ヤグネットの毎日
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2002年10月31日(木) 日朝交渉終わる

 日朝交渉が終わった。具体的な進展がないまま。やはり北朝鮮は、5人の帰国者が滞在期日を守らず日本に残ったままの問題を取り上げ、「約束違反」と指弾し、それを理由に態度を硬化させている。拉致という許しがたい国際犯罪をしでかしておきながら、「約束違反」はないだろう。
 北朝鮮に残してきた家族を心配する「本人の意思」を、日本政府もマスコミも、軽く扱ってはいないか。ーーこの思いがずっと僕の心にひっかかっているのだが、北朝鮮のような自由のない国で、自由意思にもとづく判断などできるはずがない、というのが多くの人たちの意見だ。「北朝鮮とはいかなる国か」との認識が僕の中で、あまりに浅すぎるのかも知れない。もっと、この問題を掘り下げたい。

 息子の身長が100センチを超えた。100.2センチだ。
 「よく、ここまで大きくなったね」と嬉しさと感動がこみあげた。もう少し息子が大きくなったら、生まれなかった三つの小さな生命のことを話してあげようと思う。妻は三度流産している。妊娠三ヶ月のころ、決まって小さな心臓が鼓動を打つのを止めてしまったのだ。超音波のモニターでついさっきまで動きがみえたものが、はたと止まる。
 「お願いだ、動いてくれ!」何度心のなかで叫んだことだろう。
 処置を終えたあとの妻の悲しそうな表情と小さな肩が痛々しかった。

 息子が順調にお腹の中で育ち産まれた時のことが、いつもよみがえる。あの産声は一生忘れないだろう。
 生命が誕生すること、そして大きく育っていくことの難しさ。そのことを痛感してきた僕たちだからこそ、この世に産まれた命が、自ら輝きいくつもの可能性を花開かせることができるように、精一杯応援していきたいと思っている。
 


2002年10月30日(水) 日朝交渉スタート

 終日、11月7日から始まる決算委員会の打ち合わせ。先日の学習会を踏まえ、各委員が質問する項目を整理した。夕方、息子を迎えにいってから、陽がとっぷりと暮れてしまっているのに、息子の自転車の練習につきあう。暗さにくわえ、道路の状態がよくないことから、父親としては冷や汗ものだ。
 城陽団地はいま、下水道工事が急ピッチですすんでおり、道路を掘り起こしたあとの仮鋪装の状態にが続いている。かまぼこ型の路面、両側にある側溝は深く古い。下水道工事のあとの本復旧のさいには、側溝の溝蓋もきちんとかけるという考えを、すでに行政は示している。本復旧の工事にも早急にとりかかってほしい、というのが団地に住むみんなの願いである。
 夜は、党の会議。朝と晩の冷え込みが体にしみるようになってきた。冬物のスーツをひっぱりだそうっと。

 日朝国交正常化にむけての専門家による交渉が再開した。初日のやりとりをみていて、「やっぱりか」と思った。というのは、僕は、日本に帰国を果たしている拉致被害者の意思を十二分に尊重して、いったん北朝鮮に戻り、残された子どもなど家族と十分に話し合い、本人たちの意思に従って、永住帰国なりの手続きを踏む、その線で北朝鮮政府とも話し合う、という「ソフトランディング」を探るべきだとの意見を個人的にはもっていた。
 少なくとも、曽我ひとみさんの場合には、本人もまた日本の家族も、北朝鮮に帰り夫や子どもとの話し合いを希望していたはずだ。それが、5人横並びの「日本政府の意思に従ってもらい、滞在延長をしてもらう」では…。鳥越俊太郎さんのコラムに、僕の気持ちとピッタリのことが書かれてあった。
 
全部横並びにして
個々の事情を押しつぶしてしまうのには私は反対だ。
そうでなければ曽我さんは拉致されたときは
北朝鮮という国に翻弄され、
今度は日本の国に翻弄されることに
なりやしませんかね・・・
なんだかハッキリ言って「家族の会」の言う事には
メディアも誰も何も言えない雰囲気になっているのは
おかしいですばい。
違うことは違うと言わなきゃあ・・・

(3分間で、最近のニュースを知る。鳥越俊太郎の「あのくさ こればい!」 第944号より)

 案の定、北朝鮮は、「5人を帰国させないのは、約束違反」と反発している。日本側は、この反発も「折り込み済みの話し」、だそうだ。拉致という国家犯罪を犯しながら、「約束違反」と反発する資格が北朝鮮にあるのか?とも思うが、5人の帰国と永住、そして子どもたちの帰国問題が、双方の「交渉カード」のようになっては、膠着状態を長引かせるだけではないだろうか?



 


2002年10月29日(火) アンケートの意見欄に学ぶ

 午前中は、議員団で集まり、「経済危機打開へ4つの緊急提案」を市内の業者、医療関係者、高齢者団体などへ郵送する。いま取り組んでいる住民アンケートが引き続き返っており、昨日現在で550通となった。
 びっしりと書き込みをしてあるアンケートもあり、みんなで手分けして集計作業を急いでいるところだ。中間発表などもする予定だ。
 そのアンケートのなかに、こんな一文が。日本共産党についてのご意見やご要望を書いてもらう欄だ。

  よい人柄ですが、少しこみった話はわかりにくい人が案外おります。話しは分かりやすくかみくだいて話をしてください(場所、相手に応じて)

 この間、感じていることをズバリ指摘する声だ。これだから、アンケートは勉強になる。結局、はなしがわかりづらいということは、話し内容が自分のものになっていないこと、そこから発する言葉は、借り物でしかないのだ。肝心なのは、話を自分のものにしきる努力や工夫が足りないことだ。大いに学ばされる。

 先日から読んでいた香山リカさんの「ぷちナショナリズム症候群」〜若者たちのニッポン主義(中公新書ラクレ)を読み終えた。「ぷちナショナリズム症候群」をキーワードに一冊の新書をかきあげてしまうのだから、すごい。でも、所々論理展開が難解なところがある。引用の文献それ自体が素人にはわかりづらい用語がいっぱいあるのだ。線をひいた箇所を要約する作業をはじめてしまった。
 問題意識を触発されたところと、少し「?」と感じるところがあるのだ。感想の全文は、プライベートサイトの「ブックレビュー」にのせるようにしたい。



 


2002年10月28日(月) 久世校区敬老会に参加

 午前中は、久世校区の敬老会。今年で9回目となる。久世校区は、今年度、市内でもっとも高齢者人口が多い地域となった。市長や市議会議長の祝辞では、「超・高齢化社会」という言葉が使われていたが、長寿社会は喜ぶべきことだ。問題は、政治がその喜びや生きがいを全力で応援できているか、である。
 もっと地域の高齢者のみなさんの要求をとりあげた活動が必要ではないか、とあらためて感じた。

 久世校区の敬老会は毎年、とてもバラエティに富み充実した企画である。今年も、地元の城陽家政幼稚園の年長組のみんな(総勢84人)がおじいちゃん、おばあちゃんたちに歌を披露してくれた。そのなかで、「大きな歌」を手話つきで歌ってくれた。ふぞろいでも抜けるような明るい声。歌うことの原点を教えてくれるような素敵なステージだった。
 城陽体操スポーツ少年団のみなさんの演技も毎年見せていただいているが、若さと華やかさがある。昨年も書いたが、保護者がボランティアで活動を支えているのには、本当に頭が下がる。学びたい活動である。
 今年の敬老会のステージのメインゲストは、西城陽高校合唱部のみなさん。技術的にも全国トップレベルの合唱部である。「歌って踊れる」というキャッチフレーズのとおり、「上を向いて歩こう」などを踊りつきで歌ってくれた。あれだけ激しい動きをしても、きとんとした発声が維持できるのは、相当の練習を積んでいることの証である。城陽少年少女合唱団の再生をめざす僕にとっては、興奮と感動の連続の企画だった。

 お年よりから子どもまで「コミュニティ」意識を醸成し、地域を単位にした「育ちあい」が広がること。これが、僕の理想とするところだが、敬老会のような企画をもっと無数に、参加型で重ねていく活動がますます大切であると、感じた。

 いま読みはじめているのが、香山リカさんの「ぷちナショナリズム症候群」〜若者たちのニッポン主義(中公新書ラクレ)。日本語ブームやW杯で「日の丸」の旗を、なんの衒いもなくふりかざすなど、ポップで軽やかに“愛国心”を謳歌する若者が増えている、という。アメリカでのテロ事件やフランスで極右政党が台頭するなど、世界情勢の混迷の中で、「愛国ごっこ」(著者)の行き着く先には、何が待ち受けているのか?
 知人からの紹介で軽い気持ちで読みはじめたが、内容があまりに深く、重い。いろんな問題意識が次つぎわいてくる。「ぷちなしょな風景」は、日常どこにでも転がっているのが、恐ろしい。
 まだ読み途中なので、読了後また日記でも紹介したい。
 
 


2002年10月27日(日) 「過労自殺」を読む

 党の地方議員会議が26日、京都市内で開かれた。議員活動や選挙にむけた活動の交流などで学ぶことが多い会議だった。
 演説は政治家の命といわれる。会議のなかで演説の工夫について具体的でわかりやすいアドバイスを聞くことができた。
 演説は、論文とは違い、予備知識がない人でも理解できる話しが大切であること。漢字ではなくひらがなでしゃべる工夫を心掛けることなどは、あらためてハッとさせられる。言うは易し、行うは難し。実践でためされる。

 先日から読んでいた、川人博 『過労自殺』(岩波新書)を読み終えた。
 本書で著者は、過労自殺の特徴・原因・背景を詳しく探っている。フランスの社会学者エミール・デュルケムの論考や法哲学者の井上達夫氏の論文における過労死の分析を紹介しているのだが、とても印象に残る一文があった。

 デュルケムが自殺を個人的気質の問題ではなく、社会的状態の反映として理解する必要を説いたように、我々も過労死を孤立した個人的悲劇としてではなく、我々の社会構造の反映として理解する必要がある。

 著者は、第4章で「過労自殺」をなくすために具体的な提言をおこなっている。この4章が、本書のいちばんの読みどころだ。
  たとえば著者は、1980年代後半に活発にかわされた「時短論議」がいつのまにか雲散霧消してしまい、ますます職場に時間のゆとりがなくなっていることを、指摘する。
 漢字で「忙しいとは心を亡くすこと」だ、という。長時間労働・深夜労働が過労自殺の温床となっていることは自明であり、この異常な日本の職場の改善こそがまず必要であると強調する。
 また著者は、「義理を欠くこと」が大切だ、とも述べる。日本の労働者が死ぬほどに働いてしまう一因に、「同僚や上司、取引先などに配慮しすぎること」があるというのだ。
 人間のいのちと健康は、義理を守ることよりもはるかに尊い価値をもっており、この「義理を欠く」行動を通じて、職場の中の矛盾を顕在化させ、職場改革への契機とすることができる、というわけだ。
 
 また著者は、被災者(過労自殺者)が病院にかかる時間的余裕さえ失っており、過労で体調不良をおこしても、内科診療にとどまり、精神科の治療を受けるケースが少ないことも問題だとし、適切な医学的援助や治療も大切であることを強調する。「うつ病」への正しい知識が本人、職場、家族のなかに不足している現実があることから、心の病気は、もはや特殊ではなく、早期治療が大切だというくだりには、大いにうなずいた。
 
 さいごに、著者は「グローバル経済の時代」への警鐘をならす。国際自由労連は、「経済のグローバル化は、不完全就業、失業、不平等の拡大などと同意語となっている」と警告するが、たしかにこの10年間のあいだに、経済情勢が不況の度合いを深めるのに比例して、社会全体から「ゆとり」を考えるゆとり(著者)が失われている。
 本書のむすびで、著者が国内の社会政策の転換を訴えているが、いまの僕の考えていることをズバリいってくれて、溜飲が下がった。
  
 いま、私たちに一番求められているのは、競争によって活路を見い出すことではなく、国際的にも国内的にも過剰な競争に必要な規制をおこなって、荒々しい市場競争に歯止めをかけることではないだろうか。そして、もっと時間と心のゆとりをもって、国内の社会政策、地球規模ので社会政策のあり方を考え、軌道を修正していくことではないだろうか。

 弱肉強食の新自由主義のイデオロギーとのたたかいこそ、いま緊急に必要だ。この思いをますます強くした。

 
 
 


2002年10月26日(土) 考えが違っても


 午前中は、党の会議。午後は、小池晃参議院議員の予算委員会での総括質疑をテレビで試聴する。不況で国民が苦しみあえいでいるときに、不良債権の処理の加速化と、医療、年金、介護など社会保障分野での未曾有の負担増は、「坂道を後ろから突き落とすようなものだ」との指摘に、小泉首相は、社会保障の将来像の議論にすりかえ、あくまで負担増路線を強行する姿勢を示した。小池議員は将来像での意見の違いではなく、目前の課題で、政治が責任ある対応をしよう、とよびかけた。この立場は重要だ。
 たとえ、考えが違っても国民のためになるならば力をあわせる。
 いまの自民党は、その余裕すら失っているように思える。

 夜は、保育園保護者会連絡協議会の会長さんと年末に市へ提出する予定の「要望書」の件で打ち合わせ。
 日曜日や祝日も保育を実施してほしい、という要求が強いことがわかる。サービス業に就く保護者が増え、日曜日や祝日も出勤するケースが年々増加している結果だ。病後児保育なども現在の制度では利用しにくいと思っている人が多いこともわかった。保護者からの要望とともに議会でも適切にとりあげられるように努力したい。


2002年10月25日(金) アンケート続々返る

 午前中は、種々の事務作業にあてる。部屋の中も掃除しなければいけないのに、足の踏み場もない状態が続いている。午後からは団会議。いま取り組んでいる全世帯アンケートが続々と返りはじめている。集計作業が結構大変。集計表の作成とご意見を記入していく。ためてしまうと途方もない時間と労力がかかる。肝心なのは、そのアンケートを政策活動や議会活動に生かすことなので万全を期して取り組むつもりだ。
 アンケートなかで、「応援しています」というメッセージがあると、うれしくなる。他方で、厳しい注文や指摘もあり、喝を入れられるような心持ちだ。

 いま読みはじめている本が、川人博『過労自殺』(岩波新書)。バブル崩壊で、どの企業もコスト削減に躍起となり、そのしわ寄せが労働者に向けられている。本書では、若年労働者からベテランをいわれる「会社人間」まで、過労による自殺に追い込まれる実態が、詳しく報告されている。いま、その実態が紹介されている部分を読んでいるところだ。著者は、過労自殺がうまれる社会的背景から防止策、さらには社会のあり方そのものにメスを入れる必要性まで視野を広げて提言している。
 読み終えたら、まとまって感想を紹介したい。

 息子の最近の関心事は、自転車だ。前に、バーゲンで超格安の子ども用自転車を購入していた。
 朝、「どうしても乗りたい!」と聞かないので、短時間だけ家の周りを練習で走った。もちろん後輪には車輪がついているのだが、意外や意外。上手に乗りこなすではないか。前にも書いたが、息子は「恐い者知らず」(というよりまだ無茶をして怪我など痛い思いをしたことがない)のところがあり、坂道でも一気におりていく。側溝にはまらないか、とヒヤヒヤして僕は汗びっしょり。
 待てよ。息子の自転車の練習につきあうことで、僕も体を動かせダイエットに効果をもたらすかもしれないぞ。プライベートサイトの「ダイエット奮戦記」が未更新になっていることを後ろめたくおもっていた矢先なので、こんどはすすんで息子に自転車の練習を誘おうか、と考えている。


2002年10月24日(木) 参院代表質問

 午前中、参議院の代表質問をテレビで聞く。党は市田書記局長が登壇。市田さんは、外交も日本経済も重大な岐路に立たされているという立場から、国民のおかれた大変な実態をリアルにつきだしつつ小泉内閣の無策とわが党の提案がよくわかる質問を展開。学ばせていただいた。
 北朝鮮と拉致問題でも、「北朝鮮の異常性と無法性を日本共産党はよく知っている。だから、朝鮮労働党と関係が断絶している」との下りが、重要だ。このことが対話のなかでも、知られておらず誤解があるからだ。
 (議場で与党席からざわめきが生じたのも、彼等が金日成などを礼讃してきた傷があり弱点であることをわかっているからこその、自嘲笑いのように聞こえた。)
 経済政策についても、自立、自助を説く小泉首相にむかって、「その言葉は大企業や大銀行にこそ向けるべき。自らたつことができない、高齢者や障害者、額に汗する国民、中小企業にこそ光をあてることが政治の役目」、と迫ったくだりが印象的だった。
 この立場から、質問では失業率、倒産件数、収入などあらゆる指標が落ち込んでいる実態をとりあげ、小泉流構造改革では、展望がないことを明らかにしたわけだが、首相はまったく答弁不能。雇用保険の給付期間の延長や地域の金融対策等でのわが党の具体的提案と好対照だった。

 夜は、11月17日に予定している「みんなおいでよ ファミリーコンサート」の実行委員会。プログラムを決め、手作り企画の演出をどうしようとかと話し合う。みんなのアイディアが集まって一つのものができあがっていく。このプロセスが大切だ。

 高世仁 『北朝鮮の国家犯罪 拉致』(講談社文庫)を読みおえた。帯びに記されているように、まさに「愛する者への必死の叫びがついに政府を突き動かした」ことがリアルに描かれている。横田めぐみさんの母、早紀江さんが切なさを歌に託している。

はろばろと睦み移りし雪の街に
 娘を失いて海鳴り悲し

 (新潟に移ってきたころは家族が一番まとまって楽しかった。そこで突然の悲劇が起こった。眠れない日に  海鳴りが響いてくる。)


 被害者の家族は、「二度と戻れなくなるかもしれないから北朝鮮に返さない」といい、被害者は日本の家族と北朝鮮の「もう一つの家族」との間で揺れている。「北朝鮮に残したままの子どもたちが心配。北朝鮮で生まれ育った子どもたちが日本で生活できるか不安」との思いはもっともだ。
 はっきりいえることは、被害者にとっても、また被害者の家族にとっても、筆舌に尽くしがたい24年間がある。それは国家権力によって、人ひとりの人生が蹂躙されたのである。再び、国家権力の「交渉のカード」としてこの人たちが使われては、断じていけないということだ。
 
 とはいえ、この本には「なぜ北朝鮮は日本人を拉致したのか?」「北朝鮮とはどういう国なのか?」といった基本的な疑問にも、克明に回答を与えている。それらを読むと、あの国の異常性や無法性が浮き彫りになるので、「北朝鮮に帰ったら二度と戻れなくなるかもしれない」という被害者の家族の気持ちが痛いほどわかるのだ。
 「本人と子どもたちの意思を尊重して永住帰国を選択できる門戸を大きく開くこと」。せめて、この合意ができないだろうか?そのためにも、話し合いが必要だ。

なお、本書を読んで違和感を覚えたことが一つある。
それは、1988年はじめて国会で拉致問題を取り上げた日本共産党の橋本敦参院議員の元秘書に関する記述である。
 この本ではこの元秘書が1988年に党を除名されたことを紹介し、その理由を「拉致問題をやりすぎたこと」、さらに「拉致問題の社会的関心の高まりが、有事立法をはじめ日本の『右傾化』をねらう勢力に利用されるのでは、という危惧」にあったと、読者に受け取られるような表現をしている。
 しかし、日本共産党は意見や考えの違いから組織的排除を行うことはしない。除名の理由は、スパイの強要や思想調査など、憲法や人権などおかまいなしの公安調査庁に、退職後の就職の依頼を堂々としたことにある。
 日本共産党の議員としては、この本の感想を述べるさいには、どうしてもふれなければならない問題だと思い、あえて一言した。


2002年10月23日(水) 親の愛情の注ぎ方

 朝の冷え込みが肌で感じるようになってきた。車のフロントガラスがくもるのをワイパーで払うのが日課になったが、凍りついたフロントがラスを熱湯をかけて溶かすのが日課になるのも、すぐのことだ。
 午前中は、八幡市で鉄工所をひらいているの知人のところへ。仕事で新しい開拓に熱心に取り組んでおられる。詳しい話は書かないが、問題意識の着眼点「発想力」と、それを形にして成し遂げる「突破力」には驚嘆するばかり。背筋がピンとなる。
 「机や本だけが勉強ではないぞ。目にしたり耳にするものすべてに好奇心を持って何でも知ってやろうという気持ちを持続させることが大切」とのアドバイスが身にしみる。この方とお話をすると、「もっと向上したい」「怠惰な自分を脱ぎ捨てて生まれ変わりたい」という気持ちになってくる。
 毎日の実践のなかで、この気持ちが本物かがためされる。

 午後は、地元の活動についての打ち合わせ。夜も地元で会議が続いた。

 遅くなってから、息子とお風呂に入る。近ごろは頭も体も自分で洗いたがる。「一緒にお風呂に入りたがるのも今のうちか」、と思えば疲れていても一緒にザブンだ。
 ゆうべ湯舟のなかで、ポツリと息子が話した。
「ねえ、お父ちゃん。なんで保育園でまわりの子に『かわいいね』『いいこだね』っていうの?」
「なんで?ええやんか、みんなかわいい子たちやんか」と僕。そういいながら内心、なにげない親の行動や仕種を子どもたちがよく観察し、感じとっていることに驚く。
 息子は自分にだけ「かわいいね」といってほしいようだ。親の愛情を独占したい時期なんだよ、とピンときた。あえてそこでは、「わかったよ。一番さとしくんがかわいいよ」といってギュとしてあげた。
 子どもは、親の愛情を一身にいつまでも受けたいと思っているのだ。それに対して、僕たちは「これぐらい愛情を注いでいるから大丈夫だろう」などと勝手に判断してはいけないのだ。


2002年10月22日(火) 誤解をとく必要が

 朝から激しい雨。息子を保育園に送る時がいちばん強くふっていた。送り届けて家に帰ろうとしたらもうあがっていた。偶然にすぎないのだが、昔から「雨男」の異名をとる僕にとっては、「またか」と思い、うらめしく空を見上げる。
 午後からは、11月17日に行われる保育園保護者会のファミリーコンサートの準備などの時間にあてる。
 保育園の保護者の方とお話をしていたとき、たまたま北朝鮮の拉致問題が話題になった。「同じ共産党だから仲がいいんでしょ?」という質問がでたので、「それは誤解です」とのべ、朝鮮労働党とはどういう党か、北朝鮮は本当に社会主義といえるのか、日本共産党は朝鮮労働党と関係が断絶しておりそれは、あの党(国家)の無法をきびしく批判してきた歴史があるからだ、ということを手短にお話をさせてもらった。こうした誤解は広く存在する。その誤解を逆手に利用して、悪口を広げる不見識な政党や団体もいる。
 誤解をとくねばりづよい努力の必要性を痛感する。

 息子の成長を実感する瞬間は、生活の身近な場にある。最近になって、おしっこやうんちをするのに、「おまる」を卒業し、親と同じように家のトイレでやるようになった。
 むかしばなしの「ももたろう」を得意そうに「むかし、むかし〜」と語りはじめ、さいごまで聞かせてくれる。
 高世仁著『拉致』(講談社文庫)のなかで、横田めぐみさんの幼少のころの思い出が述懐されるシーンがある。「みーちゃん」とよばれていた横田めぐみさんが、口達者で飲み込みの早い子であったこと、童話を読み聞かせるとじきに覚えてしまい、今度はみーちゃんの独演会になったという。十八番が桃太郎。
 僕が目を細めて息子の独演を聞き入ったように、横田めぐみさんの家族や近所の人も笑顔で「桃太郎」の話しを聞いたことだろう。そんな、何気ない日常を瞬時に奪った拉致。怒りが増幅する。

 


2002年10月21日(月) 無数の善意を必ず生かしたい


20日は午前中、城陽乳幼児ネットのみなさんが署名行動を地域で実施したので、取材を兼ねてお手伝いに。
 寺田で新興住宅地は、若い世帯が急激に増えている。朝10時からスタートしたが、すでにお留守のお宅もあった。対話ができたところでは、「ごくろうさま」「お世話になります」「小学校にあがるまで無料になれば助かります」などの反応が寄せられた。午前中の行動で157筆の「やさしくあたたかい心」が集まった。
 命は平等で住んでいる地域で医療や子育て支援にアンバランスがあってはならない、という訴えは共感を広げているようだ。

 僕も近所の知り合いのところに署名を預けているが、先日少し年輩の女性の方から「署名が集まりましたのでとりに来てください」と連絡があった。その方は、脳硬塞で半身が不自由になっておられるのをおして、自宅を訪ねてくれた人や宇治の友人などに署名を訴えていただいたそうだ。この話を聞いて涙がでた。
 この気持ちを絶対に無にしてはいけない。必ず城陽で乳幼児医療制度の拡充を実現したい、心からそう思った。
 


2002年10月20日(日) 拉致問題 雑感


  午前中は党の会議。夕方から家族で買い物に出る。ひさしぶりに「ブックオフ」に入った。全国チェーンの古本を扱う店だ。最近は本だけでなく中古のCDやビデオも扱っている。比較的傷みのない本が並んでおり、好感がもてる店の一つ。息子はドラえもんのビデオ、妻は星新一の文庫本を2冊、僕は岩波新書を購入した。新書はセール中で100円。安い!
 夜も会議で外出。北朝鮮の拉致問題を使って公明党がわが党への攻撃を強めている。19日付の「しんぶん赤旗」は、この問題での日本共産党の態度と公明党がいう悪口への反撃を特集している。URLは以下の通り。ぜひ一読をすすめたい。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-10-19/11_0401.html

 外交とは、国家と国家の利害の調整が大きなウエイトを占める。だから、自分たちの主張が国際的にみて、あるいは民主主義の観点からみて道理があるものでなければならない。
 「拉致問題の解決」を交渉の「前提」にすれば、交渉は始まらないし、交渉が始まらなければ、拉致問題の解決の道筋も閉ざしてしまうことになる。ここが大切なポイントなのだろう。
 僕は北朝鮮政府のこれまでの所業については、大いに批判的視点をもっている。拉致の事実は明白であり、いかなる理由をもっても許されないし謝罪と真相究明、被害者への補償は徹底して行われるべきだ。だが、朝のワイドショーのコメンテーターが「金正日総書記はウソつきだ」とくり返し発言したり、「拉致被害者を北朝鮮に返すべきではない」といったセンセーショナルな発言をメディアを使って流し続けることにも、違和感を覚えてしまうのだ。
 「北朝鮮敵視論」だけからは、真の解決の道すじは開けてこないと思う。


 


2002年10月19日(土) 合併問題で講師


 18日は前日に続き、決算委員会にむけての学習会。一通りの検討を終えたが、11月の決算委開会までにさらに調査や研究を深めることになる。午後からは、党の会議。夜は、市町村合併問題での学習会講師。
 学習会では、政府が企む合併押しつけの本質は、多国籍企業など財界が装い新たに大型開発などを推進するためのしくみづくりにあることを強調させていただいた。
 小泉流構造改革は、日本のあらゆる分野で新自由主義の考えを浸透させることにある。それはすなわち、規制緩和と福祉、教育分野での市場原理の導入が強力におしすすめられることであり、要求にもとづく草の根からの腰をすえた本格的なたたかいが不可欠であることを訴えた。

 北朝鮮による拉致被害者五人の里帰りの報道で引き続き考えさせられる。
 里帰りした5人は、北朝鮮に帰国することを主張。一方、日本の家族は「そもそも拉致されたのだから、帰る必要はない」と迫る。「北朝鮮にいる子どもたちなどが心配だ」といえば、「自分たちは24年も待たされたのだぞ」と説得にかかる。拉致された人たちと家族のこのやりとりに、胸が痛む。挟む言葉が見つからない。いえるとすれば、拉致された本人の意思を最大限尊重してあげることこそ、いちばん大切なことではないか、ということだ。さらにこの問題は考えていきたい。


2002年10月18日(金) 24年の歳月

 17、18日と2001年度の決算委員会にむけて学習会。朝から夕方まで、決算書を1ページずつめくりながら事業評価。僕は昨年に続いて決算委員会のメンバーになった。検討する項目は、契約関係などの総務から上下水道会計まであらゆる分野に及ぶ。2回の議会報告と要求懇談会で出された意見等もさらに調査し質問項目に加えていく予定だ。

 北朝鮮による拉致被害者五人の里帰りの様子がいっせいにテレビで放送されていた。肉親との24年ぶりの再会。24年という途方もない歳月。想像すらできず、言葉が浮かばない。曽我ひとみさんが父親と抱き合う姿は何度見ても涙があふれてくる。
 突然目の前から愛する息子や娘が消えた肉親の悲しみ、苦しみ、そして怒り。一日たりとも忘れることはできなかっただろう。拉致の被害にあった人たちも、あの国で順応しなければ、生きていけなかったのだろう。
 あらためて拉致を働いたことへの怒りがわく。同時に24年という長い歳月は、一時帰国された5人のみなさんに「もう一つの人生」を歩ませたこともまた事実なのだ。そのことを慎重にふまえた対応が必要だと思う。
いま僕にできることは、24年という歳月の長さを可能な限り自分に引き寄せて想像することだ。国家とは何か、政治とは何か。家族とは何か。国際関係とは何か。


2002年10月17日(木) 少しだけゆったりと過ぎた日

 15日は、時間にある程度自分のペースで動くことができる一日だった。少しだけゆったりと過ぎた日だった。こんな日は、大好きなギターでもかきならしたい衝動にかられるが、ぐっとこらえる。
 午前中は、新婦人事務所でインターネットの接続のお手伝い。事務局長とあれこれ話をしながら作業をしていたら、お昼までかかってしまった。これで、晴れて新婦人事務所でもIT化が一歩進む。がんばってね!Mさん。
 午後からは、いま取り組んでいる保育署名と乳幼児ネット署名の印刷と届け。合間に本屋をのぞき、内田康夫の待望の新刊本「中央構造帯」を買う。久々の新刊だ。ワクワクして本の厚みをながめている。
 その後、11月からはじまる決算委員会の準備。夕方、息子を迎えにいくと、昨晩母親とじゃれあっていてひねった右腕の痛みがすっかりなくなっていると先生から報告を聞く。ホッと安心。明日は楽しみにしている遠足だ。
 雨戸を一緒にしめた。空には半月と星。「この前、プラネタリウムでみたのと同じ星がでているよ」と息子。こういうときには、少し大袈裟にでも「ほんとだ、きれいだね!」と共感してあげることにしている。

 夜、息子があやまっておもちゃの刀の鞘を僕の左目の下にあててしまった。そのときは、あやまってなのかわざとなのかわからなかったものだから、僕は猛烈に怒り、「あっちへ行け!」と怒鳴り声。息子も同じくらいの大きさの声で泣いた。
 妻が仲裁に入り、わざとやったことではないことがわかり、お互いあやまって、仲直りにお風呂に一緒に入った。
 息子にとっては、父親というより完全に兄貴のような存在になってしまっている感じ。これでいいのだろうか?


2002年10月16日(水) 突然の雷雨


 午前中、党の会議で京都市内へ。着ぐるみを返却する用事もあり車で向かう。連休明けと「五・十払い」で市内は渋滞とのラジオを聴きながら、その渋滞の列の中へ。案の定、会議には遅刻。
 午後からは、全戸配布を予定している「久世深谷民報」の印刷。夕方、息子を保育園に迎え行き、近くのスーパーで買い物をしていると、突然の雷雨。急いで帰宅し、雨戸を閉めていると西の空がパッと明るくなり、映画でみるような鮮烈な稲妻。次の瞬間、雨がドーンを落ちてきた。
 「これは、保育園の保護者会大丈夫かな?」と心配したが、どうやら寒冷前線の通過で一瞬のことのようだった。会議がはじまるころには雨もあがり、半月も少しだけ顔をのぞかせていた。

 保育園の保護者会の役員会は、9月に取り組んだアンケート結果の評価で盛り上がった。午前7時〜午後7時までの延長保育は公立園では久世のみだが、おおむね利用する保護者にとっては歓迎されている。しかし、公立では一園だけであることから、久世に園児が集中して施設のキャパが足りない事態を生み出している。この点で、施設のたてかえを望む声が多かった。会議の中では、たてかえの場所問題、久世のほかに公立でもう1園つくることべきか否か、などなど活発な意見が出された。それと同じくらいお母さんたちと一緒にきている子どもたちの遊びもヒートアップ。
 保育園の会議は、いつもながら声が大きくなってしまうのである。

 松岡圭祐さんの「千里眼」シリーズ、「メフィストの逆襲」と「千里眼ー岬美由紀」を読み終えた。
 ハードカバーを文庫版にしたものだが、なんと300枚の加筆。とくに昨年の9/11のニューヨークの同時テロ、その後のアフガンへの報復戦争が克明に描かれ主人公の岬美由紀がその渦中に投げ込まれている描写などは、さすがである。この作品は、いま問題になっている北朝鮮による拉致問題、北朝鮮という国家そのものもテーマになっている。また、カウンセラーという職業の社会的使命や人間・岬美由紀の成長も描かれるなど、これまでの千里眼シリーズ以上の小説としての厚み、進化をとげている。なかなか読みすすめるのに時間がかかったけれど、読後は作者の社会への洞察力と人間への信頼に、さわやかな風が心の中を吹き抜けていくようだった。


 


2002年10月15日(火) 「正道公園」で羽のばす

この3連休は、息子にとってもハードだった。親の行動にすべてつきあってくれた。
「ねえ、正道公園いって野球とかサッカーとか、しようよ、ねっ。」前の晩からせがまれ続けた。
 午前中は、地元支部のみなさんと打ち合わせ。午後からは思いきって休んだ。そうしなければ、僕自身の気持ちの切り替えもできない。
 はじめは、家の庭で野球ごっこ。そのあと、近くの公園でブランコ。新しく開発された小さな団地の公園でお昼にご近所が集まりバーベキューを楽しんでいた。同じ年代の子どもたちとも一緒に遊ばせてもらう。
 御飯を食べたあと、いざ「正道公園」へ。


正確には、「正道管衙遺跡」。久世保育園の近所にあり、休みになるとたくさんの子ども連れでにぎわうところだ。

まずは、野球。なかなかバットにボールがあたらない。僕がボールを投げるとコロコロと後ろへ。こういうとき、僕はやさしい言葉をかけられない。なぜか「巨人の星」の星一徹のようになってしまう。「なんで、そんなボールもとれないんだ!もう一度!」なんて。まったく息子がかわいそうだ。


続いては、冒険ごっこ。公園入り口のところにある植え込みに入り込み、小枝を拾う。少しぐらいの擦り傷などおかまいなし。ようやく出たころにはたくさんの小枝が…。家にかえってお母ちゃんに見せるそうだ。


青空と夏のような雲がでていた。まわりを見渡すと家族づれがいろんなことをしている。サッカー、自転車の練習、野球。僕は、ギタレレをもっていったのでポロンとすこしだけ鳴らしてみた。野球が得意そうなお父さんは、自分の子ども以外にもコーチをしてあげているようで、子どもたちも真剣そのものだった。

 子どもたちが冒険ができて、いろんな体験をすることができるスペースづくり。そんな場所を地域につくることが、世代間の交流や泥んこ体験などで社会的経験をつむうえからも大切だと僕は考えている。
 この場所が自分達の大切な成長の場であることを実感し、自分たちの大切な場所を自分たちで守ろうという「自治」の考えがでてくれば、しめたものだ。

 残念ながらいまは、ベンチにゴミが散乱している状態。子どもたち自身の居場所づくりには、ほど遠い。

 あたりが暗くなりはじめたので「お母ちゃんが待ってるし帰ろうか」と声をかけるやいなや、いつのまにか、僕の背中にしがみついておんぶの体制に入っていた息子。おいおい!

持っていったデジカメの調子がわるく、携帯電話についているカメラを使って撮影してみた。悪くない。これからも使っていくつもりだ。


2002年10月14日(月) いまを生きる



 故・大畑忠さんの告別式。式場に早めにつき準備等を手伝う。ふと空を見あげると悔しいくらいの青空。忠さんにも、もう一度抜けるようなこの青空をみあげてほしい。
 妻と息子と三人で棺に花をたむけた。安らかにお眠りくださいと心のなかで語りかけながら。
 生物である人間は不老不死ではありえない。また、文明社会のなかでいつ事故に巻き込まれるかもわからない。だからこそ、いまを精一杯生き抜くことが大切なのだ。自分にそう言い聞かせている。

 心も体も重く、鬱屈した気分がぬけないまま校区運動会に。プログラムはほとんど残っていなかったけれど、応援と後かたづけを手伝わせていただいた。同じ団地に住むKさんとひさしぶりにお話をする。
 何か、若い世代で子どもたちを巻き込んだ活動ができないものか、と一年ほど前に話しあっていたところだったが、お互い忙しくて実現できていなかった。
 「今度こそ、ゆっくり時間をとってお話をしましょう」と約束。

 夜は、小説でも読んで気分を紛らわせるため、ずっと読み続けている松岡圭祐さんの「千里眼」シリーズを 読む。
 


2002年10月13日(日) 悲しみの通夜

 12日の夜は、昨日亡くなられた故・大畑忠さんの通夜。
 まだ、あまりに突然すぎて、信じられない。

 午前中は、以前から計画されていた深谷地域の後援会のつどいがあり、息子とともに参加させていただく。 
 昼食をはさみ午後からは、議会報告をかねたあいさつをさせていただいたが、その場でも、大畑忠さんの事故死の話をさせていただいた。
 地域に眠る歴史や宝ものを探し出し、そこに命を吹き込む仕事が大畑忠さんの仕事だった。
 その貴重で地道な活動に学び、すこしでも引き継ぐことができたら。

 そんな思いに駆られている。


 


2002年10月12日(土) 不慮の死

 
 城陽市歴史民俗資料館で長く城陽史誌の編纂にたずさわり、本市の文化財保護や教育行政に多大な功績を残された大畑忠さんが、11日未明に不慮の事故で亡くなられた。58歳という若すぎる死だった。
 その知らせが入ったのは、朝、宇治市内へ会議に向かう車の中。突然の訃報に気が動転し、車を道路わきに寄せた。取り急ぎ基本的な段取りを手伝わせていただいた。

 故・大畑忠さんの妻、輝子さんとは地元で平和や政治など、いろんな地域活動をやらせていただいている。
 9月1日のたんぽぽ村音楽隊の20周年記念コンサートのさい、このバンドの生みの親が大畑忠さんだったことを初めて知った。久世地域の保育園の保護者や児童館に集まってくる子どもの親を対象に、「ギター教室」を立ち上げたのが、きっかけだったという。
 久世地域の住民運動の草分け的存在のひとりだった。先日も、輝子さんとこの話をしたときに、「また、忠さんと地域で子どもたちを対象にしたおもしろい活動を一緒にやりたいですね」とはなしたところだった。
 8月に「自然と人間」を対象にした展示が歴史民俗資料館でひらかれたとき、山砂利採取跡地の再生の課題についての説明文があまりにふるっていたので、「すばらしいコメントですね」と近くにいた忠さんに話しかけた。大畑さんは、「そういう言葉が一番やりがいとうれしさを感じるんですよ」といって、「このコメントを書いた若い職員をいま呼んできます。ぜひ今の言葉もういちどかけてあげてくださいよ」といって会場の中を必死で探してくれたものだった。

 「必死で探し求める」ーーこれが大畑さんの仕事にのぞむ姿勢であり生き方だったのかもしれない。「余人にかえ難い」という言葉が悲しみのなかで思い浮かぶ。まじめで仕事に没頭し続けた中で、彼が残した足跡はとても大きく、深い。
 残されたもののひとりとして、彼が求めてやまなかったものを受け止め、発展させていくために力をつくしたい。
 
 
 
 


2002年10月11日(金) 合併協議会ついにたちあがる

 宇城久・綴喜地域合併・将来構想策定協議会の初会合が10日午後5時から宇治市生涯学習センター会議室において開かれた。傍聴が認められているので、今後も可能な限り傍聴を続け、メルマガやこの日記でその模様をお伝えするつもりだ。

○開会時に、7市町の町長および議会代表、宇治ならびに田辺地方振興局長、学識経験者らが着席。
 傍聴席に座ったのは、森下、松島両八幡市議、矢口城陽市議、岡本伸男党洛南地区副委員長の4人。関係自治体の事務方およびマスコミ関係者などで、会議室は満杯状態。
 注目点は、久御山の議会代表が欠席。(休憩中、久保田宇治市長は「久御山の議長さんは、今日は欠席です。」と今後出席する予定があるかのような発言)そして、学識経験者として岩崎恭典・四日市大学教授、真山達志・同志社大学教授が出席。
 真山教授は、今年3月に宇治市文化センターで開かれた合併問題でのシンポジウムで、コーディネーターを務めた方だ。
 岩崎教授も各地の合併問題での学習会やシンポジウムで講演をされている方である。ある講演会によせた講師からの「ひとこと」には次のようなメッセージがある。

 市町村合併は、今次地方分権の理念たる「地域住民の自己決定権の拡充」に関わる大きな問題である。少子高齢社会に対応して、限りある資源を、必要なところに必要なだけ投入できる仕組みを整えることが地方分権の目的である。そのためには、市町村合併も一つの有力な手段である。しかし、それは、同時に、各種施策の正統性を住民に求める手続きを重視するものでなければならない。合併後の狭域ニーズに対応できるか、狭域の政治的な意思表明の機会は確保されるか、安易な合併特例債目当てのモラルハザードは防ぐことができるか等、合併に至るまでの課題は多い。
 合併は、住民参加のまちづくりの壮大な実験、しかも失敗の許されない実験なのである。


○協議会の設立と規約の案文を事務局が読み上げ、とくに質疑もなく承認。(俗にいうシャンシャンと決まっていく感じ。これでこのまま合併もシャンシャンで決められたら大変なことになる。)

○役員の選出および監査委員の選出では、議事がいったん休憩となり、仮議長の久保田宇治市長が「会長の立候補や推薦の意思確認。久村京田辺市長が「座長(久保田宇治市長)にお願いしたい」と口火。その他とくに意見なく、会議が再開され久保田市長が会長に就任。
 その後、副会長と監査委員がまた休憩がとられて協議。
 副会長は、久村哲京田辺市長と梅原一六城陽市議会議長に決定。
 監査は、辻利治八幡市議会議長と坂本信夫久御山町長に決定。
 ちなみに当初、橋本城陽市長が監査委員に推薦されたが、梅原議長が副会長に推されたことから辞退した。

○役員選出後は、議事として2議案が提案。
 議案第1号は、協議会の平成14年度の事業計画。
 議案第2号は、協議会の平成14年度の予算について。
それぞれ、質疑はまったくなしで全会一致で確認された。
 
 協議会をたちあがったあとは、エスカレーターをあがるように粛々と「合併必要」という一方だけの立場から、合併準備がすすんでいくような危惧を抱く。なにしろ、すべては打ち合わせが事務レベルですみ、方向性も出ているのだから。とくに質疑なしのシャンシャンは、この協議会全体の目的と性格を端的にあらわしているのではないか。
 住民の間で急速に合併問題の世論を広げていくことがますます必要だ、第1回目の傍聴の最大の感想である。


2002年10月10日(木) 終日パソコンに

いま抱えている仕事。その多くがパソコンを使って処理するもの。9日は朝からずっとパソコンに向かって作業をすすめる。昼間に渡す原稿があり、某所で山本議員とおちあう。
 座り続けると腰のあたりが痛くなってくる。でも、明日の会議にどうしても出さなければいけないものがあり、とにかく書きまくった。

 最近とくに忙しく、「感性を磨く」ことに疎くなっているように思う。気分転換にギターの弦を約1年ぶりに張り替える。なんという無精。
 張り替えたギターをポロンと鳴らすと、気分はCコード!(実はこれ、プライベートサイトのギター日記のタイトル)

 本も積ん読状態が長く続いている。今週を乗り切れば少しだけ余裕がでてくる。それまではとにかく走り続けよう。


2002年10月09日(水) 押しつけ合併反対の対策本部をたちあげ

 朝からどんよりしとした空。保育園に息子を連れていく頃には雨が落ちてきた。雨の日の子どもたちのいでたちはかわいい。いわさきちひろが黄色の雨がっぱを着た子どもを描いていたが、それがだぶってほのぼのとした気持ちになる。
 午前中は宇治市役所へ。共産党洛南地区委員会と山城地区委員会は、「宇城久・綴喜押しつけ合併反対対策本部(本部長、前窪義由紀)」を設置した。設置にあたって声明を発表したので、その模様を写真におさめるためだ。全文はメールマガジンでも送信したが、僕の公式サイトにもアップするので読んでいただき感想や意見を寄せてほしい。

 声明の発表後、奥村守議員団長は、さっそく城陽市役所にもどり声明を城陽市に手渡し、あらためて協議会結成中止を申し入れた。京都府から「派遣された」助役が対応。
 申し入れに対して、“今度立ち上がるのは、「法定協議会」ではなくあくまで法律のしばりがない任意協議会”と相変わらずのマニュアルどおりの説明。奥村団長が、「法定協議会ではないというが、任意協議会は国からの交付税の対象事業ではないか」とたたみかけると、助役は「そんなはずはない」と強弁。
 その場で政策調整課に電話で確認し、初めて「交付税対象事業」であることを知り、奥村団長の指摘を認めた。わが城陽市の最高幹部がこういう認識なのだから、この宇城久・綴喜の4市3町の合併論議がいかに唐突で拙速なものかがわかる。これで年内に結論を出すというのだから、とうてい認められない。

 しかも、「合併するかしないかの判断材料を住民に提供するのが、任意協議会の役割」というのもごまかしだ。交付税の対象事業の子細をみると、「平成14年度合併準備に係る財政需要額」と明記されているという。ふつう常識で考えると、「合併準備」とは「合併することが前提のもの」ではないのか。
 合併問題にかかわる「素材提供と住民の意向調査」が目的、という過日の全員協議会での説明と重大な齟齬が生じるではないか。ことは地方自治や住民自治にかかわる重大問題であり、自治体のサービス低下により住民のくらしや福祉の切り捨てがいっそうすすむかもしれないという切実な問題なのだ。いささかの曖昧さも残してはならない。徹底してこの問題を取り上げることにしたい、と僕は考えている。



2002年10月08日(火) 乳幼児ネット 広がれ共同の輪!

 1日中、「乳幼児ネット」の関係で東奔西走。
 11時から「コープ城陽」前で署名と宣伝行動。着ぐるみは身にまとう予定はなかったけれど、ノミネートがあったので着用。正午すぎまで取り組む。午後は、同じ保育園の保護者で乳幼児ネットの事務局をやっているMさんと、保育運動連絡会として市内にある民間の保育園にあいさつを兼ねて署名の協力のお願いにあがる。
 僕自身はじめて門をたたく保育園もあり、とてもよい経験になった。
 もう一つの班は、民間幼稚園をまわったが、おおむね反応はよかった、ということだ。
 子どもに関する問題だけに、共同できる可能性もあると確信した。
 夜は、子守り。中学校も大変だ。

 短いけれど、今日は以上。


2002年10月07日(月) 平和まつり



  6日は、宇治・平等院近くの塔の島公園で「平和まつり」。昨年は、笠木透さんのコンサートがあったのに、僕は発熱でダウン。今年は、乳幼児医療費無料化を求めるネットワークとして、まつり参加者に署名を集めることを計画した。しかも「イムジン河」のはしだのりひこさんがやってくるとあって、前々から楽しみにしていた。
 午後から天気が崩れると予報ではいっていたが、午前中から午後にかけては時折陽もさすなど、絶好のまつり日和。乳幼児医療の署名もたくさん集まった。僕は、着ぐるみのクマさん姿で協力。小さな子どもは怖がってしまったり、キャーキャーいってからんでくる子もいて楽しかった。
 はしだのりひこさんのミニコンサートは、客席に陣取ってきいてしまった。音響のバランスが少し悪かったという印象が最初あったけれど、後半からご本人も大分のってきたようで、トークもなめらか。ご自身が、「主夫」として子育てに深くかかわってきた経験から教育に対する見方が鋭い。偏差値偏重の教育が、自分に自信がもてない子どもをつくりだしている、との指摘は共感。
 そして、クライマックスはやはり「イムジン河」。この曲はあらためていうまでもないが昭和43年(僕が生まれた翌年)に、南北分断の朝鮮半島情勢への政治的配慮から、突如発売中止となった「幻の名曲」だ。
 サッカーW杯や南北融和の動きのなかで、じつに34年ぶりのCD発売となったものだ。
 
 はしださんは、トークでこんなことをいっていた。
 かつて、京都市内の西のほうにある在日朝鮮人の学校のイベントによばれた。最後に「イムジン河」をリクエストされたので、「歌ってもよいのですか」と満を辞して歌いはじめると、パニックがおきたのかと思うほど校庭のなかでうめき声、叫び声があがりはじめた。よく見ると、校庭には次々と在日の人たちの輪ができ、口々に「オモニー!」「アボジー!」と夜空に向かってこぶしをつきあげていた。そして号泣する人たちの姿をみた、という。

 この歌を大事にしながら歌っているはしだのりひこさん。最後のサビの部分「ふるさとをいつまでも忘れはしない…」のあたりから、泣きながら歌っていた。
 フォークソングの真髄を見る思いだった。僕がうまれる前からギターを片手にメッセージを送り続けてきたはしだのりひこさん。歌うことの意味を問い続け、かみしめながら歌うその姿に学びたい。
 


2002年10月06日(日) 今年は元気に走り抜いたよ〜保育園運動会


久世保育園の運動会。深谷幼稚園の運動会に顔を出すつもりをしていたので、スーツ姿。スーツを着て、ビデオカメラとデジカメを両手に抱えてわが息子を探す不格好な「普通の父親」の姿を想像してほしい。
 
 昨年の運動会では、息子がかけっこで走るぬくことができなかったことを書いた。
 http://www.enpitu.ne.jp/usr3/bin/month?id=30553&pg=200110
 最初の準備体操。最初みんなとあわせていたけれど、途中から後ろの方に下がってぶらぶら。今年はちゃんと走れるだろうか?少しだけ不安を抱きながら、ファインダーから息子の姿を追う。プログラムの1番が「かけっこ」だ。0才から順番に走っていく。3才児の番。次つぎと走りぬけていく。息子がスタートラインにたった。
 「よ〜い、ハイ!」走った。笑顔で元気いっぱいに走り抜け、ゴール!
 ビデオカメラのファインダーが汗とちょっとだけ涙でくもってしまった。

 その後は、キックスケートと平均台などを渡っていく「きみどりぼうしgo!」。おおかみに変身していく保育士につかまらないように逃げまわる「森のおおかみさん」などにまわりのお友達と楽しんで参加していた。

 帰り道。「ねえ、お母ちゃんもお父ちゃんもぼくをみててくれた?」と何度も聞く息子。「ちゃんと見ていたよ。元気に走り抜けてうれしかったよ」とほめてあげる。「ほんとにちゃんとみててくれた?赤ちゃんとかみてたんでしょ。ぼくだけをみてよ、ね」と畳みかけてくる。
 「ちゃんと、みてたよ。」とはなしてあげると、とても満足そうだった。わが子の成長に、ほっとしたひとときだった。
 運動会のプログラムの冒頭のあいさつでは、次のようなくだりがある。

 運動会だからと特別なこおとをするのではなく、4月からの楽しかった遊びを、大勢の方々の前でのびのびとやれることが、子どもたちの成長、発達と思っています。それぞれの遊びの中でお子さんの成長、発達を見つけて、よろこんでいただければうれしいです。又、5歳児は各年令の遊びのお手伝いもしれくれます。子どもたちと一緒になって楽しみながら応援できる大人でいたいと思っています。
 
 子どもたちの成長や発達を子どもたちと楽しみ、喜び応援してあげられる大人でいたい。本当にそのとおりだ。素敵な運動会だった。胸ポケットには、汗でにじんでしまった幼稚園の運動会のプログラムが…。けっきょく、最後まで保育園の運動会に見入ってしまったのだった。幼稚園の子どもたち、ごめんなさい。

 


2002年10月05日(土) ちょっと休息

 4日は午前中、公式ホームページを更新と雑用。簡単に終わらせるつもりだったのに、時間をとられた。
午後からは、11月17日に開催される「みんなおいでよファミリーコンサート」のちらしの印刷のお手伝い。市内の保育園保護者が中心となって、子どもも親も楽しもうというイベントだ。東部コミセンホールで午後2時から開演するので、関心のある方は気軽に足を運んでほしい。(入場料無料)
昼食は、グリル「八よし」。僕の常連の店だ。妻とはじめてであったのも、実はこのお店。座敷の南側の奥が「お気に入りの席」だ。不思議とこの席がいちばん落ちつく。マスターに「こんどパソコン持ち込んで仕事してもいい?」と聞くと、笑いながら快諾してくれた。

 午後、夕方まで少し時間があったので「休み」と位置付け、ギターの練習と小説を少しだけ読む。
 「涙そうそう」を練習したのだが、ギターを弾いていると気分が落ち着く。小説は、ずーっと読んでいる「千里眼」シリーズの最新作。佳境に入ってきたのでページがどんどん進んでいく。夕方、新聞の集金がまだ残っていたので読者宅を訪問。障害者福祉、文化活動、地域の事など、話しが弾む。こうして、お話をすることが僕の活動の原動力なのだ。もっと地域に入っていかなければ、とあらためて思った。

 夜は今日も子守り。酢豚をつくってあげたのに、息子は「焼そばがいい」ときかない。
 明日は、保育園の運動会だ。僕は、地元の幼稚園の運動会と重なっており、運動会の「はしご」となる。

 


2002年10月04日(金) キンモクセイ

  午前中は、地元の党支部の会議に参加。日朝交渉問題や9月議会の報告などをさせていただき、乳幼児ネットの打ち合わせのため途中で退席。乳幼児医療制度の無料化拡大を求める運動は、徐々に広がりをみせている。署名期間が短いことが悔やまれるが、その分宣伝と署名に協力してもらえる人を飛躍的に増やすことで目標数の一万筆に近づける方針のようだ。6日の宇治・塔の島で開かれる「平和まつり」でも署名活動に取り組む。また、クマの着ぐるみが登場するらしく、愛嬌をたくさんふりまいてくれそうだ。個人的には、「イムジン河」のヒットで有名なはしだのりひこさんのライブが楽しみだ。
 午後からは、議員団会議。9月議会の評価などを話し合う。夕方、息子を迎えにいき、御飯を準備して、学校の仕事で連続して帰宅が遅くなっている妻とバトンタッチをして、党地区委員会の会議へ。こうして、今日もびっしりとつまったスケジュールをやっとの思いでこなしたのだった。
 
 わが家の庭に、大きなキンモクセイが存在感を示している。前にこの家に住んでいた方が植えたものだが、1、2年は剪定の時期が早かったのか、花を咲かせることがなかった。今年になって一気に開花。なんともいえない、甘くて懐かしい匂いをあたりに放出している。
 誰しもそうかもしれないが、キンモクセイの匂いをかぐと、小さい頃を思い出す。当時はそれなりに悩みごともあったのだろうけれど、毎日が楽しくて仕方なかった。そんな思い出ばかりが残っている。
 いま、60年代〜70年代の歌謡曲がリメイクしてヒットしている。「キンモクセイ」というバンドも、アコースティックなサウンドでファンをひきつけているいるそうだ。
 出口が見えない不況と将来不安のなかで、鬱屈した思いがつのる毎日。そのなかで、悩みごとも少なく、自由に生きていた幼少のころを懐かしむことで、心が癒される人が増えているのかもしれない。
 キンモクセイの匂いとおだやかな碑の光りを浴びながら、ギターを鳴らしてみよう。日々の忙しさのなかで忘れかけていた夢や優しい気持ちをとりもどし、自分と社会と自然との距離をあらためて考える余裕を感じることができるかもしれない。


2002年10月03日(木) ひさしぶりの宣伝で声かれる

 2日は朝から保育運動連絡会の仕事。秋の署名運動のグッズを印刷して各保育園ごとにまとめ、それぞれの園におろす。午後は、議会閉会中に開催となった議会の「東部丘陵地整備対策特別委員会」の様子を傍聴。
 午前中は、このたび完成した山砂利採取地内をダンプが通行する「場内道路」を現地調査したそうだ。僕が傍聴している時間のやりとりで驚いたのは、市長はじめ両助役も完成した「場内道路」を自分の目、足で確認をしていないことである。「場内道路」建設は、ダンプ公害で悩まされている住民の「一日も早く」と悲願であり、市街地からのダンプの排除に効果をもたらすもので、行政側も鳴り物入りで推進してきた事業のはずだ。
 現地を実際に歩くことさえしていないとは、どういうことだろう。様々な問題が露呈しそうだ。
 たとえば、僕が傍聴を終えたあとの質疑で以下のようなやりとりがあった。城志会の畑中完治議員が「場内道路の建設という開発行為には、必ず境界明示を行わねばならない。やっていないなら恐ろしいこと。一体、市道として使用できる部分はどれだけあるのか」と追及。だが、狩野都市整備部長は、「明示ができていない。管理ができていなかった」と現状把握ができていない実態が明らかになったのである。(以上「洛南タイムス」より)
結局この日の特別委員会も、行政側がさらに調査をすすめるとして、延会措置がとられた。


 夕方からは、若山議員と街頭宣伝。小泉内閣の改造人事と日朝交渉を中心にお話をさせていただいた。
 正直に書くと、ひさしぶりの街頭宣伝だったので、声がかれてしまって、最後はハスキーボイスになってしまった。やはり毎日の積み重ねが大事だと痛感。
 夜は、妻が学校の仕事で帰宅が遅くなり息子と過ごす。僕も仕事を抱えていたので、十分に相手をしてあげられず、息子はテレビの前で本を広げたりして一人ですごしていた。申し訳ない気持ちでいっぱいになり、途中で仕事を切り上げ、一緒に遊んであげた。
 


2002年10月02日(水) 朝の風

 息子と一緒に玄関をあけると、キンモクセイの香りとともに朝のさわやかな風が吹き込んできた。関東地方は台風の接近でたいへんだったというのに、昨夕は夕焼けまででていた。
 昨日も書いたけれど、月が変わり衣替えだというのに、先月来引きずっている仕事が十分こなせずに少々ストレスがたまっている。愛用のシステム手帳に課題の一覧を書き上げていき、できたものから赤線で消していくというこれまで何度もくり返してきた原点にたちかえってみる。

 原因は明確なのだ。「課題の先送り」。わが家の居間に妻がはり出した標語が大きくみえてくる。

 妻が学校の仕事で帰宅するのが遅くなっている。夕べも8時すぎ。息子にシチューをつくってあげて食べた。ごはんを3杯もおかわりしてくれて、「おいしい」といってくれた。うれしかったな。




2002年10月01日(火) 都会の窮屈さ

 ここ数日、首筋と頭がドーンと重たい。風邪ぎみなのかストレスなのか。
 30日は朝、議員団室に集まって月末課題の打ち合わせ。僕は、先日の宣伝で使った着ぐるみを午前中のうちに返さなければいけなかったので、早々に失礼した。しかし30日という日が悪かった。「五十ばらい」(正確にどういう字を書くのかわからない)と月末が重なって、京都市内に向かう道路は渋滞、じゅうたい、ジュータイ。結局、レンタル店に着いたのが正午すぎ。ところが、入れたはずの赤いチョッキがない!(がーん!)あとでゆ−パックで送るはめになった。なんというドン臭さ。
 数年前まで、京都市内で仕事をしていたのに、もう「都会の窮屈さ」が体にあわなくなっている。車を飛ばして家についたとき、庭の木々や花をみて、なぜかホッとした。その後、本屋と郵便局にもいったのだが、あたりにいる人たちと知り合いでもないのに、親近感がわいてくる。
 まちの狭さがときに鬱陶しくなる場合もあるかもしれない。でも、いまの僕にとっては、この小さな空間のほうが居心地がいいと感じる。

 夕方、息子を保育園に迎えにいくと運動会の万国旗のように教室に子どもたちが書いた絵がぶらさげられていた。右から順番にみていったのだが、息子の絵がない。なぜ?と聞いてみると、「ぼく、絵を書くのが下手だから…」家に帰ってもそのことが気になったので、何度も聞いたがその都度返事は同じだった。
 息子は、自尊心が強い。「絵というのは、うまい下手は関係ないんだよ。明日の夜は、お父ちゃんとお母ちゃんと絵を書いてみようね」と伝えた。
 すでにまわりと自分を比較しはじめている息子。他者との比較ではなく、自分自身を掘り下げていくことの大切さを教えてあげたい。

 最近、仕事を抱え過ぎというか、うまくこなしきれていない自分がいる。
「なぜか、仕事がうまくいく人の習慣」(ケリ−グリーそん)で、仕事の先送りをせず、すぐにやることが強調されていた。それができていない。
 やるべき仕事のピックアップと机のまわりの整理整頓。月がかわったのを機に、これからはじめよう。
 


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