとりがもつ要求、願いから出発してともに考え、実現する活動方向こそ、多数派結集の要であること。それは、不動の確信だ。
もっと、ひとりひとりの心に響く活動こそ必要である。 この日記と公式サイトも、4月いっぱいをメドに閉鎖する予定。今後は、もう一つのプライベートサイトをバージョンアップして僕なりの表現をネットでしていきたいと考えている。では。。。
2003年04月03日(木) |
え?日記の更新もできない。。。 |
2日は、翌々日の告示に備え、休養。おかげさまで、すごく元気になれた(笑)。午後からは、市内の宗教関係者のところへ、ごあいさつでまわる。イラク戦争をただちに中止をさせましょう、という共同の申し入れである。どこでも、快く申し入れの文書を受け取っていただいた。
夜は、「平和でこそ商売繁盛」というタイトルの業者後援会の決起集会に参加。たくさんの人で、熱気ムンムンだった。大きな花束をいただいたので、僕は、次のようにごあいさつをさせていただいた。
「いま、素敵な花束をいただきました。この花束をみて思いました。いま、こうしているあいだにもイラクにはたくさんの爆弾が打ち込まれています。私は、その爆撃の下でおびえている小さな子どもたちや女性たちが、一刻も早く花をみて美しい、と心から思える平和をとりもどすようにしたい。そして、イラクや米英の兵士にも武器を花束にかえてもらうようにしたい。そのためにも、戦争をただちにやめさせることが必要です。不幸な事に、日本の政府は、戦争支持ですが、日本国民はこの戦争を支持していない、というアピールを広げることこそ、国際世論を広げ戦争推進勢力をおいつめる力です。そのためには、党をつくって81年、ガンコなまで反戦・平和を訴えてきた日本共産党がのびることが、大きな力となります。どうか、戦争中止、平和への熱い願いは、こぞって私、矢口まさあきへ、と託してください。よろしくお願いします。」
ところで。府会議員選挙が告示されると、公職選挙法の規定により、ホームページの更新が禁止され、活動日記の更新もできなくなる。なんで、日記の更新もできないのか?と驚きと怒りがわくばかりだ。 ということで、このヤグネットの日記を書きはじめた2001年7月12日以来、もっとも長い期間のオヤスミとなる。つぎ、この日記を更新するのは、4月14日の深夜となるだろう。 そのときには、みなさんによい結果をお知らせできるにようにがんばりたい。 願わくば、きょう、この日記を読んだ方が、僕の日記の存在を大切なお友達などに知らせていただければ、ありがたい。選挙は、10日間だが、僕の生き方、考え方などは、この日記を読んでいただければ、より理解していただけると思うからだ。そして、BBSはそのままにしておこうと思うので、どんどんカキコしていただければ、とても元気をもらえる。
では、また逢う日まで!!
いよいよ4月に入った。この日、宣伝カーを終日本番にみたてて、動かした。6時50分に事務所を出発して近鉄富野荘駅で宣伝。その後、市内全域でスポット宣伝。数えること31回。一回の演説が約6分だから、3時間ずっとしゃべりつづけたことになる。 街頭から、家の中から窓を開けて、なかには家から出てきていただいて、懸命に手をふってくれる人が日に日に多くなっている。確かな手ごたえを感じている。
とくに、昨日も書いたが、お年よりの方の反応がとくによい。 「先の命は短いですけど、こんなに負担が重くなると、『なにか、わたしらが悪い事したんやろうか。戦争でつらいおもいをして、いま死際にまたこんな辛い目に、あわされて』。。若い人らにがんばってほしいんやわ。」と手を握りしめられると、僕はもうダメだ。涙がこぼれそうになる。
夜8時に車をおりて、その足で地元の団地の「桜を見る会」に出席しごあいさつをさせていただく。 ホントに見事な桜だ。みていると、ふと気持ちがなごむ。
昨年のこの時期に書いた日記で引用した平和のMLのあるメールの一節を思い出した。
桜をみて、平和とは何かを考えた方のメッセージである。再掲しておこうっと。 なんだかうれしくてうれしくてうれしくなって。 なんだかハイになって。(わかるよね?この感覚。わかってくれ~。) こんなふうにさせてくれるなんて、桜ってすごいな、と。 桜は、私に対して、こうしろ、とかああしろ、とか言ってきてないんです。 なにもおしつけない。 ただ、桜は桜らしくそこに立っているだけ。 なのに、私の中でなにかが変わってゆく。 変わってゆくというよりは自分の良い状態がひきだされるというか、 おもいだされるというか。 これって、私にとってのCHANCE!やPWの理想形です。 世間や他者に対して、「変われよ!」って言うのではなく、 ぼくら自身が素敵な存在としてここに存在して、 それに触れた人々はそれぞれの中で自分で自分を変えていく、というか。 (中略) 他者を変える一番の方法は まず自分が変わることではないかと。
他者を変える一番の方法は、まず自分が変わること。
あさってに告示を控え、まさにいまの自分に突き刺さる一言だ。 「ご一緒に政治を変えましょう」と心込めて訴える。そのためには、自分のなかで、どうしてもいまの政治を変えたい、という思いを最高のかたちで表現することだ。 そのために、残された時間を自分と向き合いたい。
2003年04月01日(火) |
あ、この店の人だったの? |
朝は、久津川駅で宣伝。後援会の方もたくさんビラ配布に参加してくださり、勢いのある宣伝行動になった。ビラの反応もよかった。 午前中は、山本よし子市会議員、栄繁泰党市後援会長とともに、今池地域を宣伝。 日頃から山本議員が地域と深く結びついていることもあり、声援がとにかく多い。最後のスポットの場所では、お年寄りの方二人が僕の演説をじっと聞いてくれていた。
僕は、日本の経済発展を支え、城陽のまちづくりを担ってこられたお年よりのみなさんが、悪政のもとで苦しめられているのが許せない、と次のように訴えた。
「みなさん。いま、お年寄りのみなさんには、トリプルパンチの痛みおしつけです。 ひとつは、昨年10月から病院での窓口負担が1割となりました。そして、こんどは、年金がスライド制でカット。加えて、介護保険料が平均500円の引きあげです。わずかな年金生活のなかで、あまりにたいへんな負担です。私は絶対に許す事が出来ません。せめて、介護保険料の引き上げを止めて、保険料と利用料の負担の軽減をはかるなど、介護保険の改善が急がれています。」
すると、お年よりのお二人が大きく拍手をしてこたえてくれた。 「あなたが、ポスターの人ですか。はじめて、お目にかかりました。うわさはかねがね、きいてますけど、やっぱり、若いですねぇ。気張って、くださいな」と激励された。
午後からは、いよいよ選挙なので、「ここは」と思う方のところへ、挨拶まわり。病院関係者や中小企業の社長さん、お商売人のところを訪問させていただいた。 とくに中小企業の社長さんのところでは、どこでも、「経営哲学」を披瀝していただき、僕にとっては、とても刺激的な話しだった。詳しくは、この日記では書けないが、これだけはまちがいなく言える。
21世紀は、中小企業の時代であり、有能なリーダーのもとで、技術と人材を瞳のように大切にする力と情熱をもった企業こそが、地域経済をささえ社会の発展を促していくのだ。 ある会社では、「議員さんもね、中小企業の経営コンサルタントができるぐらいになってください」と指摘された。なるほど、そういう知識も力もいまの自分にはまったく欠落している。なにか、とても学ぶ意欲とやる気がわいてきた。
お料理のお店をひらいている方のところでは、意外な再会もあった。 公立保育園の存続問題でともにいろんな取り組みをした、お母さんが実家であるお店を手伝っていた。 カウンター越しに奥からでてくるその人をみつけて、お互いに「あら~!」ぼくは、思わず「あ、この店の人だったの?」。
熱烈に歓迎されて、激励をうけた。無事、子どもさんは、愛着のある保育園で卒園できたそうだ。 いまにも涙がこぼれそうな表情だったので、こっちまでうれしくなった。 こうして、喜ぶ人がいるから頑張れる。この笑顔につながるすべての人のために、僕はたたかわなければならない。。。心から、そう思った。
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