だだの日記
昨年の秋頃から、読書って実にいい趣味だなとしみじみ思うようになった。 読むという行為においては、他人と差がないのだ。 お金持ちも貧乏人も、都会に住む人も田舎暮らしの人も、 本を読む条件は同じ。 文庫本なら、誰が読もうとしても、500円かそこらの値段で楽しめる。 それ以上でもそれ以下でもない。
他の趣味、例えば音楽では、同じCDでも高級なアンプやスピーカーを使えば それだけ楽しむ環境に差が生まれるだろうし、 旅行においても、お金を出したら出した分だけ、 移動手段や宿泊先の選択肢が広げられる。 僕みたいな人間は、1泊10万円もする リッツ・カールトンのスイートにはとても泊まれない。
しかし、識字率がほぼ100%に近い我が国では、本の前ではみな平等。 お金を持ってたとしても、定価以上の金額を払うことはないし、 わざわざ買わなくても、図書館を利用したり、友達に借りたりで楽しめる。 僕自身もここ2、3年は、ブックオフの愛用者の一人。
そんな読書だけれど、昨年はあまり読むことができなかった。 年間わずか20冊。そのうち、初読のものは13冊のみ。 年々、読書量が減退していて、猛省することしきり。 だから、この一年は特に読書に力を入れていく所存だ。 (ちなみに早くも5冊読了。いいペースだ)
さて、先日読んだのはペルー人作家、マリオ・バルガス=リョサの「楽園への道」。 画家のゴーギャンと、その祖母・フローラの人生を描いた作品だ。
結論としては、ここ一年ほど読んだ中で、一番よかった。 奇数章はフローラ、偶数章はゴーギャンと、章ごとに主役が変わる構成。 いずれの主人公も、現在の出来事に過去の事柄がシンクロし、 しばしば意識が過去のものと交錯する。 つまり、1冊の中で、時間と空間の異なる4つの場面が巧みに展開されていく。 自然な文章の流れで、過去から現在、あるいは現在から過去へと場面が入れ替わり、 時には段落の途中でいきなり変わっていることもあった。
僕は、日野啓三氏の「台風の眼」を思い出した。 あれも、同じような構成。 人間の意識の深層・変容を、 乾いた文章でもなければ、ジメッとした文章でもない、 硬質な文章で描き切った佳作。
こうした要素が、自分にとってはもろツボだったりする。
「楽園への道」は数ページ読むだけでも時間がかかる、読み応えのある本だった。 でも、その読む時間が長い分だけ、 「いい本と出会えた」という嬉しい気持ちを、持続させることができた。
次いで、池澤さんの「光の指で触れよ」を読む。 新聞連載時に比べて削除された箇所が多く、全体的にすっきりとした印象。 いろんなエピソードが単行本では読めないのが残念だが、 そこらへんのよしあしについてはこの場で論じても意味がないので、 言及しないでおこう。
僕個人としては絶賛というほどではない。 だけど、他人の感想を見てて、大きな影響を受けたと言う人もいたので 感じることは人それぞれなんやなと思った。 いや、おもしろい箇所はおもしろいんだけどね。 テーマも共感するし。 むしろ、この作品のテーマを、自分自身の中で 広げていかなければならないのだとも思っている。 連載は終わっても単行本が発売されても、 宿題はたくさん与えられたまま。 資本主義・商業化された社会の流れに、乗るばかりではない生き方。 (例えば、月25万円という)収入に合わせた生活を築く生き方ではなくて、 自分の生活のために必要なもの(稼ぎ)を得る生き方。 うーん。理想に過ぎる?
とりあえずは、変容のゲームこと トランスフォーメーション・ゲームに参加してみたい! 自分の過去を参照しながら、自分とは何かを探るゲーム。 過去を見つめることで、未来への指針が得られるというのは、そうなんだと思う。
人は、過去の自分とは切り離せない。 「楽園への道」と「光の指で触れよ」はまったく主題が異なる本だったけど、 僕には、主題とは外れた部分でつながりを感じていて、 今回この2冊を同時期に読むことができてよかったと思う。
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