女の人がズボンをはいている事の男側にとってのメリットに、足の長さがはっきりと確認できるというのがある。 スカートも捨てがたいが、先に述べた理由でズボンもまたいい。 そう言えば足の短い人ははくのがイヤだろう。 逆に長い人はその日の気分によっては効果的にズボンを活用したいだろう。 たまにズボンをはいた女の人を見ると、足の長さをしみじみと実感する。 というわけでズボンをはくと、足の長さがバレバレなのである。 ズボンの女性の妙に長い足にドキッとするのはいいが、自分(男)の鏡に映った立ち姿を見ると悲しくなるのは頂けない。
女の芸能人って大抵足長いなと思う。 長いんだな、これが。 本当になげぇ。 みんな長いもんね。 美人で短足っていないもんね。 ということは芸能人として求められる美人の要素には足の長さのバランスというのも含まれるのだろうか? だろうね。
タレントの乾貴美子という人が面白くて美人なので僕はファンだ。
上の文章はまだるっこいだろうか? こういうところがニホンジンのいいところでもあり悪いところでもあるのだろう。 主語述語を先に言うという文化は欧米では当たり前。
乾貴美子のファンだ。
こう書いてしまうとなんだかストレート過ぎて面白くない。 まぁ一文で説明するというのに無理があるのかもしれないが、一文としても素っ気がない。 またタレントであることを言っておかないと誤解される恐れもある。 やはりまだるっこくてもいいのだろうと思う。
ひとつ言えるのは、間違ってもこう書いてはいけない。
人が面白くて美人なのでファンだ。
お前は人類愛の提案者か!と言わざるを得ない。 ちゃんと誰が好きなのかは言っておかないと混乱をまねく。 しかし、最近日本の官僚の人達の中には主語をアヤフヤにして表現する人がいるという。 その点竹中さんというのは主語の使い分けがしっかりしていると表されているらしい。 ただし、それに伴って災いも生じているらしい。 はっきりと言ってしまうという習慣が日本に定着していない分、やはり風当たりはツライだろう。
話は遠回りになってしまったが、面白くて僕のタイプである乾さんが結婚したらしい。 してしまったらしい。 なんとなく僕にもチャンスがあるのでは?と思っていたので非常に残念だ。 それはともかく、彼女が出演している一昨日のラジオでは本人の口からそれについての発表らしきものが行われていた。 そこで他の出演者に「どういう人なの?」と聞かれた彼女は「いい人ですよ」と言っていた。
彼女は雑誌などでは辛口映画評論家として名が通りかけている。 「ウディ・アレンの映画に出演すれば新境地が開けるのでは、と言わんばかりの顔をしてウディの映画に出演している女優が気にくわない」というようなことを言っていたあの人が、ことご主人様を評して「いい人ですよ」と述べたのにはおかしな真実味を感じた。
こうして僕の中で乾貴美子という人間は次第に遠くへと離れていくのであった。 そんな彼女は案外足が長い。 そしてズボンをよくはいている。 長い足を自慢したいのだろうか?
―END―
筑紫哲也はなんだか嫌だ。 何がかと言うと、自分は守備範囲が広いんだぞと言わんばかりの顔をするからである。 先日、番組で椎名林檎との対談の場を設けていた。 そのコーナーの冒頭、「以前から会いたかった人です」と言っていた。 最近のミュージックにも興味があるんだという感じがして何だか嫌だ。
確かに、誰に何と言われようが自分が興味をもち、気にいったものは評価するという姿勢は正しいといえば正しいのだが、そういった考えが嫌みに思えてしまうのである。 嫌いと言うよりも気に食わないと言った方がいいかもしれない。
「幻の魚」 幻の魚を釣った。 その瞬間、それは幻ではなくなった。
「キリのない引出し」 どんなに引いても引いても奥が現れない引出しがあった。 この引出しがしまわれている部分はどんなに奥行きが深いのだろうか? その引出しは壁の中に埋め込まれており、奥行きがどれほどのものかはわからなかった。 その引出しには小学校の校長先生の朝礼時の御話が入っていた。 (いっそ、開けなければよかった。) 皆がそう思っているだろう。
―END―
2003年02月26日(水) |
下品ショートショート |
「ノ氏の袋」
韓国の新しい大統領にノ氏が決まった。 実に短い名前であるが、彼は幼い頃から正月を迎えると、自らの金玉袋をぶら下げて親戚中を回っていたのであるらしい。 「僕ののし袋(ノ氏袋)はこれなんです。」 そうやって言う彼は、堂々とそれを相手の目の前に差し出し、一体今年はいくらのお年玉が集まるのかを思い浮かべるのであった。
―END―
花粉の影響は世間を殴り付けていく このままでいいのか?
いつからかこんな風になってしまったのか? 花粉に過敏な今の時代、何か対応策はないのか?
花粉症というのは、人体が花粉を異物とみなし、それを体から排除しようとする働きが過剰になってしまう状態のことである。 人は昔からこんなにも花粉に過剰な反応を示していたのか?
よく人類の自然との共存の必要性をを説く人がいる。 現代人が花粉症に悩まされている現状を照らし合わせて考えると、これは確かに必要なことであると痛感した。 もういっそのこと、人類は皆花粉と戯れる必要に迫られているのではないか? みなさん! 働く皆さんもそうでない皆さんも皆々様!! 何週間かぐらい、花粉を体内に取り込み続けるというような集中治療を施すべし。 これにて人類に活力は戻ってくるように思う。 悩んでいる場合じゃない! 誰か、マスコミにこういったことを提案すべし!(しかけるべし!)
―END―
テレビに映るはタレント今田耕二のマンション内の様子。 白を基調としたその空間の広がりには異常なまでに(男の1人暮らしとは思えないほどに)一切の整理が施されていた。 少しの歪みも許さないような、無駄のない空間。 ソファ、テーブル、テレビ、ピアノといったリビングにはまり過ぎているくらいの それらのものは、まるで半永久的にそこから動くことがないかのよう。 きっと、キチンキチンとモノを整理し配置することをストイックなまでの心理を伴って行うのであろう。 1人そういった作業を行う彼を想像するだけで、なぜか胸がすっとするのはなぜだろうか?
マイナスイオンとはよく聞く。 まるで流行語のようなものであろう。 アゴヒゲアザラシのたまちゃんと何ら変わりのないような、そういった印象さえ受ける。 マイナスイオンと聞くと、それがさも良さそうなものだろうと僕らは認識している。 どうやらマイナスイオンを吹き付けるようなスプレー缶なども発売されているらしい。 体に良さそうな、どことなく精神的に落ち着くかのようなイメージのあるこの言葉の指し示すものは一体何様のつもりなのだろうか? 落ち着くのはいいが、そうすることにしか頭がないように思えるのは気のせいだろうか? 人は苛立ち、ストレスといったようなものをうまく扱う術を忘れてしまっているように思う。 つまりユーモア精神が現代には足りない、と。 ストレスは必ず付きまとうものだが、それを跳ね返そうとする手段として流行を追うというのはつまらないことではないか? どれくらいの人がマイナスイオンの実体を知っているのだろうか? 何か現代人というのは流され過ぎではなかろうか? 皆がせっせと体にマイナスイオンを吹き付けている様を思い浮かべると、それがなにか一種の悪い宗教のようなものに思える。 宗教が悪いわけではないが、宗教が人を束縛するのでは何も意味がない。 そういった意味で、皆が(というわけではないにしろ、そういう風潮があることに関して言えば)マイナスイオンに救いを求めていては、ますます人類の未来に将来はないと思う。 それでもマイナスイオンが気になるならば、それについて知る事が必要である。
また、マイナスイオンを体にまとわりつかせることによって精神的に落ち着くことはいいのかもしれないが、マインスイオンなどというものが流行っているこの世の中そのものは異常だ。 皆、もっとそっちの現象のことを取り上げるべきだ。(マイナスイオンが流行ることによる生産性は期待できない。) 人間が今まで自然環境を破壊してきたことによる被りをそしてリスクを簡単に考え過ぎる傾向がある。 マイナスイオンに取り付かれている人達は、今自分がどのような環境下に身を置いているかを考えているのだろうか? 自然との共存以前の問題として、今のような現代の環境下でどう生きていくのかを考えることを怠っていては人類は滅亡に向かっていくだろう。
―END―
何でも言ったとおりになってしまう国があった。 そんな国でのある男と女の会話。
女:「ねえねえ、この真珠のネックレス買ってよ」 (男、買いたくはなかったが買わざるをえない) 女:「ねぇ、似合うでしょ?」 (確かに彼女に似合う真珠のネックレスであった) (男、本当は買いたくなかったので癪にさわっている) 男:「そうかな?」 (若干彼女にその真珠のネックレスは似合わなくなってきている) 女:「そういうこと言わないで!」 (今後一切彼はそういうことを言えなくなる) 男:「でもそういうのを<宝の持ち腐れ>って言うんだろうな」 (真珠、腐る) 男:「<ブタに真珠>とも言うかな」 (彼女、ブタになる) 女:「ブヒー」 男:「冗談だよ冗談。君は僕の太陽さ。」 (ジュワッ)
―END―
「1118」 携帯電話が普及してからは外出中、よくそれの時計を見るようになった。 時間が知りたい時以外にも、なんとはなしに見てしまうのである。 僕の携帯の時計は数字が四つ並んでいるごく普通の表示方式のものだ。 四つ数字が並ぶということから考えると、誕生日もそれに当たる。 例えば3月13日生まれの人は0313。 11月18日生まれの人は1118。
ついさっきも携帯電話のディスプレイを見た。 すると1118という文字の並びが目に入った。 そうすると決まって他の数字の並びを見た時よりも過剰に反応してしまう。 僕の誕生日は11月18日である。 そしてこう思う。 「偶然だ。」 こういうことは何度かある。 しかしそれは本当は偶然でもなんでもないのだと思う。 さっきも言ったように日常的に四つの数字の並びを見る機会は多いのである。 その中でたまたま11時18分を見た時につい自分の誕生日を連想するだけなのだ。 時刻表示としての数字の並びが何パターンに及ぶのかはわからないが、その中で1118を見る可能性が低いとしても、ただその並びには強烈な印象があるだけということだ。 過去に覚えのある数字の並びというのは印象的な分、よく見るような錯覚に落ちるのである。 如何に人が記憶に左右されて生きているか、ということが言える。
―END―
あれ何だっけ?そうそう、コメディーなんだけど。 そう、ウディ・アレンの「スコルピオンの恋まじない」っていうのなんだけど面白かったよ。
そんな会話が行われているのをとあるライブ会場で耳にした。 それを言っていたのは僕の隣に立っていたきっと二十代であろう女性。 彼女は左隣の女友達に上のようにコメントをしていた。 僕はウディ・アレンのことを知っていたので興味を持ってその会話に聞き耳を立てていた。 また、同じ女性はこうも言っていた。
なんか中国か韓国のラブコメみたいのが今面白いらしいよ。
それはきっと「猟奇的な彼女」という映画のことだろうと察しがついた。 たまたま、それを僕は既にテレビ局主催の試写会で鑑賞済みであった。
最近、「猟奇的な彼女」のことをよく耳にする。 それは自分が知っていて興味のあるものであるから自然に耳が勝手に感知するのだろうと思われる。 ともかく、僕がいいと思っているものはその後流行っていくなぁと思う。 かのハリーポッターもそうだった。 まだ世間ではそんなに注目されていない頃(店頭に並べられた初めの頃)、それでも本屋には(目立っているとは言えないにしろ)、他の書物よりも多くのそれが並んでいた。 本当になんで買ってみようと思ったのかわからない。 装丁に引かれたのかもしれない。 小説を読み慣れていなかったのも手伝って、楽しくそれを読み終えることが出来た。 そんなハリーポッターにも最近では興味がなくなった。 ハリーポッターは世間では注目の的だ。 なぜ世間で注目されるようになってから興味が一気に引いていったのだろうか? それだけ興味とは頼りないのだろう。 もしハリーポッターが一冊や二冊で終わるものであったら僕の中ではすっきりとしていただろう。 それが予定では七巻まで刊行されるという。 長すぎる。 長いと人は興味がなくなっていくものである。(よほどのものでない限り) また、どんなにいいものでも長いことによってイメージが台無しになるおちうこともしばしばである。 どっちにしろ、ハリーポッターの(僕にとっての)敗因は<話が長い> と言うことである。
いずれ「猟奇的・・・」が劇場公開され、マスコミで取り上げられている頃にはそれに対してどう思っているのだろう? もちろん段々とそれについて思う事というのは薄れていくと思うが、すでにそれは終わった物語である。 もう一度見るにしろ、しないにしろ、一度見終わったというのはとてもキリのいい状態である。 そういった具合で、僕にとって「猟奇的・・・」はやたら印象がいい。 ただし、今度ビデオかDVDで見る時にどう思うかは面白いところである。
―僕はさそり座なだけに頭で勝負ではなくしっぽで勝負します。<通称「しっぽで勝負」宣言>―
バレンタインもあっという間に通り過ぎてしまいました。 それにしてもどんな祝日や記念日であろうと、終わってしまえばあっけないものです。 それまで盛り上がっていたのが何だったのか?と思えるほどです。 大晦日という日もある意味では我々は意識して過ごす日です。 今日が終われば新しい年がやってくる。 そして実際新年を迎えると思います。 去年というのは何であったのか? また来年がやってくればいいのに。 今年の年末にもきっと新年を迎える時には心が引き締まるような気分になるのでしょう。 それと同じで誕生日なんというのにもそう思うことがあります。 あの日は自分の生まれてきた日を実感する、もっと言えば自分がこの世に生まれてきたことを実感する日なのだと思いますが、祝われた誕生日と翌日ではそう自分の身の回りに変化は起りません。 本当に誕生日というのはあったのか? 幻のような記念日のように思えます。 下手をすれば、本当に自分はこの世に生まれてきたのか?という疑問も浮かんできます。 そしてやがて僕にも死という瞬間が訪れるでしょう。 その日その時、僕はこう思うでしょう。 本当に自分は今日死んだのだろうか? 本当にもう死んでいるのか? 死んでいることに実感が持てなかったとしたら、どうすればいいのでしょう? 死を迎えた気がしない・・・ 一体今までに何人の人が死を実感しながら死んでいったのでしょう? そんなことを考えると今日も眠れません。 今日と言う日の終わりがやってくる気がしない。 そして眠れない夜に考え事。 朝を迎えたとしても、今日という新たな日を迎えた気がしない。 だから人は皆、仮に毎日を<今日>と言って呼ぶのかもしれません。 所謂過去にも未来にも、今日という名の日は繋がっているのでしょう。 少なくともそう感じます。
―END―
知らなかったじゃ済まされない それを知らないなんて 君はまだまだ 甘い
私は今まで大した悩みなんて持っていなかった、と今悩んでるじゃありませぬか!! ね、矢田せんせ…じゃなくてみどりせんせ。
あのドラマ(僕生)を見ていて思った。 <生きていくコツなんてありゃしない>と。
―終わりの合図―
なんだ、コンチェルドって? まぁタイトルも<響きの>に続くものを響きのみに視点を定めて決めてしまいました。 でもコンチェルドっていう外来語ありそうだな。 なんか音楽用語でありそう。
コンチェルド:①指揮者の様子。「―をよく見てみろ、お前は随分と遅れているぞ。」②指揮者の指示。「お前は―が聞けないのか?そんな奴はこの楽団にはいらん!」③指揮者の機嫌。「今日さ、―が悪いから楽譜の流れで気になるところがあるけどまた今度聞くわ。」④指揮者いらずの状態。(ジョーク)つまりそれだけ楽団の演奏が素晴らしいということ。誉め言葉。「はっはっは、今日はコンチェルドな日和だね。(指揮者談)⑤指揮者の仮名。指揮者以外の楽団員が指揮者の悪口を言う時にこれを使う。「―ってさ、むかつくよね。さっさと引退すればいいのに。」⑥指揮者無視。指揮者への反発を表す。これを唱える事により、(無視しよう)という意識さえも思い浮かべなくなり、本当に無視することができる。一種の呪文。⑦指揮者、ついに辞める。「あいつがついに―!!」
話は変わる。 急な言い分だが、滅法、という言葉が最近気になっている。 何でこの言葉に引っかかったかというと、それはある小説にまつわる話になる。 それは「熊を放つ」というその題名だけでやられてしまいそうな小説があるのだが、それをカート・ボォネガット・ジュニアという作家がこう称していたのである。
滅法面白い
こんな言葉は今では、少なくとも僕ら世代の間では使われていないと思う。 下手すりゃ「あの映画、チョベリグー」などと言いかねないくらいである。 でもこれはさすがに死語となりつつあるだろう。 まぁそれはどうでもいい。 要は「あの映画は滅法面白いよ。」などと友達にでも言っている奴がどれだけいるかっていうことだ。 聞き慣れない言葉な分、僕がじゃんじゃん使ってやろうっていう気になる。 ちなみに<じゃんじゃん>というのはビートたけしが雑誌で使っていたものである。 第一に、<滅法>って言いやすい言葉であるような気がする。
辞書で<滅法>を調べた。 並々ではない、度が外れている、法外な、というような意味らしいが、元々は仏教で一切の諸法をなくす意で使われていたらしい。 ということはある意味危険な言葉であるな、と思う。 一切の諸法を・・・ つまり、ありえない面白さだ、と言っているようなものなのか? だってありえない事でしょ、<滅法>だなんて。
でも永遠とか悟り、自由などといった、現世界には存在しないような、そう言った部分には魅力を感じる。 何かをおおげさに自分が誉めちぎりたい場合には実に効果的な言葉である。 しかし、ほんとうの滅法面白い状況というのは、それは法に縛られない状況が楽しいのでなく、法を破る事自体が楽しいのであろう。 つまり、地球上でこんなに大勢の人間が詰め込まれ、さらにそれらは重力というもので固定されているからこそそういう発想が生まれてくるのであろう。 何も宇宙空間で一人プカプカと浮かんでいるだけならば、何が面白いのかもわからないのだろうということを思うと、僕らは恵まれているのだと痛感する。 しかし、もし人類の一人一人が全くバラバラに宇宙に放り出されたとすると、それはそれで個々になんとか面白い事をしようと思うのだろうか? 厳密に言えば<しよう>というか、結果、感じる事ができればなんとか生き延びるだろう。 我々がもし一人きりで宇宙空間へ行ったなら、果たして何を思うのだろう? 形なんかもきっと変わるのだろう。 きっと脳は肥大するだろう。 それに伴うメリット、デメリットも出てくるだろう。 一体、宇宙にはどんな可能性が待っているのだろうか?
ここまでつらつらと書いてみて思ったが、<滅法>という言葉にはどこか破壊的なニュアンスが含まれているような気がする。 そして、どこか無謀な感じもする。 さらに滑稽で、危なっかしくあり、それでいて魅力的な面がある。 きっと、「熊を放つ」という小説もそんな小説なのだろう、という気がした。 きっとその物語の登場人物はそんな雰囲気も持っているのだろうと。
―END―
「ジョーク心」をこれからは持っていきたい。 それによって相手の投げてくる言葉を、遠くへと打ち返したい。 それが打たれた相手も納得するようなパフォーマンスであることを心がけて。
「未練とは」一種の美学であり、究極には死に損なうということである。
「なわとび」をやっていると、不思議と飽きてくるものである。 今のところ毎日計千回跳ぶのを目安にしているが、初めてから早5日目程の今日、跳ぶ事に飽きている自分を発見した。 (ちなみに3日坊主になっていないことには自分でも驚く。) これはなんとかしなくては!と思い、あらゆる工夫を施す事にした。 いつもは100連続で跳ぶのを10回繰り返しているのだが、その一回一回によって跳び方を変える事にした。 果ては100連続で跳ぶ間でさえも変則的にしていった。 具体的に言えば、初めは両足を揃えて跳んでいても、途中で片足ずつにしてみたり、片足で2回や5回ずつ連続で跳んでみたりすることをやった。 呼吸法についてはある回では口ではっきりと吸ったりはいたりをしたり、鼻のみでやることもあった。 また、1回縄を回すにつき1呼吸をし、普通は2回吸ったら2回はくリズムで行うのだが、それを四回ずつにしてリズムをわざと崩したりもする。 こうやってつまり、基本のリズムを崩す事により、身体的にも精神的にも飽きがこないようにやっている。 組み合わせとして凄いのは、片足ずつ5回連続で跳ぶ時で、この場合、呼吸も(吸って吸って吸って吸って吸ってはいてはいてはいてはいてはいて)とやるとキツいので例えば2回吸って2回はいてとやると、跳ぶリズムと呼吸のリズムがごっちゃになって、わけがわからなくなるのである。 ただ精神的にも肉体的にも辛いだけである。 こんなことでいいのか?
「劣等感」というのは多分にある。 これが今のところの僕の原動力である。
「いいわけ」をするな、とよく小学、中学時代に先生から言われたものだが、そんなのは知ったこっちゃない。 僕はいいわけする為に生きているようなものである。 つまりそれは僕に「死ね」って言っているようなものである。 思いついてしまったが、仮に「シネマ」と言われたら「そうです、それがやりたい(撮りたい)んです。」と言いたくなるだろう。つまりそれは「君は何で自分を表現したいの?シネマ?」と言われているという事である。
「飽きる」のが人間の本性だと最近思う。 同じ事をやっていて飽きない、というのはウソである。 ただしこんな場合がある。 例えば料理が好きな人がいるとする。 その人は朝昼版、毎食、そしてほぼ毎日家族や自分の為に料理をする。 その場合、彼女は毎回カレーライスをつくるわけではない。 たぶん毎回カレーであれば彼女は料理という行為の度にやがて発狂するはずである。 つまりメニューを考える事、メニューの材料を考える事、調理法、味付け、盛りつけなどといった一連の作業が毎回違うパターンであることが重要なのである。 それならば毎食分毎日料理をつくることが同じ事をやっているという事にはならないのである。
人は変わっていかざるを得ないのが性なのだと思う。 よって究極には人は飽きた瞬間に死んでしまうのでは?とまで思っている。 つまりそれは形として本能的な自殺行為に達するということ。 しかし、そこに達してしまう場合でも、ほんとうは飽きずに済んでたのに、という場合が殆どなのではないか? ということで、人はもっと積極的に飽きて積極的に次の面白い事を探した方がいいのだと思う。 それはどんな規模のものでもいい。 これはどこかで聞いた事の使いまわしの表現だが、<無知死(無知であるがゆえに肉体的、精神的に苦痛を伴い、やがてそれが死に結びつくという事)>だけは避けたいというのが僕の最近の考えである。 つまり精神は肉体と繋がっているので、肉体的に何か新しいことを知っていかなければ精神的にも豊かだとは言えないだろう、という見解である。 知識をつけることも、旅に出ることも、買い物に行くのも運転をするのも全部肉体的な経験を積むことである。 (ただし行動範囲が狭いからといってその人が肉体的経験が少ない人であるとは限らない。例えばさっきの例をあげるなら、料理ひとつとっても、その中でやれることは多岐に渡る。無意味に多趣味に走るよりはあらゆる料理が創作できる方がいいということである。)
飽きるということは実に人間らしい性質である。 そして飽きると次の新しいことを探す。 結果無知死を防ぐ事になる。 まずは飽きる事を怖れずに、といったところだろうか?
―「終わりよければ・・・」なんてウソだね―
「ついしん」、江川達也は偉い。
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